梔紫微斗(くちなししびと)の事件簿 〜ワンダートム殺人事件〜
間先真太郎
「帰れかえれ。見世物じゃねえんだ。捜査の邪魔をすると共謀罪で逮捕するぞ」
梔(くちなし)警部は、事件現場に群がる野次馬に向かって怒鳴った。
ここは静岡県東富士市の、東谷湖フィッシングエリアである。
管理釣り場と呼ばれる貯水池に、中年男の死体がうかんでいるということで、朝の7時だというのに現場付近は大変な騒ぎだった。小学生とおぼしき児童までもが、張り巡らされたロープの縁にいる。
「帰れと言っとるんだ。坊主、お前小学生だろ。学校行け、学校。しっかり勉強せんと非正規雇用になるぞ。大人は仕事行け。しっかり働いて税金を納めるんだ」
しかし、二十名を越えると思われる野次馬たちは、多少後ろに下がりはものの、一向に立ち去る気配を見せない。
「帰れと言っとるんだ!」
梔は背広の裡のホルスターから拳銃を抜くと、空に向けて発砲した。
ぱあん!という乾いた音と拳銃から噴き出す火煙に、
「ワーーーーッ!!」
と野次馬たちはそれぞれ言葉ににならない悲鳴を上げ、それこそ蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。
「ふん。一般国民どもが!」
梔は走り去っていく有象無象の背中を憎々しげに見送った。
東富士市は、静岡県東部の三つの市町村が合併した市である。
かつては、米軍基地が滞在することによる基地利権で、市は潤沢な資財を抱えていたが、米軍基地が移転してからは経済的に貧窮し、富士山への登山口と地元の名産物である水菜だけが売り物の、貧しい地域となった。揶揄して「静岡の寒村」と呼ぶ者もいるほどだ。
「梔警部。被害者の身元がわかりました」
梔の元へ、課で一番若手刑事の七村が駆け寄ってきて報告した。
「誰だ」
「氏名、和田努、年齢、58歳。職業は釣具店経営です」
「釣り道具屋のオヤジか」
「それが、釣具店といってもチェーン展開をしていまして、かなり規模の大きなものです」
「こいつが和田か。ずいぶん顔が違うな」
「写真のガイシャはカツラをかぶってるんですよ。和田は安物のカツラを好んでかぶっていたそうです」
若い刑事がA3サイズの平とじの雑誌を見せた。表紙には長髪の中年男が、体長40cmほどのブラックバスの唇をつかみ、魚の顎が外れそうなほどに捻って持ち上げながら歯を剥き出して笑っている写真が全面に飾られていた。釣り雑誌であることは梔にもわかった。
「被害者の和田か」
表紙の写真を見て梔が雑誌を手に取ると、若い刑事は別の釣り雑誌も差し出した。それにも和田が傲然とした笑顔で写っていた。
「お?、結構な有名人だったんだな」
「釣りの世界では『ワンダー・トム』と呼ばれていたようです」
「何だそりゃ」
梔が苦笑しながら尋ねると七村は
「アニメにもなった漫画作品に登場するキャラクターですよ。本人が同名で出ているんです。だいぶ若いキャラに変更されていますが。子供たちにも大変な人気者です」
と言ってから、
「人気者だった、と言うべきかもしれませんね」
と言い直した。
「だった、ってのはどういう意味だ?子供たちに嫌われてるのか?」
「憎まれている、と言ってもいいかもしれません」
と七村は言った。