死ぬとき幸せな人の7つの共通点と、死ぬときに後悔する10のこと
『「死ぬとき幸福な人」に共通する7つのこと』を読んだ。末期がんなど、治る見込みのない患者の終末ケアをする医師が書いたものだ。「幸せに死ねるコツみたいなもの」は分かるし、その主張のほとんどには賛成だが、美談バイアスに陥っていることが気になる。
まず、本書の主張。死ぬとき幸せな人の7つの共通点は以下の通り。
死ぬとき幸せな人の7つの共通点
- 自分で自分を否定しない
- いくつになっても、新しい一歩を踏み出す
- 家族や大切な人に、心からの愛情を示す
- 一期一会の出会いに感謝する
- 今、この瞬間を楽しむ★
- 大切なものを他人に委ねる勇気と覚悟を持つ
- 今日一日を大切に過ごす
「終末ケア」として扱われる患者のほとんどは、病気がかなり進行している。身体の自由が利かなくなり、トイレや食事も自力でできない場合がある。仕事を生きがいにバリバリやってきた人ほど反動が激しく、無力感に囚われるという。
そして、「人に迷惑をかけるくらいなら死ぬ」「役に立たないこの人生を早く終わらせたい」と願うようになる。競争社会を勝ち抜き、生産性に価値を認めてきた「今までの人生」が丸ごと否定されたように感じるからだろう。アイデンティティを失った患者は、最期まで自分や周囲を責める人もいるという。
そうした患者の声に耳を傾け、寄り添うのが終末ケアになる。そしてセラピーなどを通じて自己肯定感を増し、周囲とのつながりのなかで心を開いてもらい、この世を去るまでの日々を穏やかに過ごすのを「幸せ」とする。
上の7つは、そうした「幸せ」な患者に共通することだという。
幸せ=この瞬間を楽しむ
これは同意。死ぬときに限らず、穏やかで前向きに生きていくために心がけたい。特に★「今、この瞬間を楽しむ」ことが重要だ。ブッダが言ったとされる、この言葉は死ぬまで使える。
過去にとらわれるな
未来を夢見るな
いまの、この瞬間に集中しろ
そして、身体の自由が利かず、病の苦しみや死の不安に苛まれているとき、どうしたら「今を楽しむ」「今に集中する」ことができるか? この答えも著者に同意する。
それは、「選ぶ」ことだ。たとえわずかな選択かもしれないが、自分が好むほうを選ぶこと、これが今を楽しみ、今に集中するためのコツである。
たとえば、お昼に何を食べようか? 外食するか、自炊するか。和洋中のどれにするか。ご飯ものもいいけれど、やはり麺類がいい。二郎にするか、天一にするか。こってりにするか、あっさりにするか。
そのときの気分や体調、元来の好みに合わせて、「いまのわたし」に近いほうを選ぶこと(選べること)、これが楽しむためのコツである。人生を生きるというのは、他らなぬ「わたし」の人生を生きることであり、その本質は、わたしの「好き」を選ぶことである。
これは、ヴィクトール・フランクルの言葉にも通じる。ナチスの強制収容所の大量虐殺を生き抜いた言葉だ。丸刈り・個性の剥奪、強制労働、飢え、飢え、飢え、ガス室、「世界はもうない」という感覚の中で、どうやって生きることができたのか。
あらゆるものを奪われた人間に
残されたたった一つのもの、
それは与えられた運命に対して
自分の態度を選ぶ自由、
自分のあり方を決める自由である。
健康を損なうと、「好きを選ぶ」幅が狭くなる。なにもかも奪われたとしても、「わたし」の感情を奪うことはできない。これは、アウシュヴィッツでもそうだし、人生最期のひとときも然り。誰か他人の人生でなく、強制された生でもなく、わたしの人生を生きるということは、わたしの態度、感情、「好き」を選ぶことなのだから。
「幸せ」を判断すること
「穏やかで前向きに生きていくコツ」「今この瞬間を楽しむ」「人生とは選ぶこと」......ここまでは同意する。だが、著者が陥っているバイアスが見えるところに立つと、まるで違う結論が出てくる。
著者はホスピス医であり、相手は重い病気で死期が近い人である。病苦に押しつぶされ自棄になり、感情的・攻撃的な人もいるだろう。そんな人に自尊心を取り戻し、穏やかに逝けるようにする。かつて宗教が担った役割であり、現在はセラピーが受け持つ担当である。
その立場からすると、平穏さを取り戻した患者こそが「幸せ」な人になる。「病苦で身体の自由が利かない自分」「もう長くない自分」「人に迷惑をかける自分」を受け入れ、残された日々を平穏に過ごすことを望み、抗い変えようとする行為をあきらる。そんな患者を「幸せ」だと見なす。
わたしは、これは傲慢だと考える。
終末医療で最期を迎える人は、これからも増え続けるだろうが、その恩恵を受ける余裕がない人もいる。また、病苦を受け入れず、自分も変えたくないと願う人が、さまざまな抗い方で亡くなっている(自死含む)。後悔の最中で折れてしまう人もいる。そんな人たちへの視点が抜けている。
そうした人は、その生き方を「選んだ」もしくは「選ばざるをえなかった」のであり、それは結果からすると平穏でも安らかでもない。だが、だからと言って、それを「幸せ」の範疇から外すのは、傲慢以外の何物でもない。幸せか、幸せでないかは、その人が決めることなのだから。
この視線は、ある患者の評価に如実に現れる。遺産で遊び暮らし、家庭を顧みることなく生きてきた男が、肝臓がんで余命わずかと宣告された。とたんに家族も遊び仲間も一斉に離れたという。「医療スタッフに強気な姿勢を崩さず、最後まで心を開くことはなかった」と書いており、相当キツいこと言われたのかもしれぬ。
だが、そんな彼を「心の奥底では孤独感と寂しさを抱えていたのではないか」と想像し、人生の最終段階で、人から見放されてしまうことが最大の不幸であり悲しみだと結論づける。大きなお世話である。
この視線は、西部邁の入水自殺にも向けられる。西部の『保守の神髄』の次の一節を引き、これを批判する。
結論を先に言うと病院死を選びたくない、と強く考えている。おのれの生の最後を他人に命令されたり弄り回されたくないからだ。
西部が(ほう助されながら)自殺したのは、自分の生も死も自分でコントロールしたいという強い気持ちがあったからだという。さらに、最後まで完璧な自分でいたい、人生の幕を自分で引きたいという人がこれからも増えてくるだろうと案じる。
そして、人間は完璧存在ではなく、「立派な死」「潔い死」は、ほとんど存在しないと主張する。人生の最終段階で人の世話になったり、人に迷惑をかけたりするのは当たり前で、仕方のないことだという。
病気だろうと健康だろうと、誰にも迷惑をかけずに生きることはできない。ただ生きているだけで、誰かしらの手を煩わせている。ただその程度の多少の問題である。だが、どうやって死ぬかについて口をはさむのは大きなお世話である。
後悔なしに死ぬ人はいない(生きる人も)
もちろん、手厚いケアの中、安らぎと感謝に包まれながら死んでゆくのは理想だろう。だが、少なくともわたしは、絶対そうはならない。あれ読んでいない、これ食べてない、もっとセックスしたかったなど、後悔に包まれ毒と呪詛を吐きながら死んでゆくのは、火を見るよりも明らかだ。
著者と同じく、看取り医をする人が書いた『死ぬときに後悔すること25』がある。終末医療を受けている患者に、「いま、後悔していることは何ですか」という残酷な質問を投げかけ、得られた答えをまとめたものである(レビューは「死ぬときに後悔すること」ベスト10)。
ベストテン(ワーストテン?)はこれだ。
第10位 健康を大切にしなかったこと
第9位 感情に振り回された一生を過ごしたこと
第8位 仕事ばかりだったこと
第7位 子どもを育てなかったこと
第6位 タバコを止めなかったこと
第5位 行きたい場所に行かなかったこと
第4位 自分のやりたいことをやらなかったこと
第3位 自分の生きた証を残さなかったこと
第2位 美味しいものを食べておかなかったこと
第1位 愛する人に「ありがとう」と伝えなかったこと
わたしが死ぬとき、第2位、4位、9位で激しく後悔するだろう。後悔のないように生きたいと願い、そう実行しているが、どんなに生きたとしても、必ず後悔するだろう。
死を前にして後悔しない人はいないのに、安らぎと感謝の念をあらわにするのであれば、それは、かつての健康だった自分から、そうでない生活を受けいれた自分になったに過ぎない。さまざまなセラピーや緩和治療を通じて、「扱いやすい患者」に変化しただけである。
医療スタッフに心を開かず、強気で扱いにくい患者のまま死んでいった人を、孤独だとか不幸扱いするのは残念に思う。「強気で扱いにくい患者」は、それまでの価値観や判断基準を変えないことを「選んだ」のであり、それはその人の生き方のだから。
死に方を選べ
もういちど、「幸せ」に戻ろう。
幸せとは何か。今この瞬間を楽しみ、集中することであり、そのためには自分の「好きを選ぶ」ことである。
そして、同じ理由により、「死に方」も選びたい。
生がそうであるように、死を選ぶ自由こそが幸福であると、わたしは考える。自分の意思がはっきりしているうちに、自分で選んだタイミングで、自分の生を終わらせる。これが、最高の自己実現だと考える。
「心臓の鼓動を止めない」ことを至上目的とし、さまざまなチューブにつながれて、栄養と薬剤を注入され、排泄物は取り除かれ、身動きもとれず、朦朧とした意識で天井を見上げるだけの「残り時間」は、御免被る。
これは、「他人に迷惑をかけたくないから」ではない。多かれ少なかれ、生きてるだけで迷惑をかけているのだから。また、「生産性のない人生は不毛」だからでもない。生産性至上主義者は寝たきりになったら何を思うのだろうと意地悪く思うのだが、わたしはむしろ生産性でしか測れない人生のほうが残念だと思うので。
生き方を選べるのなら、死に方も選びたい。生き方も選べないのなら、どうか、死に方くらい選ばせてくれというのが本音である。
よく生きることは、よく死ぬこと。よい死にかたで、よい人生を。
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