「少子化に強い年金制度って作れないですか」と問われて、「数理的には簡単で、子供のない人には給付しないか、2倍の保険料を取ればできますよ」と答えると、何かマズいことを聞いてしまったなという反応を受ける。理屈は正しいように思えても、ポリコレ的にどうなのかというわけだ。男性なら「そうは言っても、現実的にはどうかな」という返しとなり、女性だと「そんなのヒドいです」とストレートだ。数理的な正しさなど、世間的には説得力ゼロである。
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権丈善一教授の『ちょっと気になる政策思想』では、ミュルダールの少子化論が紹介されている。子供を持つ経済負担は、出生率の低下という「合理的」な選択につながり、生活の基盤を崩壊させるため、解決手段として、老年層への社会保障を撤廃するか、子供の養育費を国家が賄うかの選択となるとし、後者の道を望ましいものと位置づけ、出産と育児に関する「消費の社会化」という言葉で訴えるものだ。
実は、先のエグい少子化論が摘出するのも同じ問題だ。賢きミュルダールは、言葉を選んだということである。ただし、数理的な把握がないと、負担の大きさは測定できない。例えば、賦課方式における最適な積立金の大きさは、(親世代の人数-子世代の人数)×生涯給付額という式を使って、初めて計算できるようになる。むろん、出産や育児の支援で少子化が克服できれば、計算するまでもないわけだが。
加えて、少子化は、積立金を用意すれば、すべて解決がつく問題でもない。極端な話、出生率がゼロになると、いくら積立金を用意しても、そのカネを受け取って、サービスを提供してくれるヒトが存在しなくなるので、無意味になる。ゼロにはならずとも、出生率が低いと、サービス価格が高くなり、せっかくの積立金は大きく減価する。請求権であるカネよりも、供給力の実物たるヒトを用意することが、経済や社会にとって遥かに重要だ。
………
同じことは、財政赤字についても言える。最近の財政再建のスローガンは、「孫子の代に負担を押し付けるな」とする「世代間の不公平論」が定番だが、負担の意味を、おそらく、わざと取り違えたまま使っている。当たり前のこととして、未来の財・サービスを今の時点で消費することはできない。ミクロで借金を残すのとは異なり、マクロでは、国内の債務は、誰かの債権でもあるので、国全体だと差し引きはゼロになる。
本当のマクロ的な負担の意味は、財政赤字によって設備投資が阻害され、生産力の形成が十分になされず、将来の供給が少なくなり、孫子の代が利用できる財・サービスが限られてしまうことである。したがって、財政赤字が設備投資を阻害しているのなら負担増だし、逆に、財政赤字が需要の提供を通じて設備投資を促進する状況なら、負担「減」になる。つまり、その時の経済状況次第である。
新古典派的な右側の経済学は、利益最大化の行動によって、常に最大限の設備投資がなされているはずと考えるから、財政赤字は必ず設備投資を阻害するとみなす。他方、ケインズ的な左側の経済学は、需要リスクによって不合理に設備投資が委縮している場合があるとするから、財政赤字が経済成長にプラスに働く状況があり得るとなる。結局、財政赤字が孫子の負担になるか否かは、経済観によって変わるのだ。
………
とある経済において、設備投資の限界がどこにあるかと言うと、労働供給力による。設備投資をするカネは、いくらでも創造できるのに対し、設備を使うヒトは、すぐに増やせないからだ。日本は、失われた20年において、緊縮財政による需要不足に喘ぎ、労働供給力による設備投資の制約は無いも同然だった。むしろ、企業は、若者を安使いし、結婚を難しくして、ヒトの再生産をできなくした。人的資本の過少投資が起こったのである。
これは、木を伐り尽くして資源を枯渇させることと変わらない。社会保障の最重要の役割は、再分配を行いつつ、こうした人的資本の収奪を防ぎ、経済を持続可能にして、長期的利益を最大化することである。その意味で、資本主義の欠かせぬ一部だ。右側の経済学は、世代間の不公平を言い立てるが、その実、短期的利益のため、将来の経済を小さくし、明るい未来を失わせただけであった。
財政赤字は企業の過少投資の裏面であり、政府が不合理な行動を緩和した結果だ。それで累積した国債を一気に解消することは、逆の不合理な行動である「バブル」でも起こさない限りは無理であろう。福祉国家にとって、累積した国債は恥ずべきものではない。ミクロの価値観に囚われて、借金は返さねばなどと思い煩ったりする必要はない。安定的に管理すれば、それで十分なのである。
(今日までの日経)
中国、7-9月6.5%成長に減速。中国市場 止まらぬ動揺。
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権丈善一教授の『ちょっと気になる政策思想』では、ミュルダールの少子化論が紹介されている。子供を持つ経済負担は、出生率の低下という「合理的」な選択につながり、生活の基盤を崩壊させるため、解決手段として、老年層への社会保障を撤廃するか、子供の養育費を国家が賄うかの選択となるとし、後者の道を望ましいものと位置づけ、出産と育児に関する「消費の社会化」という言葉で訴えるものだ。
実は、先のエグい少子化論が摘出するのも同じ問題だ。賢きミュルダールは、言葉を選んだということである。ただし、数理的な把握がないと、負担の大きさは測定できない。例えば、賦課方式における最適な積立金の大きさは、(親世代の人数-子世代の人数)×生涯給付額という式を使って、初めて計算できるようになる。むろん、出産や育児の支援で少子化が克服できれば、計算するまでもないわけだが。
加えて、少子化は、積立金を用意すれば、すべて解決がつく問題でもない。極端な話、出生率がゼロになると、いくら積立金を用意しても、そのカネを受け取って、サービスを提供してくれるヒトが存在しなくなるので、無意味になる。ゼロにはならずとも、出生率が低いと、サービス価格が高くなり、せっかくの積立金は大きく減価する。請求権であるカネよりも、供給力の実物たるヒトを用意することが、経済や社会にとって遥かに重要だ。
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同じことは、財政赤字についても言える。最近の財政再建のスローガンは、「孫子の代に負担を押し付けるな」とする「世代間の不公平論」が定番だが、負担の意味を、おそらく、わざと取り違えたまま使っている。当たり前のこととして、未来の財・サービスを今の時点で消費することはできない。ミクロで借金を残すのとは異なり、マクロでは、国内の債務は、誰かの債権でもあるので、国全体だと差し引きはゼロになる。
本当のマクロ的な負担の意味は、財政赤字によって設備投資が阻害され、生産力の形成が十分になされず、将来の供給が少なくなり、孫子の代が利用できる財・サービスが限られてしまうことである。したがって、財政赤字が設備投資を阻害しているのなら負担増だし、逆に、財政赤字が需要の提供を通じて設備投資を促進する状況なら、負担「減」になる。つまり、その時の経済状況次第である。
新古典派的な右側の経済学は、利益最大化の行動によって、常に最大限の設備投資がなされているはずと考えるから、財政赤字は必ず設備投資を阻害するとみなす。他方、ケインズ的な左側の経済学は、需要リスクによって不合理に設備投資が委縮している場合があるとするから、財政赤字が経済成長にプラスに働く状況があり得るとなる。結局、財政赤字が孫子の負担になるか否かは、経済観によって変わるのだ。
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とある経済において、設備投資の限界がどこにあるかと言うと、労働供給力による。設備投資をするカネは、いくらでも創造できるのに対し、設備を使うヒトは、すぐに増やせないからだ。日本は、失われた20年において、緊縮財政による需要不足に喘ぎ、労働供給力による設備投資の制約は無いも同然だった。むしろ、企業は、若者を安使いし、結婚を難しくして、ヒトの再生産をできなくした。人的資本の過少投資が起こったのである。
これは、木を伐り尽くして資源を枯渇させることと変わらない。社会保障の最重要の役割は、再分配を行いつつ、こうした人的資本の収奪を防ぎ、経済を持続可能にして、長期的利益を最大化することである。その意味で、資本主義の欠かせぬ一部だ。右側の経済学は、世代間の不公平を言い立てるが、その実、短期的利益のため、将来の経済を小さくし、明るい未来を失わせただけであった。
財政赤字は企業の過少投資の裏面であり、政府が不合理な行動を緩和した結果だ。それで累積した国債を一気に解消することは、逆の不合理な行動である「バブル」でも起こさない限りは無理であろう。福祉国家にとって、累積した国債は恥ずべきものではない。ミクロの価値観に囚われて、借金は返さねばなどと思い煩ったりする必要はない。安定的に管理すれば、それで十分なのである。
(今日までの日経)
中国、7-9月6.5%成長に減速。中国市場 止まらぬ動揺。