国から支給された物資を横流ししている人間がいるというので警察に相談したら、私が憲兵に取り調べを受ける羽目になってしまった。憲兵のK伍長と、横流しした者とが裏でつながっていたらしい。そのことに、後になるまで気が付かなかった。
「よく考えておけ」と放り込まれた留置場には6、7人の男たちが肩を寄せ合っていた。おたがい体を伸ばして寝られないほどの狭さだった。我が家との差は身にこたえた。私に対する暴行も、いつ果てるともなく続いた。
いつの間にか、私を犯人にした自白調書が作られ、判を押せと強要された。罪を認めれば、この責め苦からは解放される。しかし、私は抵抗した。死んでも正義は守りたかった。
困ったのは食事だった。出されるものは、来る日も来る日も麦飯と漬物だけである。食器は汚れていて臭かった。とても箸(はし)をつける気になれず、数日間、絶食した。
絶食を続けていると、やがて私の体に変化が起こった。同房の人たちは私の食事を奪い合った。あさましいと言うのではない。しょせん人間は動物ではないか。飢えればそうなる。それだけのことだと思った。すると、どうしても喉(のど)を通らなかった食事が食べられるようになった。汚れた食器の水も、平気で飲めるようになった。
極限になれば人間の本質が見えてくるという。この時、私の心は、なにか透明な感じで食というものに突き当たった。人間にとって、食こそが最も崇高なものなのだと感じられた。即席めんの開発の源をたどっていけば、ここまでさかのぼるのかもしれない。もちろん、その時の私に、チキンラーメンの発想があったわけではない。
憲兵隊の追及は、私が頑固な分、さらに厳しくなった。どうしたらこの状況から逃れられるのかと考えた。生きるために、そんな食事に耐えたとしても、殴られ続けて死んでしまうかもしれない。私は再び絶食を決意した。なまじ健康なために拷問を受けるより、食べることをやめて病気になる方がよほど心が安らぐだろう、と考えたのである。
食事はすべて同房の人に分けた。食を絶ってしばらくすると、下痢が始まった。体力は目に見えて衰え、今度は間違いなく死と直面していると感じた。あまりの衰弱ぶりに、同房の人たちもいたく同情してくれた。
だが、さしもの危機もあっけなく幕を閉じた。同房の一人が「明日シャバに出られる。何か力になることはないか」と言ってくれた。私はこの人に、窮状を昔からの知り合いの井上さんという元陸軍中将に伝えるようにお願いした。翌日にはもう井上さんが現れて、私を憲兵隊の手から救い出してくれた。
45日ぶりで自由な世界に戻ってきた。私は自力で歩けないほど疲れ果てていた。大阪市北区の中央病院で長期の療養生活を余儀なくされた。腹部の痛手は持病となって、後に二度も開腹手術をしなければならないほど尾を引いた。
退院後、大阪府吹田市千里山の自宅に帰った。しばらくして空襲が激しくなった。兵庫県の上郡に疎開したのはこのころである。お礼に井上元中将を疎開先にお招きした。牛肉5キロと、たまたま近所でとれたシカの肉が手に入った。食糧のない時代だから大変なごちそうである。井上さんは食べ過ぎておなかを壊された。翌日は、何も喉を通らないほど苦しそうな様子で、お礼のつもりがとんだ災難にあわせることになってしまった。
私は結局、上郡で終戦を迎えた。8月15日、青畳の上に思い切り体を伸ばし、玉音放送を聴いた。
[日経Bizアカデミー2014年4月7日付]