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大坂なおみとは誰だったのか? 社会の「普通」をあぶりだす言葉たち

誰の言葉も奪わないために

情報というのは様々な媒体をするすると通り抜けて私たちの目や耳に入ってくる。

この1ヵ月、ネットもニュースもできるだけ見ないようにしていたが、Yahoo!のトップページには大坂なおみについての記事が並び、「外国人の血に頼るしかないのか」という見出しまで出ていた。

すぐに反論が出て、SNS上でもシェアされていたが、どちらの記事に対しても、なぜか怒りも、悲しみも、頼もしさも感じなかった。「この社会において外国人は普通ではない」というメッセージが、あまりにも自然に含まれていたからだ。

普段から外国人や外国にルーツを持つ子どもにかかわる仕事をしている私は、彼女にまつわる記事をどの立場からどんな気持ちで読むべきなのか、自分でもわからなくなっていた。

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日本人でも外国人でもない8年間

私の人生には点線の時間がある。

フィリピンから出稼ぎ労働者として来日した母と日本人の父の間に生まれた私は、無国籍児・無戸籍児のまま小学校に通い8歳で日本国籍を取得した。

そこからは「日本人」として暮らして来たが、外側が日本人になっても、中身はこれまでと変わりない「ハーフ」のままだった。

周りの家庭と少し違っていたのは、お誕生日の祝い方が盛大すぎることと、母親の送迎だった。

私の母は、私の入学前に学校側から「日本人は義務教育を受ける義務があり保険にも加入してもらうが、あなたのお子さんはまだわからないので通学中に事故に遭っても責任は持てない」と通告を受けていた。

改まった通告に不安を抱いた母は、私が集団登校で学校に向かう様子を毎朝ベランダから見守るのが日課だった。角を曲がり姿が見えなくなるまで、いつ振り返っても母は柵から身を乗り出して手を振っていた。

そして、私が下校する少し前には学校に迎えに来てくれた。誰もいないピロティで私を待つ間、母は校内の掲示を熱心に見ていた。

 

平日の夜に校内の図書室で開かれる識字教室に通いながら、母は少しずつ言葉を習得していた。

晴れの日には私もついて行くことがあったが、夜の明かりでは見えない校内の掲示に、母はいつも興味深々だった。

「これ何て読む?」と私に聞く母に、「これは校歌、学校の歌。入学式で歌ってたやろ?じゃあこれはわかる?」と指を差しながら、私はその場で母に問題を出すこともあった。

そんなとき、いつものように「あ!ガイジンや!」という声とともに上級生が私たちの横を通りすぎる。無邪気な彼らの言葉は、そんな親子の会話を終わらせる合図でもあった。

「もう帰ろう、また今度見よう」と足早に帰った日の夜、私は学校にレーザーポインターを持っていき、緑色の光で校歌を照らした。