しいたげられたしいたけ

空気を読まない、他人に空気を読むことを求めない

「検証も反証もできない命題は科学の対象外」とする「ポパーの反証主義」について

なんでもやることが遅いのが悪い癖で、「松本零士『ミライザーバン』と「ニューカムのパラドックス」(後編:「自由意志は存在するのか?」という問題)」というエントリーを書いた直後から、「書かなくちゃ」と思っていたのに、3週間以上も経ってしまった。古来、西洋哲学で繰り返し論じられてきた「自由意志は存在するか?」という問題に関してである。

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自由意志の存在に関しては、拙エントリーに書いたカルヴァンの「予定説」のほかに、古典物理学の体系から必然的に出てくる「ラプラスの悪魔」についても、一言くらいはしておくべきだったとホゾを噛んでいる。ラプラスの悪魔というのは、物理法則と初期値に基づいて完璧な未来予測を行う想像上の存在である。カントの第3アンチノミーは、古典物理学に基づく決定論を想定したものと思われる。

9月27日付拙エントリーには、多くのブックマークコメントをいただきました。ありがとうございます。その中に「カントは決定論者ではない」というご指摘がありました。ごもっともでした。カントが目指したのは理性の限界を見極めることで、決定論を主張したのではありませんでした。ちなみにジャンルは違いますが、カントはラプラスとともに「カント・ラプラス星雲説」という学説にも名前を残しています(ただしラプラスが活躍したのはカントより少し後の時代。言うまでもなくカント・ラプラス星雲説もラプラスの悪魔も、命名は後世の人間)。

これもブコメでご指摘いただいたのですが、ラプラスの悪魔は量子力学の登場によって、確かに一度は葬られました。しかし拙エントリーに書いた通り、量子力学と相対性理論の統合=統一理論の樹立という現代物理学の大目標を意識すると、ラプラスの悪魔の亡霊が、ふたたび多くの研究者の意識をかすめるようです(悪魔の亡霊?? )。ホーキングはかなり決定論寄りのように見受けられますし(例えば『時間順序保護仮説』(NTT出版)所収の講演録「全てのことは予めどうなるかが定められているのだろうか?」)、他にもすぐには具体的な名前は思い出せませんが、何人かの研究者が決定論の立場を表明しているのを読んだ記憶があります(そのうちの一冊は、物理学ではなく計算機科学だけど J.L.ピータースンの『ペトリネット入門―情報システムのモデル化』(共立出版)じゃなかったかな? 余談として唐突に決定論の話が出てきたので「あれっ?」と思った記憶が。計算機は決定系だから、計算機科学者は決定論と相性がいいのかも。ScanSnap で電子化していれば確認できたけど、探したら電子化してなかった)。

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前置きばかりが長くて、なかなか本題に入れないな。これも私の悪癖の一つ。悪癖いくつあるんだ?

しかし、物理学的な決定論から「自由意志の不在」が導出されるか否かは、今はさて措く。「意識」を物理学上どう位置付けるかは、一言で言って未解決なので。そして観念的に「自由意志は存在するか?」を議論することもまた、知的遊戯であればよし、科学的には「無意味」と切り捨ててもよいのではなかろうか?

「検証も反証もできない命題は、科学の扱う対象ではない」とする「ポパーの反証主義」を援用して。

以下、伊勢田哲治『疑似科学と科学の哲学』(名古屋大学出版会)をタネ本とした再話であることを先にお断りしておく。それも私のことだから大幅劣化バージョンの。

ポパーは初めオーストリアで、後にイギリスで活躍した二十世紀の科学哲学者である。ポパーが世に出た頃のウィーン論壇はフロイトの精神分析学やマルクス主義が隆盛を極めていた時代で、特に精神分析学の一派であるアドラー派というのが大変人気があったそうだ。ポパーがアドラー理論に疑問を抱いてアドラー本人にいろいろ質問をすると、どんな事例に対してもアドラーは鮮やかに説明をつけてしまう。そのことがかえってポパーに違和感を抱かせたという。

当時、大いに話題になったのがアインシュタインの一般相対性理論によって予言された恒星の視角のズレが、1919年の皆既日食で観測されたというニュースだった。

ポパーはこのニュースに、大いに感銘を受けたという。もしも観測結果が相対性理論の予測とズレていたら、たちまち相対性理論は「誤った学説」であったと棄却されてしまったことだろう。アドラー理論は、そのようなリスクを取っているだろうか? タネ本は「リスクを取る」なんて表現はしていないけど。

 

ポパーによると、うんと大雑把に言って、科学は次のような方法論を採らねばならないとした。

1. 仮説を立てる

2. 実験・観察・調査e.t.c.によって仮説を検証する

3-1. 検証により否定されなかった場合、仮説は生き延びるが、別の検証により試される(「2.」に戻る)

3-2. 検証により否定された場合、仮説は放棄され、よりよい仮説が求められる

(「1」に戻る)

※ 『疑似科学と科学の哲学』P37 「図2」の圧縮・劣化バージョンです

ご覧の通り無限ループになるが、これにより科学は「生き延び」た仮説を蓄積し「よりよい仮説」を増やしして、発展してきたのである。

 

いっぽう、検証・反証の可能性を持たない理論に対しては、「科学ではない」という、非常に厳しい態度で臨んだ。これが「反証主義」である(間違ったことを言っていたら、ご指摘お願いします)。

ポパーが行ったというフロイト派精神分析学に対する批判を、『疑似科学と科学の哲学』P39の、例によって圧縮・劣化バージョンによって紹介する。

・フロイト派の理論では、人間の心を「自我」、「超自我」、「イド」の三つに分ける。「超自我」と「イド」は無意識の世界である。超自我は、反社会的・反道徳的な意識を抑圧する働きを有する。イドは、その他もろもろの巨大な無意識の世界である。

・この枠組みの中で「Aさんは反社会的な欲望を持っている」という命題Bは、検証可能であるか? もしAさんに反社会的な行動が見られたら、それは命題Bの直接の証明である。もしAさんにそのような行動が見られなかったら「それは超自我が反社会的なイドを抑圧している」と、説明できる。

以下、タネ本の文章を直接引用する。

つまり,いかなる人の,いかなる潜在的欲望についての仮説も,検証されてしまう(反証されない)ことが原理的に決まっている。ここでの問題点は,フロイト派の理論の中に都合の悪い証拠を説明する機構がすでに組み込まれていることである。したがって,この理論の支持者はどんな経験に直面しても理論を取り下げる必要がないことになる。

 『疑似科学と科学の哲学』P39

ポパーはこのような理論を「反証不能」であるとし、科学としての資格を持たないと剔抉〔てっけつ〕したのである。「剔抉」という語は 三島由紀夫が『金閣寺』で使っている のを読んで使ってみたいと思っていたのだ。いらんこと言いですみません。

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反証主義に対しては、科学と科学でないものを区別するには、厳しすぎる線引きだという批判もある。だが、いくつかのパラドックスや思考実験を「反証主義に照らして科学ではない」と剔抉するのは、少なくとも精神衛生上、好ましい効果がありそうな気がする。

例えば「独我論」や「水槽の脳」思考実験においては、被験者(と言っていいのだろうか?)である我々が、どのような体験をしたとしても「それは幻想である」、「それは水槽につながれた装置が見せている夢である」との説明がついてしまう。これはとりもなおさず、これらの思考実験が反証主義に照らして科学の要件を満たしていないということに他ならない。

例えば「世界は5分前に創造された」仮説は、どのような化石や痕跡が発見・提示されたとしても、「それらも5分前に創造されたのだ」と説明できる。このような主張は、「科学ではない」と切って捨てればよい。

「世界は5分前に創造された」仮説は、「進化論」と対立する「創造論」を擁護する立場から主張されたものだそうだ。それらのバックグラウンドには宗教がある。創造論の擁護は根深く、反証主義をもってしても進化論が創造論に勝ることを容易には示せないことが、タネ本にはかなりのページ数を費やして記述されている。ただし創造論による進化論への批判は、同じ主張の繰り返しで進歩に乏しいのだそうだ。タネ本P22あたり。もっと辛辣な批評をしているページもあったようなうろ覚えの記憶があるが、再発見できていない。

科学というものに進歩・発展が期待されている以上、これはけっこうクリティカルつか致命的な指摘のように思われる。

 

しかし発端の話題に戻って「自由意志は存在するか」という問いに関しては、実は問い自体に対する反証主義による批判は、案外微妙かも知れない。9月27日付拙エントリー に貼った WIRED.jp さんの2つの記事のように、自由意志の存在に関しては、生理学的な検証・反証の可能性が可能性があるからだ。

そうそう、自由意志の存在に関しては、「自由に伴う責任」という問題もあるのだった。

そして私達に自由な意志というものがないとすると、どうして私達に、自分の行動に対する責任をとることができるのでしょうか。ある人が、銀行強盗になるよう運命づけられていたとすると、それはその人の罪ではあり得ません。だからその人は、罰せられなくてよいということになるでしょう。

ホーキング『時間順序保護仮説』P7

ある意味キリスト教よりもっと強力な一神教であるイスラム教において、以前、自分のブログ記事 に、こんな引用をしたことがあったのだった。すっかり忘れていた。

もし人間がまったく無力で、自由意志を欠くものであるなら、そんな人間が悪を為し罪を犯すのも彼の責任ではなく、すべては神の責任になってしまうはずだからであります。自分では全然悪を為す能力がない人間に強制的に悪をさせておいて、しかもこれを罰するというのでは、いくら何でもひどすぎる。神の倫理性の根源原理である正義が成り立たない、というのです。

井筒俊彦『イスラーム文化−その根柢にあるもの』P77

これらの問題が未解決ということは、とりもなおさずこうした分野における進歩・発展が期待されているということに他ならないわけで…いかん、書き始めたときと考えが変わってしまっているじゃないか。

このテーマに関しては、引き続き考え続けたいと思っている。

 

ポパーの反証主義は、クーンの「パラダイム論」と並ぶ二十世紀科学哲学の二大ビッグネームの一つで、「科学哲学」あるいは「疑似科学」と題された書物では、ほぼ間違いなく取り上げられています。例えば池内了『疑似科学入門』(岩波新書) では、P17~に説明があります。

科学哲学は、個人的には高校公民でぜひ扱ってほしいとずっと思っている分野です。

 

先週、朝日新聞デジタルのこの記事がホッテントリになった。

日本の研究力低下、悪いのは…国立大と主計局、主張対立:朝日新聞デジタル

上掲記事中のログインが必要な箇所だが、財務省主計局次長の神田真人氏が、次のようなことを述べていた。さまざまな指標で日本の研究力の低下が指摘されている状況において、国立大学の法人化や研究費の「選択と集中」など、国の政策に誤りはなかったかという問いに対する回答の一部である。

改革がなければ、もっとひどくなっていた。世界の動きに目を閉じて塹壕(ざんごう)に閉じこもり、旧態依然のまま死に至る可能性が高かった。改革前に戻すことなどあり得ない。

この理屈は「どんな経験に直面しても理論を取り下げる必要がない」ことにはならないか? すなわち反証主義に照らして、科学でなくはないか? このような科学リテラシーの持ち主が、まぎれもない科学の拠点である大学に関わる政策と予算を牛耳っている現状を、深く憂慮するものである。 

疑似科学と科学の哲学

疑似科学と科学の哲学

 
疑似科学入門 (岩波新書)

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時間順序保護仮説

時間順序保護仮説

 
イスラーム文化−その根柢にあるもの (岩波文庫)

イスラーム文化−その根柢にあるもの (岩波文庫)