初めに

原本

先日、実家に帰った際に亡くなった祖父の残した戦争時の手記を父が書き起こしたものを見せてもらいました。父がその手記をまとめた時に私はまだ小学生で、全く興味を持たなかったんですが、今見てみるととても面白く、手記の主人公である「俺(祖父)」(昭和十六年当時二十八歳)に感情移入して一気に読み終えてしまいました。

内容は祖父が戦争で大活躍をするわけでもなければ映画で描かれるような戦場に居合わせるわけでもありませんが、(だからこそ孫である私が存在しているわけですが)現地の意外といい加減な雰囲気や食べ物の美味さや匂い、仲間との失敗談などがとても身近に感じられ、それと同時に戦争時の過酷な状況にも驚きました。

祖父は筆まめな人で戦争から戻ってからこれを書いたそうですが、元々他人に見せるものではなかったのか、今読んでも軽い文体で読み易く、このまま消えてしまうのは勿体無いので、たいした量ではないんですが、少しずつブログに書き起こしてみようと思います。

召集下令

昭和十六年十月十日、この日はちょうど宿直に当たっていたがそろそろ寝ようと思っていた。

午後の十時頃、看守係の佐藤巡査が(※1)保安係の部屋で書類整理をしていた僕のところへ来て、

「部長さん、奥さんだか何だか女の人が来ましたよ。」

と言うので事務室を出て行くと、その時既に妊娠八ヶ月の妻が蒼白な顔をして着物だけはよそ行きに着替えて突っ立っていた。

それを見て、

「あーあ、とうとう俺にもやってきたな。」

と直感した。妻は小声で一通の手紙を差し出した。見ると、

「十八日召される。十五日帰れ。 富」

とあった。その頃は支那事変が長期戦の様相を呈し米英の積極的な干渉により前途は暗く、物資の配給制度が始まっていて、皮革、石油、米などがぼつぼつ不自由になり、衣料にはスフ(※2)が混紡され始めていた。

それでもまさか世界戦争になろうとは思っていないので、二年も支那大陸で戦えば帰れるものと楽観していたようで、俺の男の顔が立つという優越感と未知の土地へ行けるという好奇心とで余り悲壮感は無かった。

しかし、赤紙が来たうえは再びこの職場へ戻れるかどうか分からないので、急に宿直勤務が嫌になり、坪川警部補にその旨申し出て机を整理し、その夜のうちに平岡町の借家に帰った。

妻は先に帰っていて床を敷いていたが、いきなりしがみついてきて胸に顔を押し付け、声を殺して泣いた。その借家は織物工場をベニヤ板で三つに仕切っていたので、隣の部屋には話し声さえも筒抜けだったからだ。(※3)

翌日には早速運送屋を頼んで、家財道具一切の荷造りをした。更に署の送別会に望んだり、なんやかんやでなかなか忙しかった。東京からは剛和、久孝、富寿が別れに来てくれた。本当に嬉しかった。

いよいよ十五日には郷里へ引き上げることになったが、時局重大の折り、見送りは親兄弟といえどもまかりならぬというきついお達しがあったので町内をあげてののぼりや、日の丸を押し立てての見送りは無かったが、署員は八王子駅まで見送ってくれた。その中には大善寺の小使いをしていた新潟県柏崎出身のお婆さんの姿もあった。上野駅では、千住の遠藤さんが駆けつけてくれたのでお別れを言うことが出来た。

浦佐で一泊、親類家の宴を受け、更に東村の実家で親類一同の送別宴があった。十月十七日の朝、村の鎮守様にお参りをし、村中を一巡して村外れまで妻や親戚の人々の見送りを受けていよいよ最後の別れを告げたが、放心したような妻の姿が哀しく見えた。

その日は丁度、県庁まで用事があるといって登太郎さんが同じ列車に乗り合わせて新津まで着いたが、酷い雨降りだったので会津若松を出た列車がスリップして進まず、その夜は郡山駅前の旅館に同じ仙台の東部二十五部隊へ入るという衛生上等兵とその見送りらしい男の人二、三人で同じ部屋に泊まった。

翌日は一番列車で仙台に着き、駅前の広場に出張していた東部二十五部隊の兵士の案内で宮城野原の騎兵第二連隊へ入った。

※1:祖父は警察官だった。
※2:ステープルファイバーの略称。昭和10年代に木綿の代用品として広く使用された。人造綿花。
※3:織物は東京都八王子市の代表的な産業だった。

入隊(一)

 十月中旬とはいえ、宮城野原の兵営は寒々としていて東京の冬より余りにも寂しい風景だ。型通りの身体検査があって各中隊の兵舎に引率されたが、そこには寝台は無く、床に藁を敷き、その上に荷造り用の筵(ムシロ)を敷いただけだった。食器は飯盒一つ、夜は毛布を上下に分けてその中に入るのだが、一人分では寒くて仕方が無いので二人分を合わせて一組とし、背中合わせで寝るのだ。

 班長以下全部召集兵で、その中に輜重隊(シチョウタイ)(※1)や陸軍から転属になった初年兵(※2)がいくらか混じっていた。押し並べて軍隊身分は低かったので和気藹々とした雰囲気だった。しかし、誰の顔にも家族と離れた寂しさと、前途に対する不安の色は隠せない。

 日夕点呼の時は班内に並び番号をかけるのだが、既に四十を越えた老兵もいて物々しい号令とは反対に滅入り込みそうでもあった。一日三度の食事は麦飯に一杯のお茶が飯盒の蓋に配られるが腹一杯にならない。三日に一度くらいは酒保品(※3)が下給されるが、それもさつま芋かメリケン粉をこねて蒸かしただけのお粗末なものだった。

 さていよいよ身包み着替えてこれを荷造りし、郷里へ送る段になると一層の寂しさを感じた。ラジオも無く新聞も雑誌も無い。唯一の楽しみは郷里からの手紙だけで、妻からは三日に一度くらい手紙が来たが、こちらからは外出した時や公用外出者にこっそり頼んで偽名の手紙を送った。しかし、こいつとていつ検閲に引っかかるか分からないので、軍機に関することや反戦的なことは一言も書かなかったのである。

 最初の編成は、第二師団防疫給水部といい、大田軍医中佐を隊長に副官が山内大尉、それに広瀬、森川、清水の三軍医中尉、櫃間(ヒツマ)、松浦二衛生中尉、若林薬剤少尉、清水、大栄二軍医見習士官などの将校に軍曹以下兵まで合わせて二百名そこそこの部隊だ。

 主たる任務は戦場での伝染病予防と給水である。そのため、軍の機密に属する一トン車の口水車四台が配属された。これで濾過した水を薬剤で消毒して一石入布製水槽(イッコクイリヌノセイスイソウ)(※4)に入れてトラックで前線部隊に給水するわけだ。最初は教育編成として、部隊本部、検水班、病理班、消毒班、給水班などに分けられ、俺は櫃間中尉の率いる給水班になり、一斗入ズック(※5)の水嚢を背負わされ幼稚な訓練を受けた。

 毎日殆ど時間潰しの各個教練や戦闘訓練が続いた。近くには海軍の練習飛行場があり、赤トンボのような練習機が飛び回り、それを見上げて郷里への思いを馳せてか、虚ろな目を見はっている兵隊の姿が物寂しさを誘っていた。

 十一月中旬だったと思うが、宮城県下で師団の総合演習があり、夜間通りがかりの民家で冷え切った飯盒の飯を食ったが、その時にこの家の主婦が出してくれた白菜の漬物の美味さは何物にも変え難いものだった。また、一人の老婆が息子を捜して部隊の演習地へ来たが、その子に会えず、背負ってきた籠一杯の蒸かし芋を居合わせた兵隊に振舞ってくれたのは印象深かった。

※1:戦争に必要な物資を輸送する部隊。
※2:最下級の兵士、二等兵。
※3:軽食や煙草などの嗜好品。
※4:石は体積の単位。主として米穀をはかるのに用い、1石は10斗。約180リットル。
※5:1斗は1升の10倍で18.039リットル。

入隊(二)

 昭和十六年十二月八日、その日は宮城野原練兵場で各個教練をやっていたが、部隊本部から伝令が来て全員即刻帰隊するようにというので急いで隊形を整えて帰隊し、全員が舎内に集合した。

しかし何事が起こったのかさっぱり分からなかった。そこへ山内剃崔が現れて米英に宣戦布告をし、同時にハワイの真珠湾では米太平洋艦隊を全滅させ、マレー半島、ルソン島、グワム島、ウエーキ島等を一斉に敵前上陸を敢行し、全軍破竹の前進を続けているので我々の行くところが無くなってしまった、と冗談交じりに話をした。

太平洋が風雲急を告げているということは薄々分かっていたが、こうまで早く宣戦布告になるとは誰も思っていなかった。それだけに兵隊の中には一瞬ざわめきが起こり、次に自分たちの運命について真剣に考え出したようだった。それまでは単純に支那大陸か仏印辺りの警備の交代要員として二年も勤めれば除隊になると考えていたのだが、相手が米英の二大国となればいわば世界を相手に戦うと同じで、これは容易ならざるものと覚悟しなければならなかった。しかしそれからの日々も今までと大した変わりは無く、上辺だけの朗らかさを装ったり、各々自慢話をしたり、毎日を無為に送っていた。

 その中で一つ困ったことがあった。それは、飯盒、帽子、靴下などの官給品が頻々として盗られることだった。誰にも公平に支給されるものだが不心得者がいて、自分の物が汚れたり壊れたりした時、他人の物を失敬する。すると盗られた者がまた他人の物を頂戴するという具合で、これが果てしなく繰り返されていくわけだ。俺も隊内の入浴場で顔を洗っている隙に帽子が無くなってしまった。しかし若い兵隊の様に他人のものを失敬する勇気も無く、無帽で班内に帰ってその話をしたところ現役の若い連中が、

「じゃー俺たちが取り返してやる。」

と言って飛び出して行ったが間もなく真新しい帽子を持ってはぁはぁいいながら戻ってきた。まるで他人のものをうまくせしめることに無上のスリルと歓喜を覚えている様子だった。

 日曜日には大抵外出を許されたが、宣戦布告後はどことなく緊張した空気が漲っていた。老兵の多くは酒を飲むなどして鬱憤を晴らしていたが、家に残った身重の妻のことを思うと一時の快楽を求める気にもなれないので大抵映画を見て帰った。家の近い連中は、営門まで女房族が迎えに来たり、市内で待ち合わせたりして大層楽しそうだった。そんなことはとても出来ない相談だけに諦めていたから大して羨ましいとも思わなかった。妻からは面会が許されればどうしても一度会いに行くと手紙で言ってきたが、別れの辛さが嫌だったので面会は出来ないと言って諦めさせた。

 十日間程、将校集会所の当番をやらされた。各隊から一人づつの兵が出て、上等兵を長として六名程で朝の点呼から夜の点呼までいるわけだ。食事の上げ下げから拭き掃除までする。将校といっても自分たちよりも余程若い。まるで女中同様に手にヒビを切らせて食器を洗ったり、雑巾をかけたりする。入隊した以上、過去の一切は捨てて最低位からやり直すつもりではいても精神的苦痛を感じないわけにはいかなかった。しかし夜の勤務も昼間の演習も無いし食事は良い所を腹一杯食べられるから考えようでは悪くない役割だった。

 現役の初年兵の様に、学科や実技で競争する張り合いも無い。全くその日その日を無為に過ごしていることに、何とも言えない物足りなさと自責の念に悩まされた。隊内には新聞も無く、ラジオも聞けないので殆ど外部のことは分からなかったが、南方戦線では着々と戦果を拡大しつつあるということが兵の口から次々と言いふらされていた。しかし自分たちの部隊がいったい何時頃何処へやらされるのか皆目見当がつかないままどんどんと日は経っていった。

入隊(三)

十二月が終わりに近くなると寒さに向かうというのに蚊取り線香やメンソレなど、真夏のものがどしどし支給される。おそらく仏印辺りだろうくらいのことは誰にも分かってきた。

そして突如として師団は愛知県の演習廠舎(ショウシャ)に移ることになった。次の動員を行うため、仙台の兵舎を空けなければならなくなったためだろう。それから資材の梱包、車両の貨車積みと三日ほどは目まぐるしくこき使われた。

そして長強矢から乗車して一昼夜乗り通して名古屋の北の松林に囲まれたバラックの兵舎に移された。車両輸送中は全車窓の鎧戸を降ろして、まるで囚人者のように何も見せず、途中停車してもホームへ出ることも許されなかった。軍の移動をひた隠しに隠している様子である。

名古屋の廠舎に移ってからの待遇は更に悪く、毛の抜けた紬(ツムギ)のような毛布にカタカタの布団一枚、寒さはいよいよ厳しくとても眠れない。有沢政一君と二人分の毛布をかぶって寝た。その重さのため、足腰が痺れることさえあった。

演習といってもこの頃になったら、濾水車を一単位とした給水隊が編成された。俺は櫃間中尉を隊長とする第二給水隊だったが、三斗入水嚢を背負って歩いたり、トラックの上乗りして一石入水槽を運んだり、まるで遊び半分のことばかりだった。ここで同時入隊した特務兵出身の二等兵は一斉に一等兵に進級させられ、星が二つになってやっと兵隊らしくなった。

十二月も押し詰まった二十九日に浦佐から手紙が来て、妻が女児を無事出産したことを知った。しかし帰郷はもちろん隊での面会も一切禁止されていたので、僅かに便箋一枚に意を託してやれたのが精一杯だった。

やがて正月になったが、カマボコ型の餅一本に酒が一合配給されただけで外出があるわけでもなく、生まれて始めてこんな惨めな正月を迎えた。妻からの詳しい手紙を待っていたが、兄の代筆のものばかりで本人の筆跡を見られないまま十日過ぎになってしまった。

そのころから、いよいよ外地へ向かうらしいという噂が広まり、それを裏付けるように次々に新しい夏服がわたり、編上靴も新しいのが支給された。古い被服は各自が洗って返納させられたが、その洗濯の辛さは並大抵ではなかった。

一月十二日、またまた車両や機材を貨車に積み込み、手足も凍結しそうな夜、名古屋を走り抜けて広島へ送られた。遠藤一等兵、及川上等兵と俺の三人は広島市内の勤め人風の中流家庭に泊まった。その一泊は、それまでの漬物石のような毛布に比べて余りに上等な軽さに、却ってよく眠れなかった。夕食には大きな旅館に集まり、町内の娘たちがお酌に出て実に満堂(マンドウ)(※1)のもてなしで、まったく感激の限りだった。

次々に集結して来てはどこへともなく運ばれていく多くの部隊に対してああまでの歓待をすることは、兵隊たちの生涯の思い出になったことだろう。しかし悲しいかな、昭和二十年八月の原爆一発で広島市は灰塵に帰してしまい、あの時の娘さんたちも主人方も奥さん達も大部分は死んでしまったのだ。

翌朝も旅館に集まって朝食をご馳走になり、粉雪の降りしきる中をトラックに乗せられ、町内の人々の見送りを受けて暗いうちに宇品港へ向かった。

宇品の港には大小様々の軍用船が数十隻停泊していて、師団の輸送指揮官の区分に従い少しづつ分散して他の連隊の兵隊と混合で乗船することになった。やがて夜もすっかり明け放たれて、いよいよハシケに乗って本船に向かう番が来た。われわれ櫃間隊は隆南丸という古い古い五千トン級のボロ貨物船に乗せられたが、船上から見る故国の山々は白雲に覆われ、宇品の街もひっそりと静まりかえっていた。

※1:堂の中に満ちること。満場。

出動(一)

 これが故国の見納めになるかもしれないと思えば、何かこみ上げてくるものがあるはずだが、乗船したらすぐに船室の割り当てを受け、船上生活に必要な食器などを受領したり、見廻り品の整頓やらで、一人で感傷にふけっている余裕も無かった。

すぐにまた一番船尾の一区画へ移された。そこはスクリューの真上に当たっていて、酷く振動の激しい場所だった。その一番奥へ装具を押し込み、毛布を四つ折に敷いて、全員芋を並べたように寝る。何しろ着ているものは全部夏物で、毛布も一人一枚当りしかない。夜になったらその寒いこと。もちろん火の気は無く、あるだけの毛布を集め、それでも足りなくて敷いてある薄べりまでかけて鼠の子供のように並んで潜り込んだが、とうとう寝ることは出来なかった。

 そうこうしている間に船は出港し、翌日は下関海峡を通過する。軍の移動を隠すため、兵は絶対に甲板へ出てはならぬと固く言い渡された。しかし禁じられると余計見たくなるもので、甲板にしかない便所へ行くふりをして出てみたが、下関と門司の両岸がすぐそこに迫り、歩いている人間の姿もはっきりと見られた。これが故国の見納めになるかもしれないと、三々五々そこらにいた誰もが感傷的になっているらしかった。

やがて九州の山々が遥か後方に霞み、それもとうとう水平線の後方に没し去って、目に入るものはただ青黒い大海原と白い雲、それに前方警戒の駆逐艦が二隻、それに続く僚船が七隻だけとなった。こんな風景の中で唯一つの慰めは、船首近くの白波の間からスースーと飛び立っていく飛魚の姿だった。

 夜は完全な燈火管制で、太い煙突から吐き出される黒煙が不気味に船上を覆い、前後の僚船の姿も見えず、時折護衛の駆逐艦が船腹すれすれに通り過ぎるのが見られるだけだ。

 故国を離れて二日ほど経ったら、船内は急に暖かくなり、甲板から眺める海の景色は何の変化も見せないが、ぐんぐん南下していることがはっきり分かった。やがて、玄界灘のうねりが大きく船を揺らし始め、ぼつぼつ船酔いで苦しむ兵隊も出始めた。

船内の生活は酷く単調なもので、たまに船橋に立って、対潜、対空警戒勤務に就く他は殆ど仕事は無く、一日一回は全員甲板へ出て運動するが、後は船室内でゴロゴロしているだけだった。船には郵便物も届かず、ラジオも無く、自分たちはいったいどこへ運ばれていくのかさっぱり分からず、もちろん読む本とて無かった。

 食事は陸上の兵舎にいたときよりも更に悪く、生ものは殆ど無くて、凍り豆腐や若芽〆の味噌汁、魚の煮付けのお菜に、塩水で洗って炊いたしょっぱくて黒い麦飯だ。その代わり二日に一回くらいは金平糖などの下給品が配られた。これが兵隊たちにとっては唯一の慰めだった。

出動(二)

 三日目辺りになってから、陸地に近づいたらしく海鳥の姿が見え始め、やがて薄い板を並べたような帆を張った支那ジャンク(※1)や、櫓を向こうに押してこぐ漁船などがちらほら見えてきた。この頃はもうすっかり船内は夏のような暑さで、兵隊たちはみんな甲板へ出て涼をとらなければならなくなった。僅か四日くらいの船旅でこうも温度が違うところまで来たことがまるで夢のようだった。

雨の振り出した日に、台湾の北端の山々が見え始め、程なく基隆港外に到着した。防波堤には外海の波濤がぶつかり、ものすごい飛沫を上げている。ここで駆逐艦の一隻は、右方へ舵をとって甲高い汽笛の音を残して船団と別れていった。おそらく高雄辺りへ直行したか、内地へ帰ったのだろう。そして残った駆逐艦の一隻が先導して、船団は一隻づつ狭い港口を通って港内へ入っていった。そこには陸軍旗をマストの頂上に掲げた貨物船や客船が無数に停泊していた。俺たちの隆南丸もその中に投錨したが、岸壁まではかなり遠いらしい。

 一夜明けると、今度はすばらしい晴天であった。周囲の山々は青々と樹木が茂り、名も知らない紅い花が所々に見られ、日傘をさした女の姿も一際眩しく見えた。雪の降っていた内地と比べ、余りに違いすぎる光景にまたまた夢を見ているのではないかと目を疑いたくなるくらいだった。

 ここで各部隊ごとに半数づつ二日間洗濯上陸を許された。街の中にある銭湯を開放して入浴をしたり、洗濯をしたり、街の婦人会からお菓子の接待もあった。入浴は名古屋の廠舎を出て以来だけに、全く文字通り命の洗濯だった。

 基隆の街はまったく支那人街で、大きな商店が軒を並べているが、その店の前が通路になっていて、雨が降っても傘無しで歩ける。越後の街の雁木通りと同じだ。商品は余り豊富ではないが、バナナ、パイナップル、砂糖キビなどがふんだんにあった。

 ここへ先発してきていた岩本軍曹が、スケッチブックを持っていて、綺麗に台湾風景を書いていた。俺も早速真似をしたくなり、文房具店で貧弱なスケッチブックと色鉛筆を買って船内でスケッチを始めた。これ以来、変わった風景や風俗をスケッチし続けてきたが、残念なことに最後の引き上げのとき、連合軍に取り上げられるというので全部焼いてしまった。

※1:中国およびその周辺特有の船の総称。特に中国の小型帆船は有名。

出動(三)

 基隆には三、四日の停泊で何も積み込まず、またもとの七隻の輸送船団と二隻の駆潜艇の護衛で、台湾海峡を南下することになった。基隆港を出た後、甲板から兵隊が一人海中に落ちたとかで、二回ほど同じところを旋回したが、暗夜のためわからぬまま通過してしまった。

 丸一日くらいの航海で船団は高雄港外に到着した。この辺りは波も静からしく、防波堤も何も無い全くの港外に大小様々な船が無数に碇を投じていた。我が船団もすぐに港へ入らず、その群れの中に投錨した。ここはもう南洋に近いだけに、直射日光はキラキラと眩しく、船内はまるで蒸し風呂のようだった。

 特に食事は大抵出来たての熱いものばかりなので、大汗をかきながら食べ、終わるとすぐに甲板へ逃れて涼をとった。風も無く、熱帯の太陽がギラギラ照りつけ、動かない船内はまた一層暑苦しかった。そんなある日、甲板上で涼をとっていると船員の一人が、

「ふかじゃ、ふかじゃ」

 といって甲板を走っていくので、後を追って海を見ると、なるほど三本もあろうかと思われる薄黒い魚が、船腹に沿って悠々と泳いでいる。一斗樽を鼻先でゴンッゴンッとやってから姿を消した。退屈凌ぎにはいい余興だった。

 二日ほど港外に停泊してから、船は港内に入ったが、港外の船団が余りに多かったので、港の中は狭すぎて窮屈な感じだった。ここで一日がかりで、高射砲、上陸用船舶や食料なども積み込んだ。その上、工兵隊なども乗り込んできたので、船内は一層狭苦しい感じになった。一日くらいまた上陸させてくれるかと楽しみにしていたが、とうとうそれは許されず、三度船団を組んで南下を開始した。高雄港に入る時、湾の入り口の民家の前で、大きな日章旗を振っていた女の和服姿が印象に残った。

 高雄港で積み込んだ食料はかなり豊富なものだったらしく、それからは船内の給仕は相当良くなった。海は全く穏やかで、小波さえ立たず、文字通り油を流したようだった。来る日も来る日も青黒い大海原と白い雲と僚船の姿が見えて、少しも船は進まないのではないかと錯覚を覚えるくらいだ。船団は高雄を出る時増強されたらしく、遥か水平線の彼方まで船が続いて見えた。何隻くらいあるのか良く分からない。

出動(四)

 退屈極まる航海がまた五日ほど続いた後、船団は仏印のカムラン湾に入った。ここは日露戦争の時、バルチック艦隊が寄港して休養をとった所だという。その入り口は山と山に囲まれた実に狭い海峡だったが、中は物凄く広い。その中にぎっしりとありとあらゆる種類の艦船がひしめいていた。その偉容はなんとも形容し難いもので、無敵大海軍の名に背かないものだった。この大艦隊がまさか二ヶ年余の間に全滅してしまうとは誰が想像したことだろう。

 カムラン湾停泊中に、一回半舷上陸を許されたが、陸に上がってみたというだけで町があるわけではなく、きれいな川も沼も無く、百姓部落の井戸水をもらって行水しただけだった。それでも、十日間も船上で暮らした後で踏みしめる大地のガッシリとした安定感はなんともいえぬ頼もしさだった。この部落民は支那系の人々で、黒づくめの木綿服に素足という極めて素朴なものだ。家屋などもまるで日本の山小屋か、畑の番小屋程度の粗末なもの、家財道具などもまるで無い様子だった。

 カムラン湾に何日くらい居たろうか。明けても暮れても船の上で、木もろくに生えていない仏印の山々と湾内に停泊している艦船を眺めて暮らすのは、実に退屈だった。そのうち、二月十五日にシンガポールの英豪連合軍が降伏したというので内地では大祝賀会が行われるという。全員武装して甲板に集まり、皇居遥拝の式を行い、少々のお酒と甘味品の下給があった。そしてその翌日、船は港を出た。三日振りで動き出した船上はそよかぜが吹き渡り、兵隊たちも生気を取り戻したようだった。湾外に出たところでおびただしい輸送船団と合流して大船団となり、それに護衛として第八艦隊といわれる巡洋艦数隻を含む大艦隊がついてきた。

 最後の寄港地を離れたのでもう機密の漏れる恐れは無いというわけで、師団の任務が発表された。それによると、師団は昭和十七年三月一日、午前三時を期して蘭領のジャワ島に敵前上陸し、英豪連合軍を殲滅するというのだ。そして現地についての気候、風俗等についての概略の説明が合った後、現地語であるマレー語の教育も行われ始めた。その時になって始めて各船に数人のマレー語の通訳官が乗り込んでいたことが分かった。

 大船団はジャワ島へジャワ島へとひた押しに進んでいった。途中、どこの基地から飛んでくるのか、日の丸も鮮やかな銀翼を張った海軍機の大編隊が、ごうごうと船団の上を通過して、南の水平線に消えていった。実に頼もしい限りであった。

 出港してから何日目か。水平線上にかすかに陸影を認めて兵隊たちは大喜びだった。船員の話ではアンナバス諸島の一部だという。海はますます静かになってきたが、暑さは一層苛烈になり、一時間も船室に続けて居られない。一日一度はきっとスコールがやってくる。その時ばかりはみんなで素っ裸になって甲板に飛び出し、体をびしょ濡れに濡らして喜び合った。

 これがどこか平和な新天地を求めての旅だったらどんなに楽しいことだろう。しかし現実は、敵がてぐすね引いて待ち受けている地域だ。

「海岸線まで鉄道が来ている場所へ上陸するのだから、おそらく列車砲などもあるだろう。この船団の三分の一は犠牲になる覚悟の上陸である。」

 と誰言うともなく言いふらされた。そのうち、敵艦隊が現れたという情報で、船団は回れ右をして北へ引き返すこと一昼夜、その間護衛の艦隊だけが全速前進をした。後で分かったのだが、このとき米豪連合艦隊との間でジャワ沖海戦が行われ、敵艦隊に大打撃を与えたのだった。そこでもう大丈夫とあって、再び船団は南下を始めた。この後退のため、三月一日の上陸が一日伸びた。

ジャワ島上陸(一)

 いよいよ明朝、蘭印政府の拠点ジャワ島へ上陸するという日、船団は二つに分かれて右と左に別行動をとり始めた。われわれの乗船隆南丸は右のコースに加わり、ジャワ島とスマトラ島との間にあるメラク湾に向かった。

 やがて日は没し、月は無く、全くの暗夜の海を船団は粛々と進んだが、いつの間にかエンジンを停止し、漂流の形となった。もちろん辺りは真っ暗で、僚船の姿も見えないが、遥か水平線の彼方に黒々と陸地らしいものが見えてきた。敵地に侵入を開始したのだ。

 すると突然、その陸地の一端がカーッと赤く照らされ、山の稜線がはっきりと見えたかと思ったらすぐにその光は消えた。間もなくドドーンという遠雷のような轟が聞こえた。しばらくするとまた、赤い光が空を焦がして消えては遠雷の轟を起こし、これが段々と間をつめて頻繁に起こり出した。

 船上でこれを眺めていた高級船員の話では、左のコースを取った本隊が、ハンタム湾で敵と交戦をし始めたのだという。兵隊たちは、自分等に襲いかかるかもしれないあの戦闘の恐ろしさを未だ知らない者が多いので、まるで遠くの烽火でも見ているようにはしゃいでいた。

 しかし、こちらの船団でも着々と敵前上陸の機は熟しつつあった。漂流していると見えた船は、ごく僅かづつ忍び寄るように行動を続けていたらしく、すぐ目の前に敵地の山々が黒々と横たわっているのがはっきり見える位置まで来た。甲板では上陸用舟艇を降ろすクレーンの活動が始まり、我々にも上陸準備の命令が出た。三八式騎銃と実包三十発程が唯一の武器であったが、戦闘員としての支度は出来上がった。しかし、今から始まるであろう上陸作戦で、命を落とすかもしれないという緊迫感はどうしても湧かなかった。

 そうこうしているうちに、着々と上陸次第は近づき、まず第一歩兵隊を乗せた上陸用小発が一斉にスタートして敵地へ向かって全速前進、白い航跡を残して闇に吸い込まれていった。五分、十分、二十分。上陸地点での銃声を、今か今かと誰もが固唾を呑んで待っていたが、何の音沙汰も無い。やがて三十分以上も過ぎてから、舟艇隊が船腹に戻ってきて、船上の誰にともなく、

「いいところだぞ。敵は逃げてしまって一人も居ない。」

 と大声で怒鳴った。それを聞いて、やれやれ無血上陸かと思った途端、張り詰めていた気分が潮のように引いていき、船上は生まれ変わったようにざわめきだした。安心と同時に空腹を感じるものだが、あちこちで携帯用の飯盒を開けてがつがつ食い出す音がひとしきり続いた。