近代史 中国関連歴史資料
同仁会は明治35年の設立以降、中国への医師の派遣や病院・医学校の建設など、対中医療事業を中心に活動を行っていた。南京占領の翌年、同仁会中支派遣診療班35名のメンバーは南京市民に無料で種痘とコレラの予防注射を開始し、多い日には5000人の南京市民が殺到した。 ※昭和13年5月1日朝日新聞社撮影pic.twitter.com/YIUpWU1KAh
無料予防注射の張り紙を見る南京市民。南京占領の翌年の話です。普通の考えて、仮に日本軍に虐殺などの悪い風評があれば誰が敵国の医療チームを信頼して注射など受けるだろうか?
#普通に考えてができないのがバカ左翼
※昭和13年5月1日 朝日新聞社 岡特派員撮影pic.twitter.com/SRvsOaVrqV
敵前逃亡が常識の中国軍には督戦隊(逃亡する前線兵士を後方から銃殺する部隊)が存在し、第一次上海事変の際には第十九路軍督戦隊が退却する自軍の第八十八師の2個連隊を全滅させた記録が残っている。 ※上海並満洲事件ニ関スル新聞発表 昭和7年2月28日 国立公文書館 蔵pic.twitter.com/WWNSCHgDwQ
南京戦を含む支那事変を通じて督戦隊がどれだけの自軍兵士を殺害したのか知らないが、機関銃で一斉掃射するイメージで支那事変の戦史を読み解く人はこのような特殊事情も考慮する必要があると思うのです。中国兵の死因は日本軍であるとは限らないのです。 ※同上 植田師団二十五日戦闘情況pic.twitter.com/imj42GsS01
張作霖が率いる中国軍奉天派、第15旅隷下の督戦隊部隊旗。南京戦でも督戦隊の存在は確認されているのだが、南京大虐殺とやらを中国側が主張する時に督戦隊についてはなぜか触れられない。※1929年の中ソ紛争でソ連軍に鹵獲されたもの。pic.twitter.com/GicDyhOtLh
【挹江門事件】昭和12年12月12日夜の南京戦において、敗走して挹江門を通り抜けようとした中国国民政府軍87師、第88師および教導総隊の潰走兵と、退却を阻止する督戦隊である国府軍第36師212団とが衝突して双方が発砲した結果、約1000名の中国軍兵士が死亡した事件。 ※日本軍が中国側に撒いた宣伝文。pic.twitter.com/n5d6p34utH
当方は便衣兵(捕虜の扱いは不要)の摘出過程で現地処断が行われたことを否定しないが、中国側主張の大虐殺とやらは否定する立場。画像は大虐殺とやらの最中の占領7日後、1937年12月20日撮影の南京市内。 ※「南京市民と楽しく会話する日本兵ら」支那事変写真全集1938年刊pic.twitter.com/Y0bJljncxs
便衣隊は交戦者たる資格なきものにして害敵手段を行うのであるから明らかに交戦法則違反である。その現行犯者は突如危害を我に加うる賊に擬し、正当防衛として直ちに之を殺害し、または捕えて之を職律犯に問うこと固より妨げない。 ※戦時国際法提要 上巻 1943年 法学博士 信夫淳平 著pic.twitter.com/qnI3ULJ1T1
「直ちに之を殺害し、または捕えて之を職律犯に問うこと固より妨げない。」 戦時国際法に基づく当時の常識なのだが、対象が一般市民に偽装していたことから現代においてそれがあたかも民間人の虐殺であったような世論誘導が行われている。当然だが日本軍が便衣隊を組織して殺されても文句は言えない。
便衣兵には捕虜となる資格がありませんから投降後も軍事目標です。軍規に照らすと、便衣兵と相対している状況では敵前なので相手を倒さなくてはなりません。彼らは身の安全が確保されると軍服に着替え、武器を持ち戦列復帰します。戦争の実態を勘違いして、このあたりを勘違いしている人が多い。
南京攻略戦で杭州方面から南京に進軍した第114師団の便衣兵に関する記録。梅渓鎮は南京の南南西110km、水口鎮は南京の北北東40kmの地点。 ※戦時旬報 第9号 昭和13年自1月20日至1月31日 第114師団司令部 防衛省防衛研究所 蔵pic.twitter.com/IeQ3hVMxLA
毎日新聞記者が南京市中山路で撮影した、避難民の中から摘発された便衣兵。 画像の左に少年が写っていますが、中国兵は戦列離脱して家族で逃亡する例もあり不自然ではありません。 ※毎日新聞社 1937年12月16日撮影 タイトル「避難民の中から発見され連行された中国兵」pic.twitter.com/4kNq3NWTle
広東省広州市増城で捉えられた中国少年兵。15歳とのことだが幼く見える。こうして見ると前ツイートの少年が現役兵士として日本側に選別された可能性もある。 ※毎日新聞社 1943年10月23日撮影pic.twitter.com/8FyWMdlHdU
国民党の少年兵と少女兵。このような現役兵士が便衣兵として市民に紛れ込んでいたのなら、日本軍による摘出作業は非常に困難を極めたと考えられる。pic.twitter.com/hjdr0YntiY
中国の少年兵。彼らは軍事訓練を受けたプロであり、日本軍はこのような敵とも戦っていた。現代人が子供を見る感覚で彼らを見るべきではない。 ※第14師第42団所属の12歳の少年兵。便衣姿に注意 昭和19年11月23日(画像上) ※ビルマ戦線に従軍中の新六軍所属の10歳の少年兵 昭和19年12月5日(画像下)pic.twitter.com/DUxSzDivb0
ただの山賊ゲリラに過ぎなかった共産党は国民党政府から軍費と装備を支給され「八路軍」と「新四軍」になり、国民党軍として日本と戦ったのが史実。抗日の主人公として大きな顔をしているのは間違い。現在も歴史を捏造し続けているのは中国。pic.twitter.com/DYJzBqmekX
国民党軍軍装の鄧小平、朱徳、林彪と青天白日の軍旗を持った八路軍兵士。帽子は中華民国国章の青天白日徽章。pic.twitter.com/wmPi4XclYz
八路軍指揮官 朱徳の給料は国民党から月額600元。 ※内閣情報部 昭和13年7月23日 情報第3号 7月20日 漢口UP新聞電報放送 朝鮮総督府逓信部傍受 国立公文書館 蔵pic.twitter.com/SlDS0PxzgG
人民日報が初めて「南京大虐殺」を解説したのは1982年8月。戦後の中国刊行物での記載をみると、中共中央文献研究室編纂『毛沢東年譜』での1937年12月13日欄には、「南京失陥」(南京陥落)とあるだけで、全9冊で6000ページ以上あるこの年譜では「南京大虐殺」に一言も触れていない。
昭和20年4月25日に朱徳が書いた抗日戦争の総括となる軍事報告「解放区の戦場を論ず」においても、南京事件に関する内容は見ることができない。数万人の大虐殺なら第一に記録されるはずなのだが、無いものが責任文書である軍事報告として書かれることは当然ないのだ。
逆に現実の事実として事件があったのなら、抗日戦争の総括として朱徳の下に情報が上がって当然である。軍事報告というのは単なる日記綴りとはわけが違う。
「教科書には嘘は書かれていない」
多くの人が誤信する原因なのだが、日本の歴史教科書から虚偽に基づいた話が消えるのはいつの日なのだろうか。ヨタ話の製造元である中国ですら30万人とされている被害者数がアメリカでは40万人として教えられている。#南京事件とやらpic.twitter.com/wWkNeJvGAQ
1962年生まれで北京大学を卒業した石平さんは「南京大虐殺」とやらを中国の学校で学んでいない。後年に創られた物を日本で教える必要はない。
石平「南京大虐殺なんて大嘘!学生時代に教わってない!」次世代の党 http://nico.ms/sm25105432 #sm25105432
1953年生まれの中国の方も、1955年生まれの中国の方も「南京大虐殺」とやらを学校で学んでいない。繰り返すが、後年に創られた物を日本で教える必要はない。pic.twitter.com/bBoI1gn7dQ
普通に考えておかしいものはおかしい。そんな大規模な虐殺があったなのなら、被害者遺族だけで数百万人になるだろう。戦後、被害者デモも無ければ遺族会もない。バカ左翼はこんな素朴な疑問ですら考えようとはしない。#南京大虐殺pic.twitter.com/c3J1Y04jh2
南京に先祖代々住んでいる人ですら知らない、聞いたことが無いというトンデモ話が1980年代以降に急速に中国政府により悪意で広められ、世界中で信じられていること自体が異常なのだが、同じ日本人でありながらそれを信じてやまない人間がいることが自分は情けなく思う。#南京大虐殺とやらpic.twitter.com/hDuFQDXiFG
いわゆる「南京大虐殺」に関するZFさん @ZF_phantom のブログ。史実に基づくしっかりした内容と読む側に配慮した編集度の高さには頭が下がります。要約版から各論にリンク移動できます。
南京大虐殺の真相(要約版)http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/eaacb2fee7e20c9adc4799020776c9d1 …
中国の学生はどのような教育を受けたのかは知らないが、南京市内を戦闘行為ではなく破壊して廃墟にしたのは退却する国民党軍です。当時の様子を外国の記者が海外報道して、日本でも報道されている。 ※日本軍が南京入城する前の昭和12年12月9日、10日付け朝日新聞pic.twitter.com/U3P1OGU0rQ
戦線後方記録映画「南京」 。撮影スタッフは南京陥落の翌日、昭和12年12月14日に南京に到着し、昭和13年1月4日まで撮影。市外に避難していた南京市民が続々と居住地に戻り、日本軍が住民の再登録のために発行した「安居の証」を申請し、受け取っている。 ※「南京」 1938年 東宝文化映画部pic.twitter.com/DtXttHVjpC
日本軍が発行した安居証の総数は16万だが、数万人はいたであろう10歳以下の子供と一部の高齢の老婆は含まれていない。南京安全区国際委員会秘書であった金陵大学の社会学教授だったスマイスは昭和13年3月の人口調査結果を22万1150人と報告しているのだが、1割から2割の未計上があるとも報告している。pic.twitter.com/fwulI1v9fL
「普通に考えて」という言葉が大好きな六衛府なのだが、南京陥落2週間後の元旦の風景を見ていただきたい。池上のクソ番組とは違い、演出の無い子供たちの表情がすべてだと自分は考えている。平穏な日常を取り戻した南京城内で爆竹を鳴らしても誰も咎められることは無かった。pic.twitter.com/0bBPGSctot
先の映像に少年が写っていましたが、陥落から19日目で子供が城内を単独行動できていたこと(虐殺が事実なら親が出しません)、鑑札をもらう人々に体格のいい青年も含まれていたこと(被虐殺の中心とされた人々)、演出に関係なくいろいろな事実が見えてきます。※映画の冒頭部に出されたテロップpic.twitter.com/jwiAY1Fqz9
たしかに現代において世界の歴史に悪い意味で残されそうにある。 「この映画を我々の子孫に贈る」と書かれている。 何かを暗示しているように思えてならない。この映画は思想の左右を問わず、見ておくべき映画だと自分は考えている。 ※昭和13年正月 南京城内pic.twitter.com/SykSjo6dBU
南京攻略戦直後に南京に入城し犠牲者追弔会を開催した浄土真宗本願寺派 大谷光照 第23世法主の証言「虐殺を見ておりませんし、噂も聞きませんでした。もうその時は戦闘は全く終息していて虐殺の起るような環境ではありませんでした。日本軍は城内城外に適宜宿営し、のんびり休養をとっていました」pic.twitter.com/liKxjAlCcM
軍人ではなく、敵味方関係なく現地に赴き、犠牲者の弔いをしようとした宗教家の証言。信じるのも信じないのも人それぞれ勝手だが、こういう証言もあったのは間違いのない事実である。 ※『南京事件 日本人48人の証言』小学館文庫 ※浄土真宗本願寺派 大谷光照 第23世法主pic.twitter.com/UXcX7DHMr8
日本軍が建立した中国軍無名戦士之墓に黙祷をささげる中国兵捕虜と「捧げ筒」の直立不動と挙手の敬礼をする日本軍将兵。武昌にて撮影。 ※昭和13年11月22日付け 同盟ニュース号外pic.twitter.com/RXlj0Lr7aO
昭和13年、山東戦線の彰徳で中国無名戦士の墓標を建てて慰霊祭を行う日本軍将校(画像上)、昭和13年、北京郊外の中国人戦死者墓地を参拝する日本軍将兵(画像下)。pic.twitter.com/Q0BPmY3WUU
1962年生まれで中国四川省成都市出身、北京大学哲学科を卒業された石平さんは学校で南京大虐殺とやらを一度も学んでいないし、先祖代々南京に住んでいる南京出身のクラスメイトも知らないと言っていたと証言している。これでも中国政府の主張を信じる日本人がいること自体が情けない。pic.twitter.com/9adxHmCG3B