番組公式サイトより

ドラマ『昭和元禄落語心中』岡田将生のスゴさを“落語的”に考える

そして、落語の「せつなさ」を思う

落語と「俳優の演技」は、まったくの別物

NHKでドラマ『昭和元禄落語心中』が始まった。

タイトルからして妖艶で、なかなか切ないドラマである。

落語には、もともと、どこか切なさがある。その芯の部分でつながっていて、落語好きが見ても心に迫ってくるドラマに仕上がっていた。

岡田将生がよかった。

彼は落語の名人、有楽亭八雲を演じている。

主演の岡田将生(番組公式サイトより)

この八雲役は、なかなかむずかしい。

ドラマはやがて、八雲の若い時代をたっぷりと描くので、だから若い岡田将生に割り当てられているが、第一話での八雲は老齢である。

俳優が落語家を演じて、そのまま落語を話すと、ときどき聞きづらくなることがある。

それはおそらく、俳優が芝居で話すセリフと、落語のなかで語るセリフが、根底で違っているからだ。

落語家は登場人物になりきるわけではない。

複数の人物を一人の演者が演じ分けているので、完全にはなりきらない。なりきってはいけない。

 

一人に入りこみすぎると、一瞬、聞く者の心をつかむが、あとで崩れてしまう。

わかりやすい例でいえば、人物が泣くときに、本当に涙を流さない。

「文七元結」で、金をもらった文七が金を拝んだときに、本当に涙を流してしまうと、次の瞬間に出てくる近江屋の旦那を演じられなくなる。旦那が涙を流していてはおかしい。

少し左右に顔を振るだけで人を入れ替えるのが落語である。入れ替えがうまくいかないと、落語にならない。

ただ先代の円楽、つまり笑点の司会をやっていた馬づらの五代円楽の高座では、実際に泣いてる落語を何度か見た。『浜野矩随(はまののりゆき)』で、母に死なれたあとに矩随が悲しむところで滂沱と泣き、そのまま涙をきらきら光らせながらいろんな人を演じていた。

『文七元結(ぶんしちもっとい)』でも見た。そういう奇妙なことをやっても見てる人を納得させるのは剛腕のなせる技であって、あの人だから成り立っていた落語である。ふつうの人はやらない、というか怖くてやれない。

役者は涙を流す。泣くシーンになると、役の人間になって、自然と涙を流すことができる。

でも、その技術は落語には要らない。そういう違いがある。