なぜ自分はタナソーを批判したか、あるいは音楽の場と性暴力について
先日、Twitter上で、音楽評論家の田中宗一郎さんによる2016年のツイートを挙げて批判した。概要としてはひととおりTwitter上で語ったのだけれども、改めて記しておく。
問題のツイート
まず、問題のツイートは以下のものだ。
2016年12月。2年も前のツイートだ。「昔のツイートを掘り返して批判するのはいかがなものか」という指摘もあったので付け加えておくと、いまほどフォロワーもいなかった当時の段階で、自分はこのツイートを批判していたし、その後もことあるごとにちくちくやっていた。
なにが問題なのか? 具体的な説明と時代的な文脈
問題点を簡潔にまとめておくと、自らが主催するパーティに訪れる女性に対して、その場で起こることに責任を持つべき大人の男性が、あたかも性的なハンティングをしているかのようなことを言い出すのは、女性にとってかなりオフェンシヴなことだ。また、「女性も男性も同じ」というスタンスは、パーティで起こりうるハラスメントを、対等な立場の二者による自由恋愛という詭弁で覆い隠すことになりかねない。実際には、ライブハウスやクラブ、また大規模な音楽フェスにおいても、女性は性暴力を受けるリスクが大きい。そうしたリスクを抱えなければパーティに行けないという時点で、「クラブでの男女間の対等な自由恋愛」というのは、実情とは必ずしも一致しない。
ふと思い立ったのは、こういうツイートを最近見かけたこともある。
音楽のベニューにおける性暴力被害に光が当たり始めたのは比較的最近のことと言えるが、知る限り、2015年にはウェブメディアであるViceのブランチBroadlyにおいて、音楽フェスにおける女性の性暴力被害についての問題提起があった(There's a Rape Problem at Music Festivals and Nobody Seems to Care - Broadly)。その後、2016年にはいくつかのウェブメディアや新聞でも音楽のベニューにおける性暴力の問題が取り沙汰されている(Sexual assault at music festivals: changing the conversation - CBC Music、The ‘hideous’ sexual assault problem at music festivals is causing major tensions in Europe - The Washington Post)。あるいは同年の頭には、東京で行われたとあるクラブイベントでの痴漢被害をめぐってTwitterの一部が炎上する騒ぎもあり、クラブやライブハウスにおける性暴力についての界隈の無理解が明るみになってもいた。
つまり、2016年の段階で、音楽の現場における性暴力や女性の弱さに対する関心は、広く共有されていないとはいえ、少しでもそうした問題を気にかける音楽好きの間には起こっていたはずだ。その当時の自分の判断基準から言っても、上に引用した田中さんの発言は配慮に欠いていたと思う。加えて言えば、2016年といえばフロリダ州オーランドで、当地のLGBTコミュニティの拠り所のひとつだったナイトクラブで銃乱射事件が起こった年でもある(オーランド銃乱射事件 - Wikipedia)。坂本慎太郎が「ディスコって」で歌い上げたような、マイノリティのアジールとして機能するはずの場が、思わぬ暴力にさらされる。その脅威は、音楽のベニューにおける性暴力の問題と無関係ではないだろう。
そしてまた、現在もその状況が変わっているとは思わない。少し時代はくだって今年の6月にイギリス・YouGovの調査結果によれば、フェス参加者のうち、40歳以下の女性の半数近くが望まない性的行動(unwanted sexual behaviour)の被害にあっていたという('Shocking' level of sexual harassment at music festivals - BBC News)。日本でこうした調査が行われた場合にどのような結果が出るかは定かではないが、社会構造そのものに女性蔑視が組み込まれていると言ってよい日本において、イギリスよりもマシな結果が起こるなどと言えるほど自分は楽観的ではない。
また、個人的な経験から考えてもこのことには納得がいく。なにしろ身長が高くて体重も100kgをゆうに越える自分でさえ、クラブで難癖をつけられて暴力の脅威を感じることはいくらかあった。いまとなっては笑い話だが、「でかくてDJが見えない」という理由で酒を背中に浴びせられて軽く殴られたことがある。クラブに行ってDJを眺めてどうするつもりなんだ! と思ったが、それ以来人の多い小箱のフロアは苦手だ。それはさておき、暗い人混みのなか、喋り声もかきけされ、多くの人が酒を飲んでいるような状況に立ち入ること自体、そういう場に慣れない人には怖いことだ。体力の面で男性よりも不利であり、しばしばその場において少数派になりがちな女性ならばなおのこと。
批判はどの程度まで適切だったか?
次に、あたかも田中宗一郎さん自身をプレデターのように十把一絡げにしてよいか、という指摘について。
TLでこの件について見られた意見として、田中さんの主催するパーティ自体はそうしたトラブルが起こるような雰囲気ではないし、女性に失礼な行為を働いた人に対して田中さんが厳しく叱責することもあったから、ひとつのツイートを取り上げて批判することは適切ではない、という趣旨のものがあった。それ自体はありうる反論だと思う。一方で、そうした矜持があるのならば、「女性に対する親切なアドバイス」のていをとったオフェンシヴな発言をするよりも、端的に「自分のパーティで性暴力をはじめとしたハラスメントは許さない」と言うべきだろう。パーティの雰囲気や田中さんのことをよく知る人ならば、快く共感したのではないだろうか?
実際に現場がどうだったか、という点はもちろん重要だ。しかし、女性に対する性暴力が問題化されるなかで、わざわざあんなツイートをする必要もないし、それを最大限好意的に読んで忖度する義理もないだろうと思う。あるいは、ひとつの美学として、パーティに訪れる人びとに対して権威的に振る舞いたくない、あくまでその場にいる人びとの自主性を重んじるということも、カウンターカルチャー、クラブカルチャーの系譜においてとりうる立場でもある。しかし、どのような場を目指しているかという理想を掲げること自体を避けて、逆に誤解を招くようなことを言うのは、結局その場にいらぬ色をつけてしまうという点でよい行動とは言えないだろう。
現時点でのまとめ
以上、ツイートの問題点や、2016年時点であのツイートはなしだと思ったその理由、また実際の現場と発言の乖離については、自分の意図は網羅したつもりだ。もちろん、この2年で #MeToo ムーヴメントをはじめとした時代の変化があったこともあって、田中さん自身もう既にここでした批判の先に進んでいるかもしれないし、そうであってほしいと思っている。自分の批判が至らない点があったとすれば、短いようで大きな2年というラグを無視して、田中さんが変化していないかのような断定を行ったことに集約されるだろう。
ボーナストラック
自分がライター業を徐々に本格化したタイミングで、同じ業界の大・大・大先輩にあたる田中さんを批判したことが、いくぶん業界内政治のように見えてしまったようでもある。このブログで以前宇野維正さんを批判したこともあって、上の世代のライターに対して物言うイメージがついてしまったのかもしれない。とはいえむしろ、ことあるごとにちくちくと名前を出さずに嫌味みたいなツイートをしている自分が、まるで同業者に隠れて陰口を言っているかのようでもあり、そっちのほうが業界内の事情を忖度してるみたいで嫌だったのだ。だから思い切って名前を出したら出したでそういう見方をされたのはけっこう堪えた。
そういうわけでちょっと関係するいろいろを以下にまとめておく。特に読んでもらわないでもいい。
田中さんにせよ宇野さんにせよ、何か言うともやっとSNSで揶揄・批判されるのが常のような空気が一部にあるものの、ことロック、ポップミュージックという枠組みにおいては、聴いているものや言っていることがそんなに的外れとは思わない(音楽体験や嗜好によるバイアスはあるだろうが)。リスナーとしての蓄積やものを書くという仕事の経験については一日の長もモノを言うし、いまなおウェブメディアの運営をサポートしたり著作を旺盛に著していることは率直に尊敬に値するだろう。
ただ、たとえばヒップホッププロパーなリスナーから見れば、「ポップミュージックのいち現象としてヒップホップを捉える」というふたりに共通するアプローチには違和感があるだろうし、90年代ロックの呪縛から自由なもっと若い世代の書き手に場所を与えるべきでは、という気持ちもわかる。あたかもベテランがいつまでもでかい顔しているように見えるわけだ。
しかし、そもそも専業でものを書く若い世代がそんなに多くない、という問題があると思う。というのは能力的な問題では決してない。ウェブにせよ紙にせよ、いま既存のメディアに寄稿しようというインセンティヴなんかほとんどないのだ。そこそこのライティングスキルが求められるうえに分量の制約があるし、原稿料もそこまでいいわけじゃない。だったら自分でnoteなり有料メルマガなりをやったほうが金銭的な見込みがあるかもしれない。考える人やものを書く人はおそらく増えているし、そのクオリティも低いわけじゃないだろう。それが既存の慣習的なフォーマットに当てはまりづらいだけだ。いくらいいエッセイを書けても学術論文を書けるわけじゃないし、いい論文を書ける人がおもしろい小説を書けるわけじゃない。わざわざ自分をかたにはめてまで、ものを書くべきか。ライターの視点からはそのように感じられる。だから編集が大事なんだ、ということも思うのだがそれはまた別の話。
で、ネームバリューがあり、音楽のアンテナがあって、ものが言えて書ける、となるとあの世代の人が目立ってしまうというのもあるんだろうし、いくらそれを既得権益と批判したところでせんないことではある。思い切った人選してみいや、と思わんでもないけどね。むしろ、そうした名のあるライターをくさすのをTwitter上でのおなじみのなぐさみみたいにしてるほうがよくなかろうと思う。批判するならちゃんとする。褒めるなら褒める。それ意外にやれることなんかないんじゃないか。
もう自分は思い切って無用なツイートをやめて、言いたいことはブログに書くことにしたんだけど、Twitter上で興味深い見解をつぶやいているアカウントが多いのを見るにつけ、このアイデアがツイートの海に消えていくのかと思うと切ない気持ちになる。自分がブログをやったり、あるいはメディアに寄稿しているのは、名前を売るとかそれで食っていくというためじゃなくて、そうしたツイートの海から得られたものを少しずつでも世界に残すためだと言っていい(盗用宣言じゃないよ。フォローしてる人の新譜情報とか、さりげない感想を、ほんと参考にしてるってこと)。無秩序なデータに還元されていってしまう些細だが学びのあるアイデアをどこかにつなぎとめたいから自分はものを書くし、だからこそZINEをつくりたいなといまは考えている。
ちなみにつぶやかないだけでTwitterはめっちゃ見ている。情報収集をTwitterに最適化しているからだ。しかしつぶやかないとなると雑談ツイートが邪魔に思えてきて、フォローはだいぶ整理した。DMは設定を変えて解放しているし、メアドも公開している。ブログのコメントは承認制だけど見る。SNSから隠居したつもりはないです。ファボってもびっくりしないでね……。