お腹の中で赤ちゃんが育たなかったり、生まれて間もなく亡くなったりすることがある。医学が進歩しても、医療者が手を尽くしても、家族が祈り続けても、救えなかった命がある。
神奈川県立こども医療センターは、1992年に日本で初めて小児専門病院に産科が設置された基幹病院で、高度で専門的な医療を提供する「総合周産期母子医療センター」にも指定されている。この小児病院のNICUには年間400人の赤ちゃんが入院し、およそ30人の赤ちゃんが命を終えている。
出産の幸福や祝福のオーラに隠れた、知られざる悲しみの現場。著書『産声のない天使たち』(朝日新聞出版)で赤ちゃんの死をルポした週刊誌AERA記者の深澤友紀さんと、このセンターを訪ねた。
命日に家族で戻る場所
横浜市の京急弘明寺駅からバスで10分ほど。広大な敷地にあるセンターの建物に入ると、自然光が入るフロアで多くの親子が順番を待っていた。車椅子に座った子、人工呼吸器をつけている子。壁には、ちょっとした穴蔵風のデザインが施されており、その中で本を読んでいる子は隠れ家にいるように見える。
新生児科の横の長椅子に腰かけていた家族がいた。新生児科部長の豊島勝昭さんをずっと待っていたのだという。この日は、3年半前に生まれたしゅんたろう君の命日。生まれてすぐに染色体異常が見つかり、NICUで治療を受けた後、自宅で6カ月半の間、家族と過ごした。
お姉ちゃんがしゅんたろう君の写真やおもちゃを抱え、母親に抱っこされた弟とともに、豊島さんに会いにきたのだ。豊島さんの顔がほころぶ。一緒に座り、しゅんたろう君の思い出を語り始めた。
しかし、こんな光景はどこでも見られるわけではない。赤ちゃんを亡くした多くの家族にとって、つらいお産やお別れをした病院は二度と足を向けたくない場所になってしまうことが少なくないからだ。
深澤さんの取材では、赤ちゃんを亡くした悲しみに加えて、周りの対応によって傷ついた家族がたくさんいた。
死産した赤ちゃんが「未滅菌」のシールが貼られたトレーに載せられていた。一度も抱っこできないまま火葬されてしまった。医療者や親族、友人らに配慮のない言葉をかけられたーー。つらい体験を語ってくれた人たちは「無知が人を傷つける」「赤ちゃんの死について知ってもらいたい」と切に願っているという。
『産声のない天使たち』で紹介したこの神奈川県立こども医療センターは、リスクの高い出産を多く受け入れているぶん、命を救うことだけでなく、家族の時間や過ごし方にも配慮している。赤ちゃんの病気や死とどう向き合うのか。周りはどう支えるのか。深澤さんと豊島さんに語ってもらった。
天国と地獄が同居する産院
深澤 2年前、幼なじみが死産をしたと聞いたことがきっかけで、赤ちゃんの死をテーマに取材しようと思いました。私も3年前、長男が出産予定日間近で心拍が弱り、緊急帝王切開で出産。NICU(新生児集中治療室)とGCU(新生児治療回復室)で2カ月弱、お世話になりました。
入院中は、他の赤ちゃんの泣き声が聞こえると耳をふさいでいました。自分が退院してからも、自宅とNICUを往復する毎日でした。NICUでは、隣の赤ちゃんの様子を見てはいけないような雰囲気があり、不安が大きくて、ずっとうつむいて過ごしていたように思います。
産院は、天国と地獄が同居する場所なのです。ハッピーな出産だけでなく、悲しみや孤独に苦しんでいる人もいる。その現状を伝えたいと思いました。
豊島 ここ神奈川県立こども医療センターは、子宮内で命を終える赤ちゃんが日本で一番多いんです。今、生まれてくる赤ちゃんの30人に1人は、何らかの新生児医療を必要とします。そういう赤ちゃんがNICUに入院してきます。自宅に帰れることなく亡くなる赤ちゃんも少なからずいます。
死って老人のものだと思われていますが、周産期(妊娠22週〜生後6日)の死亡もあります。老人の死はみんないずれ当事者になるから関心をもつけれど、赤ちゃんの死は当事者ではないし、つらい現実だから見ないで済むなら目を背けたいものなのです。赤ちゃんの死は、ある種のタブーになっています。
四十九日のあとに孤独になる
深澤 取材では、産後1カ月健診で母体の回復を診てもらうために、赤ちゃんが亡くなった産院に行くのがつらい、という人がいました。一方で、社会から取り残された感覚になる人もいます。
母親たちは、新しい命を産むことに向けて気持ちを昂ぶらせていて、死なんて考えてもいません。それなのに、とても限られた時間に、想像もしたくないような現実がいきなり訪れるのです。
その後も気持ちが張っていて、すぐにはショックを受け止められません。四十九日の後、夫は普段通りに会社に行っているけれど、妻は産後の体がまだ回復していなくて、自宅で一人で過ごしているときにドッと悲しみが押し寄せます。
1カ月健診の後は、産院とのつながりもなくなります。自治体の産後サポートや自治体の訪問も、生きている赤ちゃんに向けたものがほとんど。周りに出産の報告ができず、誰にも理解してもらえないと感じ、仕事も辞めて引きこもり、孤立してしまう人もいます。
家族の危機に家族で向き合う
豊島 赤ちゃんの死に直面した母親が生きづらさを感じる理由は二つあって、一つはお子さんを亡くした悲しみ。もう一つは、伝えられない、わかってもらえない苦しみ。滅多に赤ちゃんの死に直面しない医療者も多くいて、医療者の対応や言葉が、親の一生のトラウマになることもあります。支えているつもりで傷つけることもあります。僕が言ったことに傷ついている人もいるかもしれません。
病院でいくら丁寧に対応したとしても、退院後の人間関係や、街に出て赤ちゃんの声を聞いて傷つくこともあります。赤ちゃんの死の経験には一生向き合うことになるので、病院にいる短期間に悲しみを癒せるとはまったく思っていません。
母親が孤立しないために、私たちは、両親が一緒に話すことが大事だと思っています。妊娠中から、命に関わるようなことは必ず両親に伝えて一緒に考えてもらいますし、父親が訪れやすいようにNICUは24時間面会可能にし、感染症予防などの理由からほとんどの病院では受け入れていない兄姉の面会も受け入れています。
NICUに入院するって、家族の危機だと思うんですよね。弟や妹がNICUに入ったら、兄や姉は何が起きたかわからないまま外で待たされたり留守番させられたり。親にとっては病気の子も大事だけど外で待ってる子も大事だから、みんな悩んでしまう。だったら家族みんなで赤ちゃんに向き合おうと。子どもって命そのものを見ているから、奇形や病気がある弟妹も、兄姉が喜んでいる姿に、父親や母親が救われることもあります。
深澤 染色体異常の赤ちゃんにお豆のような6本目の指があり、面会した3つ年上のお姉ちゃんが「お豆ゆび、いいなぁ、私もほしい」と笑顔で言ったことにお母さんがホッとして泣いたというお話も聞きました。
その子が2カ月で退院したとき、センターの医師たちが経管栄養、吸引、酸素吸入など在宅医療の環境を整え、家族4人が一緒に過ごせるようにサポートしたんですよね。病院でどのように過ごしたか、医療スタッフがどう接してくれたかが、家族のそれからの生活に大きく影響するように思います。
豊島 このセンターにNICUができて23年、昨年はドラマ「コウノドリ」のNICUのモデルにもなりました。
NICUを"卒業"した家族による「同窓会」や、子どもを亡くされた家族が集まって気持ちを伝え合うグリーフケアの会があります。また、早産の子は市販のベビー服がぶかぶかのため、かわいい洋服で送り出したい、と小さいサイズのベビー服を縫うボランティア活動「天使のブティック」も、赤ちゃんを早産で亡くした母親から始まりました。
当事者だけで話をしてもらい、こういう対応に傷つく、と医療者がフィードバックをもらうこともあります。
年に1回、病院全体で合同の慰霊式もあります。小児がんや心臓病、そして周産期のお子さんたちが多数です。
亡くなった子は「よく頑張った」
深澤 子どもを亡くした親は、周りから腫れ物に触るような接し方をされるけれど、その子がいなかったこととして扱われるのはすごく悲しいそうです。合同慰霊祭に出席した方の話を聞くと、死産の場合は戸籍にも残らなくて生まれてきた証が少ない中で、赤ちゃんの名前を呼んでもらえたとか、先生たちの記憶の中で生きていることがうれしかったと。
亡くなった子も生きている子と同じ対応をしてもらえるとうれしいし、そうでないと孤独に感じる。例えば、退院のときに正面玄関から帰れなかったことで傷つく方もいますよね。
豊島 病院の正面玄関に葬儀屋の車を止めるのは不吉だからとか、いま頑張っている妊婦さんに不安を与えるからという感覚で、裏口から帰すことが、医療者の"常識"でした。僕たちは、どの子も正面玄関から帰りたかったら帰っていいよと伝えています。
子どもが亡くなった時に「ダメだった」と言うのはやめようと話しているんです。「ダメ」ではなくて「頑張った」子なんだから、「よく頑張ったね」と讃えて、正面玄関から胸を張って帰れるようにしたい。裏口から帰すのは、医療者がどこかで、子どもが亡くなったことを「負け」だと感じているからじゃないかと思うんです。
生まれてきた赤ちゃん、助かった赤ちゃんが「勝ち」で、胎内や出産直後に亡くなってしまった赤ちゃんが「負け」だとは思っていません。それぞれの命の意味を考えたいんです。
最後のときをどう過ごすか
豊島 僕たちは救命医療も一生懸命やっているから、もうやれることはやり尽くしたとか、これ以上はむしろ寿命を縮めてしまうかもしれないという段階に到達する場面もあります。それでも多くの医療者はあきらめたくない気持ちがあります。
すごく大変な状態でも奇跡的に助かった子がいたら、どの子にも同じ治療をすべきなのか、医者が10人いたら何人がやるべきだという治療をすべきなのか。何が正しいかなんてわからないんです。
最後の最後まで救命をあきらめないのが医療としてのあるべき姿なのかというのは医療全体に言えることですが、1分1秒でも寿命を伸ばすために親が子どもと過ごす時間をまったく持てなかったり、治療だけで一生が終わったり、そうとわかって入ればもう少し何かできなかったかと後悔したりということもあります。
生まれてきた時間を大切にすることをあきらめないからこそ、救命治療を差し控えて、ご家族と過ごす時間を大切にする緩和ケアをご提案することもあります。具合が悪い状態になればなるほど、重い病気であればあるほど、親御さんと話し合って治療方針を決めるのが大事だと思っています。
「天寿をまっとうした」
深澤 NICUにいた赤ちゃんに直接授乳して抱っこして最期を迎えた方、死産した赤ちゃんと海を見に行った方もいました。少ない思い出かもしれないけど、それが親が生きていく力になったりするものなんですよね。
豊島 あるお母さんは、1週間で亡くなった赤ちゃんのことを「天寿をまっとうしたと思う」と言うと、実の母親に「それは間違っている」と言われたのがすごくつらかったそうです。長いと思うか短いと思うかは、個人の感覚だと思います。
1時間や1日で命を終える人でも、幼い時、しっかりする時、調子いい時と悪い時、老人のように眠る時、と人生のサイクルがあるんですよ。そのサイクルを速く生きていく人を見届けた人は、「ああ、生き切ったんだ」と感じることがあるんですよね。物理的な時間の長さではないんです。人生で忘れられない日がどの人にもあるように、お腹の中で亡くなった人は数カ月かもしれないし、一緒に過ごした3日間かもしれないけど、その時間は一生忘れられないものです。
その忘れられない時間を、他の人に「たった」と言われると傷つくし、「若いんだから忘れて次のこと考えなさい」と良かれと思って言われても、忘れたいわけないじゃないんです。
一緒に悲しがってくれるのも大事だけど、一方で、こういうことができてよかった、こういう時間を持ててよかった、と言って「そうだね、よかったね」と共感してもらいたい気持ちもあるんです。親にとって赤ちゃんって、生きてても亡くなっても、かわいいものはかわいい。多くの人は亡くなった赤ちゃんの写真を見せられたらびっくりするかもしれないけど、「かわいい」と言ってあげるだけで親が救われることもあるんです。
家族の、それから
深澤 救命したあと、家族が社会の中でどう過ごしていくか、もあまり議論されていません。私も長男が脳性まひと診断され、運動障害が残ったため、仕事の合間を縫って療育に通っています。どんな命も救ってほしいけれど、マンパワーが足りない家庭もあるし、介護で24時間、気が休まる暇がない家族もいるのが現状です。
豊島 NICUでは、後遺症のない生存は増えてはいますが、それでも大部分は早産や病気とともに生きていく子です。NICUは早産や病気をなかったことにはしない、早産と病気込みで生きていくのを支えることしかできません。
障害は病気とは違い、生きづらさを子どもが感じるか家族が感じるかは、見えているもので違ってくるんです。自分が思い描いた通りにならないことが嫌だと思ったら、すべて生きづらさになります。
NICUでは、同じように助かってほしいと願いながら過ごした人たちの間で、助かった人、亡くなった人、障害と向き合っていこうとする人、いろいろな形があります。それでも、赤ちゃんの生死によって幸せか不幸せかは必ずしも決まらない。
病気や障害の状況が違う人、子どもが助かった人と子どもを亡くした人が、それぞれの経験を通して長く交流を続けています。自分の子どものことかどうかに関係なく喜び合ったり支え合ったりしている姿を見ると、本当の意味での共生ってこういうことなんだな、と思います。
Akiko Kobayashiに連絡する メールアドレス:akiko.kobayashi@buzzfeed.com.
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