平成が終わろうとしていますが、私が育児に忙殺されていたころからまったく変わらない、まったく進歩していないものがあります。
それは育児する際に何気なく語られる「男の子だから」「女の子だから」という言葉です。
自分の経験を振り返ってみても、ママ友(当時はなかった言葉です)とのつながりは、子どもに関するちょっとした困りごとをグチったり相談したりすることでしたから、保育園の帰りなどによくおしゃべりしたものです。
そんなとき、ママ友から決まって返ってくるのが次のような言葉でした。
「だって男の子でしょう? そんなもんよ」
「うちなんか二人とも女の子だから、男の子のことはよくわからないし」
「やっぱり女の子よねー、男の子とは全然違うわー」
「男の子ってやっぱりママが好きでしょ、うらやましい。その点うちなんか女の子だからなんだか寂しくって」
そのたび、私は曖昧な笑みを浮かべるしかありませんでした。
むきになって反論すれば関係が悪くなるし、世間がそのような見方をするだろうということくらいわかっていたからです。
子育てに関して自分に課していたことがいくつかありますが、そのうちのひとつが「男らしさ」「女らしさ」の型にはめないということでした。
「男の子は泣いちゃいけない」などとは絶対に言いませんでしたし、「女の子らしくしなさい」は禁句でした。
私自身は幸いにも親から「女らしさ」を強制されたり「女だから」と言われたりした記憶はありませんが、学校や社会において理不尽さを感じさせられたことや、女性として生まれたから背負わなければならなかったことがあまりにも多かったのです。
だから生まれてくる子どもには性別による区別・差別は絶対にしない、社会が変わらないならせめて親だけはそうしようと思ったのです。
そして、息子には「やさしさ」を、娘には「強さ」をと期待して子育てしたつもりですが、本人たちにとっては果たしてどうだったのか、40歳を過ぎた長男と38歳になった長女には、怖くて尋ねたことはありません。意外と「そんなこと覚えてないよ」とさらりと答えるのかもしれませんが……。
こんな私でしたので、子育て中に周囲で飛び交う「男の子だから」「女の子だから」はけっこう癇に障るものでした。
しかし鮮明に覚えているのは、そう決めつけている母親たちのなんともいえないすっきりとした表情でした。
彼女たちは、混沌とした育児、毎日のように生じる不安を、「男の子」「女の子」という単純な二分法によって腑分けし、理由付けできたという勝利感に満たされ、世界が明晰になったという安心感で満たされているかのようでした。
そんな育児期もはるか時の彼方に去り、約半世紀が過ぎた今、あのような決めつけは減ったに違いない、それが進歩というものだと信じていました。
男らしさや女らしさを強調することは性差別につながるし、いわゆるジェンダー規範の押し付けになることくらい、多くの人が理解しているはずでしょう。
たとえそれが表向きで、建前だけだったとしてもです。
私たちの世代がよく用いた言葉のひとつが「歴史の進歩」です。自民党政権が長期にわたり続いていますが、男女共同参画社会という標語や理念は生まれました。
児童虐待防止法(2000年)やdv防止法(2001年)が制定され、政策もそれなりに充実しつつあります。
それは間違いなく歴史の進歩ではないでしょうか。2018年の今、いくらなんでも「男の子だから」「女の子だから」という理由付けを親が受け入れるはずがない、そう信じていました。
しかし、それは甘かったと思い知らされたのです。