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2018-10-20

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・毎日、ぼくは「予定表」というものに
 合わせて動いている。
 ぼく自身がそれをつくるとややこしいことになるので、
 倉持さんが、あれこれのやりくりをしながら
 数ヶ月分くらいのスケジュールを表組みにして、
 毎日の変更分を足し引きして、新しいものを送ってくる。
 じぶんの持っている「ほぼ日手帳」には、
 よほど細かい予定のある特別な日でなければ記さない。
 ぼくの予定は、じぶんで管理してはいけないのだ、
 さまざまな不都合や不愉快が、頻繁に起こることになる。

 ほんとうは、こんなふうに「予定表」に合わせて
 人が一日の行動を決めておくというのは、
 あんまりいいことじゃないとは思っている。
 枠(ワク)なり型(カタ)なりが決まっていて、
 そこにじぶんをはめて、なにかの完成とするというのは、
 降りかかってくる偶然性や意外性を許さないので、
 どうしてもおもしろみに欠ける。
 しかし、このやり方のほうが、
 わかりやすくて、手早くできて、まちがいが少ない。
 そして、型にはまっていくほうの人間の側からは、
 あんまりものを考えなくてもいいという利点がある。

 ぼくにとって、一日一日の行動を指示されて、
 それについてあんまり考えることなく、
 決められた予定に合わせて生きていくという方法は、
 実はじぶんから望んでやっていることでもある。
 そうすることによって、息が詰まりそうな
 ひとつひとつの「やるべきこと」について、
 「考えなし」でいられるからである。
 予習復習の必要なことも予定のなかにあるのだけれど、
 それは覚悟して、原稿書くようなつもりでやっておく。
 球を投げるところから仕事のはじまる投手ではなく、
 投げられた球を打つバッターの役で、レスポンス的に
 仕事にかかれるというのは、やや気楽なものなのである。

 しかし、枠や型にはまらない自由な発想をする場面は、
 予定された時間の隙間から「盗み出す」か、
 だれもいない時間に、勝手につくり出すしかない。
 ゆとりがないと、こっちの時間が失われるということだ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
夜中にチャーシューをつくって、少しの自由を味わったぜ。


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