C.M.W.試験導入までの経緯と末 和海の経歴(以下、氏名の敬称省略)
1920(大正9)年台、斉藤恒吉、アメリカ合衆国公認上級時計師資格を取得して帰国。東京の鍛冶橋に『日本時計学校』開設、菅波錦平、伊佐田杉次郎等を輩出。
1928(昭和3)年頃、井上信夫(時計師)は成城の自宅から通勤の途中、早朝に上記日本時計学校に立ち寄り聴講。
1934(昭和9)年頃、山口隆二(後の一ツ橋大学教授)所持のロンジンの提時計の難物修理が井上の手で完璧に修理が完了し、交流が始まる。
1943年(昭和18年)頃、山口の紹介と当時の海軍省の強力な要請により、愛知時計電機(株)に井上が入社、時計信管の組み立てに動員された時計修理職人を束ねる要職を担当。
1948年(昭和23年)6月、東京で『日本時計学会』が創立された。(青木保、岡田群司、山口等)
1949年(昭和24年)10月、「日本時計学会 関西支部」として発足したのが「日本時計師会」の前身である。(篠田軍治、石田道夫、小林敏夫、角野常三、末 和海)
1953年(昭和28年)10月、H.I.A(アメリカ時計学会)が実施し世界的に権威のあるC.M.W.(サーティファイド・マスター・ウォッチメーカー)試験を日本で実施するために「日本時計学会関西支部」を「日本時計学会」から分離し「アメリカ時計学会日本支部」に改組。(山口、井上、小林)
1954年(昭和29年)9月、我が国最初のH.I.A.-C.M.W.試験を井上、小林により実施(角野、末が受験し合格)。末が受験の為に「アキシアル・マイクロメーター」を開発。
此の後1958(昭和33)年までにH.I.A.-C.M.W.が123名合格、1960(昭和35)年までにA.W.I.-C.M.W.が85名、1967(昭和42)年J.T.M.-C.M.W.が389名合格、1980年(昭和55)年までに、J.W.I.-C.M.W.が203名合格、総合計800名のC.M.W.が誕生したが、当時業界に吹き荒れた誤れるクォーツ革命の煽りにより、1981(昭和56)年以降、今日までC.M.W.試験が中断。
1956年(昭和31年)、末 和海が上京し、当時日本時計学会主催の「時計懇談会」におけるC.M.W.試験受験希望者募集と、事前受験勉強会を組織化して「アメリカ時計学会日本支部関東班」を立ち上げた。(後に時計懇談会が合流して「日本時計研究会」となる)、「時計」誌に末 和海が「脱進機の実地修理」(スジカイ試験含む)を24ヶ月連載。
1957(昭和32年)、C.M.W.予備試験発足。
1958(昭和33年)、東大(赤門)精密機械教室で末 和海が日本時計学界幹部と会談、両学会の対象領域と各々の機関誌を独自に発行し、「時計」誌は両学会の中間の商業誌とする事で合意。
1959年(昭和34年)、末 和海はリコー時計在職中(1968年(昭和43年))にダイナミックオート33,45、リコーワイド33等開発、世界の多石化の先鞭となり、リコーワイドは国産唯一のメカ式瞬間跳躍式カレンダーとなる。
1962年(昭和37年)、 日本調時師協会発足(飯田茂、飯田弘、岩崎吉博)
1967年(昭和42年)、 末 和海は「全時連」の推薦により、労働省中央技能検定委員会学識経験者委員として、2006年まで40年間就任。
1968年(昭和43年)、末 和海、全時連の要請により、ブラッセル(オランダ)の技能五輪国際大会の時計職種競技デモンストレーションの調査にセイコーの小牧昭一郎と参加。
1969年(昭和44年)、 末、全時連主催「技能五輪全国大会時計職種競技」の技術委員、主査競技委員。
1970年(昭和45年)、 末、千葉で開催された「技能五輪国際大会時計職種技能」のショップマスター。
1985年(昭和60年)、末 和海、行方二郎等が労働大臣表賞受賞。
時計業界の教育機関や学校で勉強をされている方、独自で腕を磨いている方、先輩や師匠にしごかれてもへこたれずに頑張ってる方--これらの真面目に精進している方達は何を目標にすれば良いのか?どこまでやれば世界で通用するレベルと言えるのか?どうすれば目標を達成できるのか?答えは日本時計師会(.J.W.I.)の発足と、日本の上級時計師(.C.M.W.)認定試験の再開実施が遠きに見えて、最も効果的な近道ではないかと思われます。 以上
2013年3月30日 H.I.A.-1954-C.M.W. 末 和海 記す