本当に独りになったこともない人が「孤独」についてもっともらしく語るとき、それを聴く私の態度は決まって冷めている。
ある人が、「孤独は寂しくて怖いものです」と言っていた。浅はかだな、と思った。
孤独という状態が怖いのではなくて、「明日もこのまま孤独のままなんだろうか…」と想像するのがとてつもなく怖いんだ。終わりの見える孤独ならまだ耐えられる。けれど、いつ終わるとも知れない孤独には人は耐え難い。
「孤独」に宿る怖さの正体は、孤独という状態そのものではなく、それが継続してしまうかもしれない、終わらないかもしれないという予感でしかない。
そんなこともわからずに、そのへんに転がっている「平凡な寂しさ」を、殊更孤独だ、怖いだ、と大げさに持ち上げて訳知り顔で語る類の人間を、私はとても滑稽だと思いながら生きてきた。
本当の孤独なんて知らないくせに、本当らしく孤独を語る人がいる。そんな人が、これまでの私の人生に何人か現れては、その都度いくつか言葉を交わしたけれど、これからもそんなくだらない人たちと仕方なく出会っていくのかな。たぶんそうなんだろうなぁ…。
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記憶を、十数年前に巻き戻す。
夏休みが始まる前、中学生の私は通知表を受け取った。
席に戻り、通知表を開く。
「思いやり」という欄に、「人の気持ちが考えられない」と書かれていて、続けてダメ押しとばかりに「頑張りましょう」と書かれていた。先生らしい、美しい字で。
なんだろうな、と思った。教員免許というのは、子どもの心を傷つけることを認める権利なのか、あるいは無慈悲に傷つけたことを許す免罪符かなにかか。
遣る瀬無さと、何に対してか判然としない申し訳なさと、明確な憤りと、訳のわからんどうしようもなさと、そんななんやかんやで、私の心はとても綺麗にグシャッとなった。
だから、夏休みが終わってすぐにあった個別面談で、私は先生に訊ねた。
「『人の気持ちが考えられない』と通知表に平然と書いてしまえる先生は、いったいどれくらい人の気持ちが考えられる人なんですか?」
言葉を受けた先生の目が泳ぐ。
「私、先生のこの言葉で傷ついたんですけど、人の気持ちが考えられる先生は、私が傷つかないと思ってこれを書いたんですか?」「教育って言えば、人を傷つけたことも大丈夫になっちゃうんですか?」「そういうのが先生の教育ですか?」と詰問すると、消え入りそうな声で先生は「ごめんなさい」と呟き、下を向いてむせび泣き始めた。
先生の涙を見て、私の衷心が少し焦げた。どうしようもなくて、私も静かに泣いた。
閑寂な教室で、ふたりして泣いていた。先生と共有する涙があった。けれど、先生の頬を伝うそれに「私の痛み」は存在しない。
先生は先生のためだけに泣いていて、私は私のためだけに泣いていた。なんら救済のない涙だった。その時その瞬間のすべてがひどくくだらなかった。
人の気持ちが考えられるかどうか。それは言い換えると「共感性の高低」になる。
私は、私が「私」だと気がついたときから、自分に共感性が乏しいことを知っていた。「みんなの正しい」は「私が思う正しい」ではなく、「私の哀しい」が「誰かの哀しい」になりえない現実がたびたびあった。それまでの私の人生すべてが、私自身に対して「お前は人の気持ちが考えられない人間だ」と告げていた。
己の考えや感性が隣の誰かと容易に共有できない、そんな、生きながら空虚さを喰らうみたいな感覚を、先生はたぶん知らないんだろう。いつも傍らに感じる、絶望的な「孤独」からくる焦燥や不安を、先生はたぶん知ろうともしないんだろう。
私が幸運だったのは、「私の楽しい」が「みんなの楽しい」であったことだ。
ある時、テレビで観たお笑い芸人のギャグを休み時間にやったら、みんな笑ってくれた。いつかの自習時間、ふざけて担任のモノマネをしたら、教室中がワッと湧いた。ある時、好きなアニメやゲームの話を熱心にしたら、「放課後いっしょに遊ぼう!」と誘われた。
共感性の低さが顔を出し、本意ではなく誰かを怒らせてしまうことはしばしばあったけど、それでもなんとか、謝ったり感情をやり繰りして、それなりに楽しく過ごせているように見せられていた。
傍から見れば、頻繁にアニメやゲームの話をしていて、人を笑わせることが大好きで、でも空気の読めない、そんなお調子者に見えていたと思うけれど、実際的には、そう振る舞うことでしか、周囲との距離を測れず、縮められなかっただけだ。本当に楽しく賑やかに振る舞いたかったわけじゃなくて、楽しく賑やかに振る舞うことでしか、子どもの私は「孤独」を遠ざけることができなかった。
いつもハイテンションでいることは想像以上に辛いものだったけれど、いつ終わるとも知れない「孤独」を引き受けるのに比べれば、だいぶマシだった。俯瞰的には「空気の読めないお調子者」に映る私を、やはり額面通り「空気の読めないお調子者」として受け取っていた先生は、奥底に忍ばせた私のそんな不格好な処世術など知る由もなかったことでしょう。
そんなふうに、私は私なりに頑張ってきたつもりだったけれど、通知表の「頑張りましょう」を見て、私の中で頑張るという意味が大きく揺らいだ。先生に言わせれば、私の頑張りは、「正しい頑張り」ではなかったらしい。
でも、かといって先生は、「頑張りましょう」と書くだけで、じゃあ具体的に人の気持ちを考えられるようになるために何をどう頑張ればいいのか、もっとも知りたい「正しい頑張り方」を教えてくれることは決してなかった。先生はとてもズルい人だった。
どうせ何も知らないんなら、どうせ何もできないんなら、最初から何もしてくれなくていいし、何も言わないで欲しかった。
タラレバになってしまうけれど、もしあの時「頑張りましょう」の一言を先生からもらわなければ、中学生の私は、たぶんもっとずっと幸せでした。
*******
中学のあの時あの瞬間から十数年が過ぎた。もうすぐ平成も終わる。
過ぎ去った時間が私を変えたとは思わないけれど、過ぎ去った時間の中で得た経験や変遷をやめない環境は、確実に私を変えていったように思う。
本をたくさん読んだ。映画もいろいろ観た。いろんな人と巡り会い、そんないろんな人といろんな形で仲良くなり、たまにいくつかの恋もして、時々喧嘩もしたけれど、した数だけの仲直りもした。
お休みの日にいっしょにカフェへ出かけて1個のケーキをふたりで分け合える友達ができた。そんな友達が、幸いなことに何人かいてくれる。
同僚たちに「飲みに行こうぜ!」と誘われて、「も~、仕方ねぇなぁ、お前らは♪」とか言って意気揚々と京橋へ繰り出すことも多く、そんな金曜の夜がとても好きだ。
姪っ子が生まれて、随分涙もろくもなった。姪っ子は何かにつけて「ゆきちゃん、大好き!」と言ってくれるから、私は「えー、私の方がひまりちゃんのこと好きやし、大好きやし!」と返す。
いつからか、無理に振る舞うことをやめ、それでも傍にいてくれる人を、ただ大切にできるようになった。
いつからか、いつの日も独りではないと思ってもいい、と思えるようになった。
もしこういう日々が、あの時先生の言った「頑張りましょう」なのだとしたら、私は今日(こんにち)に至るまでそれなりに頑張ってこれたのかもしれない。
でも頑張った末にわかったことと言ったら、「やっぱり人の気持ちなんてわからない!」ということがわかったぐらいで、そう考えると、私自身の根源というものは中学のあの頃とさして変わっていないのかな、と思う。そう思える今が、あの時あの瞬間の傷ついた私へのはなむけになれば、と願う。
仕方なく出会ったくだらない人に乱された過去をたおやかに収束させ、肯定し、私を好きでいてくれる人たちが綾なす今を生きていきたい。
独りじゃないと思えるだけで生きていけることを、私は知っている。
独りじゃないから、私はちゃんと生きていく。
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