高校生向け『三省堂現代新国語辞典』第6版がヤバいから高校生じゃなくても買え
http://fngsw.hatenablog.com/entry/2018/10/18/174528
“沼も草もいいけど、ギガは受け入れられない”
私も「ギガ」を「データ通信量」の口語表現として使うのは、せいぜい保って10年かなという気はする。ギガの前に類似の意味で使われていた「パケット」「パケ」が今どうなっているかを考えれば自明である。ただ、「データ通信量」が日常会話でどう言われていたか、というのは、このご時世だと量的にあなどれないので、改訂間隔が4年弱というハイペースな辞書としては、記述的内容として載せておこうという立場は理解できる。
辞書の改訂間隔というのは、よほどメジャーな辞書じゃない限りあまりおおっぴらには言われないので意識しづらいところなんだけど、辞書の素性を把握するにあたって重要な要素の一つである。大まかにいって、
6-8年:「新明国」「三国」「岩国」などの全年齢向け小型辞典
3-5年:「三現新」「学現新」「例解」などの学校教育向け辞典
という3タイプがある。さらに年刊の新語解説辞典でもある「現代用語の基礎知識」がいるわけだけど、そこで必要とされているのは国語辞典的な分析と整理を経た解説文ではないので、新語の国語辞典へのエントリーの場として、継続的にハイペースな改訂を続けられる可能性の高い「三現新」を使うのは、一つの方法と思う。
当然、「初学者向けの辞典なのに規範性より記述性を優先するようなことをしていいのか」という反論が予想されるんだけど、辞書の編纂という事業の本質を理解することの取っ掛かりになる、という学習効果も含めると、こういう辞書が一つあるのは、総合的には大きなプラスなんじゃないかと思う。そもそも、この辞書の規範としての性能が損なわれるほど、記述的内容の占める割合が高いかというと疑問である。
“Diffをだな…”
確かに欲しい。しかし最新版の改訂箇所を簡単に一覧できたら、全体を見ずに目についたところを叩くしか能のないゼロトレランスクソ野郎の餌食になるだけだから、なかなか難しかろう。
最新版のことはともかく、戦後すぐの「明国改訂版」から「三国7版」までの8冊を見比べる「改訂箇所辞典」みたいなのがあったら、かなり面白い戦後史の切り口になるんじゃないか……と想像した。が、「三国」は時代によって対象読者が徐々に変わってる(初版は中学生向けだったけど、今はプロ向けっぽさが強い)ので、語義の変遷と取るか編集方針の変化と取るか判断に困る場合がありそうである。するとやっぱり「新明国」のほうが、通時的比較をして面白いのかもしれない。「三現新」は「新」のない旧版(初版1988年)も含めると、8冊でほぼちょうど平成時代をカバーすることになるので、こちらの比較にも興味が湧く。
“草とか沼って 辞書に載ってないからこそ面白いしわざわざ使いたくなるのであって、権威側にいっちゃうと急速にダサくなるんじゃないかな”
まさにそのとおりで、 スラング/若者言葉 というのは 部外者/大人 に通じないことを目的として変化していくものなので、 部外者/大人 が使い始めたら廃れる。まして辞書に載るなんてとんでもない破壊的なことであって、この「辞書における観測者効果」をどの程度容認するかは大いに議論の余地があるところである……
……とまでは思ってないわ。気づく限り同時代的に記述を試みるべきだし、種々の条件(編集方針や紙幅)から許容できる限り載せていくべきだと思う。言葉は何をしたってどんどん変わってくんだし。「ボツ語彙」になったとしても、後の時代からは汲めないニュアンスを反映させた語釈が残ることには大きな資料的価値がある。
“そんなの、辞書を引かなくても、ググれば出てきそうだが”
ググって出てくる情報と辞書に載る情報の質的差がわからないのヤバい。
“マウンティングは総合格闘技のマウントからではなくて、類人猿が順序確認行為として行なうマウンティングからでしょう。大丈夫かこの辞書?”
マウンティングについては、確かに猿に擬することでマウントを取ろうとする人を貶める冷笑的な悪口という含意もあって、猿説を取る人が多いと思うんだけど、三省堂ぐらいになると格闘技説の根拠となる最古の用例を確認してる恐れがあるので静観。
“巷での用例から採録するならば本来の意味を確認するために辞書を参照できなくなるよね”
この「本来の意味」という考え方は、よく吟味して用いないと危険である。
言葉の本来の意味、というのを厳密に考えていくと、一語一語が使われる現場にしか存在しないもの、と定義せざるを得なくなる。どんな言葉も、その置かれた文脈によってわずかに意味が変わるわけで、その意味はその文脈でしか生じない。辞書編集者は、文脈に依存した意味を削って平均化した意味を語釈として書くことになる。以上のようなわけで、言葉の「本来の意味」が辞書に載ることは原理的に不可能である。人間は辞書を読んで言葉を使い始めたわけではない。「言葉が先か辞書が先か」は問題になりえないのだ。
この発言主は「本来の意味」というのを、「語源から説明できる意味」かつ「最も一般に通用してる意味」くらいの含意で使っている(と斟酌する)んだけど、「語源から類推しうる意味の幅」というのは実はかなり広くて、同じ言葉が時代によって逆の意味で使われているけど、語源からはどっちの意味も説明可能、ということはままある(「ヤバい」なんかその典型だろう)。したがって、巷から用例を集めて意味を限定・整理しなければ、広く通用可能な語釈は書けない。
問題は、その「巷」の幅をどうとるかで、より保守的・通時的な巷を選ぶ辞書(「岩国」とか)と、共時的で新語・新用法に寛容な巷を選ぶ辞書が共存していること自体は、まずは理想的、と言えるのではないかと思う。言葉遣いでの誤解を避ける、という辞書のミッションに、異なる二つのアプローチから奉仕しているわけで、その方向性自体に優劣はない。どんな立派な辞書を引いても、誤読による意思伝達の失敗は起こりうるわけだし……。
2017年は特装青版の出た年であって、7版自体は2011年のものだけど、それはともかく、このブコメで挙げられたような記述は、現在の社会状況から言ってかなりデリケートな改訂が求められるのは避けられない。「新明国」はもともとそのユニークな語釈の一部に、家父長権的な雰囲気のあるものが含まれる(減ってきてるけど)、という指摘がされてきた辞書だったので、その点をどうクリアして時代に適応していくのか気になるところである。刊行間隔から言うと、8版は今年出てもおかしくなかったんだけど、もう1-2年待つことになるのかも。
“沼って知障→池沼→沼の差別用語の方が載ってるのかと思って焦った”
“例えば「沼」のもう一つの若者用法については書かれていないようだし”
大抵の辞書はあまりに悪辣な差別用の隠語は載せないし、この意味の「沼」が「レンズ沼」より普及してるとか一般に広がる可能性があるとは全く思えないわけだけど、それを中途半端と評する自由はある。