痩せたくて……ダイエットを18年やり続けた私が学んだこと
アレクサンドラ・ジョーンズ
私は、12歳の時からずっとダイエットしている。太っていて、顔はまん丸、柔らかくてずっしりした太ももは、座ると広がって椅子の脇からこぼれ落ちた。それに完全に気づいた瞬間から、私の体は自分にとって問題と化した。当時の太った人はほとんどが、自分の体をそうやって問題扱いしたと思う。
時代は1990年代。母親はあの時代にどっぷり浸かって生きていた人で、ダイエットにも精通していた。本棚には、「スリミング・ワールド」から「アトキンス・ダイエット」、「ビバリーヒルズ」、キャベツ・スープに至るまで、ありとあらゆるハウツー本がぎゅうぎゅうに詰まっていた。
女性はやせていなくてはならない。私はそう思っていた。そして当時は、太っているのをなおすのは、簡単なことだと思っていた。ダイエットして、食欲を管理して、食べる量を減らして、腹筋運動を多少すれば、痩せられる。簡単!
当時から今に至るまでのどこかで、これは非常に流行遅れな考え方になった。もはや「ダイエット」する人などいない。ダイエットはかっこ悪い。代わりに私たちは、「#strongnotskinny」(やっぽちではなく強く)なり、デトックスや「野菜中心」の食生活をするようになった。体に良いものを食べ、ぜい肉を削ぎ落とし、古代アーユルベーダの原則に従ってチャクラを整える(そうすればついでに肌の調子が最高に良くなるし)。かつては厳格に管理された減量プログラムだったウェイト・ウォッチャーズでさえ、ブランド・イメージを変更した。今やWWという社名になり、ミレニアル世代に受けやすいキャッチコピー「効くウェルネス」を掲げている。
WWのミンディ・グロスマン最高経営責任者(CEO)は米NBCの情報番組で、「これは単に次の一歩、通過点に過ぎない」と話した。「どこもそうですが、当社も今の時代に合ったものでなくてはいけません」。それはつまり「減量」という表現を控え、より漠然としたコンセプト「ウェルネス」を使うという意味らしい。
賢明だ。ウェルネス業界の市場規模は世界で3.7兆ドル(約420兆円)になるのだから。
「ダイエット」がどうやって、はやらなくなったのか、はっきりしたことはよく分からない。新世代(私の世代)は大人になるにつれて、自分たちを手玉に取ろうとする、冷酷で、往々にして反フェミニストな業界のメッセージを拒絶するようになったのだ。私たちは、やせていなければ美しくないという美の理想を、拒否し始めた。2000年代の中盤以降、私たちは、いわゆる「サイズゼロ」(訳注:およそ日本の5号以下)が基準だという考えを受け入れるのをやめた。科学者たちは、ダイエットをすれば持続可能な減量が可能だという考えの誤りを暴き、世界的なニュースになった。
こうした様々な進歩が積み重なった結果が、ぽっちゃりモデルのテス・ホリデーが飾った英ファッション誌の表紙だったように思える。
英女性誌コスモポリタンUKはインスタグラムに「表紙を飾るスター、テス・ホリデーに声をかけてね! 10月号は8月31日発売。テスの独占インタビューを読むにはリンクをクリック」と投稿した。
表向きは、進歩に見える。しかしこの表紙を機に、太っていることを見下し嫌悪する否定的コメントがあふれかえったことからも、この社会には、太った体をさげすむ心が深く根ざしているのがうかがえる。この点については、また後で触れる。
私は2004年、16歳で初めてウエイト・ウォッチャーズの集まりに参加した。その時の私はただひたすら、細くなりたかった。BMI(体格指数)によると私は肥満(165センチで体重89キロ弱)だったが、「健康」とか、体の中の感じとか、そんなことはどうでもよかった。ただただ、大変身がしたかった。映画みたいに、カーテンが開くとそこには、細くて美しくて受け入れられる、新しい体の自分がいる――という風に。
ウエイト・ウォッチャーズでは、すべての食べ物には点数、ポイントが割り振られる。1日の間に自分はそのポイントを「消費」していく仕組みだ。自分が食べた分のポイントを足すようになり、毎週の体重測定会にダイエット仲間と参加して、具体的に学んだことはある。夕飯に家族サイズのグラタンとチョコバー2本を1人食べるのは、いささか食べ過ぎだと。1日8時間座って過ごす人間にとっては、なおのこと(体育教師には「追いかけられない限り走らない」と告げていた)。
私は子どもの頃から、大人用の14号や16号(日本の15号と17号)の服を着ていたし、10代の頃は変わったダイエットを次々と試していた。体重計の数字が小さくなると、人生で初めて自分で物事を管理できていると感じた。合計で13キロ近く減らし、しばらくは「よし、分かった」と思っていた。
それから10年の間に、私はいったんリバウンドしたものの(しかもさらに約1.5キロ増量)、次に砂糖と精製炭水化物を食べないという「超健康的」で「クリーンな食事法」の厳しい食事法で、増えた体重のほとんどを再び落とした。もちろん、この流行からも私は見事に落ちこぼれたが、その過程で自分の体にどういう食べ物を入れるか、かつてないほどこだわり始めた。27歳だった2015年、16歳の時より約20キロ細かったのだが、自分はもっとやせなくてはと確信していた。
別名「ザ・ボディ・コーチ」、ジョー・ウィックス氏が運営するオンラインの90日間「変身」プログラムに申し込んだ。私はまだ「大変身」したかったのだ。ウィックス氏は当時、そこそこのオンライン・フォロワーがいるパーソナル・トレーナーだった。結果は必ず出すと約束していた。
「クリーンな食事法」革命は当時、絶頂期にあった。私たちは、自分の体を憎む代わりに、あらゆる食べ物に含まれる有毒な原材料を憎んでいた。有害な砂糖、有害なグルテン、有害な精製されたガラクタ。こうしたものをすべて断ち切った女性の脳腫瘍が治ったという報道がオーストラリアから入ってきた(後に誤報だと分かった)。私たちはあれよあれよと真似をした。
食べ物に関する会話の内容が変わった。「クリーン」はダイエットではなく、ライフスタイルの選択肢になった。体重や外見のためというより、もっと「健康」に関係していた。「細さ」願望はもちろん消えていないが、私も周りのみんなも、時代に合った表現で「痩せたい」気持ちを表現するようになった。
ジョー・ウィックス氏の「変身」計画に偶然出会った時、私は軽くドキドキした。使用前・使用後のぼやけた宣伝写真は、あまりに魅力的で、私は何時間でも見ていられた。延々と画面をスクロールして、半裸の写真を延々と眺め続けた。太った体が左、痩せた体が右だ。成功例の人たちは写真に添えて、どれほど気分爽快で、どれほど元気で健康になったと思うか、熱心に語っていた(大喜びの絵文字とスペルミス込みで)。
この人たちは私と同じだと思った。私と同じで、そしてウィックス氏のプログラムのおかげで、不健康な体から解き放たれたのだと。
試さずにはいられなかった。申し込んで入金し(当時は149ポンド、約2万2000円と目玉が飛び出るほどの額だった)、スポーツ・ブラとショーツで鏡の前に立ち、欠かせない「使用前」写真を撮った。初めてのウェイト・ウォッチャーズのミーティングに参加したときと同じで、ポジティブな一歩を踏み出している気がした。自分の体重とサイズを測り、ウェブサイトに入力した。プログラムの第1期がメールで送られてくると、カロリーや主要栄養素に関する大量の情報をじっくり最後まで読んだ。タンパク質を山ほど食べて、もっとカロリーを摂取すべきという内容だった。すべてがあらかじめ決められていた。朝一番のエクササイズ前に飲むビタミン飲料から、1日の最後に食べるシンプルなゆで卵1個に至るまで。
このころの私は、体形にこだわるボディ・ファシズムや食事制限は過去のものだと思っていたのだから、おかしな話だ。「健康」、「無駄を削ぎ落とした体になる」、「自然食品を食べる」、「強くなる」などを重視する食事とエクササイズ法は、母親が何年も耐えたスリミング・ワールドやキャベツ・スープ、アトキンス・ダイエットよりもずっとフレンドリーでホリスティックなものだと思っていたのだから。
フレンドリーな見た目はよくもうかる。3年後の2018年、ジョー・ウィックス氏の資産総額は推定1450万ポンド(約21.5億円)に達したという。
「表向きは、(ダイエット文化は)後退している」と、心理療法士で作家のスージー・オーバック医師は話す。40年前の1978年に発行されたベストセラー「Fat is a Feminist Issue」(日本語版「ダイエットの本はもういらない」)以降、オーバック医師はダイエットが心の健康に与える影響について調査してきた。
「ダイエットに関して私たちはかなり、恥ずかしく、決まり悪い思いをしているので。それでも企業はいまだに私たちに、『あなたのその体が問題なんですよ』と説教して、そしてダイエット法や錠剤やパウダーなどの解決法を提供することで、巨額の金を稼いでいる」
1978年と今が違うのは、ダイエットについて使う言葉だけだとオーバック医師は言う。「『これで痩せられる』と言う代わりに、道徳まがいの言葉遣いをする。純度とか、食べ物が『健康』で『自然』で『クリーン』かどうか。ダイエットを始めると言うのに、婉曲表現を使う(例えば『変身』するのだ、など)。けれども、その効果や私たちへの影響に大差はない」。
実のところ、「健康上の理由」から何を食べるか激しくこだわるのは、今ではあまりにも普通のことだ。「オルトレキシア」という名前が付いている。
栄養士のイーマー・ディレイニー氏はBBCに次にように話した。「最初は健康的な物を食べようという純粋な思いから始まることが多いが、次第に極端になる。物事を完全にコントロールそのためのな道具として、食べ物を使っている」。
ボディ・コーチの「変身」は、ウェイト・ウォッチャーズと同じくらいの成果が出た。つまり、まったくうまくいかなかった。減らした体重は、ウェイト・ウォッチャーズのリバウンドよりあっという間に戻ってしまった。結果を出した人たち全員に私は敬意を示すが、私にとっては食べ物の量、そしてそれを準備する時間が、とにかく大変に思えた。
毎週日曜日、何時間もかけて数キロのひき肉を茹でてプラスチックの保存容器に入れ、数十個の卵を茹でた。これだけならそこまで大変なわけではないが、これで1週間の半分にしか過ぎない。水曜日と木曜日の夜は食事の準備が一大イベントになった。いつも食べ物のことばかり考えていた。どの食べ物が「OK」か、色々な目標値を自分がきちんと達成しているのか。
外にいて、容器に詰めた食べ物がないと、何を食べたらいいのかパニックになった。しばらくは外出しない方がいいと決めた。友人の家に夕食に呼ばれたのに、自分の食べる分は自分で持参すると言い張っていた。それを自覚して、もういい加減にしなくてはと、ついに目が覚めた。
友達は私以外のみんなのためにパエリアを作り、私は水っぽいカシューナッツ・カレーを電子レンジで温めた。「それで、効果は出てるの?」。友達は励ます口調で聞いてきた。もし出ていたとしても、これほど辛い思いをする価値はないと、私は悟った。
しかし、この食事法を何週間も続け、その厳しい基準に合わせて食べ続けた挙句、もうやめようといざ思っても、私はどうしていいか分からなかった。いつ何を食べるべきか、まったく分からなくなっていたのだ。
オーバック医師によると、これこそあらゆるダイエット法、ないしは「変身」プログラムに共通する、根本的な真実のひとつだ。
「他人からの助言に頼れば頼るほど、自分自身の食欲や食べる本能が分からなくなる。周期的な現象になり、私たちの体はもはや、自分の食事時間をどう調整すればいいのか分からなくなる。通常の空腹や満腹の合図がなくなってしまう。また体が合図を出しても、私たちはそれを信用しなくなる」。要するに私たちはダイエット法に依存するようになり、ダイエットによる決まった食事法は、自分ではやめられない習慣になってしまうのだ。
この複雑な思考法――つまり、何をどう食べるか教えてくれる誰かを探しつつ、ダイエットは単なる流行でどうせ続けられないと拒否する考え方――から、新しいオンライン産業が生まれた。健康やフィットネスのインフルエンサーたちだ。火曜日に自分の変身した姿の写真を投稿する「TransformationTuesday」のハッシュタグ。菜食主義、グルテンなし、無糖、乳糖(ラクトース)なしの料理に特化したアカウント。どれも、お手本を示してくれる。ただ、それをダイエットと呼んではいけないのだ。
同様に、「私の1日の食事」というビデオも、ここ5年ほどのビデオブログ界で雨後のたけのこのように増えてきた。表面的には無害そうな、非常に人気のジャンルだ。
このビデオにはパターンがある。多くの場合、モデルやフィットネス業界の人が、爽やかに画面に映っている。肌はすべすべ、つやつやで、頰はバラ色に紅潮している。「私の1日の食事をお見せします」と、満面の笑みを浮かべる。「よくリクエストされる話題なのですが」と、はにかむように目を伏せ、「たくさんの人に、ダイエットについて聞かれます。でも私はダイエットなどとは呼びません。むしろライフスタイル。健康的な食事を本当に楽しんでいます」と言うのだ。
こうしたビデオを見るのは楽しい。非常に様式化され、親しげで美しい人たちが案内役としてカメラに直接――私たちに直接――語りかけてくる。いくら表向きは気にしてないと力説したところで、誰もが非常に気にしている、夢中になる内容について。
「ある意味、理解はできる」と、栄養士のロージー・ソーント氏は同意する。ソーント氏は今年8月、こうしたビデオがなぜ有害なのか、ツイッターで連投した。
ソーント氏は私の取材に答えて、「ダイエットしていると言うのは今では、あまりかっこいいことではなくなった。なので、多くの人にとってこうしたビデオは、痩せるための別の方法だ。昔ながらの意味のダイエットではないけれども、『私のように食べれば、私のような体形になれますよ』という意味合いがこめられている。なので、こうしたビデオを見る多くの人が、内容を真似ていると思う。そうしている内に、食事にこだわりすぎるようになったり、バランスを欠いたりするようになりやすい」と話した。
当然ながら、「私の1日の食事」のようなビデオがこれまで存在しなかったわけではない。私たちは長いこと、雑誌に載る有名人の食生活に心酔していた。違いは、オーバック医師が説明するように、心酔して使う言葉遣いだけ。私たちは今、「健康」かどうかを口にする。しかしソーント氏が指摘するように、「健康的」は単に、「痩せている」の婉曲表現になってしまった。
「もはや人が『健康的』という言葉を使う時、健康に良い行動について話しているわけではない。特定の体形について話していることが多い。そして、その特定の体形とは、痩せて引き締まった体つきのことだ」。さらにソーント氏は続ける。「『健康』と『ダイエット』を結び付けることで、脂肪嫌悪的な有害な態度が促進されている」
このことは、英誌コスモポリタンが8月末発売の10月号表紙にモデルのテス・ホリデー氏を採用したことで、特にはっきりした。
同誌はたちまち、反発の嵐にさらされた。特に、ソーシャルメディアでの扇動が得意なキャスター、ピアス・モーガン氏からの反応が大きかった。
モーガン氏はインスタグラムで、次のように書いた。「英国が、悪化する一方の肥満危機と戦っている中、これがコスモポリタン最新号の表紙だ。どうやら、どのような体形も肯定的にとらえる『ボディ・ポジティブへの大きな一歩』として見なければいけないらしい。なんてばかげた話だ。この表紙はサイズゼロのモデルを称賛するのと同じくらい危険で見当違いだ」。ホリデー氏の「不健康な」サイズが称賛されているのが実に危険だと、モーガン氏は強調した。
栄養士のヘレン・ウェスト氏はツイッターで、私たちは健康状態や体のサイズには関係があると信じているかもしれないが、必ずしもそうではないと指摘。このスレッドは1000回以上リツイートされた。
「それでは、コスモポリタンのテス・ホリデーの表紙が不快だという人に、スレッドにして書きます。健康、体重、脂肪恐怖症、体重への偏見についてです。さぁ、ピアス・モーガン、紅茶でもいれてじっくり読んでください。もしかすると、何か学べるかもしれませんよ」とウェスト氏は書いた。
「反論がたくさんくると思っていたが、実際には反応は様々で大きく割れていた」とウェスト氏は話す。
ウェスト氏はこう説明する。「体重を考える時、医療的な見地から見ると、確かに太り過ぎは病気にかかるリスクが高くなる。けれども私たちは大抵、絶対リスクではなく、体重が軽い人と比べる相対リスクの話をしている。ある人がどれほど健康的かは、その人を見るだけでは分からない。その人が毎日体を動かすか、どんな食べ物を食べるか、喫煙するかといったことは、見ただけでは分からない。こうしたものはすべて、ある人の健康全体の予測材料となるもので、外見から判断することはできない」。
私たちの文化は、懸命に努力すれば誰もが細くなれるという誤った思い込みを促進している。私はこれまで、この思い込みとともに生きてきた。「そんなことはない」とウェスト氏は言う。「なのに、脂肪が『不健康だ』と他人を攻撃する。しかしそれもやはり、必ずしもそうとは限らない。他人の健康状態をうかがい知ることはできない。単なる脂肪嫌悪そのものだ」。
遺伝的特徴や有酸素能力、1日中座っているかどうかなどの方が、その人の外見よりも体の内側の健康状態をより良く表す。すべてをひっくるめて、ダイエットや体重、健康に関する現代のやりとりから生まれた、唯一本当に根本的な考えはこれだけだと、私には思える。
ウェスト氏、ソーント氏、オーバック医師はみんな、自分の体にもダイエットにも、もっと慎重に取り組む必要があると主張する。健康産業から離れ、その代わりに毎日の行動に注目するのだ。
「毎日、体を動かすよう努力すべき。自分にできること、歩数の計測でもランニングでも、動ている限り何でもいい。そしてたっぷりの野菜と共に、バランスの良い食事をすること」とソーント氏は言う。「でも同様に、食べ物に対する自分の考え方も検討するべき」。
食事制限をしながら、どか食いをして(「食事制限のサイクルに入ってしまうと、そうなりやすい」)罪悪感を抱いたり恥だと思ったりするのは、有害でしかないとソーント氏は強調する。「食べられる物を楽しんでいいのだと、そう思わなくては」。
ウェスト氏はさらに加える。「自分の体を受け入れる人の方が、自分を大事にする。自分の体を不名誉だとか恥だと感じる人の方が、たばこの吸いすぎや暴飲飲食といったリスクの高い行動を取りがちになる」。
私は12歳の時からずっとダイエットしてきた。笑える話だが、同時に悲劇でもある。今の私は、ほとんどの人が「普通」と考える体の中に生きているからだ。普通の体型だ。体重は約63.5キロ、服のサイズは英国サイズの10〜12号(日本サイズの11~13号)、BMIは23だ。
インスタグラムに、私はこう投稿した。
「私もとうとう、トレーニング・ウェアを1日中着る人の仲間入り。12杯目のコルタードを注文して超満足……(PS. フリーランスになって3週間。まだギャラが入ってないのに数百ポンドもコーヒーに使っちゃった……だからいいの)」
これほど細くなったのは、生きてきて初めてのことだと思う。そして皮肉なことに、体重が落ちたのは、何を食べるかで頭がいっぱいになっていた時ではなく、仕事や恋愛に没頭して食べ物について考えるのをやめた時だった。おかげで今の私は心穏やかで、外見にくよくよ悩んであれだけの時間を使ったおかげで、ついに大きく悟ることができた……と言いたいところだ。しかし、実際には違う。自分の食べ物や体形、体重計の数字、服のサイズに、とことん意識を集中して何年も過ごすと、自分の体との関係は決定的な影響を受けてしまう。私は今後も常に、体をなんとかしないと……と思い続けるのだろう。
(英語記事 I was on a diet for 18 years. Here's what I learned...)