私の東京出張
皆さんは新幹線にどのくらい乗りますか?
私は週2日ほど東京や関西方面への出張が入るので、名古屋駅から新幹線によく乗ります。でも、そのたびにビクビクします。乗っているときに直下地震が来たらいやだなと。
名古屋駅付近は地盤が軟らかくてズブズブなので、駅ビルなども強く揺れます。人混みで地震が来たらパニックになるだろうから、長居しないよう、出発ギリギリに来てサッと乗り込むようにしています。
座席は一番前や一番後ろの車両は選びません。もし地震で脱線したら、死亡率がずっと高いですから。東海道新幹線が地震で脱線するはずはない? 確かに、緊急地震速報で自動停止するようにしたり、脱線防止レールを敷設したりといった何重もの安全対策を施しているので、きっと大丈夫だと思いますが、それでも高速で走るので心配です。
さらに私は、静岡駅を通過して富士山が左手の車窓に見えてくると、ちょっと緊張します。この辺りは江戸時代末期の安政東海地震で動いたと言われる「富士川河口断層帯」の真上。緊急地震速報は震源が直下だと間に合わない可能性があるからです。
無事にそこを通過しても、熱海駅の手前にある「新丹那トンネル」に入るとき、また身構えます。ここは1930年の北伊豆地震で断層に2〜3メートル程度の横ずれが発生、建設中だった東海道線の「丹那トンネル」が崩落して死者が出た場所のすぐ北側です。海辺を通るときは、津波が来たときのことを考えます。西に向かうときも、養老断層など多くの活断層を越えていきます。私にとって、新幹線は便利でありがたい移動手段であると同時に、こんなスリリングな乗り物でもあるのです。
降りる駅は、できるだけ品川駅を選びます。東京駅は周辺が軟弱な地盤で、周りには高層ビルがたくさん建っていて、人がいっぱいです。品川駅は東京駅より人が少なく、地震が来たらすぐに高台の高輪方面に逃げられるからです。
というわけで、この本を書くに当たって、品川を経由して、東銀座にある本書の版元、時事通信出版局に到着しました。
山手線を挟んで西側の日比谷、丸の内、大手町の辺りは、かつて海が入り込んだ「日比谷入り江」でした。その入り江を徳川家康が天下普請で埋め立てましたが、もともと地盤は良くありません。
それに比べて、時事通信社がある銀座周辺は台地から続く江戸の前島(実際は半島)だったところで、まだ地盤は良い方。時事通信社のビルも13階建てとそれほど高くなく、2003年の竣工で耐震性はまあまあのようです。
ところが、肝心の出版局に行くと家具の転倒防止が全然できていない。それなのに防災の本を書いてほしいと言います。そんな会社から本は出せないとグズったところ、社長が「すぐやります!」と約束してくれました。それで、この本ができました。
実は日本の防災官庁ですら、家具止めをしていないところは珍しくありません。うるさく指摘してもなかなか対策してくれない役所がたくさんあります。日本の社会はまだまだ言行不一致なので、私はときどきイライラして、雷を落としたくなります。
そんなこんなで一応、出版の打ち合わせは終わり、次の予定の講演会場に向かいました。都内の移動はできるだけ徒歩です。健康と安全の両面でお得です。地下鉄ばかり乗っていると、地上の土地勘がなくなってしまい、何かあったときに避難ができませんから。
外を歩いているときには、周りのビルをキョロキョロ見ながら、どのビルが安全そうか、今揺れたらどのビルに逃げ込めばよいか、とかを考えています。
ビルでは、上りはさすがに疲れるのでエレベーターを利用しますが、下りはできるだけ階段を使います。地震で閉じ込められたときに怖いからです。万が一に備えて、携帯トイレは常に持ち歩いています。
講演会場に着きました。講演のときには、舞台の上にはできるだけ上がらないようにします。上から目線なのが嫌いなこともありますが、演台のある場所は、だいたい照明や音響など、いろいろな吊りものが上から落ちてくる場所にあります。だから舞台の下の、非常口に逃げやすいところでしゃべらせてもらいます。地震が来たら、すぐ舞台の下に潜り込むか、非常口にダッシュするつもりです。
居酒屋でも同じ。気心の知れた人と一緒のときは、座敷であろうがテーブルであろうが、私はできるだけ出入り口に近い席を選びます。気を遣って上席を勧めてくれることもありますが、私は幹事席の入り口が好きです。
充実した講演会も懇親会も終わり、「もう1軒」と誘われました。でも、やんわりとお断りします。東京都心に泊まるのは少し不安ですから。連日の出張でも、できるだけ日帰りを選ぶ。それが私の、東京出張の基本スタイルです。
普通の人から見れば、変な人ですね。でも、地震は絶対に来ます。少しずつの対策、行動の積み重ねで、被害を圧倒的に減らせられます。だから私は、心配性でありながら、こんな生活を楽しんでいられるのです。
次の震災は「破滅的」
南海トラフ地震や関東地震は歴史上、何回も繰り返しています。「将来、来るかもしれない」のではなく、いずれ「必ず来る」のです。
伊豆半島を挟んで東側にあるのが関東地震を起こす相模トラフ、西側は駿河トラフ、南海トラフと続きます。いずれも、フィリピン海プレートが陸のプレートの下に潜り込むことによってできた海の中の溝です。南海トラフでは、フィリピン海プレートが年間5、6センチのスピードで北西に進んでいるので、100年程度で5、6メートルのひずみがたまり、それが解放されるとマグニチュード(M)8クラスの巨大地震を引き起こします。
南海トラフ地震は東側から東海地震、東南海地震、南海地震と呼ばれています。
三つが同時に発生したのは1707年の宝永地震。東海、東南海が一緒に来て、その32時間後に南海地震が起きたのは1854年の安政地震。前回の昭和の地震では、1944年に東南海地震が単独で起き、2年後に南海地震が起きました。東海地震のところが残っているので、40年ほど前に東海地震説が提唱されました。
地震の起き方は毎回異なっていて一様ではありませんが、その間隔は百年から百数十年と定期的に見えます。
南海トラフ地震の前後には、内陸でもたくさんの地震が起きています。また、宝永地震の49日後には富士山が大噴火しました。安政地震前後は1853年から1858年の間に、全国各地で10を超える大地震が起き、江戸を襲った暴風雨やコレラの流行なども重なって江戸時代の終焉につながりました。
安土桃山から江戸へ、元禄から享保へ、江戸から明治へ、そして大戦の時代から終戦へ。地震は大きな歴史的転換のときと重なります。1923年の関東大震災(大正関東地震)から昭和の東南海、南海地震を挟んで1948年の福井地震までは「災害と戦争」の時代でした。
戦後は地震活動も落ち着いたように見えました。逆に、都市部を襲う大地震がなかったので、平和な時代が続き高度経済成長を遂げられたとも言えます。
しかし、高度成長期が終わったとたんに阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震)があり、東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)にも見舞われました。それから、熊本地震をはじめ大小の内陸地震、新燃岳や御嶽山などの噴火が毎年のように発生しています。大地が激動の時代に入ったように見える今の日本の姿は、過去の南海トラフ地震の時代と重なるように感じないでしょうか。
<次回は10月24日(水)に掲載予定です>