「心臓がバクバクして…」つんく♂が妻と貴重2ショットで明かす がん闘病とハワイ移住

  • 妻・加奈子さんとの出会いは一目惚れからのお見合い
  • 近大の入学式で声帯摘出を公表「すごくすごく励まされた」
  • つんく♂が一番の人生の転機と考えることは?

「つんく♂さん、今そちら夕方かと思いますけれども、そっちの気候なんか晴れっぽくていいですね」という番組MC・坂上忍の問いかけから始まった「直撃!シンソウ坂上」。

この日、つんく♂は移住先のハワイにいた。
つんく♂は喉頭がんが発覚し、声帯を摘出した後、コミュニケーションの多くはSNSで行っている。

「今日は良い天気です!ただ、こっちも台風の影響ありです。雨が多いです」とテキストを返すつんく♂。

10月18日の放送では、つんく♂のハワイ移住生活に独占密着し、なぜ移住を決意したのかを直撃。そして生活を支える妻にも心境を聞いた。

2人の馴れ初めは“お見合い”?

1ヶ月前、ハワイで待ち合わせをしたつんく♂に同行すると、旅行代理店JTBのホノルル支店に辿り着いた。事務所の社長を務めるつんく♂は、ハワイではマネージャーに頼らず自分で仕事の約束を取ることもあるという。会議は、パソコンに文字を打ち込みながら行う。

今回の会議は、ハワイの音楽フェスティバルでライブをする、加山雄三さんとの共演についての最終打ち合わせ。
つんく♂が観客を前にライブで演奏するのは2013年以来、5年ぶりだ。
久々にステージに立つ心境を聞いてみると、「1曲だけなんで一瞬だとは思いますが。でも、楽しみたいですね」との答えがあった。

打ち合わせが終わると、自らが運転する車で移動し、やってきたのはワイキキにあるイタリア料理店。そこにいたのは、つんく♂の妻、加奈子さんだった。

2人が結婚したのは、今から12年前の2006年、そこには意外な馴れ初めがあった。

「お友達の芸人さんのところにメールが来て、私を紹介して欲しいみたいな事を言われて。え?スカウト?とか思っちゃって(笑)。でもそうではなくて、真剣にお付き合いをしたいのでお見合いをしたいってことで、それからお付き合いが始まって」と話す加奈子さん。

つんく♂は福岡のローカル番組に出演していた、元モデルの加奈子さんに一目惚れをして、知人に連絡先を聞き、直接電話したという。

「初めは本物か偽物かもわからなかったし、電話をして初めて『あ、本物なんだな』と思って。じゃあ本物だったらよろしくお願いしますって」

結婚当初は「記憶が飛ぶほどの忙しさ」

つんく♂は1992年、大学の同級生と結成した『シャ乱Q』でデビュー。その後、1994年に「シングルベッド」 、その翌年には「ズルい女」が、たて続けにミリオンヒット。年末には紅白歌合戦に初出場し、スケジュールは瞬く間に埋まっていった。

1995年には、伝説のオーディション番組「ASAYAN」がスタート。この番組から生まれたのが今年20周年を迎える国民的アイドル『モーニング娘。』だ。『モーニング娘。』の総合プロデュースもつとめ、“音楽プロデューサー”という言葉がつんく♂の代名詞となり、さらに数々のアイドルユニットをプロデュース。手がけた作品の総売上は約3800万枚以上。
その頃は記憶が飛ぶほどの忙しさだったという。

「プロデューサーとして年に100曲くらい作り、その中の70曲くらいは、自分で仮歌のレコーディングをする毎日が続いていた」

そんな超多忙な日々の中で結婚した結果、加奈子さんは寂しい新婚生活を送ることになる。

「基本的に家にいなかったですね。ほとんど毎日、朝家を出て、夜中まで仕事して帰ってきて寝て、また朝起きて出て行って、夜中帰ってきてみたいな状態だったので、全然一緒にいられる時間がなかったですね。あんまりよく知らなかったです、彼のこと(笑)。
子どもができてから、少しずつお休みを取るようになって、変わりましたね」

ハワイに移住を決めたきっかけ

歌手として、そしてプロデューサーとして多忙を極めたつんく♂。そもそもハワイに移住を決めた理由は何だったのだろうか。

「クリエイティビティな事をしたかったし、日本からでなく、別の視点で音楽とかエンタメを体感出来たらというのもあったかな。100曲作り続けてたら、脱出できなかったと思う」

1年で100曲を制作するという多忙な生活から脱却し、よりクリエイティブな仕事をするためにハワイ移住を決意したというつんく♂。坂上が「ハワイに行かれてまさかそんなに書いてないですよね?」と尋ねると、今でも毎年30〜40曲は作り続けていると言う。

しかし、12年間の結婚生活を続ける加奈子さんは、ハワイで暮らす現在のつんく♂は、出会った頃と比べると別人のようだと明かす。

「もう、全然違うよね?別人。12年前は、私嫌われてると思うくらい。何で私と結婚したんだろうって思うくらいの感じだったんですけど、もう今はすごく優しいです。
やっぱり子どもができたことがまず第一の転機で、その後はやっぱり病気になってから、それからもだいぶ考え方とかいろんなことが変わったんだと思います」

加奈子さんがそう話すように、子供の存在がつんく♂を変えたという。

「こう見えて、きっちりスケジュールたてて仕事するタイプなんですが、子どもって、スケジュール通りに行ってくれないというか、大事な場面で高熱とか『信じられない!』ってのがたくさんあって。最初はイライラしてたんですが、結果的に、その現状を飲み込むようになってったんですね。
大病し、自分の弱い部分も見せれるようになったというか、そうも言ってられないところまで追い詰められたので。妻にも、子どもらにも甘えることろは甘えるみたいな…。人間らしさが出てきたのかもしれません」と話したつんく♂。


坂上が、つんく♂にがんと診断された時の気持ちについて問うと、「僕の中では僕はある種の完璧な形が出来上がってたので、がんなんてありえなかったわけです。計画の中に。だから、それを聞いた時は、本当に信じられないというか、心臓がバクバクして止まりませんでした。
最初は2014年の春に検査入院をしました。長女がまだ5~6歳とかだったと思うんですが、病院に一緒にずっと居てくれたんですね。自分の子どもなのにすごく頼りになったというか。その時のあたたかみを今でもふと思い出します」と当時の心境と、子どもへの思いを明かした。

自らの意志ではなかった”ハロプロ総合プロデューサー”退任

2008年頃、つんく♂はすでに声の調子にムラがあり、思うように歌えないという漠然とした不安がある中、忙しい日々を送っていた。そんな不安を抱え続けたまま迎えた、結成25周年の全国ツアー。この時すでに、つんく♂の喉はギリギリの状態で、「どうか声が出ますように」と祈る思いだったという。

このステージの4か月半後、発見が遅れれば5年生存率は50%以下になると言われている、喉頭がんが発覚。治療に専念するため、プロデューサー業は続けながらも歌手活動は休止することにした。

そんな姿を隣で見ていた妻・加奈子さんは「やっぱり後ろ向きにならないようにっていうのは凄く気をつけてました。たぶん主人も意識的に絶対治してやるっていう気持ちをすごく持ってたと思います。よく『大丈夫やで、大丈夫やで』って言ってたのは覚えてますね」と当時を振り返る。

決して弱音を吐かず、前向きに支え合った夫婦だが、ハロー!プロジェクトの総合プロデューサー退任という、さらなる試練が待ち受けていた。
それまで17年に渡って作詞作曲など全てに関わって来た『モーニング娘。』を始めとするハロー!プロジェクトの総合プロデューサーの退任。その真相について、つんく♂は著書でこう語っている。

2013年の秋くらいからアップフロントグループの会長から、そろそろハロー!プロジェクトの総合プロデューサーを降りたらどうかと提案されていた。
会長曰く「ここらへんでちょっと休養を取ったほうがいいだろう。喉の調子も良くなさそうだし」と。
僕から総合プロデューサーの役目を投げだしたわけでも、曲が書けないほど弱っているわけでもないことはわかってもらいたい。

総合プロデューサーの退任は自らの意志ではなかったというつんく♂。

歌手活動の休止に続き、『モーニング娘。』のプロデュースも終了し、治療への専念もあり、しばらく表舞台から姿を消すことになる。

近大の入学式で“声帯摘出”を公表

そして2015年4月、つんく♂は近畿大学の入学式で、437日ぶりに公の場に姿を現す。近畿大学の卒業生でもあり入学式をプロデュースしていたつんく♂。
この年は病気療養中のため欠席かと思われたが、つんく♂は笑顔で登場し、世間を驚かせた。

その祝辞の場で、つんく♂は一切口を開かず、スクリーンに文字が映し出された。実はここで初めて声帯を摘出したことを公にしたのだった。

平成27年度 近畿大学にご入学の皆さん。入学おめでとうございます!なぜ、今、私は声にして祝辞を読みあげることが出来ないのか…それは、私が声帯を摘出したからです。
去年から喉の治療をしてきていましたが、結果的に癌が治りきらず、摘出するより他ならなかったから一番大事にしてきた声を捨て、生きる道を選びました。
私も声を失って歩き始めたばかりの1回生。皆さんと一緒です。
こんな私だから出来る事。こんな私にしか出来ない事。そんな事をこれから考えながら生きていこうと思います。

そして、つんく♂は祝辞をこう締めくくった

皆さんもあなただから出来る事。あなたにしか出来ない事。
それを追求すれば、学歴でもない、成績でもない、あなたの代わりは無理なんだという人生が待っていると思います。

つんく♂はこの年以降、毎年入学式に出席し、祝辞を贈り続けている。
声帯摘出の公表の場を近畿大学の入学式にしたことについて、つんく♂は当時の思いをこう振り返った。

「僕を指名で近大さんは声をかけてくれた。しかも、病気の後に、『それでもつんく♂さんにお願いします。当日、来れなくってもいいんです』と。
僕はもうステージに上がらないかもしれないし、痩せ細ってて人前になんて状態じゃなかった。妻は『新入生を送るどころか、あなたが心配されるでしょ』って怒られました。
そこから一生懸命、体力をつける。そうすると少しずつ気力も出てきて前向きになれて…。
そんなこんなで、祝辞の中で発表した形となりました。
僕は祝辞を読んでたけど反対にすごくすごく励まされたんですね。だから心からありがとう!って言いたい」

「妻や子供との出会いに変わるものはない」

冒頭、加山雄三さんとのライブの打ち合わせに密着していた「直撃!シンソウ坂上」クルー。1か月前に日本でも話題になった、つんく♂5年ぶりの屋外ライブだ。実はつんく♂は今年、加山雄三さんに詞を提供し、それがきっかけで今回加山さんのステージにスペシャルゲストとして出演することになった。

本番当日、会場には早くからハワイ在住の日本人が多く詰め掛けていた。会場にはこの日を楽しみにしていた10歳と7歳の2人の娘の姿も。長男が盲腸で入院してしまったため、妻の加奈子さんは2人で病院にいたという。

子供たちが見守る中、いよいよ加山さんのステージが始まり、つんく♂の出番になると、フロアは盛り上がり、子供たちも「パパー」と大声で声援を送っていた。

加山さんの1966年の名曲『夕陽は赤く』を演奏するつんく♂。ライブ後、加山さんは「一生懸命弾いてる姿、感動もんだと思うんだ。一生懸命やってくれて嬉しかったよ。どうもありがとう」と感謝の言葉をかけていた。

これまで様々な人生の転機があった中、今振り返ってみて、一番大きかったと感じる転機を聞くと、これまでにない長考をしていたつんく♂。

「非常に難しい質問やけど。どれかがかけても今の僕はないからね。声を失ったことは大きいけど、でも、妻との出会いや子供との出会いに変わるものはないかな。家族はひとつやからね」

加奈子さんは言う。

「彼に『人生生きていくのに一番必要なことって何だと思う?』って聞かれたんですね。私はちょっとわからなくて。『愛ですか?』って答えたら、主人が『人生で一番大切なのは、おまえ感謝やで』って。
『感謝をして生きていけば、失敗しても、失敗したことにありがとう。成功したら成功してありがとうって思えるから、その気持ちを忘れたらあかんで』って言われたことが、やっぱり凄く自分の中で大きくて、この人といたら多分大丈夫だなって思いました」

数々の逆境にみまわれ、声を失っても、つんく♂の隣にはいつも変わらず家族がいた。

「直撃!シンソウ坂上」毎週木曜 夜9:00~9:54

 

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