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読めないニックネーム(再開版)

世の中の不正に憤る私が、善良かもしれない皆様に、有益な情報をお届けします。単に自分が備忘録代わりに使う場合も御座いますが、何卒、ご容赦下さいませ。閲覧多謝。https://twitter.com/kitsuchitsuchi

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万教帰一の道会(儒教的キリスト教)の大川周明も、スウェーデンボルグ礼賛で初期スピリチュアル推進のブッシュ教授(ブッシュ家)もイスラム研究!『イスラーム入門 文明の共存を考えるための99の扉』 

覚えておいてほしいただ一つのこと。


タイトル関係ねえ!
イスラム的には正しい対応策を教えることもサダカだからOK?


重要個所三つだけ(そこだけ読むと5分以内で終わる!)

①元アメリカ大統領の曾祖父の曾祖父(ブッシュ家)にあたるティモシー・ブッシュの弟、
ジョージ・ブッシュ博士の最初の著作が
『ムハンマドの人生』。
なお、ムハンマドへの評価は悪い。
スウェーデンボルグ派の著名な教会員でもあった。
ブッシュ教授はアメリカのスピリチュアリズム(心霊主義)興隆の仕掛人。
スピリチュアリズムの父デーヴィスを広めるのに協力しまくったのがブッシュ家の教授なのに注目。
今のブッシュ家はWASP原理主義側=反スピリチュアルなので注意。
スピリチュアルの布教も仕組まれた茶番。
イスラム研究
+スウェーデンボルグを翻訳し研究
+スピリチュアルの実質的教祖の一人を応援。


②勘違いしている人が多いので言っておくけど、
ユダヤ教やイスラーム教で豚を食べてはいけない理由は、
「聖典で神が禁止しているから」
であり、豚が不衛生だから云々は全て、
異教徒への説明用あるいは異教徒が自分を納得させるために言っているだけだからね?
あくまで「神ではないただの人間の解釈の一つ」だからね?
なお、キリスト教は、
「人間の解釈(聖典に書いてないもの含む)>聖典」
という、「外見だけ一神教」ね。
二次創作が原作より上と言う意味不明設定。
西洋の法律学の本を見てみると、
聖書の~に基づくなんて全然書いてないでしょ?
ほら、一神教を実行していない。
「人が勝手に決めた法>聖書にある神の法」


③大川周明が属した道会が万教帰一、世界連邦側の儒教的キリスト教。
所属していた大川がイスラム研究しているのが重要。
道会の二代目会長の松村吉助がユダヤ陰謀論本を出していることも重要!
大川はシュタイナーの社会三層化論(メイソン教が基盤)を日本に紹介。

”ルドルフ・シュタイナーは社会三層化論を主張。
フランス革命の理念である自由・平等・友愛の源流は元々フリーメイソンの思想に由来。
社会三層化論では、
「精神生活における自由」
「法律上の平等」
「経済生活における友愛」に基づいて運営される社会を理想とする、メーソンまんまの思想。
しかもこのメーソン社会論をを日本に紹介もしたのが右翼と左翼の胴体あたりにいる右翼思想の大川周明。
学生時代に参謀本部でドイツ語の翻訳をしており、
宇垣一成、荒木貞夫、杉山元、
建川美次、
東条英機、永田鉄山、岡村寧次らと知己があったひとです。
北一輝、満川亀太郎らとも親交。
北が計画している「日本改造」の原稿を託される。
「日本改造」を実践する結社猶存社や、
行地社、神武会を結成。貴族院議員の徳川義親侯爵と親交が深く、徳川義親から金銭的援助を受けていた。
徳川義親は、大川やその他日本改造主義者たちの経済的パトロン。
大川周明は満州事変に際しては首謀者の一人板垣征四郎と親しかったり、
肥田式強健術で有名な肥田春充とともに日米戦回避のため開戦前夜まで奔走したり〔自作自演だろ〕、
大東亜省の大東亜共同宣言の作成にも携わったりしたまあ、思想的には黒幕レベルですな。”

http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-75.html
オウムはインド風に偽装しているけど神vs獣の善悪二元論・
終末論・
ハルマゲドン・
隣人愛でわかるように中身はキリスト教!
オウム思想の中核は神智学(インド風キリスト教。創世記とギリシャ哲学の動物蔑視)の霊性進化論=神か獣かの善悪二元論+霊的カースト制度。
神智学がユダヤ陰謀論=キリスト教の伝統を広めるのに協力。
大田俊寛著『現代オカルトの根源』(ちくま新書)。
「誠の神様はただ一柱」とする大本教は
「天地の創造神」というキリスト教的な神を導入しつつも多神教の枠組みを一応維持していた平田派神学以上にキリスト教。


終わり!

――

ぐだトマト‏ @pteras14 7月7日
イスラームは取り敢えず中田考氏の 入門本から入ってけば良いと思うよ。

イスラーム入門 文明の共存を考えるための99の扉 (集英社新書)

・イスラームの教えで最初に知るべきことは、
イスラームを教えることができるのは預言者ムハンマドだけだということ。
イスラームについて、個人であれ、機関であれ、
正しさを保証された「公的権威」のようなものがある、
と思いなすことは、
キリスト教や仏教に影響された誤解、
そしてハラール認証ビジネス等のように国家の認証を有難がる現代日本人の偶像崇拝的心性の産物であり、イスラームの理解を妨げるヴェール。

・イジュティハード(努力)
=明文の典拠が見つからない問題で規定を探すこと。
※典拠=クルアーンとハディース。

ムジュタヒド(努力する者、勤勉な者)
=イジュティハードの資格を満たした者。

イジュティハードの条件を満たさない者がムジュタヒドの見解に従うこと
=タクリード。

スンナ派ではイジュティハードの条件を完全に満たすムジュタヒドは四代法学祖らの世代以降は存在せず、
後の世代には学祖たちのイジュティハードに倣いそれを敷衍することしか許されない、
との見解が主流になり、
イジュティハードの門は閉ざされた
と言われるようになる。
学祖=無限定ムジュタヒド
いずれかの学派に所属する後代の法学者の一部
=学派内ムジュタヒド。

四大法学祖のイジュテイハードの拘束性を認めず、
万人のイジュティハードの義務を説く、
十四世紀没のイブン・タイミーヤの流れを汲むサラフィー主義は、
前近代では少数派だが現代では影響力を増しつつある。

他方、シーア派では現在でもイジュティハードが認められており、
フッジャトゥルイスラーム(イスラームの証)や
アーヤトゥッラー(神の徴)の称号を有する法学者はムジュタヒドであり、
平信徒はムジュタヒドのいずれか一人にタクリードすることが義務とされている。

ジハード(力を尽くすこと、努力)
=イスラームのための異教徒の敵との戦闘。
(これ、戦争限定じゃないはず。
キリスト教勢力はいつものごとくプロパガンダ。
プロパガンダの語源はバチカン由来だからお似合い)

・正統と異端を決める基準はない
orthodoxyではないheresyは共同体から追放(破門)されるカトリックの伝統。
有資格の聖職者の洗礼という入信儀礼により共同体のメンバーシップを厳密に管理し、
教義の正誤を政治的に決定できる「公的」機関である公会議によって異端宣告をしたものを破門でき、正しい説と誤った説、共同体の内部と外部を一義的に区別できるカトリックには、正統と異端の概念は適用できるが、
教義もメンバーシップも決める機関がないイスラームには適用できない
多数派、少数派と呼び分けるしかない。
(イスラムでは異端審問したら地獄行きなので、イスラム教徒は異教を積極的に迫害してはいけない。異端審問対象が本当に異端かどうかなんて神でないと判定できないし。
「正しい」教えを人間ができるわけないからね。
産まれてから死ぬまでのすべての言動と内心を認識できない限り、
「完全な判定」なんて不可能だし。

バチカンがイスラムを作ったデマの元凶は、自称元イエズス会メンバーで、反カトリックになったリベラ。カトリックではなプロテスタントの罪もカトリックのせいにする工作員リベラ。
カトリックを作った勢力とイスラム作った勢力が同じというのはありえるけどね。
対になるようになっているし。
リベラについて知りたいなら英語情報も読まないとダメだよ)

・サラフィー主義
=プロテスタント的なスンナ派超正統主義。

サラフィー主義(サラフィーヤ)
=サラフ(先人=イスラム初期三世代)に倣う者。
イブン・タイミーヤのプロテスタント的思想が源流で、
ワッハーブ派などの流れに連なる。
現代のサラフィー主義の圧倒的多数は政治的には静寂主義であり、
アルカーイダやイスラーム国(IS)のような反体制武装闘争派は少数派。
ワッハーブ派
=サウディアラビア国王の正当性を認めるサラフィー主義者。

(IS=外見スンニ派、中身プロテスタント。親分がWASP系だから当然)

・陽は昇り沈み、春夏秋冬と季節は廻り、時間は円のように同じところに戻り無限に繰り返すと、
古代の社会の多くでは考えられた。これを円環的時間観と呼ぶ。
一神教では創造から始まり終末に向って流れる一回限りの時間観は直線的時間観と呼ばれる。
イスラムも一回限りの歴史は教義の根幹であり重要だが、歴史記述のディティールを見れば相違も明白。
聖書では天地創造の7日間の創造の御業を詳細に記しているが、
クルアーンでは天地が7日で創造されたとあるだけ。
キリスト教では聖書根本主義者だけでなく、古より聖書に基づき宇宙の年齢が計算されてきたが、
イスラームにはそのような思想はない。
ユダヤ教とキリスト教では聖典での出来事に基づく祭が多いが、
イスラム法の定める祭は、
イード・フィトル(開斎祭)、
イード・アドハー(犠牲祭)の二つしかなく、
いずれもムハンマドにちなんだ歴史的事件とは無関係。
ムハンマドの生誕、逝去、クルアーンの啓示の始まり、ヒジュラなどの重要な歴史的出来事も特に祝祭日とはされない。
イスラームはユダヤ・キリスト教と比べると、ムハンマドにちなんだ歴史的個別性よりも普遍性を重んじているといえる。

偶像=自己の欲望の投影。
クルアーンは多神崇拝の禁止を繰り返し説いているが、
彫像の禁止は明記されていない。
34章13節には、ソロモン王がジン(幽精)に彫像を作らせた、とあり、
古典注釈書はソロモンのシャリーア(聖法)では彫像は許されていた、と述べている。
またハディースのレベルでは預言者ムハンマドが幼妻アーイシャが人形で遊ぶのを黙認したという真正な伝承の明文が残されており、イスラーム法は子供の玩具であれば人形を合法化している。
彫像だけでなく動物の絵も禁じるハディースも数多くあり
、預言者ムハンマドがマッカを征服したときに行ったのがカアバ神殿にあった360体の偶像の破壊であったことはよく知られている。
具象的偶像が原則的に禁じられており、キリスト教や、仏教、ヒンドゥー教のような宗教美術がほとんど存在しないのも事実だが、
ユダヤ教の偶像崇拝の執拗な具象化の拒否、造形、彫像の禁止はイスラームでは緩和されている。
むしろクルアーンは具象的な偶像崇拝の禁止を超えて、多神崇拝が虚偽意識の問題であることに目を向けさせている。

「自己の欲望を自分の神とする者を汝らは知っているか」
クルアーン25章43節

「アッラーの他に汝らが崇めているものは、汝らと汝らの父祖たちが命名したただの名前に過ぎない」
クルアーン12章40節

イスラームでは偶像とは自己の欲望の投影であり、
偶像崇拝者とは自らの欲望を神に祭りあげて仕える我執の虜にほかならず、
唯物論、無神論、無宗教、法人概念、実体経済を逸脱した拝金主義等も
人間の我執の幻影への隷属、
形を変えた偶像崇拝。


自己の欲望を自分の神とする者は悪、
他人が命名した名前を崇めるな、
素晴らしいお言葉。
欲望を自己と錯覚し、自己=欲望に執着するのを咎めるのは仏教もだね。
禁欲とは欲望は自己とは違うことを痛感させる訓練だともいえる。
法人と拝金主義も悪なのも重要。

仏教って無神論なのかな?
神々は聖典に登場するんだけどな。
実体を否定し、唯一神を否定するからダメか。
釈迦も偶像崇拝禁止したのにな。

イスラム教徒とユダヤ教徒の子供に人形なんてあげちゃダメというのが私の考え。イスラム圏に行くなら人形やぬいぐるみを持って行っちゃだめ。確実に人形はすべてアウトって考えているやついるだろうし。
人形爆弾使うIS はイスラムじゃないよ。玩具じゃないし。


https://twitter.com/pteras14/status/863405621185396736)


・貨幣 正貨は金と銀

預言者ムハンマドが生きた時代のアラブ社会では貨幣は知られていたが、
貨幣経済は未発達。
ハディースには物々交換の様々な形態が描かれている。
当時のアラブではローマのディナリウス銀貨、
ペルシャのディレム銀貨よりも、
むしろ金地金、銀地金が用いられていたことが、
クルアーン3章14節からうかがわれる。
最初のイスラーム独自の貨幣は金銀貨。

イスラムの認める正貨(ナクド)は金と銀であり、ザカー(浄財)の課せられる最低額、
窃盗罪の成立する盗品の最低額などが金と銀の価格で定義されている。
利息と訳されているリバー(不等価交換)の禁止が定められているのは、
実はリバー財と呼ばれる財だけであり、
金銀、大麦、小麦、ナツメヤシの実、塩が
ハディースの明文で定められており、
正貨と重さあるいは嵩(かさ)で量り売りされる食物とされており、
同種のものの売買では、等量の現物交換のみが許され、
先物取引が禁じられる。
この正貨の先物取引の禁止は、
債権と債券の売買の禁止と相俟って、
実体経済を伴わない金が金を産むマネーゲームを抑制する。
しかしこの規定は、国家が軍事力を背景に、金銀の裏付けのないただの紙切れを通貨として強制的に流通させる
現在の不換紙幣の通貨制度の下では機能しない。
本来価値のない記号に過ぎない紙幣に価値を持たせ、
それをさらに電子信号に変換してバーチャル空間に投影した現在の貨幣システムは、虚構の像を拝む偶像崇拝の一種、
聖書の言うマモン(銭神)崇拝の最終形態と言うことができるだろう。


マモン崇拝者=日本人の大半。
だって、芸術見せても「?」の人に~円って言ったら目の色変える奴いるじゃん?
そいつは九分九厘拝金主義者ね。
価値判断の基準が金だけになっているの。

正貨は金銀しか認めないのが素晴らしい。
生活必需品の独占も抑制できる。
金銀本位制でも金銀大量に持っている奴が強いのは、
紙幣本位制と同じ



・啓典の民
私的空間では宗派ごとに自治が認められていた。
イスラムでは異教徒の屠った肉を食べること、
異教徒の女生徒の結婚を禁じているが、
クルアーン5章5節は啓典の民(ユダヤ・キリスト教徒)による屠殺肉を食べること、
啓典の民の女性との結婚を許している。
9章29節は、ジズヤ(人頭税)を払うなら、啓典の民との戦争を禁じ、
カリフが統べるダール・イスラーム(イスラームの家)での永代居住権を認めている。
屠殺肉の食用と女性との結婚が許されるのはユダヤ教徒とキリスト教だけだが、
ジズヤの支払いによる永代居住権の付与については、
ゾロアスター教徒が準啓典の民として認められており、
多神教徒にも認める法学派もある。

啓典の民は公的空間ではムスリムと同じくイスラーム法に服するが、
婚姻や離婚などの家族関係を含む私的空間においては、
キリスト教徒ならカトリック、プロテスタント、
アルメニア教徒、正教徒、コプト教徒というように
宗派ごとに自治が認められていた。

イスタンブールの東方正教徒の画像がp.31にあり。

啓典の民は特別な服装を定められ、
カーディー(裁判官)になれないなどの一定の差別があったが、
生命、財産、名誉を保証されており、
概して厚遇されていた。
啓典の民の中で著名な人物を一例挙げると、
アイユーブ朝のスルタンの宮廷医だったユダヤ教哲学者マイモニデス(1204年没)が有名。


・ハディース(話)は一般に
「私はAから、AはBから~、
『ムハンマドが~と言われてた(なされた)と聞いた」
という形式。
~から聞いたの部分が、伝承経路(イスナード)、
ムハンマドが~の部分が本文(マトン)。
個々のハディースごとに現在まで精査が続けられており、
正典は存在しない。
スンナ派では、中でもブハーリー(870年没)とムスリム(875年没)の集成は
世伝(サヒーフ)集として重んじられている。
なおシーア派のハディースはイマームの言行録。

(イスラム学者の立場がスンニかシーアかは把握しておきましょう。

ハディース学があるから、耶蘇が偽書でイスラム系を騙すのは難しいな。
中身と、言った人を分けているし、
重要度に応じて重みをつける。

これ歴史学、文献学の基本だけどこういう素養がないから、
陰謀追及者の大半が騙されて無自覚工作員になるんだよね)


・聖俗一致は、預言者ムハンマドの死後、
スンナ派では存在しない。

聖俗一致はヨーロッパでできた概念。

イスラムではムハンマドの統治は西洋と違うが聖俗一致。
しかし、
ムハンマドの死後、
後継者カリフにはアッラーとのコミュニケーション能力も
アッラーとの仲介者の役割も認めないスンナ派では聖俗一致はない。

対して、
ムハンマドの後継者を預言者と同じくアッラーに導かれた
無謬のイマームと考えるシーア派イスラームでは、
イマームの支配はムハンマドの支配と同じく聖俗一致、

預言者の権威は、
スンナ派では、
政治的権威はカリフとその臣下、諸侯、
法的権威はウラマー(学者)、
霊的権威はスーフィー(神秘家)
が担う形で分化。
ウラマーは直接政治に介入しないが、
イスラムの法の支配はウラマーにより守られてきた。
一方、
人々の死や病気などの悩み事、
精神修養といった心の問題はスーフィーが受け持った。

こうした文化もアッラーの啓示に基礎づけられるので
やはり権威は啓示に帰一する。

・ウラマーは文字通り学者たち(単数形はアーリム)であり、聖職者ではない。
学僧のような存在でもない。
ウラマーには、絶対者と人間を仲介して救済をもたらす権能もなければ、
平信徒とは違った特別な戒律もないことから、
やはり聖職者とは違う。

(耶蘇よりもはるかに神の下の平等を体現している)


・ジズヤ(人頭税)が課税されるのは成人男性だけ。
講和の場合は、額は交渉次第。

ジズヤは人頭税と訳されるが、典拠はクルアーン9章29節。
啓典の民、つまりユダヤ教徒、キリスト教徒に対しては、
ジズヤを払うまで戦わなければならないと命じている。
この句は、一般に多神教徒に対するジハードの命令の、
ジズヤ支払いによる講和を許す例外規定とみなされているが、
啓典の民以外の扱いについては見解が分かれている。
ゾロアスター教徒が啓典の民に準ずる者として講和の対象となり、
庇護民として永代居住権が与えられることはイスラーム神学のコンセンサス。

彼ら以外については背教者がジズヤを払っても永代居住権を与えられないことには
異論がないが、

その他の異教徒については全てが認められるとするマーリキー派、
(マディーナの慣行を預言者のスンナの表現と考えた)

全て認められないとするハンバリー派、
(ワッハーブ派、サラフィー主義者の源流)

シャーフィイー派、
(古典イスラーム法学の基礎を築いた)

シーア派、

そしてアラブの多神教徒を除き全て認められるとするハナフィー派
(特にトルコ、チュルク系諸民族の間に広まる。
オスマン帝国、ムガール帝国の公式法学派。
アフル・ラアイ=自由裁量学派=理性重視。
ハディース学派よりも認められる範囲が広い。
範囲が広い分、トルコにメイソン教が入り込みやすかったんだろうな。


※自由裁量学派と対立するのが、
ハディース重視のアフル・ハディース
=ハディース学派であり、
こちらはスンナ派四法学派の内、
ハナフィー以外が属す。つまり、
マーリキー、シャーフィイー、ハンバリーが属す)

で見解が分かれる。

ジズヤは女性、子供、無職の貧者は最初から免除されており、
課税されるのは成人男性だけ。

額はカリフが決める。
戦わずして講和が成立した場合は額は交渉次第。
ジズヤの支払いに応じた場合には、
ムスリム側には拒む権利はなく、講和は義務。
ジズヤの支払いによる庇護契約は、
ムスリムには確定契約でいったん締結されると破棄は許されないが、
異教徒の側からはいつでも取り消し破棄することが許されている。

イスラム圏の税金は超安い。
というか日本が高すぎ。
日本の消費税率は8%なのは嘘。
多重課税で20%を超える。
しかも生活必需品にも課税。
貧乏人ほど苦しむ地獄。
ジズヤは女性、子供、無職の貧者からとらないことが重要!


永代居住権を簡単に与えると、
集団引っ越しで乗っ取られちゃうからね、規制しないとね。

拝火教を優遇しているなあ。元ネタだもんね。
でも、イスラムは拝火教を否定しまくる内容。
拝火教では、犬は善、飲酒OK、断食は悪など。
イスラムだと犬は悪、飲酒ダメ、断食は義務



・イランの十二人のイマームのポスターの画像。
12代目の隠れイマーム(874年に姿を消したムハンマド・ムンタザル)
の顔は描かれていない。
(イマームの姿を顔ありで描くのはOKだという点に注目)


イブリース(悪魔)は火から作られたとクルアーンに述べており(7章12節)、
最初から天使とは組成が違う別種の存在。
悪魔を堕天使とする考えはイスラムにはない。

クルアーンには多くの天使が登場するが、
はっきりと固有名詞が記されているのは、
ジブリールとミーカール(ミカエル)だけ。
ジブリールは啓示をつかさどる天使で、
ムハンマドに最初にクルアーンを伝えたのも、
エルサレムのアクサ―・モスクからの昇天でムハンマドの先導を務めたのもジブリール。
ジブリールの本体は600の翼を有する巨体だが、
人間の姿をとってムハンマドのもとにしばしば現れたとも伝えられている。

三大天使とは、
啓示を司るジブリールを筆頭に、
地上の糧を差配するミーカール、
クルアーンには名前が述べられていないが、
復活の日を告げるラッパを吹き鳴らすイスラーフィール。
また、クルアーン32章11節にある死の天使はアズラーイール(アズラエル)とされる。

墓での尋問を担当するムンカルとナキール、
火獄(ジャンハンナム)の番人であるマーリクも固有名を有する信ずるべき天使であるとも言われている。
クルアーンによると、すべての人間にはその行為を記録する二人の守護天使ラキーブ(監視する者)、
アティード(待ち構える者)がおり(50章18節)、

マーリク以外にも火獄にはザバーニヤと呼ばれる獄吏天使群がいる(96章18節)。
イスラムの世界観では天と地は神を褒め称えてやまない有名無名の無数の天使に満ちている。

(堕天使は悪魔ではないのがイスラム)


天使の細密画の画像。
(顔は削られていない)

・ムスリムがクルアーン以外の啓典も信じているといっても、
タナハ=ヘブライ語聖書や聖書を信じていると思うのは二重の意味で誤解。
第一にムスリムが信ずるのはタナハや聖書ではなく、
タナハでは律法や詩編など預言者たちが授かった諸啓典のみ、
新約聖書では預言者イーサー(イエス)が神から授かった福音書のみであるからであり、
第二に、
現行のタナハの『律法』(モーセ五書)、『詩編』、新約聖書のいわゆる四福音書は改竄されており、
オリジナルなムーサ―(モーセ)の『律法』、
ダーウード(ダビデ)の『詩編』、
イエスの『福音書』とはまったくの別物だからだ。

(新旧聖書は改竄されている!って立場ね。
コーランは改竄されていないの?)


・すべての民族は過去に使途が送られている(クルアーン16章36節)。
最後の使徒がムハンマド。
預言者の数は十二万四千人、
そのうち使徒の数は313人。

(多い)

・シーア派の内、
十二イマーム派
(イマームを預言者と同じ無謬の存在と考え
政教一致の体制を志向)
がイランの国教で、
イラク、バハレーンで多数派で、
レバノンでも有力。

ザイド派がイエメンで多数派。
インド、パキスタンなどにはマイノリティとしてイスマーイール派が存在する。
イスマーイール派はアッバース朝時代に、
北アフリカにファーティマ朝を建国。

(インド!
~派の覚え方=区別の仕方は、
誰を後継者にするかでもめたか把握すること!)

・信仰告白に特別な場所、手続き、儀礼はない。
預言者ムハンマドの弟子ウサーマ(674年没)が、
ジュハイナ族との戦いに派遣され、一人の男を刺し殺そうとしたときに、
その男が
「アッラーの他に神なし」と唱えたにもかかわらず、刺し殺してしまった。
ムハンマドは
「お前はアッラーのほかに神なしと証言した者を殺したのか」
と厳しく咎め、
ウサーマが「彼は命が惜しくてそう言ったのです」と抗弁すると、
お前は彼の胸の中を割い(て知っ)ったのか」と譴責されたとの真正な伝承もあり、
ハナフィー派は、多神教徒や無神論者の入信には神の唯一性の承認だけで十分だと述べている。
他方、ハナフィー派は、ユダヤ教徒やキリスト教徒のような、
もともと預言現象を認めていた者は、
ムハンマドが神の使徒であることを認めるだけでは不十分で、元の自分の宗教との絶縁が必要としている。

イスラムは内心には踏み込まない。
外から観察できることで判断する。
その人が本当にイスラム教徒か判断できるのは神のみだからね。


没年だけ書くのがイスラムの慣例なのだろうか?
あと預言者などの特別な存在の後に付ける祝福文句も省略している)


・サダカ(自発的な施し)
二人の人間を仲裁することはサダカ、
人がロバに乗るのを助け、
荷物をそれに載せてやるのもサダカ、
優しい言葉もサダカ、
礼拝に向う歩みもサダカ、
道に危ないものが落ちているのを拾うのもサダカ、
同胞にほほえみかけるのもサダカ。

サダカの語義は正義、誠実。
ユダヤ教で正義、浄財を意味するヘブライ語ツェダカー(義務の浄財)と同じ語源。


クルアーンは、あらゆる民族にはイスラームが伝えられた、
つまり人類すべての民俗の原宗教がイスラームであることを示しており、
イスラームの普遍主義の典拠となっている。
(!?)


・イスラムで最も重大な罪は、
法学的なハラーム(禁じられたもの)ではなく、
神学的な多神崇拝(シルク)。


・イスラームの月は新月が見えた時点で始まるので、
ラマダーン月の始まりもラマダーン月の終りも新月を目視することで始まる。
雨などで新月が見えなくとも一か月が三十日を超えることはないとされているので、
ラマダーン月の日数は29か30.
ラマダーンは酷暑を意味する動詞ラミダの派生語だが、
イスラーム暦は太陰暦で毎年ずれていくので必ずしも暑い月というわけではない。
飲食や性行為を慎む。
ラマダン月の善行は特に推奨されていることもあり、
モスクで日没の礼拝後に断食明けの食事が無料で振る舞われ、
貧しい人々もラマダーン月の一か月間は満腹するまで夕食が食べられる

一方、
大食して太る者も増えるのが現代のムスリム社会の実情。

(ラマダン明けにまぐわいまくるやつがいるだろうな。

新月が「見」える?)


・ムハンマド「結婚は信仰の半分」
イスラムで結婚は奨励されている。
イスラームに修道院制度(ラフバーニーヤ)はない、
とも言われており、独身が貞操として推奨されることはなく、
去勢は禁じられている。

イスラムにはキリスト教のような性の罪悪視はないが、
性行為も売買と同じく契約行為
とされ、
契約によらない性行為、つまり婚外交渉は不法行為、姦通罪とみなされる。
姦通罪で守られる法益は血統であり、家族制度。
イスラムでは結婚契約によらない性関係は全て厳禁。
婚外交渉に対しては男女を問わず未婚者には鞭打ち100回、
既婚者には投石による死刑が科されるが、この石打ち刑はイスラム法の中でも最も過酷な処刑方法。

夫の義務は妻の扶養であり、
妻の義務は夫の許可なく外出しないこと。
性行為は夫の権利であると同時に義務であり、
性行為ができない夫に対しては妻は離婚の権利を得る。
家事や子供の養育は妻の義務ではなく、
召使の雇用が夫の扶養義務に含まれる。
授乳ですら妻の義務ではなく、夫が乳児に乳母をあてがわねばならない。
近代西欧で作られ日本に輸入された良妻賢母の概念をイスラムに投影することは慎まなくてはならない。

(遊牧民は血縁が土地の代わりなので極めて重要。
民族乗っ取り対策でもある)


・イスラム法における刑罰
来世における懲罰。

イスラム法の根本概念は来世での懲罰と報奨によって定義されているので、
ムスリムにとっての刑罰とは一義的に来世での最後の審判による懲罰。
最後の審判の日は清算の日と言われ、
天秤が置かれ善行は右の、
悪行は左の皿に置かれ、
右が重かった者は楽園に入り、
左が重い者は火獄に落ちる。

クルアーン11章114節は「善行は悪行を消し去る」
と明言しており、
現世の災難もまた悪行の贖罪、来世の懲罰の先取りとなる。


重要なのは、罪を一つ犯すごとに逮捕され裁判にかけられるのが原則である欧米の法とは異なり、
イスラムの教えでは審判は復活の日の最後の審判の一回だけ。

来世における最後の審判を信ずるだけでなく、
法の裁きがなくとも現世でも善悪の因果応報が存在すると信じ、
また悪行を犯した後でも善行による贖罪により来世の懲罰の軽減が可能
であるとの刑罰観を有するムスリムの法意識は、
多くの日本人や欧米人の法意識とは全く違ったもの。

・イスラームでは泥棒は罰として手首を切断される話は、
日本人でも知っている人が多いかと思う。
実は窃盗に対する罰ではない。
クルアーン5章38節で命令されているのは、
盗みの禁止ではなく、
為政者に対する窃盗の手首を切断せよとの命令であり、
その命令を執行しないことは神の命令への反逆にほかならず、
そのこと自体が来世での火獄の懲罰に値する罪である。



タキーヤ(身を守ること)
=自分の信仰を明らかにすると危険な場合に信仰を隠すこと。

スンナ派ではタキーヤは認められている一方で、
生命の危険を顧みず殉教を恐れずに勇敢に信仰を貫くことがより優れている、
ともみなされている。

しかし、シーア派ではタキーヤが義務。
スンナ派支配下でタキーヤにより信仰をタキーヤにより信仰を隠して暮らしている
シーア派コミュニティの存在を危険にさらす恐れがあるためである。

(思想誘導系の工作員が耶蘇とその派生のくせに
タキーヤしまくってて卑怯すぎる件。

スンニ派もタキーヤできる。
シーア派も危険がなければ普通に信仰告白するよ)



・イスラーム法の規定するアブドは奴隷slaveとは似て非なる概念。
イスラームは債務奴隷制度を認めていないため、
イスラーム世界では新たに奴隷になる者はいない。

ムハンマドのハディースに基づき、
アブドの主人には自分の扶養家族と同様にアブドを扶養する義務がある。
気に入らないアブドに対するパワーハラスメントの禁止と、
転職の斡旋が命じられている。アブドの虐待も厳禁。
ハディース「自分のアブドを殺した者は我々は同害報復で殺す」


ムハンマド
「従順で気に入ったアブドにはお前が食べるものを食べさせお前が着るものを着せなさい。
気に入らないアブドは売りなさい。アッラーの被造物をいじめてはならない


・イランのアルメニア正教会の天使画の画像。


・十字軍はエルサレムを攻略するとムスリムだけでなく、
ユダヤ教徒や東方の諸教会のキリスト教徒住民に対しても
「血が膝の高さに達するほどになった」とも言われる大虐殺を行い、
その後も非道な扱いを繰り返していたが、サラディンは捕虜を殺さず解放し
敵に対しても礼節を守り寛大であったため、
敵の十字軍からも騎士の鏡として名声を勝ち得た。

宗教を超えた騎士の鏡としてのサラディンの名は西洋にも長く記憶され、
ダンテは『神曲』にて預言者ムハンマドを地獄に入れている一方、
ソクラテス、プラトン、アリストテレス、
シーザーら異教徒の偉大な哲学者や政治家と共に、
哲人たちに囲まれて座したる”智者の師”(サラディン)を、
私は仰ぎ見たと記している。

(でもイスラムの影響が指摘されている『神曲』)

・ジャラールッディーン・ルーミー
十三世紀のペルシャ最大の神秘主義詩人。

マウラーナー(我らが師)が別名。
1273年没。
『精神的韻文(マスナヴィー・エ・マウナヴィー)』
はペルシャ語のクルアーンと言われ、
ペルシャ神秘主義詩の最高傑作と言われる。
ルーミー自身はスーフィー教団を組織化しなかったが、
弟子たちによってルーミーの廟のあるトルコのコンヤを中心に
彼を名祖とするメヴレヴィー教団
(メヴレヴィーはマウラーナーと同義のトルコ語で我が師を意味する尊称)
が形成された。
セマーという独特の音曲を伴う旋回ダンスの形式のズィクル(念神)
を特徴とし、ルーミーの子孫を母とするメフメト一世ら
オスマン朝のスルタンたちの手厚い庇護を受け、
踊る修道者 whirling dervishes
として西洋でも有名だったが、
オスマン朝を滅ぼしたトルコ共和国によりスーフィズムが禁じられたとき、
教団は解散させられ、
コンヤのルーミーの霊廟、
メヴレヴィー教団は法律上その存在を禁じられたままだが、
セマーは観光用の興業として演じることが許可
されており、
トルコ国内だけでなく、海外公演も盛んで、
たびたび来日もしている。
ルーミー自身はスンナ派のムスリムだったが、
イランのシーア派のイスラーム学者たちの間でもそのペルシャ語神秘主義詩は高く評価されており、
またムスリム世界を超えてスピリチュアリストたちの間で人気が高く、
その英訳はマドンナやデミ・ムーアらによって朗読されたものがCDになって販売されている。


(トルコ建国の父がメイソン=ヤソ異端だし、
トルコにはメーソンロッジあるし、
世俗主義=ライシテ教=メーソン教だし、
トルコはメーソン教に浸食された。
イスラム圏ではメーソン禁止、
たしかロータリーも禁止。
スーフィー禁止するなんていかにもメイソン教だねえ。
スピ系がルーミーを評価しているのに注目。イラン大好きなメーソン)


・ムハンマド・ラシード・リダー
が現代のサラフィー主義の興隆を理論的に準備。
リダーはイスラーム改革を唱道する雑誌『マナール(光塔)』を発行。
この雑誌はクルアーンとスンナを直接参照して現代の問題に対応する規範を引き出さねばならないと
イジュティハードの義務を説き、
法学派の定説の拘束性を否定し、
神学とスーフィズムをクルアーンとスンナの教えから逸脱するものとして否定するサラフィー主義

アラブ世界だけでなく、インド、東南アジアにまで広めた。
インドネシアのムハンマディアや
アルジェリアのウラマー協会は『マナール』の影響下で作られた。
リダーは『ヒラーファ(カリフ制)』でカリフ制の義務を説いた。
サラフィー主義と近いワッハーブ派の後のサウディアラビア国王
アブドルアズィーズ・ブン・サウード
を支持し、アブドルアズィーズもリダーを援助。
『マナール』を主催したリダーとアブドルアズィーズの協力関係により、
サラフィー主義の祖とみなされるイブン・タイミーヤの著作が校定・出版され
イスラーム世界各地に普及したことが現代のサラフィー主義の興隆を理論的に準備することになった。

(サラフィー主義って反知性主義じゃん。
反知性主義はイスラムに反するね。
酒が禁止なのは理性と考える力、判断力を失わせるからだし。
サラフィー主義ってプロテスタント原理主義に都合がいいなー)



・ムハンマド・ブン・イブラーヒーム・アール・シャイフ
西洋の人定法の継受は多神教であり背教である。
アール・シャイフ(シャイフ家)とは、
ワッハーブ派の名祖アブドルワッハーブの子孫を示す。
ワッハーブ派では、アブドルワッハーブとサウディアラビア王族の祖サウードの政教盟約以来、
ワッハーブ派の政治指導者をイマーム、
宗教指導者をシャイフと呼ぶ。
アール・シャイフは、サウディアラビアの西洋化、特に人定法の継受に激しく反対。
西洋の人定法の継受が背教にあたり最悪の多神崇拝
であると断じた著書
『タフキーム・カワーニーン(人定法に裁定を求めること)』
は小著ながら現代ワッハーブ派の最重要作品。
アール・シャイフはサラフィー・ジハード主義の形成に大きな影響を与えたが、
影響は現在のIS(イスラム国)にも及ぶ。

人定法は一神教ではないというのは正しい。
しかしイスラームで王族認めるのってまずいのでは?
王はどうしたって神格化されるから


解放党
平和的なカリフ制樹立を目指す国際イスラーム政治団体。
解放党はカリフ制の憲法、国家組織、経済論などについて数多くの研究を公刊しており、
それらの学習を終えた者にのみ入党を認めている。
解放党は、領域国民国家、民主主義はイスラームの考えに反するとして
既存のムスリム諸国のすべての政府の支配の正当性を否定するが、
カリフ制の樹立の方法論を、預言者ムハンマドの事績に倣い、
有力者に助力を求めて説得することで、
平和的にカリフ制を樹立すべきと考える点で、
他のサラフィー・ジハード主義諸組織とは一線を画しており、
IS(イスラーム国)がカリフに擁立したアブー・バクル・バグダーディーは
カリフの資格を満たしていないとして認めていない。

2013年、インドネシア解放党の国際カリフ会議での著者の写真。
(著者の立場がわかる)


(イスラム関連年表がついてきたの覚えやすそうなの抜粋。

570頃ムハンマド誕生 六世紀
609頃ムハンマド啓示を受け宣教開始 七世紀
(上下逆にしても609。
誕生からサンキュー39後)

622ヒジュラ(足して十)
632ムハンマド死去(ヒジュラの十年後)

650頃クルアーン結集(ムハンマドが死んで18)
651サーサーン朝ペルシア滅亡(クルアーン結集の翌年)

909ファーティマ朝成立 十世紀
1171ファーティマ朝をサラディンが滅ぼす 十二世紀


歴史の勉強法。
年号だけ覚えても無意味。
時代→世紀→年号の順で覚える。
重要なら年号まで。
重要なら最低でも世紀まで覚えていないと、
勉強が足りない。

いつどこで誰がどのように起こしたか、
目的、発端、最盛期、衰退期、
結果、影響、勢力関係など。

イスラームよりイスラムという記述を私が好むのはその方が短いので早く打ち終わるから。
回数が数百、数千超えるとだいぶ時間が浮く。
ですます調をできるだけ避けたいのも同じ理由。
丁寧にするととにかく長くなるからね。)

・バハイ教は、日本では、
1914年に来日した米国人バハイ教徒アグネス・アレクサンダー女史によって宣教の基礎が築かれ、
1932年に日本にもバハイ教の行政機関である地方行政会が、
1974年には日本全国行政会が設立されている。
柳宗悦の民芸運動と深く交流したイギリス人陶芸家バーナード・リーチが信仰したことで有名。

(柳宗悦が優遇される理由がこれ。
しかも神智学系の鈴木大拙の弟子。
朝鮮とのゆかりもある。

リーチは1940年、画家のマーク・トビーとの交友を通じバハイ教に入信。

STB‏ @RC_StB 2015年7月20日
英国詩人の大家ウィリアム・ブレイク
スウェーデンボルグの影響を受け、
独自の神話体系には「世界卵」が登場
日本の本格的受容の切っ掛けとなった紹介者柳宗悦は鈴木大拙の弟子で、
その子供は志賀直哉の子供と結婚



・大川周明は日本のイスラム研究の創始者とされている。
東京帝国大学の哲学科に進学し、
宗教学、インド哲学を専攻。
マルクスを読み社会主義も学んだが、
唯物論に飽き足らず、
万教帰一的な新興宗教団体「道会」に加入。
インド独立運動にもかかわる。

南満州鉄道に入社し、
東亜経済調査局の編集課長となり、
その後、東亜経済調査局を財団法人として独立させ、その理事長となる。
イスラム研究者育成をはかり、
東亜経済調査局は、
井筒俊彦や前嶋信次のようなイスラム学の泰斗を輩出。


大川の師匠である姉崎正治が、大川の『回教概論』を絶賛。
大川はコーランも翻訳。

(なお、イスラムでは法人は禁止。
頭おかしくなったから処刑されなかったのって茶番でしょ。

道会がどうみても万教帰一、世界連邦側の儒教的キリスト教。
そこに属していた大川がイスラム研究しているのが重要。
道会の二代目会長の松村吉助がユダヤ陰謀論本を出していることも重要!


歴史が眠る多磨霊園 松村介石
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/M/matsumura_k.html
”1859.10.16(安政6)~ 1939.11.29(昭和14)
明治・大正・昭和期のキリスト教指導者、
宗教家、教育者
1870(M3)上京し、安井息軒の塾にて儒教を学び、のち京都の市村水香の塾、神戸にて無月謝で英語を教えてくれるアトキンソン宣教師に英語を学ぶ。
1876横浜のジョン・クレイグ・バラ学校(バラが主任教授をしていたヘボン塾)に学費が安いという理由で入学。 ここで聖書に触れ、
「キリスト教で解く神は、儒教の天帝、皇天に他ならず」との天啓にうたれ、キリスト教
に入信。
1880バラ学校が東京築地に移転し築地大学となるにあたり、介石は舎監として働き、また同じ築地にあった一致神学校(明治学院)でキリスト教を本格的に学ぶ。しかし、わずか2ヶ月で外人教師たちと対立して辞める。
 1882キリスト教に対する熱意と才能を惜しんだ新島襄と金森通倫(15-1-13)が、
備中(岡山)の高梁教会の牧師として迎えた。
当初18人であった信者を1年間で118人に増やした。
しかし、備中は反基督教色が強い土地であり、治安を取り締まるべき警察署長が公然と、基督教会追放を唱え住民を煽動することもあり、
1884高梁教会迫害事件が起きた。
集会中の投石等で負傷者が出るも、迫害にくじけない意志のもと毎週の集会を続けた。迫害は続き、暴徒達を前に「しばらく時間をくれ、私が声の涸れるまで弁じて、最早声がでなくなったら石でもって自分を殺してくれ」と最後の演説を嘆願し命を賭けた演説を行った。 結果、当時の高橋岡山県知事の耳にも入り、県知事が派遣した警部と巡査が暴動の最中に到着したため、今まで煽っていた警察署長が驚き、暴徒達に解散を命じたため、介石の命はつながった。
 高梁教会を去り、「福音新報」、「基督教新聞」などの主筆を務める。その後、山形英学校を経て、北越学館教頭となる。 北越学館は1887新潟に設立された基督教系学校で、教頭の内村鑑三(8-1-16-29)が学校側と対立(北越学館事件)で去った後任として呼ばれた。 事件後混迷する生徒たちに向かって、介石は基督教色が強い学校において、陽明学の「良知良能」を基礎とした教育を施す決意をし、校則を全廃すると告げた。しかし、「自ら省みて悪いと思うことは一切してはならない。ただ善と思うことのみをすべきである。これが我が校唯一の校則である」と宣言したという。 この生徒の良心に訴える校則全廃運動は当初は勝手振舞う生徒たちが多かったが、介石の生徒たちへの諭しにより、赴任中の2年間は生徒たちに受け入れ何の問題も起きなかったという。
 1890リンカーンの伝記である『阿伯拉罕倫古龍(「リンコルン伝」)』(アブラハムリンコルン)や『修養録』を著す。
1892から5年間、東京神田の基督教育年会館で道徳教育講話や古今東西の英雄豪傑伝の講演を行ない、毎月6000人もの聴衆が集まる盛況であった。
1896頃「足尾銅山鉱毒事件」にも深い関心を示し、田中正造とともに鉱毒地を見て回ったり講演会を開いたりもした。
1905鎌倉に閑居して「万国最近史」を執筆。この頃より、宗教にも教育にも社会事業にも収まらない幅広い活動が、かえって介石に「一体吾は何を為さんとするのか」との疑問を抱かせることとなる。 加えて、キリスト教指導者として活動をする途上において、来日している宣教師の東洋人を差別して見下げる態度や戒律を守らない姿勢、キリスト教にも様々な宗派が存在すること、またその神学にも互いに矛盾するような教理があり、加えて、旧約聖書にあるおとぎ話的内容の疑問とダーウィンの進化論など、改めてキリスト教と向き合うことが多くなる。 そして「真に生ける宗教をもってその大任を全うするべきである」という内容の天啓を受け、伝導に一生を捧げる一大決心をするに至る。
 '07古典的な正統派のキリスト教から離れ、老荘・王陽明の思想と日本古来の思想を融合した、特定の教派に属さない、儒教的キリスト教を解く宗教団体「日本教会」を設立。
その信条は神を信じる事「信神」、
徳を修めること「修徳」、
人を愛すること「愛隣」、
霊魂不滅の「永生」の4ヶ条である。
機関誌「道」を発行。大倉孫兵衛・森村市左衛門ら財界の支持を得た。
'08相互に精神的交友を結ぶ目的として「道友会」を結成。
新渡戸稲造(7-1-5-11)や尾崎行雄など各界名士が参加した。
'09「心象会」を結成し、藤田霊斎の「息心調和法」や心霊治療の普及に尽力し、翌年、「真養会」を組織して、藤田霊斎の「息心調和法」を重要な修行法のひとつとし、
更にこれを大隈重信に紹介したり、宮内大臣に頼み調和法の本を天覧に供したりしたため、世間では「呼吸法ブーム」「強健ブーム」が巻き起こった。 他にも、哲学・宗教・道徳などを、普通の人々にも解りやすく解説するために、講談のスタイルをとって講釈する「教談会」の結成や、毎月青年たちの弁論大会を開催した「不朽青年会」を結成した。
'11日本教会を「道会」(どうかい)と改称する。道会の中心的存在として大川周明らがいる。

松村吉助
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/M/matsumura_kt.html
”長野県出身。旧姓は香山。道会始祖の松村介石(同墓)の養子となり、1939(S14)介石没後、儒教的キリスト教を解く宗教団体「道会」(みちかい)の二代目会長となる。
'56(S31)「真に世に役立つ人」を育てるため宗教法人道会附属 松村幼稚園を創設した。 幼児の個性を大切に慈愛をそそぎつつ育くまれることという幼童を「道会」に加えた。また照子夫人の内助の功による婦道も教示。
主な著書に『猶太民族と世界制覇の陰謀』(1944)、『暗夜を憂うること勿れ―言志四録抄』(1949)などがある。 ”)


ねこた(なつやすみ)‏ @lakudagoya 7月13日
その他
モグラくんのツイート光ってるからもっと研磨できたら良いと思うけど、私もそれ手伝えなくてすまない。

で、この前は手のネタにお気に入りありがとうですが、大本教ってそーとーにイスラーム・シーア派に心酔して背乗りしようとしてるとわかって唖然ですね。大本の陰謀を暴いた功績は凄いかと。


村手 さとし‏ @mkmogura 7月13日
返信先: @lakudagoyaさん

時代背景もちゃんと読まないと。
イスラーム心酔とかが、一時のキリスト教界も含めて帰一教ブームだったからなのか、のっかっただけの話か、それとも、それ以上なのかで全然ちがう。ブッシュ祖父がスピリチュアルを盛り上げてだけど、今はキリ原理右派とスピは犬猿でしよ?


ねこた(なつやすみ)‏ @lakudagoya 7月13日
その他
返信先: @mkmoguraさん
帰一教ブームに乗ったというのもありますし、キリスト教のダメさをシーア派の御用理論が天皇御用理論として鞍替えしようとしたのではないかな?と。

でも戦後はそれを忘れ去られてるって感じかも?

プッシュの分析については親父がスピってたのですね。知らなかった。

村手 さとし‏ @mkmogura 7月13日

いっときの思想と根本かどうかで、全然意味はかわる。
本当に大本とイスラームの分析をしたいなら、大本自体は追いかけにくいから、エスペラント語をキーワードに年表作って、調べれば少しはわかるかもね。
英国、ブリッジチャーチ、バチカンの帰一教宣言とかも、もちろんシンクロして調べるの。


答えはどこかに書いてあるものではない。あなたが、考えてひねり出すものだ。 信じるな、疑え。読むな、分析しろ。 他人に自分を批評されたとして、嬉しくて共感できる自己評価より、むしろ、どうしても嫌だなと思うけど、当たってるなと納得してしまうものの方が答えでしょ? 全ての情報同じだよ、


(親父? 祖父? 間違ってない?

仕組まれたスピリチュアルブーム(神学の改悪=宗教改革)。『近代スピリチュアリズムの歴史』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-78.html
”入神中のデイヴィスの口述を筆記することを引き受けた牧師フィッシュバウのおかげで、
1845年11月、デイヴィスの最初の大著でありその後の著作の根幹となる『自然の原理――その聖なる啓示と人類への声』の筆写が始まった。この時デイヴィスは19歳。デイヴィスはその1年前まで無学な職人だった。
著作の大部分は口述のままであると、フィッシュバウ牧師(筆記担当)とライオン博士(催眠担当)の二人の協力者は言っている。
これは、奇蹟を見ようと押しかけてきた多くの者(エドガー・アラン・ポーもその一人)が目撃している。
その中のジョージ・ブッシュというニューヨーク大学のヘブライ語教授は、デイヴィスがヘブライ語を正確に引用していると証言した。ブッシュは更に「この本は深淵にして精緻な宇宙哲学を述べたもので、そのコンセプトの壮大さ、論旨の正しさ、説明の明瞭さ、記述の秩序正しさ、内容の百科事典的拡がりにおいて、これを凌駕する書物を見たことがない」とまで褒めた。
ブッシュ教授の熱心な推奨もあって、
1847年に出版され、その後30年間に34版のロングセラーになった。
が、ブッシュ教授は出版されると間もなく、わざわざ小冊子を発行して、デイヴィスの本には数多くの誤謬や偏見や荒唐無稽なことが書いてあるから世間の人たちは気をつけたほうがいいと警告した。
この態度の変化は一説によると、デイヴィスのキリスト教に対するスピリチュアリスト的な考えが明瞭になり、敬虔なキリスト教徒であるブッシュ教授はそれについていけなくなったためだと言われている。


(1848年3月31日はスピリチュアル元年とも言える記念日。
この日に合わせて事件が起きるかも。

デイヴィスが新事態を予知したと信じたい人がいるでしょうが、デイヴィスが無学でありメスメリズムにであったわずか2年ではとても書けない本を書いたいうのは実に疑わしいです。
①初めからインチキ(ゴーストライター)
②特殊な能力開発法(メスメリズム?)による高速学習により超短期間で該博な知識と深い思慮を身につけたデイヴィス本人が全て言った(口述)。
③初め本物、途中からインチキ。
④初めインチキ、途中から本物。
⑤ときに本物、ときにインチキ
などいろいろなパターンが考えられますが、胡散臭いです。
1年前に出た本と当日に予言ってインサイダーじゃないの?
スウェーデンボルグというブルーブラッドがらみだし。
あのブッシュ大統領の先祖であるジョージ・ブッシュ教授(ブルーブラッド)はスウェーデンボルグ主義者だし。
デイヴィスが上記の「生きた人間がやって見せる(a living demonstration)」のような内容を何度も書いていたのかどうかが気になります。
ブッシュ教授の態度が豹変したのって、内容じゃなくて本当はインチキだと判ったからじゃないの?
いや、ブルーブラッドならインチキだと元から知っていたかな。

ジョージ・ブッシュ(1796– 1859 ニューヨーク大学教授で、スウェーデンボルグの翻訳がある)は、デイビスがヘブライ語、アラビア語とサンスクリット語で口述する彼の能力を調べた。そしてブッシュは、デイビスがスウェーデンボルグからチャネリングを受けたかもしれないと思った。
デイビスが、スウェーデンボルグの作品から剽窃していると考える者もいた。

アメリカの 現大統領の曾祖父の曾祖父にあたるティモシー・ブッシュの弟、ジョージ・ブッシュ博士(一七九六-一八五九)は、ニューヨーク大学のヘブライ語教授だった が、スウェーデンボルグ派の著名な教会員でもあった。彼はアメリカのスピリチュアリズム(心霊主義)興隆の仕掛人でもある。スピリチュアリズムの父と称さ れるA・ジャクソン・デーヴィスを世に出したのは彼だからである。
デーヴィスの教えに感化され、スウェーデンボルグ主義を標榜して、労働と冥想を重んずる「新生同朋団」を結成したのが、トーマス・レイク・ハリスである。
若き森有礼(ありのり)と新井奥邃(おうすい)が入団したのはこの教団にほかならない。有礼は帰国した後に初代文相となった。奥邃は三十年近く同教 団に残った。帰国したのは五十三歳。その後私塾を開き、高村光太郎をはじめ多くの人びとを感化した。田中正造も奥邃と親交があり、彼を亜聖と呼んでいる。”

このブッシュ教授が最初に出した本はなんと『ムハンマドの人生』!
なお、ムハンマドへの評価は悪い。


George Bush (biblical scholar)
https://en.wikipedia.org/wiki/George_Bush_(biblical_scholar)
"George Bush (12 June 1796, Norwich, Vermont – 19 September 1859, Rochester, New York) was an American biblical scholar, pastor, abolitionist, academic and advocate for the restoration of the Jews to the Holy Land. He is distantly related to the Bush political family.[1]

Bush graduated from Dartmouth College in 1818, and then studied theology at Princeton University, where he was a tutor 1823–1824. He was ordained in the Presbyterian ministry, spent four years as a Christian missionary in Indiana, and in 1831 became professor of Hebrew and oriental literature at New York University.[2]

His first book The Life of Mohammed was the first American written biography of the religious leader. It refers to Muhammad as "this remarkable man" and “irresistibly attractive", but is a largely negative assessment of him, showing him up as a fraud and hoaxer. It also takes a dim view of the state of Christianity of Muhammad's age. The book fell out of print, but became briefly controversial in Egypt in 2004.[3]

In 1845 he embraced Swedenborgianism and went on to write many defenses of his new faith.[6] He translated and published the diary of Emanuel Swedenborg in 1845, and became editor of the New Church Repository.[2])


『イスラーム入門』は、なぜ日本語史上最強のイスラーム入門書であるのか?
http://mkamiya.jugem.jp/?eid=716
”99の項目は第一章 法の宗教(1~24)、第二章 イスラームの下の暮らし(25~64)、第三章 イスラーム人物伝(65~77)、第四章 イスラームと現代(78~99)という形で、カテゴリーに分け配列され、単なる五十音順の配列ではない。ここが本書のミソである。



99の項目は、イスラームの思想史を扱う第一章「法の宗教」、イスラームの教えに則る信仰生活と社会を扱う第二章「イスラームの下の暮らし」、歴史上の有名なイスラーム教徒の略伝を纏めた第三章「イスラーム人物伝」、現代世界の問題を理解する鍵となる概念を解説する第四章「イスラームと現代」に分かれていますが、どこから読み始めても構いません。p241

「1 ムハンマド アッラーの啓示を授かり、イスラームを開いた預言者」や、「4 ハディース ハディース集成はクルアーンに次ぐイスラーム法の第二法源」、「10 スンナ派 預言者の逝去以来のムスリム社会の多数派」のように、知らない人にもとりあえずわかった気にさせる、一行におさまるような説明が目次段階ですでに加えられている。本文ページをめくることなしに以前読んだ記憶を喚起することもできるし、とりあえずの説明を人に対して行うことができ、便利なことこの上ない。


『イスラーム入門』は通読による一般的な理解、項目を調べることによる理解の深化、他人に説明する際の要約的一文の活用という風に三通りに使える便利な本なのである。


そうする中で浮かび上がってくるのは、(一部の集団を除き)イスラームという宗教の寛容性、奥の深さである。それは、何がイスラームの正しい知識であるかを、預言者ムハンマド以外の人は知ることができないという基本的な考えから来ている。そもそも判断の基準となる公的な機関が存在しない以上、杓子定規な判断があるはずだと考えるのは、キリスト教圏などの人間の類推から来る誤りなのだ。



 しかしムスリムであることと、イスラームを理解していることはイコールではありません。ムスリムであるからといって、イスラームの教えを正しく理解しているとは限らず、ましてやイスラームを体現していることにはなりません。誤りを犯さずイスラームを正しく知る無謬な存在は預言者だけであるというのがスンナ派の合意事項です。p12



 読者諸賢が目にするイスラームとはまず、こうしたイスラーム教徒たちが引き起こした出来事、紡ぎ出した言説、いや、それについての「噂」です。噂話とはえてしてあてにならないものですが、それはそれで構わないのです。噂の真相を知りたくなれば、自分の目でそれを見るにしくはありません。私たちは噂話を通して、世界の真実を知る旅に誘われるのです。本書はイスラーム教徒についての「噂」の中から特に人目を引きそうな99の項目を選び、現代の日本人の認識の枠組みと語彙を用い、同時にイスラームの視点から、できる限りわかりやすく語り直すように努めました。p240



99の項目以外に加わっている二つのコラムがある。近代日本のイスラーム理解を進めた二人の偉才としての、大川周明と井筒俊彦についてのコラムだ。とりわけ井筒の博覧強記ぶりは、初耳でないにせよ、魂が奮い立つ内容だ。



 英独仏露語などの現代ヨーロッパ諸語は言うに及ばず、ギリシア語、ラテン語、サンスクリット語、パーリ語などのインド・ヨーロッパ語族の古典語、アラビア語、ヘブライ語に加えてペルシャ語、トルコ語、マレー語といったイスラーム世界の諸言語など三〇以上の言語に通じた言語の天才で、他の追随を許さない語学力を生かして古今東西の思想、哲学の一次資料を読みこなして自在に論じ、独自の東洋哲学を樹立しました。世界に発信し、高名な人文科学者が集うエラノス学会を活動の場として空前絶後の碩学との国際的評価をかちえましたが、イスラーム研究においても、クルアーンの意味論、イスラームの神秘主義の分析に大きな足跡を残しました。p233-234

マイモニデス
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/shinpi/maimonidesu.htm
”12世紀の最も重要なカバリストと言えば、やはりモーセス・マイモニデスことモーゼス・ベン・マイモンであろう。
 彼はカバリストであると同時に、アリストテレス主義者であり、新プラトン主義者でもあり、これらの思想を両立させようとした哲学者であった。
 彼はしばしば、「中世の最も偉大なユダヤ哲学者」とまで呼ばれる。

 マイモニデスは、1135年コルドバのゲットーで生を受ける。
 コルドバでは多くのユダヤ人が居住し、ユダヤ文化が花開いた都市でもあるが、同時に過酷なユダヤ人迫害が何度も行われた町でもある。迫害者はキリスト教徒のこともあったし、イスラム教徒のこともあった(イスラム勢力が駆逐された後もユダヤ人迫害は何度も起こり、15世紀の大迫害によって、ゲットーは消滅する)。
 1148年、狂信的なイスラム教徒アルモハズ派がコルドバを占領すると、ユダヤ人達は迫害を受けた。
 マイモニデスの一家は、この迫害を逃れて、8~9年間に渡る放浪の旅を行う。彼らはスペインの南部をさまよった。少年だったマイモニデスは、この間、教養人だった父親から教育を受けた。
 また、彼は25歳までラビ・ユダ・ハ・コーヘンというラビに師事し、ユダヤ神学を学んだ。さらに医学の勉強も開始していた。
 1160年、彼の一家は北アフリカのモロッコはフェズに居住した。フェズは、何かとカバラと関係の深い町である。ここにおいて、マイモニデスは学者としての活動を開始する。ユダヤ暦に関する論文、論理学に関する論文、そして彼の主著たる「発光体」の下書きにも取り掛かったらしい。
 しかし、このフェズも安住の地とは言えなくなった。狂信的なイスラム教徒アルモハズ派の猛威が荒れ狂い始めたのである。ユダヤ人達はイスラムへの改宗を強制され、従わない者はリンチで殺されることも珍しくなかった。
 1165年、彼の家族はフェズを脱出する。パレスチナへの移住を決心したからである。一家は船に乗り、嵐に悩まされ、どうにかパレスチナノのアークルに到着した。彼らは聖地を巡礼したが、エルサレムは安住の地にはなり得なかった。ユダヤ人は少なく、しかも貧しい町だった。
 結局、彼らはパレスチナ居住をあきらめ、エジプトへ向かう。アレクサンドリアに2年間住んだ後、カイロへ行き、そこを住居に定める。
 そこで、弟の始めた宝石商が成功し、やっと一家は安定した生活を手にすることができた。
 マイモニデスも学問に専念することが出来るようになった。
 彼が夥しい著述活動を開始するのも、この頃からである。
 1168年に彼はタルムードの注釈である、代表作「発光体」を発表する。これは、現代でも非カバリストのタルムード研究者達からも高い評価を得ている。
 1170年には「戒律の書」なる613の命題からなるユダヤ教戒律の注釈書を出す。
 さらに彼の研究は、カバラや占星術にもおよんだ。
 しかし、1174年、突然大きな不幸が襲う。一家の生活を支えていた弟が商用旅行の途中、海難事故で溺死。これは経済的打撃はもちろん、兄弟仲が良かっただけに精神的ショックも大きく、これがきっかけで彼は病気にもなった。
 彼は、生計を支えるために医者を開業する。もともと医学の知識は豊富であったが、実践経験は無かったために、不安なスタートではあった。しかし、彼は医者としての才能があった。それも天才級の。
 たちまちのうちに、彼は名医と呼ばれ、イスラムの王侯貴族達を診察し、遠くイギリスのリチャード1世からお呼びがかかるほどの成功を手にした。
 また、彼の学識と人格は、エジプト在住のユダヤ人達から高く支持され、「フォスタットの聖人」と呼ばれるまでに至る。
 
 さらに彼は「迷える者の手引き」を著す。これは、ある意味、もっとも重要な著書であろう。
 この著書は、後にラテン語に訳され、キリスト教神学者達からも高い評価を受ける。アルベルトゥス・マグヌス、トマス・アキィナス、マイスター・エックハルト達だ。
 この著書では、彼はアリストテレス主義をユダヤ神学に導入しようとした。

 神は第一の動因であり原因である。神の実在はアリストテレスの論理によって証明可能である。すなわち、アリストテレスの「自然学」や「形而上学」の言うところの「存在の連鎖」の概念に基づいて、これを論じている。
 先にも書いた通り、神は被造物に対する第一の動因であり原因である。神それ自身は純粋現実態として被造物から、かけ離れている存在であるがゆえに、その「本質」に関しては肯定的な知識を我々は持つことが出来ず、否定的な道によってのみ認識可能であると考えた。
 これは、かの有名なトマス・アキィナスの「第一の神の証明」の前身にあたる考え方である。
 彼は、決してアリストテレスの盲目的な信望者ではない。むしろ、新プラトン主義の思想を援用することにより、一神教を理論的に解析し、旧来のアリストテレス哲学による一神教批判に対抗しようとした。すなわち、アリストテレスが説く世界の永遠性に関する哲学的教説を拒否し、代わりに聖書を取っているのである。
 また、彼は個々の人間に対する神の摂理を論じ、また占星術を認めながらも天体は人間の「行為」にまでは影響を与えないとした人間の自由意志の主張も行った。
 言ってみれば、彼はアリストテレス主義や新プラトン主義といったギリシャ哲学とユダヤ教神学との調和を目指したのである。そういった意味では、彼はアヴィケブロンと同じ所に居た。

  ……ともあれ、彼がこの著書において、一番言いたいことは、人間は自らの持つ知識によって、生活の指導的原理を理解する。よって人生の目的は明確化されうる。人生はその目的を探求することによって、到達すべき目的が発見されるのである。さらに、神の行為が正しい知識によって理解されたとき、神への礼拝は必然的なものになる。これこそが「神への知的礼拝」である。
 要するに、彼は霊魂と肉体との相互関係をカバラ的に考察しようとしていたのだ。宗教こそ、肉体と霊魂の最良の保護手段だというわけだ。
 彼の思想は、後に「ゾハール」成立に至る大きな潮流の一つを作ったのである。


 カイロでの彼は成功しすぎたため、凄まじい激務をこなす生活を送った。
 睡眠はおろか、食事ですら満足にとる暇はなく、貴族から貧民まで、友人から敵に至るまで、平等に治療を行ったという。
 1204年、彼は永眠する。この日、エジプト中のユダヤ人達が、彼のために三日間の喪に服したという。


「カバラ」 箱崎総一 青土社
「中世思想原典集成13 盛期スコラ学」 上智大学出版局
「世界神秘学事典」 荒俣宏篇 平河出版社
「カバラ Q&A」 エーリヒ・ビショップ 三交社
「カバラ」 A・サフラン 創文社”




ダーウード=ダビデ。
スライマーン=ソロモン。

聖クルアーン: 34. サバア 章 - Way-to-Allah
http://www.way-to-allah.com/jp/quran/34.htm
” 10. われは,且つてダーウードに恩恵を授け(て言っ)た。「山々よ,ダーウードと共に(われを)讃えなさい。また鳥たちも。」われはまた,かれのために鉄を軟らかにして,

11. (言った)。「あなたは鎖帷子を造り,環をよく整えなさい。そして善行に勤しめ。本当にわれは,あなたがたの所行をよく見ている。」

12. またスライマーンには風を(支配させ),(その風の一吹きで)一朝に一ケ月(の旅路)を,また―夕に一ケ月(の帰路)を(旅させた)。またわれはかれらに熔けた銅の泉を湧き出させた。また主の御許しによりあるジン(幽精)に,かれの面前で働かせ,かれらの中われの命令に背く者には,烈しい(焔?)の懲罰を味わわせた。

13. かれらは,かれ(スライマーン)のためにその望む高殿や彫像や池のような水盤,また固定した大釜を製作した。(それぞれの持場で)「あなたがたは働け,ダーウードの家族よ,感謝して働け。」だがわれのしもベの中で感謝する者は僅かである。

14. われがかれ(スライマーン)に死の断を下した時も,かれらにその死を知らせたのは,一匹の地の虫がかれの杖を蝕ばんだことであった。それでかれが倒れると,ジンたちは(始めて)悟った。もしも幽玄界のことを知っていたならば,恥辱の懲罰に服している要もなかったのに。

15. 本当にサバアでも,その住まいに一つの印が授けられていた。右側と左側の2つの果樹園。(そしてかれらに仰せられた。)「あなたがたの主の与える食物を食べ,かれに感謝せよ。土地は立派で,主は寛大であられる。」

16. だがかれらは(アッラーから)背き去った。それでわれは,かれらに洪水を送り,かの2つの園を,柳と僅かばかりのハマナツメの苦い実を結ぶ園に変えた。

17. そのようにわれは,かれらが不信心であったために報いた。われが,不信心(恩を忘れる)者以外に報復などしようか。

18. われはかれらと,われが祝福した都市との間に,(旅人が)見付け易い幾つかの町を設け,その旅程を定めた。「昼も夜も安全に旅をしなさい。」

32. 倣慢であった者は,無力であった者に言う。「導きがあなたがたに届いた後,あなたがたをそれらから背かせたのは,わたしたちであったというのか,いや,あなたがたこそ罪作りであった。」
33. 無力であった者は傲慢であった者に言う。「いや,夜となく昼となく,(あなたがたは)策謀をしていました。現にアッラーを信じないし,かれに同位者を立てるよう,あなたがたは(不断に)命令しました。」かれらは懲罰を見るに及んで,後悔する。われは不信心な者の首に枷をかける。かれらは,その行ったことで,報いを受けるだけである。
34. われが町に,警告者を遣わす度に,そこの富裕な者たちは,「あなたがたが遺わされたことを,わたしたちは信じません。」と決まって言ったのである。
35. 「また,わたしたちは多くの財産と子女があるので,懲罰される(ような)ことはありません。」とも言った。
36. 言ってやるがいい。「本当にわたしの主は,御心のままに豊かに御恵みを与えられ,また乏しくもなされる。だが人びとの多くは理解しない。」
37. あなたがたをわれにもっと近づけるものは,財産でも子女でもない。信仰して善行に勤しむ者は,その行いの倍の報奨を与え,高い住まいが保証される。
38. またわれの印を頓座させるために努力する者は,懲罰に引きたてられる。
39. 言ってやるがいい。「本当にわたしの主は,そのしもべの中から御心に適う者に,御恵みを豊かに与えまた或る者には乏しく授けられる。かれはあなたがたが(主の道のために)施すものはすべて返される。かれは最も優れた御恵を与える方であられる。」
40. 一斉にかれらを召集なされる日。かれは天使たちに向かって仰せられよう。「これらの者は,あなたがたを崇拝していたのか。」
41. かれら天使たちは(答えて)言う。「あなたに讃えあれ。あなたはわたしたちの愛護者であられます。だがかれらはその限りではありません。かれら(人々)はジンを崇拝していました。多くの者は,かれら(ジン)の信者でした。」
42. あなたがたはこの日,お互いに益にも害にも役立たない。われは不義を行っていた者たちに言う。「あなたがたが偽りとしていた,火獄の懲罰を味わえ。」
43. 明白なわれの印が,かれらに読誦されても,かれらは言う。「これは一人の男が,あなたがたの祖先の崇拝していた神々から背かせようとするのである。」また言う。「これは只捏造した,作りごとである。」また真理を信じない者たちは,それがかれらに現われると,「これは明らかに魔術に過ぎない。」と言う。
44. われは(前もって),かれらの学び得る啓典を下していた訳ではない。またあなた以前に,どんな警告者もかれらに遣わさなかった。
45. かれら以前の者も(真理)を嘘であるとした。われが昔の人々に与えたものは(マッカの人びとにとっては)十分の一にも達しない程(優遇)したのに,われの預言者を嘘つき呼ばわりした。わが怒りは何と激しかったことか。
46. 言ってやるがいい。「わたしは忠告する。あなたがたはアッラーの御前に,2人ずつまたは1人ずつ立ってよく考えなさい。あなたがたの同僚は,気違いではない。かれは厳しい懲罰の(下る)以前に,あなたがたに警告するに過ぎない。」
47. 言ってやるがいい。「わたしは,どんな報酬もあなたがたに要求しない。それは(凡て)あなたがたのものである。わたしは報酬を,只アッラーから(戴く)だけである。かれは凡てのことを立証される。」


コーラン第9章 タウバ章 悔悟 第56節~第60節
http://japanese.irib.ir/programs/%E5%85%89%E3%81%AE%E5%BD%BC%E6%96%B9%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%97%85%E7%AB%8B%E3%81%A1/item/29200-%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E7%AC%AC9%E7%AB%A0-%E3%82%BF%E3%82%A6%E3%83%90%E7%AB%A0-%E6%82%94%E6%82%9F-%E7%AC%AC56%E7%AF%80%EF%BD%9E%E7%AC%AC60%E7%AF%80
”第60節
「まことにザカート・喜捨は、
恵まれない人、
貧しい人、
それを管理する人のため、
また人々の心を惹きつけるため、
隷属や借金からの解放のため、
そして神の道における戦い[ジハード]のため、
また道の途中で途方にくれた人々のためのものである。

これは神が定めた宗教義務である。神は賢く英明であられる」 (9:60)

一部の人々が、ザカートの分け前をくれと表明したことを受け、この節は、イスラムで義務とされるザカートの使い方について定め、こう語っています。「ザカートは、困窮にあえぐ人や生活力のない人、あるいは借金を抱え、それを返済する能力がない人に届けられる。また、旅のさなかで災難に遭い、途方に暮れた人にも配られる。非イスラム教徒をイスラムへと惹き付けるためにも、ザカートを費やすことができる。また必要とあらば、奴隷を買い、解放することもできる。もし戦いが起こったら、ジハードの経費のためにザカートを費やすことができる。もちろん、ザカートの収集とその支払いを請け負う人々への報酬も、そこからまかなわれる」

興味深いのは、コーランの中で、イスラムの喜捨のひとつであるザカートが、常に礼拝と共に取り上げられていることです。伝承では、礼拝が認められる条件として、ザカートの支払いが挙げられています。このことは、神と人々の結びつきを物語っており、人々との関係がなければ、神と関係を持つことなどできないということを意味しています。伝承によれば、神は富める者の財産の一部を貧しい人の権利だとしており、もし彼らがザカートを支払っていれば、この世に貧困は存在しなかったとしています。ザカートを分配する際、8つのザカートの使い方のどれかに当てはまる分配額が必ずしも平等である必要はなく、イスラムの統治者の監督の下、相応の分け前にEQ \* jc2 \* "Font:MS PGothic" \* hps12 \o\ad(\s\up 11(あずか);与)るべきであり、必要であれば、多く支払われる権利があります。

ザカートは、社会の富のバランスを保ち、階級格差をなくすものです。ザカートは、人間の心に寛大な気持ちと友愛の精神を芽生えさせ、物質への執着を薄れさせます。ザカートは、社会保障の支えであり、おのずと知らず知らずのうちに貧困、借金、病気、その他の経済的な問題に陥った人に保障を与え、彼らに生きる希望を与えます。そうして、再び努力するよう奨励し、通常の状態に戻ることができるようにするのです。ザカートは、イスラムの指示のひとつであり、貧困を撲滅し、社会に公正を確立するための最良の方法です。

第60節の教え

・信仰の誠実さを表すのは、ザカートなど、義務とされる施しを支払っているか否かです。コーランは、ザカートという言葉の代わりに、サダガという言葉を使っていますが、それは嘘をつかないこと、誠実さという意味を持っています。

・ザカートを支払ったからといって、それを受け取る人に恩を着せてはなりません。ザカートは受け取る人たちのものであり、神がその分け前を定めています。

・統治政府が奴隷制度を広めようとしていた時代、イスラムは、奴隷の解放のために予算を定めていました。

・イスラムは、礼拝を行うだけの宗教ではありません。社会の経済問題に関しても様々な規定を設けています。”



お読みくださり感謝!
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