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読めないニックネーム(再開版)

世の中の不正に憤る私が、善良かもしれない皆様に、有益な情報をお届けします。単に自分が備忘録代わりに使う場合も御座いますが、何卒、ご容赦下さいませ。閲覧多謝。https://twitter.com/kitsuchitsuchi

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万教帰一は他の宗教を滅ぼせが本音なので悪。スピリチュアル♰のワンネスとアストラルの源流が新プラトン主義の神Oneと、16世紀のパラケルスス派のアストルム。オカルト百科の抜粋を後日追加。 

【要約は8分で読めます】←要約①②③だけはお読みください
ウロボロスのドラゴンと、宝珠を持つ王。






四枚目の画像がブレイク作のルシファーで右手に十字架が刺さった地球を持つ
=キリスト教による支配の象徴。
ブレイクはスウェーデンボルグの影響を大きく受けていたのでスピ信者の大御所でもある。
ルシファーの設定を作ったのはクリスチャンでありユダヤ教徒ではないことに注意!







すべての宗教は根幹は一つなんてほざいている奴は無知か詐欺師だよ。

共通点を上げるがその共通点はその宗教の根本(これを否定したらその宗教が成立しない)でないなら
「で、それで?」
って言いたくなる。

宗教は同じ枠組みでも派閥が違えば互いに両立しない教えなんて普通じゃん。

万教帰一を教義とする宗教が害悪なのは、他の宗教を平然と破壊するから。
「自分たちの宗教が一番」
と、
「他の宗教との統合(最終的に宗教はたった一つにする)」
を同時に言っているので嘘つき。
「宗教は一つだけにする」
と、
「自分の宗教が一番(なので生き残るべき)」
を両立させるには、
自分ら以外の宗教を滅ぼすしかないので、
多様性とは真逆。
よって有害。
しかもその思想の中身がキリスト教の変形。
西洋思想の核である「唯一絶対の実体」は絶対に維持。
絶対存在を否定する、仏教の根本思想である空、縁起、無常(実体否定)は万教帰一の教義にはない。

なのに、根本が真逆の仏教が、キリスト教と一致という大ぼらを吹く。

西洋思想すべて
「ゴッドや不滅の霊魂など、永遠の不変の超越的なものが実在する」

仏教「全部、妄想だね」

根本(出発点)が真逆。

あと西洋思想だとやたらと自我が強いけど、

仏教だと、
「あなたが自分だと思っているものは実は欲であり、それを自我と信じ込んでいるだけ。」

多様性をほざきながら、取り入れるふりをしつつ、仏教の中核だけは削除する腹づもり。



1493年産まれ、スイス出身の、優れた医者にして錬金術師で、
医学とヘルメス哲学の両道にて不動の地位を占める、
彼なしには、薔薇十字運動も起こり得なかったであろうほどの大魔導士、
パラケルスス。
別名テオフラスト・ボムバスト・フォン・ホーエンハイム。
パラケルスス(ホーエンハイム)
は、
数学、
哲学、
医学、
占星術、
記号術などを魔術(要は魔法)だと分類している
ことなどは本記事の下(要約の下)にある。
この分類をそのまんま使った創作がすでにありそうだな。
鋼の錬金術師のホーエンハイムの元ネタね。
ロクでなしアカシックレコードの敵であるレイク(竜人レプティリアンの右目側)の元ネタでもある。


「スピリチュアルとは、
新プラトン主義と
スウェーデンボルグ派のキリスト教神学と
神智学(インド風キリスト教)を核に、
その核を隠すために現代の科学知識で覆ったものである」

と私は定義する。
言い換えるなら、
作り直された神学=新キリスト教。

新プラトン主義の万物の根源は「1」と呼ばれる。
一者と訳されることもあるが、
英語だとワン one
今のスピ系が連呼するワンネスの元ネタ。
要は、ゴッドの言い換え。
ブラフマンの設定やストア派の宇宙論も取り入れているけどね。
マクロコスモスとミクロコスモスの一致という錬金術思想も大好きなスピ。
この小宇宙(人間)と大宇宙の一致も、
元はバラモン教の梵我一如だろう。
グノーシス主義者などキリスト教神秘主義者の目的である、ゴッドとの一致も、
元ネタはインドの梵我一如だろう。


以下の、16世紀のパラケルスス派の主張が、
枝葉末節は違うが、本質的な構造が今のスピリチュアル信者の主張そっくりなのは元ネタの一つだから。

何がスピが最新の優れた思想だよ!
当時の主流派に迫害されていた少数派(異端と神秘主義とキリスト教以外の異教)なだけじゃん!

初期のパラケルスス学派で、16世紀生まれのセヴェリヌス
「物質を構成する元素の中には種がある。
この種は、物質が破壊されても失われない。
この種をアストルムと呼ぶ。
(後世の「アストラル」の元ネタ)
種は、神から与えられたその物質の内的な性質と知識によって、生み出された。」


パラケルスス学派の16世紀生まれのクロリウス
「医師は人体解剖よりも、宇宙と人間の本質的かつ基本的な解剖を行うべき。
宇宙の諸器官・内臓は、人間の諸器官・内臓の治療薬となる。
それを見出すためには、アストルムを探すべき。
アストルム(天体)
=物体の本質を成す徳・作用・力。
天界のアストルムは、人体のアストルムと照応しあっているので影響を与える。
真の医師は、アストルムを探そうとする解剖学者であり、
アストルムを化学的に抽出しようとする錬金術師でもある。」


ベーメ(超有名な神秘主義者)はヴァイゲルの本から大きな影響を受けた。
16世紀生まれのヴァイゲルの死後、ヴァイゲルの著作が17世紀に出版されたが異端とされて発禁にされてしまう。
ベーメの友人であり、パラケルスス主義者でキリスト教カバリストの詩人ヨハン・ステリィウスらの手によって地下出版された。

ヴァイゲル
「宇宙は、物質(見えるし触れる)と、
霊的でアストラル的なものと統一体を作ってできている。
すなわち、宇宙は物質(マテリアル)とアストラルからなる二重からなっている。
ただし、物質はアストラルの外殻にすぎない。
アストラル的なものこそ、宇宙における生命の支えにして基礎。
アストラルは希薄で微細で浸透性のエネルギーの流れのようなもので、物質を形成し作用するもとである。
これによって、有機体であり、生き物である宇宙を構成している。

人間も二重にあたる肉体(物質)とアストラル体から構成される。
だが、もう一つ「霊」があり、人間は三重構造。
肉体とアストラル体は自然界(被造物)に属するのに対し、
この調停者たる第三の霊は神(創造主)の世界に属する。
人間は霊によって神を受肉した存在である。

実は宇宙もまた三重構造。
我々の住む物質世界の上に、不可視のアストラル世界があり、さらにその上に神の世界がある。
そして、この3つは神から流出したものである。
神は至高の一者であり、完全にして絶対的な存在である。
そして、完全なる善であり、存在する一切の本質であり、あらゆるものを流出させる源泉。
人間が完全となり、至福を得るのは、この神の完全性と至福を得ることとの一体化、神との合一に他ならない。
ヴァイゲルは、神とはあらゆるものを超越した人格を持たない存在と捉えていて、。
ここでは彼はカバリストというよりは、新プラトン主義者だと言ったほうがよいのかもしれない。」

上記の元ネタを指摘されたり、
矛盾を突かれたスピ信者がしたりする、
「大宇宙(その他のゴッドの言い換え)が用意したダミーです。
これに騙されないか試しておられる」
という反則級の返しがある。

これにはそれより大きな枠で囲って返す手
がある。
不毛だけどね。

「実はその大宇宙を包む、その大宇宙の創造主がいて、その創造主は邪神なんだ。
あなたの主張を裏付けるものすべてがその邪神が創った嘘なんだ。
つまり、あなたは邪神の存在を裏付ける貴重な存在。
デカルトが考えた悪霊、
培養液の中の脳を観察する邪神こそが真理。」


「人知が及ばんからわからんので断定するな」
って不可知論のスタンスで返す方が賢明かもしれないけどね。
原始仏教の無記。
儒教の怪力乱神を語らず。
今の支配層は仏教と儒教が大嫌いだからね。
支配層の権力を削ぐ要素を抜きつつ、
キリスト教要素を混ぜて改悪したカルトなら大好きだけどね。


世界の創造の記述は不可能。
文法=単語のつながりの規則、順番
が決まっているのが言語。
そのような順番が生まれる前の、順番すらない状態なんて言葉で書けるわけない。


全知全能存在の描写も、われわれに理解できる全能者でしかない。
世界にはわれわれに理解可能なことしか起こりえない。
なぜなら、われわれに理解できる形で捉えられたときにのみ起こったとされるから。
よって、全知全能の神もまたわれわれに理解可能なことしかなしえない。
よって、聖典には、やっていることの意味がわれわれにも理解できるようなことが何でもできるような全能者しか存在しえない。


オカルト百科
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/hytsuka1.htm

を全文読むべきだが、特に重要な記事を本記事にこれから追加していくので、
たまに見ると増えているだろう。
何度もここを覗く暇があるならオカルト百科のサイトに直接行って、
一日一記事みたいに少しずつ読んでいってください。

要約終わり。




万教帰一カルト


























じゃあ、アッラーというのは何なんだ?
という話になるわけですが、これについては私個人の解釈として名だけの存在ではないかと見ています。
要はよくわからないけど、そういう名前らしいということです。
唯名的な存在ですね、なので実のところアッラーというものの議論は重要ではないと見てます。





スピの源流の一つがパラケルスス派+スピ対策


パラケルススの生涯
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/alcemy/palakerusususyougai.htm
”この西洋オカルティズム、西洋医学の歴史に大きな名前を残すことになる巨人、パラケルススことテオフラスト・ボムバスト・フォン・ホーエンハイムは、1493年にスイスの農家の息子として生まれた。農家とは言っても、彼の父親のウィルヘルムは貴族の血を引く医者であり学者でもあった。彼は学問のための放浪の末、農奴の娘と結婚したらしい。
 パラケルススの母親は、彼が幼いうちに死去した。パラケルススは、自分の父親については嬉々として語るが、なぜか母親については口を閉ざしている。おそらく、母の出所が農奴階級であったことに、コンプレックスのようなものを感じていたからであろう。
 父親のウィルヘルムは、妻の死後息子を伴って農村から都市のフィラッハに移住する。1501年のことである。都市に移住することによって、彼は高い教育を受けることが出来た。なお、このフィラッハは鉱山業の都市でもあり、必然的に錬金術師達も活動を行っていた。一説には、この時彼は、かのアグリッパの師匠にあたるトリテミウスからも教えを受けたらしい。
 そして1509年、パラケルススは父の家を出て大学へと進学する。彼は父と同様、医学を志した。行き先はウィーン大学であったらしい。ここで学問の基礎を終えて卒業、1512年に一端里帰りをする。

 ともあれ、彼の生涯は、波乱に満ちたもので、放浪の連続であった。
 ひとえにこれは、妥協が出来ない、傲慢なまでのプライドの高さ、議論好きと言った彼の性格に帰するところが大と言わざるを得ない。アグリッパやクロウリーのように。
 だが、彼の名は医学とヘルメス哲学の両道に置いて、不動の地位を占めている。
 彼が居なければ、薔薇十字運動もまた、起こり得なかったであろう。


パラケルススと魔術
” パラケルススを魔術師と呼ぶのは、ちょっと御幣がある。錬金術師と呼ぶには、特に問題は無いと思われるが、彼の本業はあくまで医者ないし医学者であった。
 しかし、彼は魔術をはっきりと肯定し、実践もした。もっとも、その目的は多くの場合、病気の治療
であったが。

彼は医学占星術を奉じており、人体は天体の影響を強く受けると考えていた。彼が魔術を通じて天体の力を利用し、それが治療の役に立つと考えていたのは事実である。
 ちょうど薬草を服用することにより、薬草の効用を人体に注入できるように、天体のパワーも同様に人体に注入することによって、病気の治療が可能であると、彼は考えていた。
 実際、彼がこの本に書かれているような呪術を実践していたことそれ自体は、おそらく間違いないものと思われる。

 彼は自分が用いる魔術を、「天(ヒンメル)が持つ神秘的な力を応用して行う作業」と定義した。
 それに基づき、彼は魔術を4種類のカテゴリーに分類した。
 まず、「天(ヒンメル)」は4つに分けられる。
一つは「可視的な空にある天」、
もう一つは「神の内なる天」、
またもう一つは「信仰の天」、
最後に「地下世界の暗黒の天」の4つである。
 彼によると、この4つの天に照応した4種類の魔術があるというのである。
 まず、「可視的な空にある天」に対応するのが、ポルタ等の唱えた自然魔術である。すなわち自然界の法則を応用した技術である。
 次に、「神の内なる天」に対応する魔術。これは天が人間を介さずに直接行う魔術のことである。
例えば、預言、気象現象、未来を予告する前兆等がこれに当たる。
 そして、「信仰の天」に対応する魔術。これは信仰者や聖者が、祈りの力によって、行われる魔術。
 最後の「地下世界の暗黒の天」は、言わずと知れた悪魔の力を借りて行う黒魔術である。

 彼は、上記の4つの中でも、主に自然魔術に強い関心を示していた。
 マクロコスモスとミクロコスモスの照応を信じていた彼は、天界(マクロコスモス)のパワーを人体(ミクロコスモス)に注入することによって、治療が可能と考えた。
 では、そのための具体的な技術にはどのようなものがあるのか?
 パラケルススは、その自然魔術には9種類の技術があるという。
 一つは、いわゆる魔術(マギア)、
降神術(ニグロマンティア)、
交霊術(ネクトロマンティア)、
占星術、

記号術(シグナートム、手相や人相術を含む)、

廃れた術(アルテス・インケルタエ、土占い、水占い、火占い、鳥占い等)、
医学(メディキナ・アデプタ)、
哲学(フィロソフィア・アデプタ)、

数学魔術(マテマティカ・アデプタ)
であるという。
 最初の魔術(マギア)は、さらに6つの技術から成り立っている。
 一つは東方の三博士が行ったような星の異象現象を読み解くインシグニス・マギカ。
賢者の石のような物質や人体の変容を行うトランスフィグラチオ、
呪文や記号を用いたカラクテル、天体に照応した宝石(パワーストーンみたいなの)のような一見目に見えない作用を持つ道具を用いたガマホイ、護符のような図形を用いて病気や健康を引き起こすイマーゴー、そしてカバラことカバリスティカないしカバリアの6つである。
 早い話し、パラケルススは護符や呪文や名前を用いることによって、マクロコスモスたる天体のパワーをミクロコスモスたる人間に注入することが可能であると信じていたのである。

パラケルススは自然魔術の実践は、キリスト教の信仰と何ら矛盾はしないということを強調した。
 だが、魔術を実践するものにとっては、常に悪魔の罠がある。知らず知らずのうちに悪魔の罠に嵌り、黒魔術の邪道にはまり込んでいないか?
 また、同じ自然の力を利用するものであっても、それを悪用すれば、そのまま悪魔の姦計に嵌っていることにもなる。
 パラケルススは、こうした邪道の魔術を「ツァウベライ」と呼び、「マギア」と区別した。
だが、彼は言う。「ツァウベライ」は「マギア」から生じたものでもある……。
 だからこそ、魔術師は、聖なるものと聖ならざるものを区別する術を学ばねばならぬ、とも強調する。

 彼にとって、マギアとは「神の恩恵」と集中された観想を通じて獲得される「直感的認識」によって得られるのだという。
 こうした思想に、我々は、実践オカルティズムの片鱗を見ることが出来るのではなかろうか?”
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/alcemy/parakerususumagic.htm

"パラケルススの発見で有名なものがチンキ剤である。
 例えば薬草をお湯に煎じた場合、水溶性の薬効成分しか溶け出してこない。
しかし、薬草をアルコールで煎じれば、水溶性だけではなく、油溶性の薬効成分も溶け出して来る。
さらにアルコールを揮発させれば、薬草の薬効成分を凝縮・抽出できるわけである。
 こうした薬品は民間療法家も酒を用いて作っていたし、イスラム圏
の医者や一部の錬金術師も気づいていた。
しかし、象牙の塔の過去の権威に凝り固まった学者達は無視をしていた。
 そこでパラケルススは、このチンキ剤に、インテリ医師としては初めて注目したのである。

 彼の医学関係の著書は、彼の信望者たちによって愛読され、その多くが現存する。

「パラグラーヌム」。1530年に出されたこの著書は「病因論」と「オープス・パラミドール」と並ぶ、彼の代表作とされる。
 これは彼の医学の考え方を解説した著書だ。彼によると医学は4つの柱から成るという。
それは、自然哲学、占星術、錬金術、そしてである。
 医師は自然哲学によって自然の作用、宇宙の構造を知らなければならない。そして、マクロコスモスがミクロコスモスに及ぼす影響、すなわち天体が人体に及ぼす影響についても知らなければならない。
そして、錬金術によって医薬の精製・調合が出来るようにならなければならず、
最後に医師は神と人間の前に立ち、高貴な責任を自覚しなければならないという。

 「オープス・パラミールム」。1530年に出たこの著書は、おそらくパラケルススの著書の中でも最も重要な著書であろう。いわば、この著書によって彼は錬金術に革命をもたらし、ヘルメス哲学を大きく変えてしまった。
そう、万物の基は「水銀」と「硫黄」の他に、「塩」があるとする三原質説を提唱したのである。
これについては、別項で詳述する。"
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/alcemy/parakerusuigaku.htm
パラケルススと医学

パラケルススと錬金術~水銀と硫黄と塩~
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/alcemy/palakerususurenkin.htm
” パラケルススは医学に革新をもたらしたが、同様にヘルメス哲学にも革新をもたらした。彼にとっては錬金術もまた医学を支える柱の一つであり、医学を革新することは同時に錬金術の思想を革新することでもあったわけだ。
 彼は、錬金術ひいてはヘルメス哲学の大原則の一つである「マクロコスモスとミクロコスモスの相互互換関係の思想」を、「医学」と結びつけた。
 それによって、これまで無機的だった錬金術は、自然魔術の宇宙観的な思想が導入され、一種の生命的な学問に発展した。言い換えるなら、これによって人間の身体論、霊魂論を錬金術的な理論やシンボルで考察できるようになったということである。

 世界の始まり、始点にあるのは、当然「第一質料」である。これは形の無い不可知なもの、同時にあらゆる可能性とパワーを潜在させたものである。何しろこれは、万物の基であるから、無限の多様性を秘めた存在でもある。
 これは種子のようなものだ。無限の多様性と可能性を秘めてはいても、まだまだ潜在的で未分化の状態にある。いわば、今後起こるであろう進化や発達の段階が「無」の状態で眠っている。
 これが男性的・能動的・ポジティブな原理と女性的・受動的・ネガティブな原理に分離する。これまでの錬金術では、男性的原理は「硫黄」で現され、女性的原理は「水銀」で現された。従来の錬金術においては、万物はこの「水銀」と「硫黄」の2つによって生み出されたと考えた。
 しかし、パラケルススは、この両者を調停する存在として、第3の要素の「塩」を導入したのである。
 「硫黄」は万物の能動因であり可燃性である。「水銀」は万物の受動因であり流動性である。しかし、両者とも一貫性というものがない。だから、そのままでは溶けてしまう。だからこそ、不燃性の固体であり、一貫性をもたらす「塩」が調停者として必用になってくるのだ。
 ここに我々は、カバラの生命の樹の3つの柱と類似した哲学を見出せるであろう。
 いわば「塩」は万物の一貫因であり不燃性にして固体の要素である。
 これがパラケルススの3元素説である。
 しかし、この3つの元素は、火、水、土、風とは別次元の物である。万物は同時に四大によっても構成される。いわば、上記の3元素は、この四大の中で働く鍛冶屋のような存在でもあるのだ。あるいは、この3つの結合の状態で四大が生み出されもする。
 やがてこの3元素は7つの金属を生み出す。7つの金属は当然7つの惑星に対応していて、これはそのまま宇宙、マクロコスモスを指す。
 これはそのままミクロコスモスともつながり合う。

 パラケルススはマクロコスモスとミクロコスモスは相互互換関係にあると信じていた。
 では、この関係はどのような形で作用するのか?
 パラケルススは、「流体」が大地や天体から発され、人体へと流れ込んでおり、人体は磁石のように良性および悪性の発散物を引きつけている。このバランスが崩れた時、人は病気になる。だから、こうした原因で起こる病気に対しては、この悪い「流体」を吸い出し、大地や天体へと還らせればよいとも考えた。
 言い換えるなら、人間(ミクロコスモス)の肉体に体液が循環して生命活動が行われるように、宇宙にもまた同様の循環がある。宇宙(マクロコスモス)もまた巨大な生き物でもあるのだ。こうした思想は既にルネサンス期の自然魔術に採用された考え方だったが、パラケルススはこの思想を錬金術に結びつけた。さらには「天体からの影響」ということで占星術を接着剤にして、これを医学と結合させたのである。
 これは、先にも述べたように、これまで無機的だった錬金術を、一種の生命的な学問に発展
させたということでもある。これによって人間の身体論、霊魂論を錬金術的なシンボルや理論で考察できるようになったわけである。

 パラケルススは言う。
 人間の体内には「宇宙霊」が存在する。例えば、火を司るサラマンダー、水を司るウンディーネ、風を司るシルフ、土を司るピグメーン、あるいはニンフ、アルケウスなどがそれである。こうした「宇宙霊」は人間の内部に「透明なもう一つの肉体」を形成している。物質的な肉体は、それを包んでる入れ物にすぎない。こうした「宇宙霊」は人間以外のもの、植物や鉱物の中にも大量に含まれている。
 こうした植物や鉱物に含まれている要素が集まって、人間の体内に蓄積されている。それは、人間の体内で、消化や呼吸といった作用をも担っている。
 それは、ちょうど「大宇宙」が「神」の内に内在していることと対応しているのである。
 ヘルメス哲学者の仕事とは、こうした「宇宙霊」を人間のために抽出することである。
 不純な物質から、こうした純粋な要素を抽出するという作業は、同時に「不純な肉体」から「純粋な魂」を抽出させることでもある。

 この作業は同時に、あらゆる万物の可能性とパワーを潜在させた「第一質料」を起爆・発展させることにもつながる。
 彼はこの抽出すべきものを、「水銀」と同じものとみなした。
 したがって、哲学者が求めるべきは「水銀」である。しかし、この「水銀」には夥しい数の種類が存在する。植物や鉱物に夥しい種類があるのはそのためである。
 そして、その中から、哲学者が求める「真の水銀」とは、各肉体の超越的な湿気、気体、真性なるエーテル、あるいはエッセンスなのである。

 すなわち、宇宙には気体というか、電気というか、エーテルというか、知覚には感じられないが、宇宙全体を包んでいる媒体のようなものがある。これを通じて、天体、植物、鉱物、人間は関連し合っている。
 これにより、天体は地上の植物、鉱物、動物にも重大な影響を及ぼしているのである。占星術を医学に応用すれば、こうした生物的な錬金術の理論に従って、病気の治療が可能になるのは、それゆえではないのだろうか?

ペトルス・セヴェリヌス
”生前は不遇だったパラケルススだが、彼の死後20数年がすぎると、彼の思想は当時のヨーロッパの医学、哲学、錬金術に一大ムーブメントを引き起こす。そして、多くの知識人や学者達に信望者を集め、いわゆるパラケルスス学派が生まれた。
 生きていた時、敵の多かった彼ではあるが、死後もまた多くの敵が現れた。
 彼らは互いに激しく論争し、それは100年以上続くことになる。

 初期のパラケルスス学派の学者として重要な人物の一人が、ペトルス・セヴェリヌスである。
 彼は1542年
にユトラントに生まれた。コペンハーゲン大学に入学し、優秀な成績を収め修士号を得ている。そして、そのまま同大学の教授職についた。しかし、彼はこの地位に満足はせず、大学の資金援助を受けながらヨーロッパ各国の大学を回って勉強を続けた。
 そして、フランスで博士号を取得し、イタリアへ戻った。
 1571年に彼は「哲学的医学の理念」なる著書をものにした。
 この著書が彼の最大の業績と言われる。これは長らくパラケルスス擁護の代表的著書とされ、後世のパラケルスス学派の学者達に多大な影響を与え続けた。
 この著書は内容の大部分が、元素と質料に関する考察からなっている。
 彼はパラケルススの三元素説「硫黄、塩、水銀」と照応する3つの物質の分類方法について言及する。
それは「火酒、油、固体」であり、あらゆる物質は最終的にはこの3つに分解できると主張した。
 さらに、彼はマクロコスモスとミクロコスモスの照応をもパラケルスス同様、強く主張する。ミクロコスモスたる人間の体内には、マクロコスモスたる自然界にある山や川や海や谷に、照応するものが存在するとさえ主張した。
 さらに、ミクロコスモスたる人間が生き物であるように、マクロコスモスたる宇宙もまた生き物である。
それに関連して、彼は「生命の原質」という説を提唱した。この「原質」は、生命の源であり、生成を促すものでもある。これは空気中に存在し、全宇宙を循環しているが、同時に人間にも吸収され、血管に入り、全人体を循環する。
 この原質は、雷や雨や霧を引き起こす原因でもあり、潮の満ち干気を引き起こす作用もあり、人間の体温の要因となるものでもあった。これは生命的な錬金術で言うところの「硫黄」と同じものであるという。


 彼は、医学者たる者は、こうしたあらゆる物質の中に含まれている生命の原理を捜し求めることであると考えていた。
 あらゆる物質は「元素」から構成される。そして、この「元素」の中には「種」というものが作り出される。これは人間の生殖器官で生命の基である「種」が作り出されるのと同じ作用である。この種子は、その物質が破壊されたり、腐敗しても、失われることはない。彼はこの「種」をアストルムと呼び、これはずっと後世になってから「アストラル」ともつながってゆくのである。
 ここで重要なのは、こうした「種」は物質そのものの力によって生成されるのではなく、神から与えられたその物質の内的な性質と知識によって、生み出された
のだと信じた。

 彼はいわゆる四体液説を批判し、病気の治療は体液の調和を図ることによって行うのではなく、ミクロコスモスとマクロコスモスの調和を図ることによって、行われるべきだとした。
 要するに、人体は自然界と照応するわけであるから、人体の諸器官に対応する薬草や宝石を用いた治療が効果的だということだ。
 しかし、彼は体液の中でも「血液」だけは重視した。当然だろう。上記で挙げた生命の「原質」が体内を循環するのは、血液と血管、心臓によるものなのだから。

 他に彼の著書には「パラケルスス・セヴェリヌス書簡」(1572年)なるものもある。
 ともあれ、彼の「哲学的医学の理念」は版を重ね、実に17世紀に至るまで読み続けられ、パラケルスス学派を理解するための入門書として読まれ続けた。”
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/alcemy/severinusu.htm

オスヴァルト・クロリウスと「化学の聖堂」
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/alcemy/kuloriusu.htm
オスヴァルト・クロリウスは、1560年にマーブルク郊外で生まれ、1576年にマーブルグ大学で医学を学んだ。引き続き、ハイデルベルグ大学、シューストラースブルグ大学、ジェネーヴ大学で学び、1582年には医学博士となっている。
 同時代のパラケルスス学派に属する学者としては珍しく、彼は高学歴
である。
 エリート出身者であったがゆえに、最初のうちは、多くの貴族の侍医として使えたが、最終的には師たるパラケルススに習って、エリート医師の道を捨て、放浪医師の道を選んだ。
 1593年から1602年にかけて東ヨーロッパを放浪。プラハのクリスティアン1世を治療し、名医の誉れを受けた。そして、国王からアルキアートの名前を下賜される。そこで、クロリウスはプラハに居住する。
 
 彼の最大の業績は「化学の聖堂」なる著書を著したことにある。これは彼の最晩年の仕事にして、刊行された唯一の著作である。これは1609年に出版され、原著のラテン語版は18版を重ね、フランス語、英語、ドイツ語にも訳されている。
 この著書は、17世紀において、パラケルスス派の書として広く知られ、大きな影響力を持つことになる。
 彼はパラケルススの熱心な追従者であり、この書も、その影響が顕著である。
 この書は、まず自然と医学についてのパラケルススの思想体系を概説する長い序文から始まる。
 引き続き、化学的な医薬の調剤方法についての実践的説明に入り、最後に「主の徴」に関する考察で締めくくられる。

 彼は、パラケルスス学派以外の医学学派との協調を呼びかけた。彼は師と違って、ガレノス学派にも真理が含まれていると認めた。しかしそれでも彼の思想は、パラケルススのそれを中心に構成されている。
 彼は初期パラケルスス派らしく、古代の医学の権威に固執することを批判し、病気の原因をことごとく四体液の乱れのせいにしようとする体液病理学を批判した。
 また彼は、いわゆるフイゴ吹き的な錬金術を激しく批判した後、真の哲学である「真の高貴なる錬金術」を提唱する。
 人は自然の研究を通じて、主なる神について知ることが出来る。
 すなわち、真の知識とは、くだらぬ議論の中にあるのではない。それは、自然にこそ存在するのである、という。
 それを彼はヘルメス哲学的に説明した。
 すなわち、マクロコスモスとミクロコスモスの間には永遠の調和があり、これは神自らが下界の「完全なる金属」に署名をしておられることをも意味しているのである。この「完全なる金属」とは「生命の硫黄」でもあり、植物や鉱物、動物の中にも含まれているからである。この神の署名は人間にも啓示される。自然界の薬剤が人間を治療するのは、このためである。
 マクロコスモスとミクロコスモスの照応関係を信じた彼は、宇宙に存在するものは人体にも存在し、地中に存在するものは人体にも存在すると考えた。したがって、医師は宇宙の構造や地中の物事についても関心をもつべきである。
 したがって、医師は人体解剖よりも、「宇宙と人間の本質的かつ基本的な解剖」を行うべきである。
 宇宙の諸器官・内臓は、人間の諸器官・内臓の治療薬となる。
 それを見出すためには、アストルムを探すべきである。アストルムとは、「天体」を意味するが、これは同時に「物体の本質を成す徳・作用・力」をも意味する。天界のアストルムは、人体のアストルムと照応しあっている。であるならば、このアストルムの本質を知れば、必然的に薬草や占星術的な人体への影響も分るはずである。
 真の医師とは、こうしたアストルムを探そうとする解剖学者である。そして、アストルムを化学的に抽出しようとする錬金術師でもあるのだ。

 これは、逆に言うのなら、物体の外見のみにしか注意をはらわない薬草学者をクロリウスは批判しなければならないという。
 マクロコスモスとミクロコスモスの照応、水銀と硫黄と塩の三元素、アストルムの探索。こうした本質的な部分を追求しなければ意味はないからである。

 近年、化学史家たちは、このクロリウスの薬剤の調合法に注目している。というのも、彼は実験をも重んじたたため、硫酸カリウム、琥珀酸、窒素金化合物、酢酸塩カルシウム、水銀化合物等について、かなり先駆的な発見を成していることが分ってきたからである。
 そこに加えて彼は、先の「解剖」について適切な手段として、「火」を用いることを挙げている。
 これは重要である。
 と言うのも、パラケルススを含めて、従来の錬金術医師たちは、鉱物性の薬剤を用いる場合、これをそのまま利用することが多かった。
 それに対して、クロリウスは、こうした鉱物を「火」でもって加熱し、あるいはその他の処理を施し、化学反応を起こさせ、それを用いていたらしいのだ。
 すなわち、彼は科学史においては、化学変化によって医薬を合成する作業の先駆者の一人でもあったのだ。

 彼に限らず、初期のパラケルスス学派は、医師の仕事は宗教的な探求の一部であると考えていた。これはマクロコスモスとミクロコスモスの照応関係にもつながる。神の下界に対する御業を探ることにもつながるからだ。
 医師が、真の哲学に基づいて行う探索は、新しい医薬の発見と同時に、世界創造の本質を探ることにもつながると考えたからである。
 これは彼らが医師であると同時にヘルメス哲学者
でもあったことに他ならない。”

ヴァイゲルとベーメのカバラ
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/alcemy/vaigeru.htm
 ”ヤコブ・ベーメの思想にカバラが含まれていることは明確である。
 G・ショーレムも近代のベーメ研究が、カバラの存在を無視していると不平を漏らしていたが、18世紀のベーメ主義者にしてキリスト教カバリストのエーティンガーも同意見だったようだ。彼は、同志のJ・F・メッツに対し、「我々キリスト教徒は、難解極まりない「ゾハール」よりも、もっと分かりやすい秘伝書を持っております。それはヤコブ・ベーメですよ。」と答えたという。

 靴職人のベーメは、高度な学者としての教育は受けてはいなかったが、彼がヘルメス哲学、カバラ等の知識を熱心な読書によって得ていたことは間違いないであろう。
 彼のヘルメス哲学の知識は、主にパラケルスス
によっているが、もう一人大きな影響を受けたのが、ヴァレンティン・ヴァイゲルである。

 マイスター・ヴァレンティン・ヴァイゲルの著書は、いずれも稀稿書であり、著書が禁書にされたため地下出版を余儀なくされたという関係上、彼の名を騙った偽書も多く、ややこしい状況にある。
 ベーメがカバラの知識を得たのは、ヴァイゲルの著書であるが、どうもその中には偽書も混じっていたらしい。しかしながら、ヴァイゲル自身もカバラに強い関心を持っていたし、当然ヘルメス哲学、錬金術にも非常に通じていた。
 彼のテーマはプロテスタント神秘主義、ヘルメス哲学、錬金術、カバラを包括した思弁研究であった。
 
 マイスター・ヴァレンティン・ヴァイゲルは、1533年にザクセンのナウンドルフに生まれた。
 マイセン、ライプチッヒでプロテスタント神学を学び、ルター派の総本山だったヴィッテンベルク大学で学んだ。
 そして、1567年にチョッパウの牧師となる。
 1572年に彼はヤコブ・アンドレーエの和協信条に署名している。
 彼は牧師としてチョッパウに終生留まり、1588年に没した。
 彼の存命中は、ルターの庇護者のザクセン選定侯の領地に居たために、異端の嫌疑をかけられるようなことはなかった。
 しかし、問題は彼の死後に起こる。彼の弟子のM・ビーデルマンのもとから、未発表の手稿が見つかり、これが1609年から1612年の間に出版されたが、これが異端とされて発禁にされてしまうのである。
 そこで、ベーメの友人であり、パラケルスス主義者でキリスト教カバリストの詩人ヨハン・ステリィウスらの手によって地下出版される。
 この地下出版は、続けられ、どさくさまぎれに彼の名を冠した偽書も出版されるようになるのである。
 しかしながら、当時の読者にあたっては、真書と偽書を見分けることは不可能であったし、その必用もなかっただろう。
 
 例えばベーメの場合、彼が必要としていたのは、彼の幻視体験や神秘体験に根拠や位置付けをくれる「伝統」と、思想の体系化に必用な理論であった。それがヴァイゲルの偽書であったとしても、その書に書かれている知識が伝統に基づいたものであれば、何も問題は無かったのである。
 皮肉なことに、錬金術的側面やカバラ的側面は、偽書の方に顕著であったらしい。ヴァイゲル自身は、キリスト教神秘主義への未練が断ち切れず、パラケルススの自然哲学に完全に染まる勇気がなかった。しかし、偽書は、思い切ってキリスト教神秘主義よりも、パラケルススの自然哲学のほうを選んだのである。
 さらに皮肉なことに、真書では理論が曖昧で未完成なのだが、偽書はそれを推し進め、より論理的に体系化もさせた。

 ベーメは、硫黄、水銀、塩からなる三元素説やこの世の不完全さを人間の原罪ではなく人間以前の天界の事象に求めるグノーシス的思想をパラケルススから受け継いだが、これらはいずれもヴァイゲルの著書を経由してのことだった。

 彼の著書として代表的なものは「キリスト教についての対話」、「汝自身を知れ」、「キリスト教学校」、
「世界の場所について」、「黄金の柄」などが挙げられる。
 彼の名を冠した偽書としては、「大学」、「ヴァイゲル神学」、「モーセの幕屋」、「汝自身を知れ 2巻、3巻」、
「古きおよび新しきエルサレムにおいて」などが挙げられる。

 ヴァイゲルは宇宙というのは、「物質」と「力」、あるいは可視・可触の物質と霊的でアストラル的な存在から構成されたものと統一体を作って構成されると考えた。すなわち、宇宙は「物質(マテリアル)」と「アストラル」からなる「二重」からなっている。ただし、「物質」は「アストラル」の外殻であり、表現にすぎない。この「アストラル」的なものこそ、宇宙における生命の支えにして基礎である。
これは希薄で微細で浸透性のエネルギーの流れのようなものであり、物質を形成し、それに作用するもとである。これによって、有機体であり、生き物である宇宙を構成している。非常に自然魔術の思想に近い思想である。
 だが、ミクロコスモスたる人間を語る段になって、カバラの影響が出現する。
 人間も「二重」にあたる「肉体(物質)」と「アストラル体」から構成される。だが、もう一つ「霊」があり、人間は「三重」構造なのだ。そして、「肉体」と「アストラル体」が自然界に属しているのに対し、この調停者たる第三の「霊」は神の世界に属しているのである。人間は霊によって神を受肉した存在である。
 そして、ここで再びマクロコスモスに戻る。
 実は宇宙もまた「三重」構造であるのだ。我々の住む「物質世界」の上に、不可視の「アストラル世界」があり、さらにその上に「神の世界」がある。そして、この3つは「神」から流出したものである。
 神は至高の一者であり、完全にして絶対的な存在である。そ
して、完全なる善であり、存在する一切の本質であり、あらゆるものを流出させる「源泉」である。
 神は完璧なる善で、あらゆるものの源泉であると同時に、あらゆる存在が自らの完成と自らの善を目指して向かってゆく「絶対の目標」でもある。
 人間が完全となり、至福を得るのは、この神の完全性と至福を得ることとの一体化、神との合一に他ならない。
 ヴァイゲルは、神とはあらゆるものを超越した人格を持たない存在と捉えていた。ここで彼はカバリストというよりは、新プラトン主義者だと言ったほうがよいのかもしれない。”






われわれが四角形の辺を数えるたびごとにまちがって四つであると思い込ませるといったような力がある…そんな力があるなら、
言葉の意味をすべてまちがって理解させるといった力もあるにちがいない。
しかし、そんな可能性を「疑う」なんてことがそもそも可能だろうか。
その疑いの遂行において使われて
いる言葉の意味がすべてまちがっている可能性を疑うなんてことが…
こういう場合「まちがっている」とはどういう意味なのだろうか…

夢なら覚めることがある。
そして、覚めたかどうかがわかる。
たとえそれもまた夢だったとしても、少なくともそれ以前に見ていた夢から覚めたことはわかる。
で、悪霊の位階
が高いことは、まず、悪霊の欺きから覚めたかどうかがわからない、という点にあらわれるだろう。
覚めるということの基準そのものを、いやそれどころか「覚める」という概念そのものを(!)、
この悪霊が(われわれを欺いて)作り出しているのかもしれないからだ…
もしほんとうに覚めたとしても、
悪霊の能力があまりにも巨大なら、欺かれて成立していた世界とその外部の世界とに共通するものは、もう何もないだろうから、
やはり「覚めた」といえる根拠はないだろう…
時間というものそのものをそいつが作っているのだとすると、
「覚めた」なんて過去形は適用できない…
ほんものの神とこういう悪霊との区別は、どこにあるのか。この悪霊は何が悪なのか…
善悪や真偽の区別は、この悪霊が作り出しているはずだ。
それでも、そいつはほんものの神ではなく、私はそいつに<欺かれ>ているのだ、という認定はどこからなされるのか。

さらにもっと位階の高い神の視点からか…『創世記』のような神の世界創造の場面の
描写を読むといつも疑問に思うことがある…ナレーターは誰なのか、という疑問…人類未到の山頂への初登頂の模様を、テレビカメラが山頂から撮影しているといったことにちょっと似ている。もしそれが開闢であるなら、そこにナレーターがいるはずがないじゃないか…私は神を信じているにもかかわらず宗教
というものに対する不審の念はとことん深い…
欺かれて出来たこの世界の外に本当の世界があるとしても、断絶があまりにも大きくて、
私(あるいは私たち)が同一性を保ったまま、その二つの世界を架橋することが不可能ならば、
欺かれているという認定には実質内容がなくなる。
結局、この世界こそが現実の

世界だというほかはなく、悪霊こそが神だ
ということになるだろう…
文(命題)は否定できるが、絵(像)は否定できない。否定文(命題)は作れるが、否定絵(像)は描けない。これが言語の本質に属することは、『論理哲学論考』の根本洞察…文は時制変換可能だが、絵はそれが不可能だ…肯定絵を否定絵


言葉の限界を超えるものには無記!

自分を産み出している培養器の中の脳について考えられない。ロゴスを超越した神についても決して考えることができない。あなたの存在に「真の意味」がもしあるとしても、それを知ったり語ることは不可能。それは推測するしかないのに断定するならカルト
できるって?錯覚。その存在「の想定」をあなたの思考「の中に出現させているだけ」で、
絶対にあなたの思考の外の存在には至れない。デカルトが想定した夢を見せる悪霊(欺く神)と真の神の区別は不可能。この世界が現実だというほかはなく悪霊こそが神
否定神学=神は人間が考えられるいかなる概念にも当てはまらない言葉を超えた存在なので「神は~である」ではなく「~でない」で騙る試み。 言葉は唯一絶対存在の位階を下げ強制的に共有可能にする術。それそのものは意味できない。ロゴスは神殺し。

「私」や「神」は唯一絶対のもののはずなのに、他人も「私」や「神」という言葉を使え意味が了解できる。言語化された瞬間にレベルが一段階下がってしまい唯一絶対のはずのものが共有可能で相対的なものになる。この「日常的あたりまえ」こそ神秘的奇跡

言葉で世界の起源=神を騙る試みは多いが「起源」自体が時間的概念であり「順番」が前提されている。つまり言葉で前後関係の誕生以前の存在証明は扱えない。「誕生」という言葉も前後関係前提なのだが仕方なく使った。
∴神話が混沌から始まるのは正しい











菊池kikuchi_8 2016年10月3日
確かにそうとも言えるかもしれませんね^^;>ケチの思考 
「苦の克服、その為に必要な執着、妄執、煩悩の削ぎ落とし」という実践に直接関係のない思考は労力の無駄遣いだからやめなさい、という発想ですからね。

隠者(阿羅漢 周利槃特)inja650rr 2016年10月3日
ええ。それは正に御釈迦様の「毒の矢」の喩えだと思います。
論理的に無限循環してしまう論理を証明しようとしたところで、
人間の寿命は、無限よりも短い…とね(^-^;







オカルト百科
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/hytsuka1.htm






オカルト百科

の作者の科学についての記事を読めば、
作者は、と学会の連中以上に、あるいは匹敵するレベルで科学的だし科学の本質を理解しているとわかる。

フェイド大帝はもしかしたら、と学会(科学絶対カルト。シンボルが双頭の鷲がモデル!)でオカルト百科の人に絡んだのって唐沢なのに山本弘だと勘違いしてる?
まあ、消した記事があるかもしれないけど。


「科学的」とはどういうことか?
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/essey/kagaku.htm
”実際問題としまして、霊の存在、超能力の存在、UFOが異性人の乗り物だと言う説、これらはいずれも科学的に存在は証明されておりません。
 同時に、科学的に否定もされておりません。
 これが正確な答えでしょうねえ。

 ですから逆に言うのなら、「霊は存在する」と断言するのも、「霊は存在しない」と断言するのも、どっちも非科学的な主張だと思うんですよね。

 カラスが鳴いたら不吉だ、と言われますが……。
 カラスが鳴くことと不幸な出来事に因果関係があることは証明されていません。ですから、そんな主張は科学的とは言えません。
 しかし、カラスが鳴いても不吉じゃない、と断言するのも問題なのです。カラスが鳴くことと不幸な出来事に因果関係が無いとも証明されていないからです。
 世にも恐ろしい「悪魔の証明」ってやつです(※1)。
 自然科学のルールって、実はこんなに怖いもんなんです(オッカムの剃刀の問題は後述)。
 何も考えず、ただ何となく、頭から占いを馬鹿にしてる人はご用心~。

 さて、自然科学のルールと言いますのは・・・。
 自然科学で存在が証明されるのは、「検証され、反証されておらず、再現性がある」のでなければなりません。そういう形では、霊も超能力も証明されてはおりません。
 大槻教授あたりの表現を借りて俗っぽく言うなら、「論文にされて学会で発表され、認められた例は無い」ということでしょうか(笑)。
 こう言いますと、「学会? 権威主義者だなあ。」と怒られそうですな。なるほど、学会に頑迷なドグマが存在するのも事実でしょう。しかし、私は別に学会を絶対視したいわけじゃないんです。単に、学会で論文を発表するには、厳正な「科学のルールに基づいて」論文を書かなければならず、また「科学のルールに基づいて」論文が審査されるということなのです。
 画期的で優れた論文が、学会の石頭によって否定されることは確かにあります。しかし、それは学会が悪いのではなく、学会のルール、ひいては自然科学のルールを守らない学会員が悪いのです。
 ついでに言っておきますと、学会では不公正な審査は極めて例外的な出来事でして、きちんとした公正な審査が行われている方が、遥かに遥かに遥かに圧倒的であります。

 ただ、実際、科学のルールを守らない科学者と言うのもまた、確かにいます。
 大槻教授の「反オカルト講座」の文章は、その典型でしょうねえ。大槻教授も学会で論文を発表する時は、きちんと科学のルールを守っているのに、なぜかオカルト論争になると、これが宇宙の彼方にすっ飛んでしまう。
 まあ、これは、そんなに驚くほどのことでは無いでしょう。人間という奴は、感情が絡むとひどく矛盾した行動に出ますから。
 私の大学時代の恩師の言葉が忘れられません。
 「科学論文の書き方を知っていても、科学的な考え方の出来ない人というのは、博士や教授にも多いんだよ。」
 「でも先生、論文と言うのは、科学的な考え方に基づいて書くものでしょう?」
 「そうだよ。でも、彼らは論文の書き方の手順を、機械的になぞってるだけだ。その背景にある科学的な考え方を理解してない。言ってみれば、微分積分の計算と同じだよ。理屈を理解してなくても、答案に正しい答えを書くことは出来るだろう?」

 では、この自然科学のルールって何でしょう?
 自然科学で、霊の存在を証明できるんでしょうか?
 実際、自然科学のルールでは、めちゃくちゃ疑り深い人が、グウのねも出ないほど明かな証拠がなければ、証明されたとは言えないわけなんです。
 …
 リクツをつけるのは簡単です。しかし、自然科学においては、それだけでは駄目なんです。
 
 それで言うなら、「脳における精神活動についても、まだ良く分かっていないじゃないか」と言われるかもしれません。
 確かにその通りです。完全にメカニズムが判明するのは、当分先でしょう。
 ですが、自然科学は着実に、この理論の証明に近づいて来ております。
 例えば、脳の損傷が、性格を含めた人間の精神活動に大きな影響を与えることは古くから確認されております。悪名高いロボトミー手術やアルツハイマー病に見られる性格の変化。
 また、脳細胞に刺激を与える物質を投与しても、人間の精神に影響が出ます。お酒にドラッグ。 
 さらに、最近の大脳生理学の進歩は目覚しく、「認識」にかんする脳の分野も、かなり明らかになっております。
 このように、人間の精神活動は、脳の神経細胞の働きの集積の結果だ、という仮説に有利な材料は、着実に揃ってきています。しかも、誰もが必ず再現できる証拠を揃えながら。
 これに対し、「脳は霊の入れ物だ」という仮説については、誰もが必ず再現できる証拠は、未だに皆無です。
 したがって、自然科学的な考え方を持った人なら、人間の精神活動は、脳の神経細胞の働きの集積の結果だ、という仮説の方が真実に近いだろう、と考えるんです。あくまで、近いですよ。断言しちゃったら、もうそれは科学的思考ではありません。
 
 霊って奴は、誰もが必ず再現できる証拠ってのは無いんですよね。
 これが不利なところなんです。
 ところが、自然科学において、誰もが必ず再現できる証拠と言うのは、命です。科学研究と言うのは、これを見つけるための作業だと言っても良いくらいです。
 実際、霊は霊感のある人にしか知覚できない、と言う主張をよく聞きます。。
 霊感の無い人に、霊の存在を説明するのは難しい。霊というのは、誰にでも見えるわけではない。だから、誰もが必ず再現できる証拠を提示するのは難しい。
 もっともですね。
 しかし、自然科学のルールでは、その誰もが必ず再現できる証拠がなければ、それは証明されたことにはなりません。これは、ルールなんですから、どうしようもありません。
 ここでどうにか、霊感の全く無い人にも、霊があるという反論できないほどの「確かな証拠」を付きつけて始めて、「パラダイムのシフト」が起こって、自然科学の定説は改正され、進歩します。
 自然科学の立場にたって証明するのは、実にまどろっこしく、根気と労力のいる仕事だと思います。
 未だに我々は、この「確かな証拠」を付きつけることに成功していません。
 心霊研究が始まって100年以上たちますが、未だに成功しておりません(私は心霊主義を科学だとは思っておりません。超心理学は科学だと思いますが。この辺りについては、「オカルト百科」で詳述予定です)。
 そういう意味で、「霊や超能力の存在を科学的に証明できた例は無い」ですね。

 思うに、臨床心理学において「夢」の研究が遅々として進まないのも、「夢」は再現性がなく、第三者に存在を証明できないがゆえに、自然科学のルールでは証明が難しいためだったりするんです。
 しかし、だからといって、「夢が存在しない」なんて、そんな馬鹿な話しは通じません。

 私の言いたいことは、単純に「科学のルール」という奴を、基本に立ち返って考えてみましょうよ。
 ってことなんです。
 「地球のへそ」を論じるのは、別に構いませんし、私も思想や宗教を語る時は、こうしたことをよく論じます。
 しかし、これを「自然科学だ」と言っちゃいけませんし、これをネタに自然科学の学説を批判してもいけません。
 検証され、反証されておらず、誰もが必ず再現できる証拠を求める作業をして、始めてそれは、自然科学と言えるわけなんです。
 それをせずに、肯定するのも否定するのも、どちらも非科学的です。

 念のために言っておきますが、私は科学万能主義者では断じてありません。
 つまるところ自然科学は、真理の一部しか明らかにしてくれません。
 また、「人はどう生きるべきか?」や「幸福になるにはどうしたら良いか?」には、答えをくれません。
 こういう「パン以外のもの」のために、宗教や思想やオカルティズムはあるわけなんですから。
 私は、自然科学は、あくまで「技術」であって、「信念」にすべきでは無い、と考えます。

 ともあれ、自然科学のルールを知りたい方は、カール・セーガンの「人はなぜニセ科学に騙されるのか?」(新潮文庫)をお勧め致します。非常に興味深い本です。
 特に「トンデモ話し検出キット」の項は、オカルトの否定論者にとっても肯定論者にとっても、有益なこと疑いなしであります。


PS:私は霊の存在を、個人的には、信じています。もちろん、根拠もなく、信念として信じているのです。したがって、私は自分の霊信仰を科学だ、などとは言いません。「霊は自然科学では、存在を証明されていない。それどころか、自然科学の方法論では、存在の証明は不利だ」と思います。けど、私は科学も宗教も等価だと思ってる人間なので、この両者の微妙なバランスの上に自分を置いてるんです。そう、「パン」と「パン以外のもの」であります。


※1
 一般に「悪魔の証明」はディベートでは無意味とされることも多いです。例えば、裁判なんかで「容疑者が犯罪を犯した証拠は無いが、犯罪を犯してない証拠もない。だから、無罪にはできない。」にされちゃ、たまりませんよね。
 だから、「悪魔の証明」は無効とされる。
 しかしながら、自然科学の場合は、そうは行きません。自然科学の学説には、今は証明されていなくても、将来証明されるかもしれないという可能性が常にある。だから科学者は、このことを片時たりとも忘れちゃいけないんです。絶対に。
 悲惨な例を挙げてみましょう。公害について、当時の科学者たちは「排水が公害病を引き起こしている証拠は、いまのところない。しかし、排水が公害病の原因ではないという証拠もない」として、排水の垂れ流しに警告をだしたとします。
 しかし、もし企業が「それは悪魔の証明だ」として、排水を垂れ流し続け、さらに犠牲者を増やしてしまったら?
 血液製剤による感染症についても同じことが言えるわけです。
 こうした苦い経験から、現在の製薬メーカーは凄く慎重ですよ。副作用が証明されていなくても、可能性があると見れば、それを売ったりすることは自粛する場合が多いわけです。”

科学のルール
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/anti/ruru.htm
”●自分の奉じる仮説はいつでも捨てる覚悟でいること
 ここが科学者と疑似科学者を分ける最大のポイントかもしれません。
 どんなに確実に見える学説でも、百年後や二百年後にはひっくり返されるかもしれません。
 自分の信じる説に固執してはいけません。
 これは科学の「自己修正機能」の根拠となる重要な考え方です。科学の進歩というものは、迷走と軌道修正の繰り返しです。確実と思われていた説がひっくり返されることの連続です。一つの説を絶対視していては、科学の進歩は望めません。
 
 最悪なのは、「まず最初に結論があって、その結論に都合の良いデータを集めて、検証しようとする」ことです。疑似科学者の殆どは、こういう手段を取ります。
 「霊はある」という結論が最初にあって、それに都合のよいデータばかりあつめる。あるいは、「霊の存在は物理学の基本法則に反する」と最初から決めてかかる。こういう態度がそれです。

 科学者は、どんなに確実に見える学説でも、常にそれを捨てる覚悟を持つべきです。それは、物理の基本法則だろうと、進化論だろうと、「地球はまるい」だろうと例外ではありません。
(イコール捨てろ、という意味じゃないですよ。念のため)

●データや証拠や論拠や主張を公平に扱え
 疑似科学者達との議論の80%以上を、これが占めるんじゃないでしょうか?
 以下に、主な「不公正」な扱いを挙げてみます。

1.都合のいいデータ(or論拠)ばかりをあつめ、都合のわるいデータ(or論拠)を無視する
 要するに、自分の主張に都合のよいデータばかりを使う。例えそれが例外的なデータであっても。そして、自分の主張に都合の悪いデータは、一般的で圧倒的に多くても無視する、というやりかたです。

 例をあげましょう。
 例えば占い師が100の予言をしたとする。そのうちの99がはずれ、1つだけ的中した。この時、その1つだけを証拠とし、「予知能力はある!」と主張する。
 また例えば、ここに一匹の犬が居る。その犬は事故で後足を一本失う。これをみて、「犬は足が4本あるはずなのに3本しかない。だからこれは犬ではない」とする。他に耳や目や鼻や内臓やDNAが、犬であることを示していても、これを無視し、足の数だけを問題にして、「犬ではない」と決め付ける。

 これは最も多い詭弁でしょう。
 あるいは、単に勉強不足で99のはずれた予言の存在や、耳や目や鼻や内臓やDNAのことを知らないだけのこともあります。

 真に科学的な態度とは、無心に偏見を持たず、なるべく多くのデータや論拠や主張をあつめること。
 であります。
(あと、例外的な少数のデータを無視してもよい、という意味ではりませんよ。それは単なる誤差や測定ミスかもしれないし、何かきちんとした理由があるのかもしれません。そこから新しい発見があるかもしれません。けど、これを多数派の一般的データの全否定に使ってはいけません)

 科学実験をする者なら、「それくらい常識だ」と言われるでしょうが、これを守らない人は肯定論者にも否定論者にも非常に非常に多いのが現実です。

2.データ捏造
 論外。
 「嘘つき」と「空想と現実の区別がつかない」の2種類がある。

3.データ操作
  霊を信じていない人ばかりを集め、「霊体験をしたことのある人は居ますか?」とアンケートを取り、「大多数が無い、と答えた。これは霊が無い証拠である」とする。
 あるいは、霊を信じている人ばかりを集め、「霊体験をしたことのある人は居ますか?」とアンケートを取り、「大多数があると答えた、これは霊がある証拠である!!」とする。

●論理のすり替えをしないこと
 これは「検証のルール」というより、「議論のルール」でしょうねえ。
 けど、これは科学論争にせよ、擬似科学VS科学の論争にせよ、非常に非常に多いんです。
 以下に、主な「すり替え」を挙げてみましょう。

1.論点のすり替え
 今、問題にされてる事から、他の事にすり替えようとすることです。 
 論理学で言うところの「相殺法」という強弁が、その好例でしょう。

 分かりやすい例を挙げて見ましょう。
 捕まった泥棒が「なんで俺だけを逮捕するんだ、俺以外にも泥棒はいるだろう!!」
 「なんで、日本の戦争責任ばかり追及するんだ! 中国だってチベット侵略してるだろう!」
 
 …幼稚ですね。けど、こういうリクツは擬似科学論争では、よく散見されます。
 「何で、オカルティストの捏造や狂信ばかりを批判するんだ。科学者だって同じようなことをやってるだろう!!」

2.論理の飛躍
 いきなり話しや理論が、何の根拠も示されないまま、結論や別の理論へ飛ぶ。
 前提とつながらない不合理な結論を出す。
 これも、実に非常に多い。

以下、その例。
「科学は万能ではない。だから霊は存在する。」
「今は21世紀の科学文明の時代だ。だから霊は無い。」
「地球外生命は存在する。だから、宇宙人はUFOに乗って地球に来ている。」
「宇宙人なんて漫画っぽい。だから宇宙人は地球に来ていない。」

3.わら人形
 「架空の論敵を攻撃する」とも呼ばれる。
 相手の言い分を聞かず、勝手に相手の意見なるものを発明し、これを攻撃することで、相手を批判したつもりになる。

例。
「占星術師は、人の性格をたった12種類に分類している。」
(占星術師は、そんなことは言っていない。本当の占星術では、生まれた月日だけではなく、年や時間でもって、それぞれ異なるホロスコープを使って占う。そのパターンは膨大な数になる。)
「進化論者は、生物は偶然で生まれた、と言っている。」
(自然選択説の支持者は、そんなことは言っていない。自然選択説は「適者生存」の理論であり、これは偶然ではなく必然的な結果である)
「反戦平和論者は自衛隊を否定している」
(そういう人も確かにいるが、反戦論者の多くは自衛隊の存在や必要性を認めたうえで、戦争や自衛隊海外派兵に反対している人のほうが多い)

4.権威主義
 言うに及ばずです。
 有名な科学者が言ったから、これは確実なんだ。
 社会的地位のある人の目撃談なんだから、信用できる。
 と根拠もなく決め付ける。

5.悪魔化
 上の4の逆。
 「レッテル張り」ともいう。
 あいつはオカルト信者だから言うことは信用できない。
 あいつは科学万能主義者だから言うことは信用できない。
  それを言った人間を悪魔化して、論拠や仮説を全否定しようとする。
 論理学で言うところの「二分法」と呼ばれる強弁の行き着いた先ですね。
 NETの議論でも、よく見ますよね。普通のファンや支持者を「信者呼ばわり」することによって、論破したつもりになってる人とか。
 サヨクだろうとウヨクだろうと、オカルト信者だろうと科学万能主義者だろうと、正しいことを言う時もあるし、間違ったことを言うこともある。問題とすべきは、人ではなく、その主張の方なのに。

6.一方的なパラダイムの設定
 勝手に自分だけの都合のよいルールや法則や選択肢などを決め、論敵にこれを一方的に強制する。
(なお、ここのページのルールは、私が勝手に決めたことではなく、自慢じゃないですが下の参考文献のまる写しです)

 例。
「君は霊を信じない真人間か? それとも霊を信じるデンパか?」
「超能力を信じる奴は、みんなオウ●信者である。」
「霊の存在を信じない奴は、みんな夢が無く頭が固い。」
「オタクは気持ち悪い。」

7.曖昧化
 「お茶を濁す」とも言う。

8.因果関係のこじつけ
 AをやったらBになったとしても、必ずしもAはBの原因とは限りません。
 また、「AとBは相関がある」と言うのと「AとBは因果関係にある」を混同してはいけません。

例。
「田中君がハイキングに来ると、雨が降る。だから、田中君が雨を降らせてるんだ。」
「統計を取ると超常現象を信じる人は大学卒業者に多い。したがって、大学教育では超常現象肯定論を教えている。」
「子供の非行は、漫画やアニメのせいである。」

●無知は素直に認め、これを正すこと 
 当たり前のことですね。
 人間である限り、何もかも知ってるなんてことは絶対にありえません。
 無知それ自身は恥ずかしいことではありません。恥ずかしいのは、それを指摘されても直さず、居直ることです。

●仮説は複数立てよ
 謎が発生すれば、その答えについて複数の仮説を常に頭に置いておく事。
 例えばUFOがあったとしたら、「宇宙人の乗り物」説のほかに、各種の自然現象説、各種誤認説、作り話し説などを立て、検証と反証を重ねながら選別しなければなりません。
 こうした「選別」を経た仮説ほど、説得力は増すわけです。

●定量化せよ
 これも基本中の基本ですね。
 数値化できるものは数値化し、定型化できるものは定型化させること。
 それによって、理論の打ちたては正確かつ容易になります。

●知識には貪欲になれ
 論理が骨なら、知識は血肉です。これは多ければ多いほど良い。多すぎて困ることはありません。

●偏見こそ敵!!
 当たり前ですね。
 根拠の無いまま、ものを信じ込んではなりません。

●感情的になるな
 これも当たり前です。

定義をはっきりさせよ
 これも議論で良くみますよね。それぞれ別の定義を持った者どうしが議論しても、話しは永遠に噛み合いません。
 例えば、「UFOとは地球外生物の乗り物のことである」と思ってる人と、「UFOとは「未確認飛行物体」のことであり、地球外生物の乗り物と限ったわけではない。プラズマだろうと気球だろうと、その正体が確認されないうちはUFOだ」と思ってる人が話し合っても、噛み合うことはないでしょう。
 議論や主張の前に、定義をはっきりさせ、共通認識をしっかりと作りましょう。

●自分の信じたい仮説こそ疑え!!!!!
 これが、最も重要な態度でありましょう。
 徹底的に疑い、反証を試みまくりましょう!!
 これによって、自分の仮説の弱点を発見することができます。結果によっては、その仮説を放棄しなければならなくなるかもしれませんし、修正だけで済むかもしれません。ともかくも「真実に近づくことができる」ことには違いありません。
 そして、これこそが「思い込み」の罠に嵌ることを避けることができるでしょう。



科学が万能ではないわけ
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/anti/bannou.htm
”先の「私は人間である」の検証においても、まったく同様です。私は目が二つしかないと言ったが本当か? もしかしたら胃袋の中に第三、弟4の目を隠してるかもしれない。本当は足は3本あるんだが、1本は取り外し可能で、観察された時に隠したのかもしれない。血は赤く見えるが、本当は青いのであって、空気にふれると変色するのだ・・・
 ね? こんなふうにリクツをつけて行けば、何もかも信じられなくなってしまう。

 ここで重要になってくるのが、「オッカムの剃刀」と言う考え方なんです。
 オッカムと言うのは、中世のイギリスの神学者なんですが、自然科学を含めた近代思想に大きな影響を与えた人です。
 この「オッカムの剃刀」とは、どんな思考においても、究極的に還元してゆけば、根拠なしに何かを真実と見なさなければならなくなる。この時に、最も無理の無い、単純な、効率の良い、経済的な選択をすること、です。

 ……分かりにくいですよね。
 では、例を挙げましょう。
 あなたの前を歩いてる男の帽子が、いきなり吹っ飛びました。
 この時、彼の帽子に何が起こったのでしょう?

 1つ。風が吹いて、帽子を飛ばした。
 2つ。目に見えない天使の一団が降りてきて、帽子を掴み取った。

 どちらも筋が通っていて論理的です。
 しかし、このどちらかを、根拠なしに選ばなければなりません。
 この時、どちらが、無理のない、単純な、効率の良い、経済的な思考でしょう?
 もちろん、「風が飛ばした」ですね。
 「天使」のほうだと、無理があって、えらく複雑で、効率が悪く、不経済な思考になってしまいます。
 風なら、一言の説明で済みます。しかし、天使となると、どうして天使が来たのか、どうして天使が帽子をつかみとらなければならないのか、そもそもその天使はどこから来たのか? とえらく説明が複雑になって、効率が悪くなってしまいます。
 
 自然科学においては、このオッカムの剃刀を至るところで用いなければならないわけなんです。
 どんなに確実に見える学説でも、リクツだけなら、いくらでもケチをつけられるわけです。
 ここで、私の血の例を挙げてみましょう。
 私の血は赤く見えるが、本当か? もしかしたら、本当は青いのであって、空気にふれると変色するのかも。そこで、真空に置いて見ると、赤いまま。いやいや、本当は私の血は青い。体外から出ると赤くなるのかも。そこで、血管カメラを入れてみる。赤いまま。いやいや、私の血は青い。カメラのレンズに触れると赤くなるのだ……
 ね? こんなふうにリクツをつけて行けば、何が真実なのか分からなくなる。これについて、一つ一つ再現性のある形で検証し、反証できないことを証明していっても、イタチごっこになりますよね?
 だから、科学者は、ある所で「オッカムの剃刀」を用いて、バッサリと切り捨てるんです。

 でも、これって怖いことでしょう?
 もしかしたら、効率の悪い方が真実なのかもしれない……。
 この可能性は、常にあるんです。
 これが「科学は万能ではない」証拠の一つ
なんですな。
 他にも証拠はありますが、これを説明するのは、私の能力を超えてますので、省かせてください。

 ある人は、「しょせん自然科学も宗教」と言います。
 究極的に還元してゆけばオッカムの剃刀と言う、根拠のない決め付けにぶつかるからです。

 またある人は、こうも言います。「自然科学は信念体系ではなく、真実を探すための不完全な測定機器だ。」
 つまり、「地球は丸い」と言う、あたりまえな学説すら、信じてはいけない。「今のところ、地球は丸いと検証され、反証はされていない」以上のことを言ってはいけない……。

 以上の通り、科学は万能ではありません。
 しかしながら、科学が「真実を探すための優れた測定機器」であることには、変わりありません。
 おそらく、人類が持っている測定機器の中では最も優れた体系でありましょう。
 少なくとも、自然科学の内で議論したり、自然科学の学説を批判しようという時には、不完全な物であっても、「オッカムの剃刀」を含めた、これらのルールに従わなければならないのです。
 なぜなら、これが「法」というものだからなんです。
 この「法」から逸脱してしまえば、それはもう「自然科学」ではありません。
 従って、この「法」から逸脱した学説への批判は、自然科学では無効とされるのです。

 だからこそ、私は「科学」以外の物が必要だとも思うのです。
 まさに、様々な意味で。”


(教義は仮説だからまた変わるよっていう科学は、
私の定義では宗教ではないが、
宗教化した科学が多すぎる)

↓の記事はなんとオカルト百科の人の 書評&随筆 のカテゴリだと「Back」でわかるが、
その書評&随筆のところにはこの記事へのリンクがない。
見せたくない記事なのか、消し忘れか、リンク張り忘れか不明。

と学会、またしても - Biglobe
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/essey/togattkai.htm
” 「と学会」の新刊が出た模様です。
 内容は非常に面白いです。実際、私が学生時代に読んだ古いオカルト書なんかも出てきたりして、妙になつかしいなーと思った次第です。
 同時に「?」な記述や、あきらかなミスも結構ありますね(苦笑)。
 でもまあ、これは仕方の無いことでしょう。
 ミスは誰だってやります。自慢じゃないですが、私だってしょっちゅうです。「オカルト百科」も、時々こっそりと修正していたりして(あわわ・・・・・・)。
 まあ、「と学会」は、こうした他人のミスを突っ込んで面白がる会だと言われますが、これには私も同意せざるを得ませんね……。

 それともう一つ。非常に残念なことに、最近のと学会の一部ライターは、トンデモに対する愛情が薄れ、ユーモアや余裕が無くなって来ている様にも思うのですよ。
 要するに、本気になって糾弾してるとしか思えない文章が見られます。
 このまま行くと、こうしたトンデモ本へのバッシング団体になってしまうんではないか? そんな危うさを感じます。
 いや、この危うさは、と学会の創立当初からありましたが、年月を重ねるにつれ、ますます濃厚になって来ているような気がします。
 
 ちなみに私は、普段は他人のミスつつきなんてやる意味を感じないし、やりたくないって人なんです。
 なぜなら、天に吐いた唾は、間違いなく自分の顔に落ちてきますから。
 そりゃ、批判は絶対に必用です。
 でも、批判というものは、良い物を見つけるための手段であるべきだと思います。
 他人への批判を娯楽にしてしまうことや、批判のための批判ってのは、私個人としては避けたいところなんですな。

 実際問題、人間である限り、あらゆる分野のエキスパートになるなんて、どだい不可能です。
 と学会の方々は、理系の分野に詳しい方々は多いですが、どうにも文系には弱い人が多いようです。さすがに歴史学に関しては博識な方が多いですが、これが文化や思想、宗教の教義におよんでくると、正直いまひとつって感がぬぐえません。
 でも、これは仕方のないことですよ。かくいう私だって、UFOや超心理学などになると、ド素人ですし、これが物理学に及ぶと無知もいいとこです。
 しかしながら、だから批判や指摘はしません。……で終わらせるのも、あまりに色気が無いんで、私が関心持ってる分野たる「西洋魔術」に関するミスだけを指摘しておきましょう。

 山本弘さんにも、オカルティズム絡みのミスや無知や「?」な主張は、過去の著書を入れると、かなりの数に登ります。
 
 しかし、ここで取り上げるのは、唐沢俊一さんです。
 魔術がらみでは、「ゲーティア」(※1)をご存知ないらしく、悪魔の名前を「世界妖怪図鑑」の著書のダジャレによる創作と決め付ける等のミスが印象に深いです。
 これは「トンデモ本の逆襲」(p137)の中の文章なんですが……

・風を起こす悪魔で、「フーカロール」。
・団体で出てくるから「ダンタリアン」。
……うーん、すごい。すごいけど、いいかげん(笑)。

 「団体で出てくる悪魔だからダンダリアン」や「風を起こす悪魔フーカロール」は、ダジャレだろうと。
 ところが、恐ろしいことに、このダンダリアン(Dantalion)やフーカロール(Focarol)は、間違いなく「ゲーティア」という魔術書に出てくるんです。しかもダンタリアンは「多くの男女の顔を持った人間の姿」で出現するとあります。団体とまでは行かないが、近いです。フーカロールに至っては、「風と海を支配する」とあります。
 念のため、メイザースによる英訳本と、ピーターソンによる英訳の2種類のテキストを調べておきましたが、間違いありません(笑)。
 もっとも、この話しをSFファン達の飲みの席で話したら、みな腹を抱えて大笑い。
「そんな妙なことを知ってるお前の方が変な奴だ。」
 はい、ごもっともです(トホホ)。
 
 他に彼は大昔、「古本マニアの雑学ノート」という著書で、魔女術に関する本を嘲笑してたんです。しかし彼、この魔女宗については非常に無知でした。
 私はイタズラ心を起こして、これを友人の魔女に知らせたことがあったんです。すると彼、それを読んで非常に面白がっており、唐沢さんに対して非常に好意的な文章を、当時の私が出してた同人誌(オカルトではない)に寄稿してくれたりして、これも今となっては良い思い出です。

 で、今回の本題です。
「トンデモ本の世界T」(大田出版)のp278~279です。

 実はハバートはカリフォルニアの初期代表的カルト団体であるOTO(東方聖堂会。バラ十字団の流れを組むヨーロッパ正統派カルトで、有名な英国の黒魔術師アレイスター・クロウリーがアメリカに布教した)に関わりを持ち、当時そのロッジ(支部)を牛耳っていたカリフォルニア工科大学の科学者でアメリカのロケット開発草創期の第一人者(そういう人物が黒魔術にはまっていたのである)だったジャック・パーソンズに、愛人との全霊を込めたセックスにより宇宙霊を宿した子供(ムーンチャイルド)を作ることを勧めながら、その愛人と駆け落ちしたという、いわくつきの怪人物であった。このOTOがアメリカにもたらした悪魔崇拝の正当な(?)後継団体がチャーチ・オブ・サタンであり、実践者がチャールズ・マンソンであるわけだ。

 はい、これだけの文章の中に、実に3箇所もあきらかな間違いがあります。
 だいたい、クロウリーを黒魔術師として紹介する時点で、魔術に関して勉強不足と分ってしまうのですが。

・OTOは悪魔崇拝の結社ではありませんので、アメリカに悪魔崇拝をもたらしてなぞいません。
・チャーチ・オブ・サタンはOTOの後継団体ではありません。
・マンソンがチャーチ・オブ・サタンの教義の実践者だという事実はありません(ラヴェイが聞いたら激怒するでしょう(※2))。

 他にもOTOがカルト団体か? クロウリーが黒魔術師? パースンズが「黒魔術」にはまってた? OTOはバラ十字会の流れを組む?(正確には、スコットランド系フリーメーソンの系統団体で、テンプル騎士団と薔薇十字団の後継者を自称が正確でしょう)。あきらかな間違いと断言はできないものの、結構、無知が目立ちます(※3)。
 まあ、これは唐沢さんだけの無知ではなく、彼の種本の記述が不正確だったというのが、大きいとは思います。
 
 普段だったら、私はこんな意地の悪い重箱の隅つつきはしません。しかし、今回だけは例外的に遇えて書いてみました。
 理由は、と学会は、普段からこういう重箱の隅つつきをやってるわけですから、たまに逆襲されてもいいでしょう、ということ。
 もう一つは、他人様の名誉に関わる問題を書くからには、それなりの責任感を持ち、きちんとした取材をして欲しいということ。
 それゆえに、私の主義には反するものの、こうした意地悪を書いてみた次第であります。



※1
魔術師の間では凄まじく有名な本ですので、稗田おんまゆらさんなら確実にご存知だと思うんですが。
※2
ラヴェイのマンソン嫌いは有名です。友人の妻を殺害した一味のボスなわけですから、当然といえば当然ですよね。
※3
あるいは、この文章を(ここでは引用していない)段落のずっと先から読み返してみると、ロン・ハバートのサイエントロジーとOTOとチャーチ・オブ・サタンを混同しているようにも取れる。三者は似ても似つかないまるっきりの別物なんですが……。
※4
関係ないですけど村崎氏も魔術に詳しいらしいです(笑)



PS:
長らく気付きませんでしたが、唐沢さんが反論(?)をくれたみたいです。
正直、反応がいただけるとは意外でして、嬉しくも思います。

http://www.tobunken.com/olddiary/old2004_06.html

 うーーん、一番肝心の私の突っ込み部分には、少ししか答えてくれてませんね。
 おまけに論点がちょっと脱線してるように見えるのは私だけでしょうか?
 

「The Unknown God」 M.Starr   Teitan Press
「The Satanic Bible」 A.S.Lavey  Avon
「The Lesser Key of Solomon 」 Peterson WEISER
「Goetia」 WEISER
「英国魔術結社の興亡」 F・キング 国書刊行会
「アレイスター・クロウリーの魔術世界」 F・キング 国書刊行会
「性魔術の世界」 F・キング 国書刊行会
「悪魔教」 ブランチ・バートン 青弓社
「魔術の歴史」 J・B・ラッセル 筑摩書房”

お読みくださり感謝!


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