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法華狼の日記

2018-10-20

[][]大沼保昭氏が死去したという報を見て、傾いた世界でバランスをとることの困難を思うAdd Starmorimori_68

国際法学者の大沼保昭さんが死去 戦争責任などを研究:朝日新聞デジタル

95年に設立された「女性のためのアジア平和国民基金」(アジア女性基金)の理事として、元日本軍慰安婦への「償い事業」に取り組んだ。

 安倍晋三首相が15年に戦後70年の談話を出した際には、国際政治学者ら70人余の発起人代表として声明をまとめ、「日本の戦争は違法な侵略戦争だったと明確にすべきだ」と訴えた。

晩年まで上記のような活動をおこなっていた大沼氏だが、下記のように学問の自由を侵害する活動にも協力していた。

「歴史家」であることすら怪しい19人が米国教科書へ訂正要求をおこない、そこにアジア女性基金理事が連携している問題について - 法華狼の日記

【詳報】「強制連行があったとするマグロウヒル社の記述は誤り」従軍慰安婦問題で、秦郁彦氏、大沼保昭氏が会見 (1/2)

このBLOGOS記事で、会見を開いたのは秦氏だけでなく、アジア女性基金の大沼保昭氏もならんでいたことがわかった。

17日、秦郁彦日本大学名誉教授と大沼保昭・明治大学特任教授(元アジア女性基金理事)が会見を行い、同日付けで公表した「McGraw-Hill社への訂正勧告」について説明した。

妥協したなりにアジア女性基金の価値はあったかもしれないのに、それを理事自身で壊してしまいたいのだろうか。

引用部分だけなら民間の勧告にとどまるという解釈をされそうだが、現在の日本政府に近しい有力者の活動であること、直前に日本の外務省が動いていたこと、その主張が学術的知見に反していたことは考慮されるべきだろう。


単純に複数の意見の中間を選ぶだけでは、加害を否認しようとする側の、事実を歪曲しようとする側の、そして権力がある側を助けることになる。

たとえ意識していなかったとしても、いやむしろ難しさを意識しないかぎり、斜面に対して直角に立つだけでは坂を転がり落ちることになる。

バランスをとろうとして複数の対象を批判しただけでは、権力を後押しする言説ばかりが利用されて、権力に抗する言説は目立たなくされる。


大沼氏が「バランス」を意識していた証拠に、2014年朝日新聞インタビューで、下記のように語っていたことがある*1

お探しのコンテンツは見つかりませんでした:朝日新聞デジタル

「戦後日本の歩みは世界で類をみないほどの成功物語でした。日本にはそれだけの力がある。どんな人間だって『誇り』という形で自分の存在理由を見つけたい。メディアがそれを示し、バランスのとれた議論を展開すれば、日本社会は必ず健全さを取り戻すと信じています」

この「バランス」が、下記のようなコメントで高評価されていることが、きわめて象徴的だ。

はてなブックマーク - (インタビュー)日本の愛国心 明治大学特任教授・大沼保昭さん:朝日新聞デジタル

id:Day-Bee-Toe さすが。これが本物のリベラル。日本のことは何でも否定的に語り、反撥する者を罵倒する高圧的な連中とは訳が違う。 (インタビュー)日本の愛国心 明治大学特任教授・大沼保昭さん - 朝日新聞デジタル


なお、仮にも被害者を支援する事業を動かしていた大沼氏を、加害国の一市民にすぎない私が全否定できるとは思わない。

大沼氏がアジア女性基金において被害者支援をおこなったことは、妥協の産物であったとしても過ちではなかったと思いたい。過去をふりかえる著作を読んだ時、いくつかの疑問をおぼえつつも、信念をもって身を削るような活動をしていたこと自体は事実だったと感じられた。

また念のため、当時に支援運動の内外で直接的に大沼氏とかかわった人々や、研究者という側面から深く知る人々には、さらに違った印象があるだろう。私の印象が大沼氏の全体像をとらえているとは思わない。

しかし私が報道や著作をとおして知る大沼氏は、妥協に対する批判という予想された反応に耐えられず、社会の傾きに流されるように陥穽に落ちこんだままだった……晩年の大沼氏の活動や言説を読み返して、そのように感じるのだった。

*1:引用していない範囲では、ソフトパワーの中国に対する優越を前提に外交戦略を語っているあたりが、時代の潮流を素朴にとらえている感じがしてつらい。

s3731127306s3731127306 2018/10/21 18:00 ブックマークで

>戦前なら戦争協力してそう(小波

と書かれてましたが、してそう、じゃなくて、したに違いない、でいいと思います。国立大学教授に対してならば、もっと批判してもいいと思います。もちろん、根拠を示して、の話ですが。

大沼氏らアジア女性基金に対する批判は、女性史家の鈴木裕子氏の著作(未来社から出ている8冊)が包括的です。少し前に買ったけど、消費税表記が3%時代のもの! 売れてないらしいので、広めてください。いやほんと、なんで鈴木先生の本が売れんのだ、ネットで愛読者の同志が見つからないし……。

それはともかく、私個人はもっと大沼氏らに対して非常に批判的です。「慰安婦」問題が東アジアにとってどれほど重要な問題かをわからなくしてしまった重大な原因の一つが、アジア女性基金ですから。
これは、実証史学ではなく思想的な枠組みの話なのですが、過去の新聞記事を調べていてとても印象に残っていることがあります。1995年08月22日の朝日新聞にアジア女性基金について賛成反対の意見が並んでいたことがあったのですが、一方が大沼氏、もう一方が吉見義明氏だったのです。そこで吉見氏は

「オランダ・ハーグにある常設仲裁裁判所に問う方法です。現に韓国の元慰安婦が申し立てを求め、日弁連も支持しています。同裁判所の利用は当事者の合意が必要ですが、政府は今年一月これを拒否しました。政府は慰安婦に謝罪する気があり、かつ国際法違反でないと主張するのなら、どうして国際仲裁の場に堂々と出てこないのでしょうか」

と書いています。ちなみに、鈴木先生ら基金反対運動側も同時期にまったく同じ主張をしています。これを読んだとき、「国際法のアマチュアに負けてどうすんのよ、東大教授。」と思いました。

個人的には、いわゆるソフトパワーの政治力学の読み違えが大沼氏の失敗の大きな理由だとおもいます。くわしくはこちらの中西新太郎発言を読んでほしいのですが、ソフトパワーだって立派な権力なのです。日本のそれが(幸運にも、というべきか)ディズニー・ハリウッドなんかに比べてあまり大したものでないだけです。
http://east-asian-peace.hatenablog.com/entry/2015/04/03/133820

>中西 日韓条約の時、比輸的ですが、半分ぶん殴って経済力で締結したわけですよね。戦後の日本国家がもっている国益と力を明確に意識して、カードとしてそれらを使用した。形は違うけど今も同じような状況があって、九○年代半ば以降、大衆文化開放をとおして関係を結んで、そうした関係と異なる回路は「反日」という形で脇に追いやっていく政治状況をつくっている。麻生太郎氏が象徴的なように、ソフトパワーを使うことは権力の行使だから、つまり文化を政治的な手段としていかに帝国主義的に使用できるかという話なんです。
>その点に日本のリーダーたちが完全に自覚的になってきている。ソフトパワーがものを言う関係を前提にして「お互いに反発し合わず話ができる格好でやりましょう」という舞台装置がリベラルと言われている人々のなかで大枠で作り上げられている。
>リベラルと称される文化人の多くは、もちろん、政治権力のリーダーが活用しようとするソフトパワーなどとは無関係だと言うにちがいありません。しかし、そういう把握自身がすでに、九○年代にはっきり形を現してきた文化政治のリアリティに無自覚だと思います。ファナティックで時代錯誤のバックラッシュにたいし反対するリベラルという構図に自足して、「日本は……」と無自覚に語る国益を前提にした現実主義に囚われていることに気づかない。



最後に、三人の大沼批判をご紹介しておきます。

・板垣竜太氏(1990年代以降の日本における反植民地主義論の一角をなしておられます。)
「批判と連帯 : 日韓間の歴史対話に関する省察(<特集>ネオリベラリズムの時代と人類学的営為)」

>過去の責任を追及する人が、源氏物語も否定してしまう必 然性はないし、戦後日本の平和主義を反植民地主義や脱冷戦観点から批判することと、その平和主義を今捨てようとす のを批判することは両立する。

・土井敏邦氏
「日々の雑感 13:「愛国心」の中身をあいまいにした世論調査」
http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20070214.html

> それにしても、この現実を無視し、「愛国心」という言葉の中身を吟味することもなく「愛国心のある人ほど反省する必要があると考える傾向が強い」と言い切る論調に私は頭をかしげてしまう。と同時に、背後にその方向に世論を操作しようとする意図があるのではないかとさせ勘ぐってしまう。

・岡野八代氏(最近、杉田水脈暴言で徹底批判論考を書いた人です)
「「慰安婦」問題と日本の民主化」
http://east-asian-peace.hatenablog.com/entry/2015/03/10/194211

> この点について、大沼自身、興味深い例を挙げている。一貫して「国民基金」の償いを拒否してきた被害者が、総理のお詫びの手紙の内容を聞いて、「日本の総理がそんな手紙を書くはずがない」といったというのだ[ibid.:194]。大沼は、それは政府の広報不足と、NGOの頑なな「国民基金」に対する拒絶のせいだとしている。しかし政府の代表として総理が謝罪をするのであれば、せめて「国民基金」設立以後の政治家の妄言の数々に対して、政府として公的に批判しその態度を被害者に示さなければならない。しかしながら、政府はそうした批判を行うどころか、常にほとぼりが冷めるまでやり過ごしてしまう。道義的責任という心からの深い反省の意を示す責任を負っているはずの一一そう自ら言うのであるから一一政府が、一市民の発言とは異なる、公的な政治的責任を担っている政治家たちの妄言を野放しにしているのだから、「日本の総理がそんな手紙を書くはずがない」と思うほうが、通常の判断ではないだろうか。少なくとも、自ら「慰安婦」であったと名乗り出た彼女たちは、大沼が思う以上に、じっと日本社会を見つめてきたはずである。

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