すでに十分知られた事ではありますが、私たちの「意志」というものは、イメージしているモノとはずいぶんちがっています。
それをこの著者、ベンジャミン・リベットが暴いたのもけっこう古い話です。
私たちが「好きなときに手を挙げる」という単純な「意志的行為」を実行に移すにしても、そのコンマ何秒か前には、「手を挙げる」と決まってしまう。脳内に「準備電位」が発生した「後に」、「手を挙げよう」という「意志」が発生し、その後「手を挙げる」のです。
このことからして、「英語の勉強をしようとしているのに、ついTwitterをやってしまうように、私の意志が弱い」といった発想は、実は間違っているわけです。
「ついtwitterをやる」のは、脳が「すでに決めていた」ことです。「英語の勉強をしようと思った」(しかししない)のも、すでにその前から「脳が決めていた」ことです。
この発想ではどこまで検討を重ねたり工夫を凝らすとしても意味がありません。「意志」とはそんなモノではないから。つまり「これをしようとしてする」という形のモノではないからです。その前にすでに「脳が発している信号」があって、意志とはこの視点では、その信号後の何かしらの結果でしかないはずです。
簡単に言ってしまえば、「しようとした」というのは「意志」ではなくて「願望」に過ぎないのです。
では「意志」というのは何なのか?
私たちは、リベットの実験が自由意志の幻想性を暴き立てたとしても、依然として火事の中から老人を救い出した人を賞賛し、「つい殺してしまった」人を裁判にかけています。
行為を「実行した」原因に「意志」があるという発想そのものは、生きているのです。
行為を「実行する」人がいれば、しない人もいるのです。火事の中の老人をどれほど「助けたいと強く願った」としても、実際に火の中に飛び込まなかったなら、それは「願望」だったのであり「意志」ではなかった。
「意志」とは願望とは違って、実行結果と結びついている何モノかだと、私たちは信じているわけです。この点が大事です。
どれほど「殺してやりたい」と「強く思った」としても、刃物で「刺さなかった」なら、「殺人の意志はなかった」と私たちは認めます。
つまり「意志」とは実行記録に反映されているはずのモノです。