日本発の論文の数が減少し、日本の大学の研究レベルが国際的に落ちているという、衝撃的なデータが公開されました。日本の基礎科学の危機が叫ばれています。
何とかしなければいけない、と、SNSで盛んに警鐘を鳴らしている研究者もいらっしゃいます。
特に最近は、政府主導の「選択と集中」に対して反対する意見が述べられることが多いです。
その主なものが、タイトルに挙げた、「研究費はばらまきがよい」という意見。他にも、「研究者が好きなことをできる環境を」「役に立たない研究に価値がある」などなど。
だが、どんなに警鐘を鳴らして(鳴らしたつもりになって)も、政府も一般社会も反応する気配はありません。
たまに、ノーベル賞学者が同じコメントを発し、マスコミがそれを取り上げると、研究者は「そうだ! その通りだ!」と反応します。ですが、マスコミの取り上げ方自体が、どうもおざなりな感じで、何も変化が起きる気がしません。
もちろん、政府はまったく反応しない。研究者としては、ノーベル賞学者が言っても駄目なら、もうどうしようもない、とがっくり来る。これの繰り返し。
もう、あきらめるしかないのでしょうか?
だが、あきらめる前に、ここで、ちょっと自問してみましょう。本当に悪いのはマスコミや、一般社会の方だけですか?
もしかしたら、こちらの想いが伝わらないのは、単に、こっちの言い方が悪いのではないか? と。
まず、第一に我々が肝に銘じなければいけないのは、「言葉を一度発してしまえば、その解釈は、それを受け取る側に自由がある」ということです。
さらに、「研究者と一般の人との間には、ものを考える背景となる知識体系にかなりの『ずれ』がある」ということを意識しないといけません。
「研究費はばらまけ」
「研究者は好きなことをやればよい」
「役に立たない研究に価値がある」
この3つの主張は、研究者の感覚を持っていれば、確かにうなずけるものです。しかし、「バラマキ」、「好きなこと」、「役に立たない」という語には、ネガティブな意味が含まれており、研究者以外の人は、それにまず反応してしまう可能性が高いのです。
たとえば、政治家が以下のようなことを言ったら、どうか。
「政府は、インフラ整備のお金をばらまくのがよい」
「官僚は、自分の好きな事業だけに集中すればよい」
「役に立たない公共事業に価値がある」
当然、「なに、ふざけたことをぬかしとんじゃ」としか思えないでしょう。
それと比べて、「選択と集中」という言葉の健全さ、ポジティブさはどうでしょう。
それで有効な選択が本当にできるかどうか。実はそっちのほうが効率が悪いかもしれない……。という現実は別にしても、ばらまいたり、好き勝手にやらせたりするよりも、はるかにましに聞こえるはず。
これでは、世間が科学者の叫びに反応しなくても当たり前です。
これら3つの主張が成立するためには、研究者間で共有されている常識と考えが必要で、それをきちんと説明したうえで使わないと危険なのです。
特に、新聞やTVなどで、1つのフレーズだけを切り取られると、言葉の印象のみが強く残り、逆効果になる可能性がさらに高くなる。気を付けなければいけません。
では、どのように言いかえればよいか?
以下に愚見を述べさせていただきましたので、参考にしていただけると幸いです。