男女9人の貧乏シェアハウスに住んでいた頃、我が家の鍵は常に開きっぱなしだった。
今から考えると相当危ないが、「どうせ、空き巣に入られても誰も盗られて困るもの、持ってないし」という住民全員の総意だった。
マンションの8階にあるそのシェアハウスのほかは怪しいテナントやマッサージ屋ばかりで、いつ誰が入ってきてもおかしくない状況だった。
深夜3時、予期せぬ来訪者がある。
「おとうさぁん、おとうさぁぁん」切なげなソプラノで配偶者を呼ぶのは9階に住む98歳の老婆である。
「おとうさぁん、ねえ、どこに行っちゃったのう」
その「お父さん」の方は数ヵ月前から昼時になるとバァンと凄まじい音を立てて我が家のドアを開ける。「おい、メシまだか」と言いながら男子4人部屋に突進し、2段ベッドで寝ている住人を叩き起こす。
「うるせぇな、ジジイ」そう悪態をつきながらも住人たちはなぜか彼に優しい。なんなら自分のぶんを作るついでに彼にもチャーハンを振舞ったりもする。ジジイは満足すると「じゃあ」と言い、スタスタとうちを後にする。
認知症夫婦の昼夜交代の襲来に新しい入居者などはビビり上がるが、しばらくすると慣れ、彼らが家の中にいてもどこ吹く風になるのだった。
しかしそのジジイも数ヵ月前に老人ホームに入居したらしい。来るのはババア一人だけになり、その頻度はますます上がった。夜中に来る分ババアの方が扱いが難しい。
住人たちが寝静まる中、四つん這いになりながら我が家の中の階段を頭から降りようとするので気が気じゃない。
「おばあちゃん、ここ降りてもおじいちゃんのいる階にはいけないよ、おうちに帰ろう」眠い目をこすりながら説得しても、老婆はそのまんまるの黒い目をぱっかと開いて「あらそう、でもねえおじいちゃんは一階のお店にいるんですよ」と今は彼らの息子が継いでいる一階の「スワン靴店」のことを話し出す。
そのうち廊下でへたりこんで動かなくなった彼女を、どうにか9階の家まで連れて行くのはその時起きている住人全員のタスクだった。
一番若い19歳の医学部生が、枯れ木のような手足の彼女を背負い「よいしょ、よいしょ」と階段を登ってゆく。
みな「全く困るよねぇ」「トイレに起きた時、ばあさんが廊下に立ってるとビビる」などと言いつつもどこか口調は優しげで、彼女の予期せぬ来訪を面白がっている節があった。