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2018-10-16

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・おいしいものを食べている。
 いつまででも食べていたいとさえ思っている。
 これは「いい時間」だ。

 しかたなくエサのようになにか食べている。
 こんなものを食べていていいのかとさえ思っている。
 これは「いい時間」じゃない。

 映画を観ている。
 おもしろいなぁ、と、こころが動く。
 あとで、観てよかったなぁと思う。
 これは「いい時間」だった。

 いやだなぁと思う人々と、がまんして会話をしている。
 早く終わらないものか、つらくてしょうがない。
 これはもちろん「いい時間」とは言えない。

 高いケーキをおごってもらった。
 おごってくれた人が、ずっといかに高いかを語っている。
 ケーキはおいしいのだけれど、恩着せがましいなぁ。
 これも「いい時間」とは言いがたいだろうな。
 本を読み終えて、「いい時間」だったと思うこともある。
 本を読んで「いい時間」じゃなかったと思うこともある。
 値段だとか、一般的な価値だとかと関係なく、
 それをしていた時間を、「よかったな」と感じていたら、
 それが「いい時間」というものなんだと思う。
 失恋の体験だって、最悪だったと思っていたはずなのに、
 いつか「いい時間」にカウントされるかもしれない。
 犬のウンコを拾っているときだって、
 それはたいてい「いい時間」であることが多い。
 赤ん坊のおむつを替えているのも、「いい時間」だろう。
 人に親切にする、いわゆる損得で言えば損なことでも、
 相手のお役に立ったようなら、「いい時間」になる。
 人の親切をありがたく感じる、むろん「いい時間」だ。

 生きて、いつか死ぬのが人間のあたりまえだ。
 「いい時間」があったなぁと思えるならば、
 それはきっと「いい人生」だったということだろう。
 幸福というのは、「いい時間」を過ごすことではないか。
 「いい時間」をもたらすものを、人はもとめている。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「ほぼ日」がやりたいのは「いい時間」をつくることかも。


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