渦中の美術家が抱えていた現実。
長谷川新評「時代に生き、時代を超える 板橋区立美術館コレクションの日本近代洋画1920s-1950s」展
現在、群馬県立館林美術館では、関東大震災や金融恐慌、戦争を経験した作家に焦点を当てた展覧会「時代に生き、時代を超える 板橋区立美術館コレクションの日本近代洋画1920s-1950s」が開催されている。渦中を生きた作家たちははどのような現実を抱えていたのだろうか。この問いに対峙することを目指した本展を、インディペンデント・キュレーターの長谷川新がレビューする。
生のダイアグラムをめぐって
1923年の関東大震災直後、憲兵に連行され妻と甥とともに殺害されたアナキスト・大杉栄は、『ファーブル昆虫記』(1922、ジャン=アンリ・ファーブル)の翻訳者でもあった(*1)。「一犯一語」、すなわち一度逮捕収監されるたびに獄中でひとつ外国語を学習するという途方もない前向きさを掲げていた大杉は、昆虫たちの営みのうちに、資本主義に包摂されない生を、あるいは理想の相互扶助のあり方を見ていたのである。
「『革命』とは、連続する生命の『流れ』がシステムとぶつかり、ひときわ高い水音を発している闘争の現場に赴き、その『生』と一体化することのうちに求められた」(*2)。この水音は、日常のあらゆる実践、あらゆる心理的葛藤のなかで聴きとられうる。大杉はそのことを確信しており、だからこそ彼は現行の革命派に対しても辛辣な批判を止めない。大杉にとって革命の契機たる「そうした闘争の現場は、システムの内部に遍在している」(*3)。
ある人間、ある時代の営みそれ自体が多彩で、奥行きがあり、複数的である場合(そうでない場合があるだろうか?)、「展覧会」という限られた場所においてその全容を余すところなく示すにはかなりの困難が伴う。ひときわ高い水音を聴取しようにも、そこではただ轟音が鳴り響くばかりだ。
ニューヨーク近代美術館での画期的な展覧会「Inventing Abstraction 1910-1925」(2013)では、従来の「抽象の発明」をめぐる言説を修正すべく、ウェブサイトにダイアグラムが導入されていた。このダイアグラムを前にすれば私たちは「カンディンスキーが抽象画を発明した」などとはもはや口走れない(その点では確かに機能している)。かつて「キュビスムと抽象美術」展(1936、ニューヨーク近代美術館)で提示されたチャートへの批判としても有効だろう。しかしいっぽうで、このダイアグラムはほとんど強迫観念的でさえある。本当にこれが最適解なのだろうか?今回の評には、つねにこれと同じような問いがまとわりついていることを最初に記しておく。
板橋区立美術館は1979年の設立以来、コレクションの軸のひとつとして昭和の前衛芸術を積極的に収集している。とりわけその多くは、板橋区ゆかりの作家および「池袋モンパルナス」に関連のある作品である。本展「時代に生き、時代を超える 板橋区立美術館コレクションの日本近代洋画1920s-1950s」は、休館中の板橋区立美術館のコレクションをいわば「巡回」させたものであるが、ただの「出張版常設展」として「定番」の語りを反復することを良しとしない企画者の意志を感じ取ることができる(*4)。この意志は展覧会中に遍在しているが、一例として「5. コミュニティとしての池袋モンパルナス」を見てみよう。
アトリエ解体にともない、近年「発見」された古沢敏子の絵画3点は本展が初公開である。「大作家・古沢岩美の妻」という紹介にとどまっていたこれまでの「研究」を更新し、男性偏重の視線の中で等閑視されてきた女性たちの実践についても、今後光が当てられていくであろう希望をもって本展は幕を閉じている。戦後、「池袋モンパルナス」の知名度が上がれば上がるほどに、そこではある一定の「語り」が生まれている。
いま言及した古沢敏子の作品は、まさにこの「語り」にかき消されてきた。いっぽうですぐさま付け加えねばならないが、学芸員や研究者たちは丹念な研究を積み重ね続けており、こうした「語り」を修正する論考自体は枚挙にいとまがない(*5)。もし、近代の人々の実践を極度に単純化して眼差す鑑賞者が存在するのだとしたら、その眼差しはある意味において展覧会の側がつくりだしている。作品と鑑賞者は対峙した瞬間に互いに低く見積もられ、すれ違っているのだ。本展では、上述の古沢敏子の絵画を除けば学術的に新しい発見があるわけではないものの、文字通り板橋区立美術館コレクションというアプリの「溜まった更新」の「アップデート」が目指されている。
1941年の瀧口修造と福沢一郎の検挙が物語っているように、シュルレアリスムは共産主義との関わりが疑われ、検閲の対象になっていたことが知られている。しかし難波香久三(架空像)は、シュルレアリスム絵画を手がけながらも、名取洋之助率いる日本工房が手がけた対外宣伝誌『SHANGHAI』(1938年11月号)に掲載されるなど例外的待遇を受けており、後年の手記の中で「私の絵が戦争に役立つのだ」という「新しいよろこび」を感じたと述懐している。この難波の手記「画歴のためのメモ」は、全文が本展のカタログに収録されているが、ささやかでありながら重要な「アップデート」であるだろう(全文読むことを勧める)。
作家の言葉だけでなく当時の社会的条件もまた重要である。本展では、同時代の状況をうかがい知れる資料もまた多く展示されているが、その中にある「画材配給票」は、戦時下の画家たちが自由に絵具を選んで絵を描けなかったことを端的に示している。「なぜ当時の絵はあんなに茶色いのか?」という問いを「暗い世相の反映である」として作家の内面に求めるのは片手落ちというほかない(*6)。
本展の担当学芸員が書いているように、本展の作家たちのほとんどは、制作時20代から30代の「若者」である(*7)。『幽遊白書』が作者24歳から28歳の間に連載されてきたという打ちのめされるような事実と同様に、彼らもまたキャリアの初期から時代と並走する体力を備えている。作品の未熟さ、不十分さ、不可解さはいくらでも指摘可能だが、それを理由に様々なコンディション/コンベンションの解析を怠ってはならない。複数の作品や資料を併置することで初めて気づかされる事実や矛盾こそが、展覧会を構成する重要な基礎単位なのである。
展覧会のタイトルが、1935年に版画家・藤牧義夫が記したテクストのタイトル「時代に生きよ時代を超ゑよ」からとられていることからも、この展覧会の放つメッセージは明確である。弱冠24歳の藤牧が残したこの文章は(彼は同年失踪している)、「コントロールが効かなくなりつつあるナショナリズムと軍部の台頭という時代の『空気』とある意味共振している」(*8)が、それでもなお/であるがゆえに、本展のタイトルに冠されることとなった。
「展覧会」という場を根拠づける倫理は、「いまはいまではなく、過去は過去ではない」という事実にほかならない。言われずとも、どうしようもなく、作品や表現は時代に生き、時代を超えてしまう。その時代の中に、しかもそのごくごく一部分に表現や作品を押し込めてしまうのは私たちの側なのである。
当時の人々が若いだけでなく多彩な経歴の持ち主であったことも確認しておきたい。「1.都市・労働・生活」を概観してみるだけでも魅力的な作家たちが一堂に会している。展覧会は意外にもアメリカ生まれの日系画家・野田英夫から始まっている(*9)。永井潔と永田一脩が肖像を描いている蔵原惟人は、ソ連帰りでロシア語が堪能であった活動家であり、自身も画家であった中原實はハーバード大学で学んだのちフランスで軍医としても活動した歯科医師である。中原は帰国後に九段画廊を運営し、絵画理論に関する文章も発表するなど、たんなる画家には収まらない活動を展開している。大杉栄が何も特殊であったわけではなく、現在の私たちの多くもそうであるように、様々な人々と関わり合い、様々な地に赴き、様々な言説を翻訳・分析していたのである(当時「日本」が「日本列島」だけを意味しなかったことを繰り返し思い出そう)。永田はプロレタリア運動への共感を示すいっぽうで、1942年にプロパガンダと啓発を目的とした『空中写真測量』(理研科学映画、1942)を刊行しているが、これは浅野孟府が吉田謙吉とともに日独共作のプロパガンダ映画『新しき土』(1937、アーノルド・ファンク/伊丹万作)を手伝っていることともパラレルな事象(*10)である。彼らはみなわかりやすい意味での「一貫した人生」など送ってはいない。
ここで露わになっているいくつもの矛盾をどのように示しうるか、と本展は問うている。戦中と戦後で内容が180度変わる雑誌『少年倶楽部』(講談社)の記事と、進駐軍の歓迎会写真を併置する箇所において、そのアイロニーははっきりと示されているが、それほど露骨な配置をせずとも、転倒し、複雑に絡まり、引き裂かれた事象は展覧会のそこかしこで発生している。
展覧会の前半がちょうど終わろうかというところに、末松正樹のドローイングが展示されている。かなり苦しんで構成した痕跡のある「3. 抽象を描く」において、末松のドローイングはもっともささやかなものだ。しかし、キャプションを読むと、このドローイングにはある時間が凝縮されていることがわかる。前衛舞踏家であった末松は1944年から1945年にかけてフランス・ペルピニャンで捕虜となっていた(ここにも「グローバルに」戦争を体験した者がいる)。ホテルの一室に軟禁された末松は、20歩ほど歩けば一周してしまえるほどの小さな空間において切迫した日々を過ごし、紙と筆記用具と指で「踊ろう」と試みている。帰国後、彼は浅野孟府らに伝手(ツテ)を当たってもらい、映画の翻訳や字幕を手がけ生計を立てているが(*11)、その仕事の中で生まれた名訳こそ、『天井桟敷の人々』(1945、マルセル・カルネ)である。
半ば無限に辿っていくことが可能なネットワークを前にして、展覧会は、極度の単純化でも、過剰な情報網の提示でもないインターフェイスとして機能する必要がある。いくつもの翻訳と、そのたびに露わになる矛盾を隠蔽するのではなく、そこから立ち上げねばならない。その意味で、本展はキャプション、カタログ、関連イベントそれぞれに丁寧な仕事が見受けられ、「生のダイアグラム」を描く可能性の端緒を感じさせてくれるものであった。
脚注
*1ーージャン=アンリ・ファーブル、小原秀雄『大杉栄訳 ファーブル昆虫記』(明石書店、2005)
*2ーー梅森直之「明治ソーシャリズム・大正アナーキズム・昭和マルクシズム」『日本思想史講座4ー近代』(ぺりかん社、2013)
*3ーー同上
*4ーーこの展示の前に、今年4月川越市立美術館でも同様の試みがなされていたが(「板橋区立美術館コレクションによる日本のシュルレアリスム展」)、こちらはどちらかといえばシンプルにコレクションを紹介するという域にとどまっていた。
*5ーー「生きてゐる画家」(『みづゑ』437号、1941)を執筆した「抵抗の画家」松本竣介という語りもまた、彼が戦争画《航空兵群》を1941年の「九室会航空美術展示会」において発表していたという事実などから修正がなされてきている。無論、松本が戦後発表した「芸術家の良心」を一読しても「戦争画は非芸術的だといふことはもちろんありえない」と書いており、一概に戦争画そのものを否定していたわけではないこともうかがえる。
*6ーー迫内祐司「戦時下における美術制作資材統制団体について」『近代画説』13号(三好企画、2004)
*7ーー佐原しおり「時代に生きよ時代を超ゑよーー板橋区立美術館コレクションをめぐって」(2018、群馬県立館林美術館)
*8ーー同上
*9ーーディエゴ・リベラの助手も務め、スパイの可能性も指摘されている野田英夫で始まり、古沢夫妻で終わる本展は、その枠組み自体がすでに、「池袋モンパルナス」でありながら既存の「池袋モンパルナス像」を踏み越えようという意志に満ちている。野田については窪島誠一郎『明るき光の中へ―日系画家野田英夫の生涯』(新日本出版社、2016)が詳しい。
*10ーー浅野はその後、映画『ハワイ・マレー沖海戦』(1942、山本嘉次郎)や『海軍』(1943、田坂具隆)の特撮にも携わり、『映画之友』(1943年10月号)においても「特殊撮影の設計責任者」としてインタビューを受けている。彼の弟子にゴジラを造形した利光貞三がいることは、人形劇、特撮、舞台美術、玩具工場の運営、立体アニメーション、建築設計、野外彫刻など多岐にわたる彫刻的実践を続けた彼の人生を考えれば非常に興味深いのだが、これらの分析については稿を改めたい。
*11ーー香山マリエ『天井桟敷の父へ』(鳥影社、2011)