昭和十六年十月十日、この日はちょうど宿直に当たっていたがそろそろ寝ようと思っていた。
午後の十時頃、看守係の佐藤巡査が(※1)保安係の部屋で書類整理をしていた僕のところへ来て、
「部長さん、奥さんだか何だか女の人が来ましたよ。」
と言うので事務室を出て行くと、その時既に妊娠八ヶ月の妻が蒼白な顔をして着物だけはよそ行きに着替えて突っ立っていた。
それを見て、
「あーあ、とうとう俺にもやってきたな。」
と直感した。妻は小声で一通の手紙を差し出した。見ると、
「十八日召される。十五日帰れ。 富」
とあった。その頃は支那事変が長期戦の様相を呈し米英の積極的な干渉により前途は暗く、物資の配給制度が始まっていて、皮革、石油、米などがぼつぼつ不自由になり、衣料にはスフ(※2)が混紡され始めていた。
それでもまさか世界戦争になろうとは思っていないので、二年も支那大陸で戦えば帰れるものと楽観していたようで、俺の男の顔が立つという優越感と未知の土地へ行けるという好奇心とで余り悲壮感は無かった。
しかし、赤紙が来たうえは再びこの職場へ戻れるかどうか分からないので、急に宿直勤務が嫌になり、坪川警部補にその旨申し出て机を整理し、その夜のうちに平岡町の借家に帰った。
妻は先に帰っていて床を敷いていたが、いきなりしがみついてきて胸に顔を押し付け、声を殺して泣いた。その借家は織物工場をベニヤ板で三つに仕切っていたので、隣の部屋には話し声さえも筒抜けだったからだ。(※3)
翌日には早速運送屋を頼んで、家財道具一切の荷造りをした。更に署の送別会に望んだり、なんやかんやでなかなか忙しかった。東京からは剛和、久孝、富寿が別れに来てくれた。本当に嬉しかった。
いよいよ十五日には郷里へ引き上げることになったが、時局重大の折り、見送りは親兄弟といえどもまかりならぬというきついお達しがあったので町内をあげてののぼりや、日の丸を押し立てての見送りは無かったが、署員は八王子駅まで見送ってくれた。その中には大善寺の小使いをしていた新潟県柏崎出身のお婆さんの姿もあった。上野駅では、千住の遠藤さんが駆けつけてくれたのでお別れを言うことが出来た。
浦佐で一泊、親類家の宴を受け、更に東村の実家で親類一同の送別宴があった。十月十七日の朝、村の鎮守様にお参りをし、村中を一巡して村外れまで妻や親戚の人々の見送りを受けていよいよ最後の別れを告げたが、放心したような妻の姿が哀しく見えた。
その日は丁度、県庁まで用事があるといって登太郎さんが同じ列車に乗り合わせて新津まで着いたが、酷い雨降りだったので会津若松を出た列車がスリップして進まず、その夜は郡山駅前の旅館に同じ仙台の東部二十五部隊へ入るという衛生上等兵とその見送りらしい男の人二、三人で同じ部屋に泊まった。
翌日は一番列車で仙台に着き、駅前の広場に出張していた東部二十五部隊の兵士の案内で宮城野原の騎兵第二連隊へ入った。
※1:祖父は警察官だった。
※2:ステープルファイバーの略称。昭和10年代に木綿の代用品として広く使用された。人造綿花。
※3:織物は東京都八王子市の代表的な産業だった。