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岡山の仲間、健さんを大いに語る 元東映監督・小西さんと「高倉健 追悼特別展」イベント

健さんについて熱く語る(右から)茅野さん、筆者、柿内さん、小西さん、澤原館長

トークの会場は立ち見も出るほどの健さんファンで埋まった

 7月27日から9月24日まで高梁市成羽美術館で開催されていた「高倉健 追悼特別展」。スタートは、西日本豪雨の影響で、苦戦を強いられたようで心配だったが、お盆休みからは順調な動員となり、リピーターも増え、最終的には目標をオーバーして大盛況だったとのこと。私が経営する「シネマコレクターズショップ映画の冒険」も、公開当時のパンフレット、チラシ提供というお手伝いを、微力ながらさせていただいていたので、その報告を聞いた時は、本当にうれしかった。

 他県で開催された同展を見てきた成羽美術館の澤原一志館長から、「岡山独自の企画をやりたい」という相談があった時、まず頭に浮かんだのが、岡山在住の元東映監督・小西通雄さんだった。監督デビュー作が高倉健と佐久間良子の『東京丸の内』(1962)とくれば、人選としては文句なし。デビュー当時の健さんと東映撮影所の貴重な思い出を、ぜひとも語っていただこう、ということになった。ただ、88歳という高齢でもあり、小西さんの体調を考慮しながらの企画となった。

 その企画は、「健さんを語る 岡山の仲間たち」という名称になった。私も、小西通雄さん、高倉健ポスターコレクターの柿内信吾さん、健さんの大ファンで映画仲間の茅野布美恵さんというトークメンバーに加えていただいた。立派なチラシも完成し、新聞紙上での告知、小西さんのインタビューも掲載された。それから、問い合わせがかなりあったらしい。館長の予想では100人。これは期待出来そうだ。

 9月1日、朝から雨模様の土曜日、茅野さんの車に同乗させてもらい、成羽美術館へ。道中、トークの内容をお互いに確認しあう。とは言っても、あくまで観客の皆さんのお目当ては、小西さんなので、邪魔にだけはならないようにということで。会場には午前11時頃到着。イベントは午後1時30分からにもかかわらず、すでに多くの方が来場されていた。

 ここで小西通雄さんの東映撮影所での仕事について、紹介してみたい。1954年、3期採用で東映に入社。1期先輩には『ジャコ萬と鉄』(1964)の深作欣二、2期下には『君よ憤怒の河を渉れ』(1976)の佐藤純弥、3期下には『冬の華』(1978)『駅 STATION』(1981)『居酒屋兆治』(1983)『鉄道員(ぽっぽや)』(1999)『あなたへ』(2012)の降旗康男という、後年、高倉健と仕事をする錚々たる監督たちが入社した時代でもあった。

 そして、サード助監督として、高倉健のデビュー作でもある空手アクション映画『電光空手打ち』(1956)と『流星空手打ち』(1956)に付く。この2本は、60分弱の中編なので、同時撮影された。

 その後高倉健出演作としては、東千代之介主演『夕日と拳銃 日本篇/大陸篇』(1956)、美空ひばり主演『青い海原』(1957)、中原ひとみ共演『ジェット機出動 第101航空基地』(1957)、片岡千恵蔵主演『多羅尾伴内 十三の魔王』(1958)、『奴の拳銃は地獄だぜ』(1958)、『地獄の底までつき合うぜ』(1959)、『二発目は地獄行きだぜ』(1960)、『俺が地獄の手品師だ』(1961)、小宮光江共演『ずべ公天使』(1960)、佐久間良子共演『空中サーカス 嵐を呼ぶ猛獣』(1958)の12作品に助監督として参加する。

 そして監督デビュー作が前述の『東京丸の内』である。その他の監督作品として、緑魔子『可愛くて凄い女』(1966)、『続・おんな番外地』(1966)、藤田まこと・三田佳子『赤いダイヤ』(1964)、梅宮辰夫・野川由美子・森進一『盛り場ブルース』(1968)、『警視庁物語・行方不明』(1964)、『警視庁物語・自供』(1964)などがある。

 中でも『可愛くて凄い女』の、ビート感あふれるジャズを使った、タイトルバックの緑魔子のキュートさは最高だった。
その後は、テレビドラマに転じて、『キイハンター』『Gメン75』『プレイガール』アイフル大作戦』『ザ・ボディガード』『刑事くん』『大空港』『鉄道公安官』『爆走!ドーベルマン刑事』『新幹線公安官』『ザ・ハングマン』『大都会25時』『スケバン刑事』といった人気番組を次々と監督。

 この原稿を書いている時も、CS東映チャンネルで観ていた西郷輝彦主演『新幹線公安官』のクレジットに、「監督 小西通雄」と出た。ラッキーだ。

 そして、1975年以降は、『宇宙鉄人キョーダイン』『秘密戦隊ゴレンジャー』『大戦隊ゴーグルファイブ』『宇宙刑事シャリバン』『宇宙刑事シャイダー』『巨獣特捜ジャスピオン』『時空戦士スピルバン』『超人機メタルダー』『機動刑事ジバン』『特警ウインスペクター』『特救指令ソルブレイン』『特捜エクシードラフト』『特捜ロボ ジャンパーソン』『ブルースワット』『怪傑ズバット』『仮面ライダー スーパー1』『星雲仮面マシンマン』『仮面ライダーBLACK』などの戦隊・特撮ヒーローものを多数監督。現在まで続く人気シリーズの礎を築いた功績は大きい。戦隊・特撮ヒーローマニアからは、神様扱いされていると聞いたことがある。

 さて、いよいよ第1部「思い出の高倉健」開演。ロビーには、予想をはるかに超える約200人の参加者。椅子は足らず、立ち見の方も多数。圧倒的に年配の方が多い。

 館長の紹介の後、小西さんのトークが始まった。いゃあ、驚いた。とても88歳とは思えないパワフルなマシンガントーク。約40分間、休む間もなく、東映入社から、健さんとの約6年間の思い出を一気に喋りまくったのだ。

 東映からフリーになり、『八甲田山』(1977)、『幸福の黄色いハンカチ』(1977)以降のストイックで寡黙な健さんについては、様々なメディアが取り上げているが、デビュー当時の、明るくて良くしゃべる健さんが語られることは、ほとんどなかった。だから、小西さんの話すエピソードは、本当に貴重なことばかりだった。印象に残ったエピソードを何点か。

 ニューフェイスで入社した健さんの第一印象を「長身で二枚目で男っぽかった。そして何より清潔感があった。将来は東映を背負うスターになると直感した」と語った。健さんとは1歳違いの小西さん。右も左も分からないデビュー作『電光空手打ち』では、サード助監督と新米俳優という立場で話しやすい関係にあった。

 そういうこともあって、無類のコーヒー好きの健さんには、喫茶店のはしごに付き合わされ、そこで好みの女性の言い合いっこをしたことも。有名な健さんの催眠術の腕前(丹波哲郎からの直伝)はというと、かけられた本人はもちろん、それを見ている20数人のスタッフも見事にかかってしまったが、小西さんは次の仕事があるので、その場を逃げ出したという。『東京丸の内』で小西さんの助監督だった、今や大御所・沢井信一郎=薬師丸ひろ子『Wの悲劇』(1984)、松田聖子『野菊の墓』(1981)=は、見事にかかってしまい、相当やばかったらしい。

 『青い海原』(1957)で共演した美空ひばりと健さんはスムーズに行っていたのだが、ステージママから監督の選んだ衣装が気に入らないとクレーム。助監督の小西さんがなんとか説得。小西さんの下に付いていた降旗康男も同じ目にあったらしい。伝説通りだ。

 小西さんの監督作『東京丸の内』の夜間ロケに、当時健さんの奥さんだった江利チエミが差し入れを持って来たので、現場が大変だったことも。楽しいエピソードが、小西さんの口から次々と語られていく。会場の皆さんは笑顔で、この幸福な時間を共有されている。第1部は大成功だと実感した。

 続いて第2部がスタート。3人が各自、好きな作品や、健さんについての思いを語った。

 柿内さんは『冬の華』(1978)、茅野さんは『居酒屋兆治』(1983)を好きな作品として挙げた。私は、『夜叉』(1985)を挙げるつもりだったのだが、当たり前すぎると思ったので、直前に見ていた『いれずみ突撃隊』(1964)を挙げた。背中に刺青をしたヤクザが軍隊に入り、そこで大暴れ。ラストはダイナマイトを巻いて、ふんどし姿で中国軍に突進して自爆するという、ユーモラスでアクティブな健さんが素晴らしい。その後『網走番外地』(1965~)シリーズでタッグを組む石井輝男監督の傑作だ。

 そして、以前に原田芳雄さんから聞いた、「『君よ憤怒の河を渉れ』(1976)の撮影中にボクの父親が亡くなったんだ。それで屋上で落ち込んでいたときに、健さんから暖かい言葉をかけてもらったんだ。それがとてもうれしかった。忘れられないんだ」というエピソードを披露した。

 1・2部合わせて約2時間、予定通りに終了。その後も、喫茶コーナーで、監督と熱心な参加者との懇談が続いていた。私のところにも数人の方が来られて、挨拶をさせていただいた。

 最後に、イベント前の控室で、食事しながら小西さんから聞いたエピソードを一部列挙してみたい。

 〇「同郷の八名信夫とは、八名の兄貴と岡山二中(現在の操山高校)の同級という関係もあり、テレビ中心に十数本使った。いい役者だ」

 〇「小林稔侍を『海軍』(1963)に推薦したことで感謝され、以来ずっと懇意にしていて、岡山に仕事で来るときは、必ず立ち寄ってくれる。僕が倉敷芸術科学大学の教授をしていた時にも、わざわざ訪問してくれた」

 〇「千葉真一は、自宅に深夜2時、3時に電話してくることがあった。それも1時間ぐらい。いつも作品についての相談で、本当に仕事熱心な男だった」

 〇「内田吐夢監督とは一緒に仕事をしたことはなかったが、同郷ということもあり、懇意にしてもらった。岡山へ帰省した内田監督から、『大手まんじゅう』を土産にもらった」=ちなみに、健さんは、『森と湖のまつり』(1958)の時、内田監督から相当絞られたが、後年、名作『飢餓海峡』(1965)の刑事役に大抜擢された

 〇「『東京丸の内』の夜間シーンは、トラック13台に照明を乗せての撮影だった。78分の中編だったが、当時の撮影は贅沢だった。健さんと佐久間良子が出会う、冒頭の丸の内の交差点群衆シーンも、ゲリラ撮影ではなくて、比較的人が少ない土日を利用して、通行人はみんなエキストラだった。」

 何もかもが面白い「日本映画の黄金時代」とも言うべき昭和30年代の現場。その時代のことを熱く語る元東映映画監督・小西通雄さん。もっともっと聞いてみたいことがたくさんある。ぜひ近いうちに、ロングインタビューをさせてもらいたいと思っている。

 9月1日、幸福な一日だった。

  ◇

 吉富 真一(よしとみ しんいち) 映画グッズ専門店「シネマコレクターズショップ映画の冒険」店主。中学生の時、アラン・ドロンとテレビの洋画劇場の魅力に取り付かれる。映画研究部に入りたくて、一浪して1977年岡山大学法文学部経済学科に入学。ビデオのない時代に、年間200-300本を鑑賞。1996年39歳で脱サラして、大学時代通いつめた岡山市奉還町で開業。1957年、総社市の総社東映と同じ町内生まれ。

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