去る9月28日に
文 / フミヤマウチ メイン画像 / (c) 森山大道
出会いは1本の電話から
歌手、渚ようこが死んだ。
2018年9月28日。
神奈川・横浜アリーナで行われたクレイジーケンバンドのデビュー20周年ライブへのゲスト出演を果たした4日後のこと。来る10月には、そのクレイジーケンバンドの横山剣が作詞を手がけた7inchアナログ「渚のズンドコ節」がリリースされ、続く11月には、毎年恒例となっていた東京・四谷区民ホールでのコンサート「渚ようこリサイタル2018~ようこ、ズンドコ歌謡流れ旅~」が開催されるという、まさかのタイミングでの出来事だった。そんな突然の渚の死は、今となっては忘れかけていた、彼女との出会いを思い出させる契機でもあった。
そのスタートは、ライター / 編集者の北沢夏音が東京のDJ BAR INKSTICKにイベント「自由に歩いて愛して」の企画を持ち込んだ1993年のことだった。同店でブッキングを担当していた私は、フリッパーズ・ギターやその周辺を熱のある筆致で紹介していたライターとして北沢のことを認知していた。そんな彼が、GSをはじめとする昭和40年代の国産音楽イベントを持ち込んできた。マッドチェスターやアシッドジャズをきっかけに昭和国産グルーヴの発掘へと興味が移行していた私は、気が付けば「このイベントやりましょう。ただし僕もDJとして参加させてください」とお願いしていた。
そうして93年の10月に始まった「自由に歩いて愛して」は、ザ・ヘアとザ・ハッピーズという2つのバンドを軸に、和モノDJの先駆者であるコモエスタ八重樫、デビュー前のかせきさいだぁ、デビューしたてのサニーデイ・サービスといったゲストを迎えながら、2カ月に1度のペースで開催された。そしてスタートから1周年を迎えようとしていた94年夏、忽然と現れたのが渚ようこだった。
歌手・渚ようこ誕生
最初の出会いは、彼女がかけてきた1本の電話だった。私は先述した通り、DJ BAR INKSTICKのブッキングを担当していて、たまたまフロントの受付に1人で座っていたときに電話が鳴った。
「はい、DJ BAR INKSTICKです」
「あの、チラシを見たんですけど、そちらのお店はどういったお店でしょうか。あの、私は歌を歌っていて……」
電話の主は、どこかのんびりとしたしゃべり方の女性だった。歌を歌える場所を探している、という趣旨なのはわかったが、同店のブッキングは基本的にイベント単位だったので、ミュージシャンやシンガーやDJを個別にブッキングすることはほとんどなかった。お互いに探り探りの会話が続く中、基本的なことを聞き忘れていたことにふと気が付いた。
「ちなみにどんな音楽がお好きなんですか?」
「はい、弘田三枝子とか……」
その瞬間、点が線になった。
黒沢進らGS研究家諸氏の尽力により、その当時「GSとはここからここまでのことである」という定義は完成しており、研究家の対象はアフターGSとなるニューロック、自主制作GS、GS映像発掘、GSバンドをバックにした(主に)女性アイドルによるいわゆる“ひとりGS”といったあたりに広がっていた。その潮流を受け、「自由に歩いて愛して」関係者の間でも“ひとりGS待望論”のようなものがときおり話題になっていた。
「実はですね、お店のイベントと言うより僕個人で参加しているイベントがありまして、それは昭和40年代の日本の音楽をメインでやってるんですよ。そこでならなんとかできるかもしれないんで、まずはテープか何かを持ってきていただいて、歌を聴かせてもらえませんか」
「はい、特にテープとかは用意してないんで、今から録音します。少しお時間もらえませんか?」
そんな感じで電話での最初の会話が終わった。その後、彼女からの連絡はすぐに来た。「テープができたのでそちらに持参したい」と。約束の日に現れた女性は思いのほか若く、しかし電話の印象通りのんびりとした雰囲気だった。開店準備の最中、デモテープ試聴会が始まった。急遽お願いしたというバックバンドによる演奏はありきたりではあったが、彼女の歌は魅力的だった。弘田三枝子ら昭和40年代のレジェンドたちへの憧憬がベースにありながら、マーク・ボラン(T.Rex)やピーター・アイヴァースらに通じるような、ナゾの未来感と宇宙感とあの世感がほんのり感じられた。
彼女が歌う弘田三枝子「かっこいい彼氏」ほか数曲を聴き終えた。
「いいですね、すごく好きな歌です」
このひと言でリラックスした彼女は、ここに電話するに至った経緯などを、ケラケラとよく笑いながら話してくれた。
「僕の仲間にもこのテープを聴かせます、また連絡しますね」
そう伝えて彼女を見送った私は、すぐさま北沢と、当時ザ・ヘアのリーダーだったあいさとうに連絡をとった。そこからは話はとんとん拍子に進んだ。基本的にはあいさとうが彼女を預かる形になった。芸名は“キャロラインようこ”との2択から“渚ようこ”に決まり、最初の電話から半年も経たない94年10月、第7回目の「自由に歩いて愛して」のステージに彼女は立っていた。バッキングはゴールデンデラックスことザ・ヘアが担当した。
和製レアグルーヴに新たな息吹を
「自由に歩いて愛して」に集まっていた若者の大半は、昭和40年代の国産音楽を聴き込み、昭和40年代の雑誌や書籍にじっくり目を通し、昭和40年代のモードを身にまとい、自ら昭和40年代を体現しようという耳目の肥えたエリートたちで、出演者以上にヒップな連中と言えた。そんな客たちに、渚ようこはすぐに受け入れられた。渚自身が彼ら同様の昭和40年代ヘヴィディガーだったからだろう。
チコとビーグルス「新宿マドモアゼル」、牧葉ユミ「回転木馬」、中山千夏「Zen Zenブルース」、津々井まり「悪なあなた」、倉元恵子「勝手にしやがれ」……数々のレア歌謡曲が、渚の歌唱により、当時の和モノ界隈にとって、Oneness of Juju「African Rhythms」、Cymande「The Message」、Mighty Ryeders「Evil Vibrations」、Leo's Sunshipp「Give Me The Sunshine」といった数々のレアグルーヴクラシックと変わらぬものになった。
歌謡歌手としての新たな一歩
あいさとう並びにザ・ヘアとの活動は、渚を歌手として成長させていった。その一方で彼女は、刑務所慰問や横浜の寿町夏祭りなど、いわゆるクラブ出身の歌手の範疇を超えたフィールドで歌うことにも躊躇はなかった。“サブカルチャーとしての歌謡曲”が、渚にはいくぶん窮屈そうに見えるようになっていた。歌手・渚ようこのベースがザ・ヘアとの活動によって培われたのは間違いない。ザ・ヘアは渚にとっての、ヒップホップチームをもじって言うなら“Handsome Boy Modeling School”だった。しかし、学校はいずれ卒業せねばならない。
2000年にリリースされた「アダムとイヴのように」を最後に、ザ・ヘアとは別の道を歩むことになった渚ようこ。歌謡曲を歌うのではなく、私が歌謡曲になる――本人がそう言っていたわけではないが、その後の活動を振り返ると、そういう覚悟を決めたように思えるのだ。
戸川昌子、横山剣との出会い
そんな渚を次に受け入れた1人は、東京・青い部屋のオーナーの戸川昌子であった。まさしく昭和40年代から三島由紀夫や美輪明宏といったヒップな文化人が集い、小林亜星が粗相をして戸川に激怒されたことでも知られるシャンソニエ・青い部屋は、2000年の移転と共にクラブとライブハウスの機能を持ち、若い世代のDJやシンガー、ミュージシャンらが夜な夜な集うようになっていた。
戸川の薫陶を受けた渚は、青い部屋で表現の幅と人脈を広げていった。歌謡ユニット、エロチック・トロワを組むことになる若きシャンソン歌手のソワレ(青い部屋の店長でもあった)、トランスジェンダーであるボサノバ歌手のエルナ・フェラガ~モ、という生涯の友との出会いも、青い部屋でのことだった。
そしてもう1人、コモエスタ八重樫を介して知り合ったクレイジーケンバンドの横山剣が、渚をさらに上のステージに引き上げることになる。バンドへの客演、横山による曲提供やプロデュース作のリリースにより、CKBのファンを中心に、渚は知名度を一気に広げていった。ここで横山と渚の関係性が、師弟ではなく、横山が純粋に“渚ようこのファン”であったように思えることは重要だ。
横山は渚の魅力と足跡、そして昭和40年代歌謡という文化そのものに敬意のある仕事をし、渚もその敬意に全身全霊でオリジナリティあふれる歌唱をもって応えた。遺された横山諸作における渚の歌唱に、一番歓びを感じていたのは横山自身だったのではないだろうか。
名実共に「新宿マドモアゼル」へ
こうした出会いが出会いを生み、いつしか渚ようこは昭和40年代レジェンドたちと自然に交流、共演するようになっていた。実力派GSバンドのザ・ハプニングス・フォー、今なお現役感をもって活動を続けるフォークシンガーの三上寛といった音楽畑はもちろん、俳優の山谷初男、映画監督の若松孝二、コメディアンでありハードボイルド書評家の内藤陳、写真家の森山大道、イラストレーターの宇野亜喜良……といった面々が、渚ようことの共演者、共同制作者として名を連ねていった。こうした多士済々との交わりは、2003年10月、ゴールデン街に渚ようこがオープンさせたバー汀が拠点となっていた。新宿伝統文化への敬愛あふれる歌手活動や、渚本人の飾らない人柄もあり、彼女はゴールデン街に受け入れられ、汀も昭和40年代や新宿文化を愛する老若男女が集うサロンと化していた。
渚の新宿愛・歌謡愛の1つの結実が、2008年に新宿コマ劇場で開催された「新宿ゲバゲバリサイタル」だ。閉館して10年が経とうかという今、歌謡歌手がコマ劇場で歌うというのがどれだけのことだったか、もはや伝わりにくいとは思う。オールドロックファンにとってのFillmore、ソウルファンにとってのApollo Theater、RamonesマニアにとってのCBGB……それらに匹敵するプライドがコマ劇場にはあった。そんな新宿コマ劇場に立った瞬間、渚は名実共に“新宿マドモアゼル”となったのだ。
作詞家・阿久悠とのコラボ
そして歌謡歌手としてもう1つ忘れてはいけないのは、2006年の「渚ようこ meets 阿久悠 ふるえて眠る子守唄」をはじめとした、昭和を代表する作詞家・阿久悠とのコラボレーションだ。渚のステージ終盤のハイライト曲「哀愁のロカビリアン」は、この昭和の偉大な作詞家が、最晩年に、渚のために書き下ろした曲である。かつてNew Orderのベーシスト、ピーター・フック(通称フッキー)は「ニュー・オーダーには、ほかの売れてるバンドにすらない格のようなものがある」みたいなことを語っていた。昭和歌謡歌手としての渚ようこには、フッキーの言う“格”が確実にあった。
昭和歌謡とはかなり乱暴なカテゴライズで、正確には、彼女のベースは昭和40年代、西暦で言うと1965~72年あたりの文化・風俗だ。ステージ上のみならず、普段着の彼女もまさしくその時代からタイムスリップしてきたかのような装いであった。いつもはアウトドアやスポーツブランドで身を包み歌うときだけ昭和のコスプレをする、そんな現代的な人物ではなかった。今や世界的なブームでもある日本の音楽文化であるシティポップだが、渚はそのシティポップが捨てた部分、洗練とは真逆の情念的な部分をより愛していた。90年代若者文化の大きな軸であるクラブカルチャーから登場しながら、より大きく“歌謡曲”を体現するようになっていった彼女は、24時間、身も心も歌謡曲に捧げていたのだ。
それだけに今回の出来事はあまりに突然すぎて、渚は我々の知らぬうちに四つ辻で歌謡の悪魔と取引していて魂の回収時期が今だったのではないか、そんな非現実的なことばかり考えてしまう。
かつて雑誌の渚ようこ特集で、横山剣はこんな談話を残している。
「ま、普段、こう、プライベートで御会いする機会は殆どないけど、一日に一回は『ようこちゃんどうしてるかな』っていつも思うんですよね。ええ。」(「クイック・ジャパン」Vol.48)
渚ようこがいなくなった今でも、俺もそうなんですよ、剣さん。
- フミヤマウチ
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ライター / DJ。DJ BAR INKSTICKやOrgan Barといったクラブに勤務したのち、1996年にタワーレコードの「bounce」編集部で編集者 / ライターとしてのキャリアをスタートさせる。和モノレアグルーヴ発掘の第一人者として知られ、「グルーブ・サウンズ・イン・ニッポン」(あいさとうとの共同監修)など再発音源の監修や解説も手がけている。なお渚ようこの楽曲「ブーガルー・ベイビー」の作詞も手がけている。