『グノーシスの変容』。『ユーラシアの神秘思想』。『ハタヨガの真髄』②。『スキピオの夢』
Posted on 2017.03.19 Sun 01:00:39 edit
知識の王冠を戴き
洞察の玉座に座する者なり
∸―
右が太陽で左が月なのはエジプト思想だと強調されるが、
インドも右が太陽で左が月なのは隠される。
∸―
マニ教「世の中糞(文字通り)」
マニ教では太陽と月は分離した光の集積所であり、
物質世界は文字通り悪魔のクソと死体でできているので、
肉体=物質=悪。
光側の生ける霊は、光側が殺した闇の悪魔の
皮から天を、
骨から山を、
糞から大地を創った。
汚れが最も少ない光を集めて日月とし、
やや汚れたものを星とした。
マニ教はグノーシスは絶対に残しつつ、
表面の要素と用語は乗っ取り対象と同じ言葉を使い、
対象に憑りつき破壊。
同じ用語でも中身は別物。
パッケージは同じでも別の味のラーメン。
毒ラーメンならぬ毒アーメン。
標的と同じ用語を使って乗っ取る技術を一番悪用しているのが耶蘇教系。
超有名ゲームはマニ教神話が元。
ゲームを広める結社員がマニ教系なのは明白。
しかしこいつらはマニ教信者ではない。
殺しに加担し、性交し、所有欲にまみれているからだ。
---
キリスト教は、ユダヤ教つぶしのためにアーリア系が、
ユダヤ教の少数派を取り込みつつ、
ユダヤ教の後継者のふりをして作ったカルト疑惑。
派生ではなく派生のふり。
律法完全否定で、反ユダヤで、ローマ思想なのはユダヤ教と敵対する側だから当然。
ユダヤ教はヤハウェが人身御供否定なのに、
キリスト教は教祖が生贄になったことに感謝する。
『グノーシスの変容』
・グノーシス派では「知ること(グノーシス)」が救済。
アイオーンは元来ギリシア語で、(ある一定の長さの)「時、時代、世代」の意味であるが、
グノーシス神話では、至高神の最初の自己思惟、あるいはその思惟から流出し「プレーローマ」の中に充満する、擬人化された神的存在である。
・“知恵(ソフィア)がおまえを招いている。【89】ところが、お前は闇に飢えている。お前がそうするのは、お前自身の欲するところによるのではない。そうではなくて、お前の中に宿る野獣の本性がそうしているのだ。知恵はお前を招き、やさしくこう言う、「おお、お前たち無知なる者、お前たちはすべて私のもとへやってきて、選び抜かれた善き理解力を受けなさい。私はお前に大祭司の衣を与えよう。それは知恵だけで編まれた衣である」。
§13 最悪の死とは、無知以外の何のことであろうか。最悪の闇とは、忘却に落ちること以外の何のことであろうか。お前の慮りをただ神一人に向けよ。金銀を愛するな。これらには何の益もない。むしろ、知恵を衣のように身にまとえ。知識を王冠のように頭上に戴け。洞察を玉座として、その上に座せ。なぜなら、この三つこそお前のもの。お前はこの三つを、上なるところで、再び手にするだろう。”
『グノーシスの変容』p.352(本書収録の『シルウァノスの教え』内『「ソフィア」の活喩』『ナグ・ハマディ文書』の一つ)より)
※活喩法(かつゆ ほう)
=無生物を生き物(特に人間)であるかのように表現する方法。「嵐が吠える」「花が笑う」など。
『シルウァノスの教え』
は四世紀前半に制作された写本で、
成立場所はアレクサンドリアとすることが研究上の多数意見。
その理由は、本書の神学、とりわけキリスト論が先在の神の子の「受肉」の出来事に重点をおく型であることである。
また、これが古代キリスト教会の中では、アレクサンドリアのアタナシオス(三~四世紀)によって代表されたからである。
『シルウァノスの教え』では
「キリスト=神的ロゴス=真の友かつ神かつ師。
キリストは神だったが、お前のために人間となられた。
キリストは『人間を着た』方」である。
・『シルウァノスの教え』では
人間は「肉体」「魂」「叡智(ヌース)」の三つから成るとする。
「叡智―魂―物質(地)」の三層構造でも考えられている。
中期プラトン主義、あるいは新プラトン主義の影響がみられる。
ただし、叡智についての発言はストア派との関連を示すものかもしれない。
というのは、
「お前の指揮者(ヘーゲモニコス)〈と〉教師を受け容れなさい。指揮者とは叡智のこと、教師とはロゴスのことである」という場合、「叡智」は端的にストア派の述語である「ヘーゲモニコス」およびロゴスと並立しているからである。
キリスト教の文書なのロゴスはイエスとされるが、必ずしもそう解釈しきれない個所も少なくない。
『シルウァノスの教え』はストア派の四大情念論も知っていると考えなければならない。
快楽、欲望、苦痛、恐れはそれぞれ主題化されている。情念を含む悪徳がカタログ的にリストアップされているのもストア派の倫理学の定型に従っている。
「ところで、われわれは神は身体的だと言うとすれば、それは不当である」
とあるが、「神は身体的だと言う」のは実はストア派を指している。
ストア派によれば、神は可視的宇宙に内在する。
他方で存在するものはすべて三次元の「身体」を持たねばならない。したがって、真の存在である神こそ「身体」を持たねばならない。
「からだ」すなわち「生き物」としてのこの宇宙全体が神に他ならない。
ストア派のこの論はヘレニズム期にはあまりにも周知のものであった。本書が具体的にストア派の名前を挙げずに匿名で言及するのはそのためである。
本書はストア派の神論に反対する。
その点では、たとえば新プラトン主義の創始者プロティノスの反対論(『エンネアデス』)と同じ論調になっている。
古代キリスト教の周辺で、プラトン主義派哲学とストア哲学の両方との接点を持つ思想だということではアレクサンドリアのフィロンの名前が思い浮かぶ。
『シルウァノスの教え』は、古代末期のヘレニズム文化圏に広まっていた文学形式「ディアトリベー」(=ギリシャ語で「時間に追われずに議論を交わすこと」)に形式が似ている。
「ディアトリベー」では、実際の著者が「私」で登場し、架空の対話相手と議論する疑似的な対話文学である。
この対話形式もストア派との共通項の一つである。
・『シルウァノスの教え』では人間を二種類に分ける。
天的な人間(神にかたどって生じた)
地的な人間
(土の塵から匠によって「形づくられた」。
土の塵+命の息)
ヴァレンティノス派のグノーシス主義では、人間を
霊的種族、心魂的種族、肉的種族の三種族に分けることを本書の作者は知っていると思われる。
『シルウァノスの教え』はアレクサンドリア神学であり、グノーシス文書ではない。
ヴァレンティノス派は、
キリスト教的グノーシス主義の最大派閥でありローマ中心の西方派と、
エジプト(アレクサンドリア)中心の東方派に分かれて展開した。
『完璧な教え(アスクレピオス)』(ヘルメス文書の一つ)
・生殖行為の神秘
ヘルメス「秘儀の本質を摑みたいと思うなら、男と女が営む性交のことを考えてみなさい。それは見事な模像となる。すなわち、男は(快感の)頂点に達すると、精液が放出される。その瞬間に女はその男の力を受け取り、男も女の力を受け取る。というのも、これが精液の働きなのだ。それゆえ、性交は隠れたところで行われる。
(セックス肯定。つまりマニ教系グノーシスの否定。性に厳しい宗教、特にキリスト教の否定)
『感謝の祈り(アスクレピオス)』でも、
「私たちはあなたを知りました。あらゆる種子の子宮よ。私たちはあなたを知りました。父の本性の中で孕む子宮よ」と述べて、至高神を明瞭に両性具有の存在として描いている。
至高神を両性具有とすることは神話論的なグノーシス主義にも見られる特徴。
が、この一点のみをもって『感謝の祈り』と『完璧な教え』をグノーシス文書とするには足りない。
(両性具有の完全な神=キリスト教で有名な父なる神の否定。
イエスは男で、三位一体に母はいない)
『感謝の祈り, 完璧な教え(アスクレピオス)』は三世紀末までには成立。
成立場所は間違いなくエジプト。ヘルメス文書の大半がエジプト起源。
・“ヘルメス「アスクレピオスよ。お前はエジプトがヘルメスの模像であることを知らないのか。いや、もっと言えば、天と天にあるすべての力たちの住処であることを知らないのか。もし私たちが真理を語るべきならば、この私たちの国は世界(宇宙)の神殿なのだ。”
『グノーシスの変容』p.334
(本書収録の『完璧な教え(アスクレピオス)』5 黙示録――エジプトの宗教の没落と世界の老化(ヘルメス文書の一つ)より)
この「地上の君主たち」がプトレマイオス王朝とアレクサンドリアを暗示するものだとすれば、もともとの『完璧な教え』の成立地はアレクサンドリアに特定できるだろう。
(エジプト=ヘルメスの模像=世界(宇宙)の神殿。
要はエジプトこそが理想であり世界の中心ってこと。
日本に置き換えると、大本教など日本起源説カルトの主張になります。)
至高神を両性具有とすることは神話論的なグノーシス主義にも見られる特徴。
が、『感謝の祈り』と『完璧な教え』をグノーシス文書とするには足りないと前述した。
プラトン主義は哲学との関連は
ヘルメス「主であり、父である神、すなわち、最初の『独り子なる神』を創造した方が、そのように生じたことを眺め降ろす」に最も明瞭に認められる。
可視的世界を「独り子なる神」と呼ぶことは、プラトン主義の学派哲学の伝統に属するからである。
・至高神により世界の秩序が保全され、邪悪が取り除かれること、時には世界が洪水で滅ぼされ、燃え盛る業火で焼き尽くされても、世界と自然は再び、かつ周期的に再興されることが語られる。
「神の自然が意志であり、その意志は善なるものなのだ」
にはストア哲学の宇宙論、世界大火説と世界周期説、そして予定調和説の影響が明瞭である。
(またストア派か)
・『メルキセデク』はグノーシスのセツ派との密接な関係を持っていると同時に、グノーシス主義的な「仮現論」を否定する個所もある。
仮現論
=イエスの肉体は、その神的本質にとっては仮の宿りに過ぎないので、十字架上で受難するイエスはあくまで「肉的な部分」(=代価)「模倣物」であって、真の本質、すなわち活けるイエスは「十字架の傍らで喜んで笑っている」
という見方はグノーシス主義化したキリスト教の最も顕著な特徴の一つ。
・グノーシス主義セツ派に属する
『ゾーストリアノス』
のゾーストリアノスとは、ゾーロアストロス(ゾロアスター)の曽祖父と系譜学的ではみなされる。
本書のあとがきは暗号であり解読すると、
「ゾーストリアノスの真理の言葉。真〔理〕の神。ゾーロアストロス〔の〕言葉」
であり、ゾーロアストロスは古代ペルシア以来のゾロアスター教の始祖。
『ゾーストリアノス』では
至福=叡智=真の自己認識(グノーシス)
三重の力を持つ霊
=処女なる見えざるバルべーロー
=完全なる処女(パルテノス)なる男性の三重の種族
セツ派ではバルべーローは両性具有とはいえ、女性が勝った存在で代名詞は女性形が用いられることが多い。
が、『ゾーストリアノス』では「バルべーローのアイオーン」(ギリシア語、男性名詞)という表現が多い。
∸――
『ユーラシアの神秘思想』
マニ教「世の中糞(文字通り)」
・仏教の三身説
この世の無常と苦を説く仏教では、
死体の腐敗、散乱して消滅するさまを心に描く九想観という瞑想法がある。
死体の膨張→変色→破壊→血が地面に垂れ→
膿ただれて腐敗→鳥獣に食われる→筋骨頭手が破散→
白骨のみになる→火に焼かれた骨が灰と化す
の九段階を観想。
貪欲を退ける行で極めて即物的な肉体を対象としてなされる。
実は、九想観は九相観とも書き、心=想と、対象=相 の密接不離な関係を前提とした仏教の身体観を表している。
大乗仏教の基本哲学の一つ、唯識では、主観も客観もともに心が現しだしたものだとする。
この観点からすれば、九想観は肉体の変異を通して心の変異を実現するものと考えることができる。
身体は物質的に独立した存在としてあるのではなく、心の映像である。
つまり、心のあり様の変異は、そのまま可視的な身体のあり様の変異につながる。
身体と心との密接な関係をこのように主張するのが九想観。
唯識思想
大乗仏教の唯心論。
ヨーガの体験をもとに、一切の存在は心の創り出した像に過ぎないとする。
玄奘三蔵(七世紀)により中国に伝わり、のちに日本で紹介されて法相宗となる。
サーンキャ哲学
インドの六派哲学の一つで数論派ともいう。
純粋精神であるプルシャが、
物質原理であるプラクリティを観察することにより、
25の原理を数える世界が展開すると説く。
物質は三徳(トリグナ)のバランスが揺らぐことにより、諸現象を出現させるが、
解脱はこのような物質から離脱して純粋精神に帰一するとする。
プルシャ=精神は神にあたるもので、心や意識ではない。
心は物質的なもの、プラクリティとしてとらえられ、感覚器官で認識しうる、さまざまな対象から区別されていないのである。
佛教における物心一如。
仏とは超越的な人格ではない。
自己の心の真実を表現するものである。
心の真実とは大乗仏教の仏性(悟りに達するための種子)。
種子はあらゆるう衆生にそなわり、生きとし生けるものの本質、本性。
その本質である己の心が顕れた状態を仏身という。
仏身には三種ある
①法身
真理たる永遠不滅の法=ダルマ。
密教では大日如来。
②応身
この世にあらわれた歴史的具体的存在。
釈迦如来。
③報身
①と②の中間的存在で、阿弥陀如来のような神話的な存在。
①は精神的原理の擬人化
②は物質的肉体
③は半ば精神的で半ば肉体的な身体。
即身成仏の身は単なる肉体的身体ではない。
霊肉不二。物心一如。心身一如。
禅のいう心とは肉体に対立する存在ではなく、二元分裂以前の、肉体を包含した自己の生命そのもの。
西洋流の神秘主義と禅を結びつける仕方に伝統的な禅を学んだ人は反発する。
・五代の瞑想法
密教には五大を対象とする五大観という瞑想法がある。
地に象徴される心の奥底にある煩悩を、
水によって洗い清め、
次に火によって焼き尽くして灰と化し、
それを風によって吹き払い、
最後に全く清らかな空の境地に達しようとする観法である。
この観法は地よりも水のほうが微細であり、水よりも火のほうがより微細であるととらえ、粗雑なものから精妙なものへの瞑想を通じて自らを変容させようとするものだった。
こうした五大観はその起源であるインド思想に影響を受けた近代ヨーロッパのオカルティズムにおいて新しい意味付けをされて甦った。
黄金の暁教団、ゴールデン・ドーンのタットワ瞑想がそれである。
地、水、火、風、空をそれぞれ大地、水、火、空気、霊と解し、その形と色を瞑想。
テージャスと呼ばれる火は三角形で赤、
アーパスと呼ばれる水は銀色の三日月、
アーカシャと呼ばれ霊は藍の卵形というようにである。
・密教的身体観の淵源はバラモン教哲学、ウパニシャッドの五蔵説。
五蔵説では心身の二元論的発想を超越して人間の多層的構造を主張する。
人間は五層からなる。
①食物所成蔵 アンナマヤ・コーシャ
②生気所成蔵 プラーナマヤ・コーシャ
(プラーナ=気=半ば物質で半ば精神的な存在)
③意識所成蔵 マノーマヤ・コーシャ
マノー=意識。
ある種のオーラとして存在し、それが変化すれば、
肉体=食物~の複体である②生気~ にも影響が出る。
④知識所成蔵 ヴィジュニャーナマヤ・コーシャ
知識=ヴィジュニャーナ(一般に精神的な存在の代表)
⑤歓喜所成蔵 アーナンダマヤ・コーシャ
アーナンダ=歓喜は神的な存在。
蔵と訳されるコーシャは本来「容器」を意味し、ジーヴァートマンと呼ばれる個我を包みいれているという、いわば生命の入れ物である。
ジーヴァートマン
=ジーヴァ(生命)+アートマン(我)。
個人的存在の原理的なもの。
輪廻の主体ともされる。
パラマートマン(神的で超越的なものとされる)とは区別される。
(仏教では輪廻の主体は存在しないので注意)
食物~だけが目で見える物質的な存在で現実の肉体に相当する。
それ以外の四つも形や色や働きを有する。
層の上昇に応じて肉体と精神の区別が明白でなくなる。
正確には区別自体が無意味になる。
主客の二元対立は克服され我と他は合一し、個と宇宙は一体となる。
梵我一如。身体は絶対者の働きとして理解される。
身体はエネルギーであり宇宙的な存在そのものと解される。
身体は幻、マーヤーではなく、力、シャクティである。
・神智学とスピリチュアリズムの身体観はウパニシャッドの五蔵説に似ている。
神智学一般では身体を地上の現象的経験の集積である低我と、輪廻の主体である高我からなると考え、
真の霊魂は高我だが、
低我も死後にアストラル界で存在するという。
それゆえスピリチュアリズムのように死者との交信は可能だと述べるが、それによりさまざまな危険がもたらされるとも警告している。
低我は肉体、アストラル体、メンタル体の三層からなるとし、
その上層に当る高我はコーザル体、ブッディ、アートマー、モナドの四層からなるとする。
身体は七層からなる。
各層を太陽系の七惑星やクンダリニ―・ヨーガのチャクラに対応させるのも神智学の身体観の特徴。
ただし二層に細分したメンタル体の高層部分にコーザル体を比定し、両者を一体と考えたり、
ブッディ、アートマー、モナドの三層を一体だと説いたりすることが多々あり結局五層説に集約できる。
神智学の祖であるブラヴァッキーは自著『神智学の鍵』で七という数字を重視。
身体を
①ルーパ
仏教での色身=物質的肉体=食物~。
②プラーナ
=生気~
③リンガシャリーラ
サーンキャの微細身(みさいしん)。
意識~と密接。
ただこれはアストラル的なニュアンスを豊富に持つので、
生気~に比定することもできる。
④カーマ(欲望)
以上の下位四層。
と
⑤マナス
=意識~
⑥ブッディ(覚知)
知識~
④と⑥は相反する二つの力
で、両者の中間層である⑤マナスの状態を決定する。
カーマがマナスを支配すればブッディは消滅し、
ブッディがマナスに存在すればカーマは無となる。
⑦アートマー
アートマンに相当。究極の存在。梵我一如状態。
全宇宙を映す鏡モナドと同一視。
至高の歓喜~と直接結びつく。
の上位三層に分けた。
インド思想からの影響が如実。
ブラバッキーは最終的には
ルーパ(肉体)、プラーナ(生気)、リンガシャリーラ(微細身)の下位三層と
悪に対する善として位置づけられる覚知状態にあるマナス(意識)
および絶対至高のアートマー(霊我)の上位二層からなる。
合わせて五層が身体を構成するとした。七層は五層説に集約される。
(インド思想が元ネタだから似ていて当然)
ところでスピリチュアリズムの身体観。
幽体に注目。
スピリチュアリズムが興った当初、幽霊現象や対外遊離経験を説明するための仮説だった。
後にエクトプラズムという半物質の存在が確認されたことで、それを通して肉体と結びついている、もう一つの身体とみなされるようになった。
幽体は霊魂の身体であり意識状態と深く関係し、
ウパニシャッドの五蔵説の
③意識所成蔵 マノーマヤ・コーシャ
(マノー=意識。
ある種のオーラとして存在し、それが変化すれば、
肉体=食物~の複体である②生気~ にも影響)
に相当すると言えるだろう。
一方、
①食物所成蔵 アンナマヤ・コーシャ
にあたるスピリチュアリズムにおける肉体と、
この幽体を媒介するエクトプラズムは流体で種々の形をとり、肉体の孔から流出する上記のようなものだとされる。
これはまさに
②生気所成蔵 プラーナマヤ・コーシャ
(プラーナ=気=半ば物質で半ば精神的な存在)
の様態に類似。
(③意識所成蔵 マノーマヤ・コーシャ
マノー=意識。
ある種のオーラ。
肉体=食物~の複体である②生気~ にも影響。
④知識所成蔵 ヴィジュニャーナマヤ・コーシャ
知識=ヴィジュニャーナ(一般に精神的な存在の代表)
⑤歓喜所成蔵 アーナンダマヤ・コーシャ
アーナンダ=歓喜は神的な存在。
蔵=コーシャ=容器=ジーヴァートマンと呼ばれる個我を入れる生命の入れ物。
ジーヴァートマン
=ジーヴァ(生命)+アートマン(我)=個人的存在の原理的なもの。
パラマートマン(神的で超越的なものとされる)とは区別される)
(神智学はスピリチュアルの源流の一つ。私と定義が違う。スピが神智学より先って言っている人もいる。根本思想を考えると明確に分けられない。今のスピリチュアル思想の源流は神智学)
・西洋降霊術は、旧約にある死霊の口寄せに起源が見いだせる。サムエル記にはイスラエル初代の王サウルの求めに応じて、かつて彼を見出して王とした士師サムエルの例が巫女を通じ語った記述がある。
また古代ギリシャにもネキュマンティオンという死者の霊を呼んでお告げを聞く場所が各地にあった。
十九世紀の近代西洋魔術の第一人者エリファス・レヴィいわく
人間は死後天界に行く霊魂のほかに、
地上に置かれた死体あるいは肉体と、
大気中に残る幽体の三種の存在を持つ。
幽体は不可視だが、死後しばらく活動しやがて天界に吸収される。
降霊術で呼び出されるのが幽体。
古代ヨーロッパにも肉体とは別種の体を肯定する思想がある。
・キリスト教の身体観
新約では身体を意味する語が二つある。
①肉体=サルクス
死体にも用いられる物質的存在
②生命体=ソーマ
死は免れないが創造主によって作られた尊厳ある存在。
神の恵みにより復活させられる体、天界の住人となる霊の体。
栄光の体であるともいわれ、十字架にかけられたのちに復活したとされるキリストの体もさし、信者は聖餐の秘儀を通してこのキリストの体と交わることができるという。
キリストの体は、教会と呼ばれる信者の集まり(エクレシア)とも同一視され、構成員たる信者はその肢体とされた。この教会は単に信者の共同体を意味するだけでなく、理念的にはすべての被造物を包摂して、宇宙を聖化する働きを有していると考えられている。
したがって生産を通じてキリストの身体と交わるということは、教会の肢体になることで一人一人が聖なる宇宙と合一することを意味している。
キリスト教では物質的な肉体とは異なる、霊的な身体の存在を主張し、それが個人・人類・宇宙を一貫する、キリストの生命、すなわち神の働き(キリスト教用語で恩寵)により支えられていると考えられている。
(驚きのインドとグノーシスの劣化コピー臭。
キリスト教の身体観にはアウグスティヌスのマニ教思想、肉体=悪が混ざっているから、肉体軽視傾向。
マニ教叩く割にはマニ教的思考がちらほら。あきらかに女の産む力を憎んでいるし)
・イスラム教のコーランでも生命体としての体を、単なる肉体と区別している。
イスラム神秘主義のスーフィズムでは、生命体としての体はさらに死すべき肉体と、終末に復活する不滅の身体に分けられるという。
・オームは聖なる音声とされる真言、マントラの中で最も根本的かつ聖なるものとされ
天A 空U 地M
の三界を表し、これらがたどる
創造、維持、破壊の三期をも表すといわれる。
つまり全宇宙の時空を包含するとされる「梵」の象徴である。
眠・夢・覚の三つの状態を繰り返すことで日常的に存在し続け「我」の象徴でもあると解釈される。
個は宇宙であり、宇宙は個である、梵我一如。
A―創造―天-ブラフマー ―覚
U-維持―空-ヴィシュヌ ー夢
M-破壊-地-シヴァ ―眠
・①食物所成蔵 アンナマヤ・コーシャ
アンナ=食物。
ウパニシャッドのうち、「梵歓喜」という個所では
虚空から風が生まれ、
風から火、
火から水、
水から大地、
大地から植物が生まれ、
その植物が食物となって肉体を生かすとある。
人は死ぬと肉体は大地に帰して、
今度は他のもののための食物となる。
ウパニシャッド哲学での
食物とは単に肉体を養うだけではなく、肉体そのものをも生じさせる。
この思想の背後には、精子が月から雨に運ばれて大地に降り、それが植物に宿ってから、食物として体内に入るという、バラモン教における神話的な肉体形成説があった。
食物によって存在するものが、食物~というからだ=入れ物。
中世に盛り上がり、近世以降、邪教として抹殺された密教の一派、立川流の肉体形成説は古代インドの伝統に忠実だった。髑髏本尊。立川=武蔵の国の立川。
②生気所成蔵 プラーナマヤ・コーシャ
(プラーナ=気=半ば物質で半ば精神的な存在。生命エネルギー)
プラーナは人間の姿をした体を形成するとウパニシャッドではいう。
食物~と重なりあって、頭、胸、胴、足を有するとされる。
プラーナを活性化し、生気~を調整すれば、
肉体=食物~の健康をも保てる、
というのが古代インドの健康観。
そこからヨーガが実践される。
ヨーガは八段階の修行から成る。
まず、ヤマ(制戒)という不殺生・真実・不盗・不淫・無所有の五戒を守ることが第一段階。
第二段階がニヤマ。
ヤマは~するな、
ニヤマは~せよ、というもの。
両者がヨガの基礎として道徳を位置づける。
日常の種々の行為に伴る不満や葛藤が修行を邪魔するから。
ヨガのように深層意識にまで明るみに出すので、不満や葛藤が鬱積したエネルギーとして心の真層に溜まり、それが瞑想の過程で解放される例が少なくない。
往々にして悲劇を招く。だからヨガは瞑想に入る前に道徳的実践で日常行為を純化し心を清めておく必要がある。
(道徳が第一と二段階なのが極めて重要。選民思想などの暴走を防ぐため)
・ヨーガの口伝では、魚は呼吸法を意味する。
③意識所成蔵 マノーマヤ・コーシャ
マノー=意識。
ある種のオーラとして存在し、それが変化すれば、
肉体=食物~の複体である②生気~ にも影響が出る。
ウパニシャッドでは、デカルトのコギトにあたるマナス、すなわち意識と、
ヴィジュニャーナである知識が、
ともに物体的な容器=コーシャに結び付いて広がりを持つ――延長的性格を有する――身体を形成する。
④知識所成蔵 ヴィジュニャーナマヤ・コーシャ
知識=ヴィジュニャーナ(一般に精神的な存在の代表)
とは仏教の唯識学派(ヴィジュニャーナ・バーディン)の「識」で、
知覚と認識の両者を包含する意味を持つ。
※唯識学派
あらゆる存在は、心の本体である識の働きにより、仮に現れたものにすぎない。
瑜伽派ともいう。
中観派とともに大乗仏教を代表する学派で、その始祖は3~4世紀の弥勒とされる。
日本の法相宗。
⑤歓喜所成蔵 アーナンダマヤ・コーシャ
アーナンダ=歓喜は神的な存在。
歓喜と訳すアーナンダは、仏の十大弟子の中で多聞第一とされ、美男で有名だった阿難の原名。
佛教では慶喜と訳される。
ヒンドゥー教の芝やヴィシュヌもアーナンダと称される。
本来は、幸福、喜びの意味。
・ウパニシャッドからわかるのは、知識は我=アートマンの本質をなすものであり、その究極の形は主客の合一だということである。
この合一は性的エクスタシーを暗示する。
知ること=成ること。
知識と存在の同一視。
究極の知識は絶対の存在である梵として説明される。
・師、グルは密教では阿闍梨にあたる。
阿闍梨は次の十三の徳を備えないといけない。
(詳細は省略。技術に通じ、慈悲ある温和な性格で我がなく菩提心があるなどが条件。
つまりグルへの帰依の前に本当にグルに値する存在かどうかの判断基準がある)
・時間は古代インドではカーラといい、運命や死の意味でもあった。通常の人々にとってはいかんともしがたい不可避の力。
・近代医学が進歩したドイツでも、太陽光に裸体をさらせば、周囲の病原菌は死に、体内のエネルギーは満たされ、煩悩は消え、意欲が目覚めるなどと主張された。
これはナチスの奨励したワンダーフォーゲルに理論的支持を与えた。
ワンダーフォーゲルは神秘思想的伝統を持つ。
ナチズムに影響された人々はワンダー・フォーゲルで春の太陽光を浴びるべく山を歩くのが、古代アーリア人の風習だと信じた。
このような考え方は、すでにゲーテに求められる。
それはペルシアの神秘主義詩人ハーフィズ(十四世紀。イランを代表する詩人。イランのシーラーズ出身)に影響されてつくった『西東詩集』である。
この作品でゲーテは、バルゼ人、ゾロアスター教徒である古代イランのアーリア人について述べ、太陽信仰をうたっている。
アヴェスタでも太陽は悪を駆逐し、万物を清めるものとして崇拝されている。
アーリア人のミトラ起源の弥勒を信仰した朝鮮の花郎道も山歩きの風習を伝えていた。
※花郎道は古代朝鮮の新羅の青年戦士組合の習俗。歌舞宴遊などの行事を通じて志操を高め、武技をねり、国のために貢献することを目的とする。宗教秘密結社的性格を濃厚に持っていた。
元朝末期の中国でおこった白蓮教に弥勒信仰が見られる。
弥勒信仰は大本教にもある。
(仏教が大嫌いな大本教は、キリスト教やインド・イラン思想を日本の伝統とほざいて布教してくるから超悪質)
・ヘブライ語のメシアは本来、油を注がれた者の意味で、王の称号にすぎない。
キリスト教の終末とメシアの結びつき思想は、ユダヤ教にもともとあったものでは無い。
対して、ゾロアスター教にはサオシュヤントという終末時に出現し、悪を征服する人物が登場する。
拝火教以前からイラン人が信仰していたミトラは、世界の更新者として終末と復活に深くかかわっていた。救世主を待望するイラン人の信仰は、彼らがイスラム教に改宗してからも生き続け、シーア派のイマーム信仰にまで影響している。
イマーム(指導者は、スンナ派ではカリフと同じとする)が、
シーア派では不可謬の聖者とされ、マフディー=メシアに限りなく近いとされる。
(キリスト教の中核はアーリア系であって、現世利益重視のセム系でないよ
https://twitter.com/kitsuchitsuchi/status/731186359591784448)
・ヴェーダの六芸
=発声学、語源学、韻律学、文法学、祭事学、星学。
四つが言語関係。
不立文字の禅ほど多くの語録を残したものはない。
(言語もちゃんと重視。スピ系は言語をはじめから捨てろと曲解)
・イスラム神秘思想には照明学派というものがある。
スーフィズムというイスラム神秘思想の中で独特の位置を占めるのがイラン人のスフラワルディー。
彼はガザーリーの約百年後に生まれ、三十六歳の若さで急死。
東方神智学の祖とされる彼は、古代ペルシアの霊的伝統を復興し、神がノアの洪水以前の予言者に掲示した教説を明かそうと企てた。
彼は拝火教概念を積極的に導入し、光の哲学と称するべきもので、後継者は照明学派と呼ばれた。
ゾロアスター教の光輪思想が影響している。
光輪、クワルナフを保持する者は、大地を支配すると信じられた王権のシンボル。帝王叙任に際して神から授けられる。
仏教の光背の起源説あり。
万物の原型=イデアとして天使を考える際にも、スフラワルディーは拝火教の大天使アムシャ・スプンタを借用。
ゾロアスター教の、各々の大天使が特定の被造物のグループの守護者である説を継承。
イデアに比定されるスフラワルディーの天使はプラトンのイデアとは必ずしも同じではない。
彼には新プラトン主義の影響もある。
照明学者には「光中の光」とされる神的本質が発光し、その強度に応じて世界が、階層的に形成されるとする。
これはプロティノスの流出説にならったもの。
ただ、ミトラ教でも太陽が七条の光により火の粉を降下させて、物体に生命を呼び出すとする説があるので、流出説自体がペルシア的だと言えないこともない。
・スーフィズムは9世紀に基本が確立された。
愛とグノーシスとファナーの三要素があると言われる。
ファナーは神との合一を意味する。
・拝火教では正しい教義によって善悪の区別をして悪を排斥しつつ最終的には全存在が浄化され悪がなくなることに重点を置く。
対しマニ教の最終的な結論は文字通りの分離であり、明暗の二元は原初と同様別々に分かれて厳として存在し続けるのでマニ教のほうが徹底した二元論。
マニ教がグノーシス思想と言われるのは、霊肉二元の世界に立脚し、現世を否定する厭世的な態度によるところが大。
ゾロアスター教の世界史では
①創造 ブンダヒシュン
②混交 グメーズィシュン
③分離 ウィザーリシュン
の三時代からなり各々に三千年が割り当てられる。
この最後には終末の審判がおとずれるとする。
・「生ける霊は、光を飲んで弱った悪魔を殺し、
その皮を拡げて天とし、
骨から山を、糞から大地を創った。
汚れが最も少ない光を集めて日月とし、
やや汚れたものを星とした。」
とするマニ教は、我らの住む世界は悪魔の死骸から作られたというのである。
けがわらしい悪魔のけがわらしい糞なのである。
この世界において目にするもの耳にするもの全てが嫌悪の対象になるのがマニ教。
この世界の創造者はミフルヤズドすなわちミトラ神。マニ教ではミトラは真の神ではなく、プラトン哲学におけるデミウルゴスにすぎない。
光の要素である精液を漏らした闇の男。
漏れた精液を種として大地から植物が生じる。
ゆえにマニ教では植物は霊的として特にメロンやキュウリが好まれた。
光と精液の密接化関係は、カシミールのシヴァ派でも説くもので、そこでは精液がうやうやしく女によって受け取られ、聖なる器に注がれた。
マニ教神話では、闇の女たちは創造妊娠であるにもかかわらず、実際に子供を産む。生まれた子供たちは怪物で、植物のつぼみを食べて再び光を悪なる物質=肉体に閉じ込める。
ゆえに子供を産む女は男よりも罪深いとされた。
「男女、二体の悪魔が選ばれる。
男の悪魔は、
植物の蕾を食べた怪物の男のすべてを食べ、
女悪魔は、怪物の女のすべてを食べた。
そののち、男と女の悪魔は性交し、
アダムとイブが誕生した」
人間の創造は、光明主が意図して行ったのでも、生ける霊が行ったのでもない。
つまり神意ではなく、肯定すべきものでもない。
人間の創造は、闇の勢力が光=霊を物質の中に閉じ込めようとして行った悪しき事業。
しかも共食いによって。人間とは食人、カニバリズムと性交の結果生まれた呪うべき存在となる。
しかし、人間の中にある霊魂だけは何としても救わなくてはならない。
それが光明主としての神の糸。結果人間は神と悪魔、光と闇の戦場となる。
人間における光は霊である。
闇である肉は、肉体と肉欲からなる。
肉体は悪魔の子である怪物を材料として作られ、
肉欲は光を物質の中に閉じ込めようとする悪魔の意図にならうものである。
肉体も肉欲も悪魔の遺産。
子を産み繁殖するのは光を拡散させ救済を困難にすることなので、マニ教では子供を産むのは肉欲に囚われて性交するよりも罪深い。
逆に、ゾロアスター教では子供の誕生を善の戦士が増えることとして歓迎する。
なおゾロアスター教でも乱交によって何者が父親かわからない子を産むのは、精子をごちゃまぜにする行為として厳しく禁じられた。
(邪教じゃねーか!
生殖は悪なので、マニ教神話では光の勢力は誕生せず召喚される。
光と闇の勢力対立を騙るスピ系サイトが多いのはマニ教がスピリチュアル新キリスト教の中核の一つだから。だから肉体を捨てましょうとか、肉他は牢獄とか、霊魂は肉体より上位とかほざくでしょ?
なお西洋魔術では肉も霊も同じXの変化したものにすぎず優劣はない。
拝火教では物質=悪ではない。アフラ・マズダ―は物質も創造している。
マニ教はグノーシスは絶対に残しつつ、表面の要素と用語は乗っ取り対象と同じ言葉を使うことで対象に憑りついて破壊。
同じ用語でも中身は別物。パッケージは同じでも別の味のラーメン。
毒ラーメンならぬ毒アーメン。
この標的と同じ用語を使って乗っ取る技術を一番悪用しているのが耶蘇教系。
巷で有名なゲームそのまんまなのがマニ教神話。
ゲームを広める結社員がマニ教系なのは明白。)
・キリスト教の悪魔サタンも、イスラム教の悪魔シャイターンも、神には直接対抗できないものとして矮小化されている。
サタンは堕天使ルシファーと同一視されるし、
シャイターンは悪しきジン(精霊)の代表でしかない。
ユダヤ教のタルムードでも悪魔は神より下位の悪の天使と考えられている。
ジン
イスラム教の精霊。人間と同じく神により創造された。思考力を所有する。
普段は不可視の存在だが、煙や雲のような気体状のものから凝結して顕現するとされた。
変幻自在で、人間の祖であるアダムよりも古い創造物で、また土から創造された人間に対して、
炎から創造されたと説かれる。
タルムード
聖書に基づく口伝であるミシュナと
ミシュナに関する論議を集めたゲマラからなる。
紀元前二世紀から後五世紀にかけて成立したものと考えられている。
ヘブル人のあいだで悪魔というものが現実的意味を持つようになるのはバビロン捕囚後。
それまでも雑多な悪霊に対する迷信は存在したが、説明する確かな観念はなかった。
捕囚以後は悪霊は善なる天使と戦う存在として位置づけられる。
悪霊たちの上にあって悪の軍団を率いる悪魔が考えられるようになる。
この傾向は黙示文学によてとくに発達。キリスト教のサタンに継承された。
サタンをシャイターンとして悪しきジンの頭目たるイブリースのこととしたのが、イスラム教の悪魔。
捕囚以後のユダヤ教に大きな影響を与えたペルシアのゾロアスター教の思想が注目される。
(バビロン捕囚自体がねつ造疑惑。
実は交易を求めて自分たちからペルシャに行った疑惑。
しゃいたん って書くとかわいいね。フンババをふわわと書くとかわいいね)
・『アヴェスタ』の除魔書(ウィーデーウ・ダート)にある、アンラ・マンユの悪しき創造物が
竜と冬、ハエ、戦争と略奪、アリと毒草、疑い、泣哭(きゅうこく)と呻吟、
売春婦、暴政、男色、埋葬、妖術師、不信、火葬、生理不順、
外国人の王、炎熱
など。
アンラ・マンユが創造した病気の数は9,9999 九万九千九百九十九あるとされ、
身体的障害も造ったとされたためゾロアスター教徒から隔離された。
病気をもたらすノミやシラミ、水を汚す亀やカエルなども悪魔の被造物として悪とされた。
悪の動物の代表が爬虫類であり、地獄がすみか。
ゾロアスター教には爬虫類を探し出して殺すための特別の日があった。
竜は爬虫類の最大なものとして、悪魔の強力な被造物とされた。
(外国人の王は悪の親玉の創造物!
爬虫類人が悪魔の代替物なのはゾロアスター教由来なんだろうな。
身体的障害も造ったとされたためこの種の人々はゾロアスター教徒から隔離されたって、
イラン版ノアの箱舟での人間選定基準とかぶる。
この記述を見つけたナチス大歓喜。
ねこた @lakudagoya 18時間18時間前
ねこねこブログコメント
ゾロアスター教世界では障害者は悪魔が作ったものとして隔離されたそうだが、
やつらの思想のルーツもこれかもね。
セム系一神教はそんな発想あまりないもの。
てか、それなら近親婚やりすぎて異常ばかり生まれてるやつらって悪魔の創造物かよ?(笑))
∸―
右が太陽で左が月なのはエジプト思想だと強調されるが、
インドも右が太陽で左が月。
“インドでは、右の鼻の穴の呼吸は熱く、
左のそれは冷たいといわれている。
つまり、右の鼻の呼吸は太陽の呼吸であるから、右のナーディ(エネルギーの通る小穴)はピンガラー(火の道)と呼ばれる。
左の鼻の穴の呼吸は月の呼吸で、左のナーディはイダーと呼ばれる。月はこのイダーの中を旅し、蜜を全組織の上にふりまく。
太陽はピンガラーを旅し、全身を乾燥させる。人間の身体は小宇宙である。月は上あごの根元に位置し、胃の炎を常時燃やすことができる、冷たい神々しい蜜を落としている。”
p.288『ハタヨガの真髄』
“ 人間の体は小宇宙である。ハタは、ハとタの二音節からなり、それぞれが太陽と月を意味する。
太陽と月のエネルギーは、ピンガラーとイダーという二つの主なナーディを流れるといわれている。
ピンガラーは太陽のナーディで、右鼻腔から始まり脊椎最下部に至る。
イダーは月のナーディで、左鼻腔に始まり、脊椎最下部に至る。
この二つのナーディの間に、火のナーディであるスシュムナーがある。前述したように、スシュムナー・ナーディは神経エネルギーの流れの中心的経路であり、メールダンダ、つまり脊柱の中を通っている。ピンガラーとイダー、またスシュスムナーもいろいろなところで互いに交差している。
これらの交差点がチャクラ(輪)といわれ、はずみ車がエンジンを制禦するように、チャクラは体の機構を制禦する。主なチャクラは、
肛門の上、骨盤近くにあるムーラダーラ・チャクラ(ムーラは根・原因・を意味し、アダーラは支持とか活力部という意味)、
生殖器の上にあるスワディシュターナ・チャクラ(スワは生命力・魂、アディシュターナは座とか住居という意味)、
へそにあるマニプーラカ・チャクラ(マニプーラはへそ)、
へそと心臓の間にあるマナス・チャクラおよびスーリャ・チャクラ(マナスは心、スーリャは太陽)、
心臓部にあるアナーハタ・チャクラ(アナーハタは心臓)、
咽頭部にあるウイシュダ・チャクラ(ウイシュダは純粋)、
眉の間にあるアーンニャー・チャクラ(アーンニャーは支配)、
胸腔にあり、千枚の花びらをもつ蓮とよばれているサハスラーラ・チャクラ、
額の上にあるララータ・チャクラ(ララータは額)である。
これらのチャクラは、ホルモンその他の内分泌を体組織に供給する内分泌腺に相当する。ムーラダーラ・チャクラとスワディシュターナ・チャクラは生殖腺にあたる(男性では睾丸・陰茎・前立腺、女性では卵巣・子宮・膣)。
この二つのチャクラの間に、愛と情熱の神カーマにちなんでつけられたカーマルーパとして知られている生殖腺の座がある。胃・膵臓・肝臓・脾臓などの内臓は、たぶんマニプーラカ・チャクラに相当する。
二つの副腎はスーリャ・チャクラ、マナス・チャクラのことであろう。
アナーハタ・チャクラは心臓とその周辺の主血管のことである。
ウィシュダ・チャクラは、甲状腺・副甲状腺・胸腺にあたる。
アーンニャ・チャクラ、サハスラーラ・チャクラ、ララータ・チャクラは、脳・脳下垂体・松果腺にあたる(タントラのテキストによると、プラーナ―ヤーマの目的はわれわれの体内にある神聖な宇宙の力、クンダリニ―をよびさますことである)。
クンダリニ―はムーラダーラ・チャクラ(脊椎最下部にある下部神経の中心点にまきつき眠っている蛇)に象徴されている。この潜在エネルギーが目覚め、脊椎をそれぞれのチャクラを通ってサハスラーラ・チャクラ(頭の中にある千枚の花弁をもつ蓮、脳の神経網)までのぼっていき、そこで絶対最上の魂と融合する。これはたぶん、前述のウッディヤーナとムーラ・バンダで体得された偉大なエネルギーをたとえられたものであろう(クンダリニ―を目覚めさせ、昇らせていくとは性エネルギーのの昇華を象徴するものであろう)。”
p.462-464『ハタヨガの真髄』
∸――
キケロ『スキピオの夢』
キケロの思想は、当時ローマで主流だったストア哲学にローマの伝統的価値観を取り込んだ折衷的なものらしい。
紀元前106 - 紀元前43年まで生きた人の思想。
PDF]「スキピオの夢」 研究 池田英三[訳註]
http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/34270/1/2_PL1-32.pdf
“(大スキピオ)「…その祖国を保持し,助長し,盛大に導いた人々のためにはすべて,天界に特定の割り当てられた場所があって,そこで彼等は,祝福されたる者として,永久の齢を享受している.
…
彼等はあたかも牢獄から釈放される如くに,肉体の束縛から飛び去ったのであって,お前達の所謂生とは本当は死に外ならないのだ.
…
人間が生れ来った所以のものは,この宇宙の中央に見える,あの地球と言われる球体を管理せんがためにであって,そしてこの人間には,お前たちが星座とか星辰とか呼んでいるあの永久の火焔から,魂が与えられており,それらの星は球状・円形で,神的なる精神を以ていきづけられ,それ自身の輪環・円圏を驚くべき速さで旋回している.
…
第九番目に位する地球は,世界の中央部を占めて,不動のままに常に同一の所在を保っているからである.
…
一定の時期には必然的に大地の氾濫と焼尽とが生ずるのであってみれば,我々の獲得しうる栄誉は,単に永遠的ではない許りでなく,また永続的であることすら出来ないのである .
…
「げにもお前は勉励すべきであり,そして可死的であるのはお前ではなしにこの身体であることをさとるべきである.つまりお前自身とはお前のその姿が現わしているものではないのであって,各自の精神こそが各個々人なのであり,指差し示され得るその形体がそれであるのではない.さすれば,お前はお前自身が神であることを知るべきである.
(引用者注。ここまで本文。ここから注釈)
「人間には......火焔から,魂が......」これは,魂は火であるというヘラクレイトス・ストアの考え方によるものであり,従って天体は勿論魂を有する存在なのである.“
<資料>マールクス・キケロー「国家について」〔二〕
http://ci.nii.ac.jp/els/110000401367.pdf?id=ART0000840235&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1490010495&cp=
この岡 道男 [訳註]版だと
“一定の時期に必然的に起こる大地の洪水や大火のために、我々は、永遠とはいわずとも、永続的な栄光すら得ることはできない。”
“死すべきものは君ではなく、この身体であると心得よ。じじつ、その形が表わすものは君ではなく、各人の精神、つまりそれが各人である。指でさし示すことのできる姿ではないのである。したがって君は神であると理解せよ、もしほんとうに生活し、感じ、記憶し、予見し、また最高の神がこの宇宙に君臨するごとく、その監督する身体を支配し、統治し、動かす者が神であるならば。しかも不死なる神自ら一部死すべきものである宇宙を動かすごとく、不滅の魂が脆い身体を動かすのである。”
こっちのほうがわかりやすい。
・祖国に貢献すると死後に天界=星々(神々)の世界に行き永遠に生きる
・いわゆる肉体ある生は死である。
・肉体は束縛にして牢獄である。
・星座と星辰=永久の火焔。
・人間は星という永久の炎から魂を授かる。
・“一定の時期には必然的に大地の氾濫と焼尽とが生ずる”
=洪水と火焔
により人間の獲得した栄誉も永続しない。
火と水の終末論!
・人間の本体は精神。人間は神。
神が宇宙を動かすがごとく、人(の本体である精神)は肉体を動かすから。
(人間が神であることを知れってグノーシス)
(“第九番目に位する地球”ってベートーベンの第九の真の由来?
ベートーヴェンはどう見てもメーソンなのにロッジに記録なし=会員ではないことになっている。
つまり通常会員より地位が高いと考えられる。
イルミナティ
=科学容認で科学重視で反カトリックでエキュメニズム賛成のキリスト教カルト
のワンワールドソング交響曲第9番を作っていて採用されているし。
ストア派混じっている歌詞だし。
ベートーヴェン交響曲第9番(第九)の歌詞の日本語訳
http://kcpo.jp/legacy/33rd/B-Sym9/Sym9-trans.html
“喜ばしきかな、太陽が壮大なる天の計画に従って飛ぶが如く、
*兄弟達が己〔おの〕が道を駆け抜ける、勝利に向かう英雄のように喜ばしく。*
抱〔いだ〕かれよ、数多〔あまた〕の者よ!
この口づけを全世界へ!
兄弟達よ!星空の彼方に
愛する父(なる神)がおられるはずだ。
地にひれ伏さぬのか? 数多の者よ。
創造主(の存在)を感じるか? 世界よ。
星空の彼方に求めよ!
星々の彼方に彼の御方(神)がおられるはずだ。”)
ねこた @lakudagoya
何某のタイムラインに触発されて、マルクス・アウレリウスとキケロの「スピキオの夢」を読んでみた。
たまたま「世界の名著 13」を借りてきてたのでどれも収録されてる。
何というかマルクス・アウレリウスの本を読めば読むほどキリスト教的な道徳がストア派の背乗りに見えて仕方ないのだが。
ストア派の研究をポツポツしたりしてるよ。 「スピキオの夢」全部読んだよ。すげーヤバイ情報盛りだくさんだた。
げーパウロの言う火と水のバプテスマの元ネタはストア派の終末論かよ。 ストア派に関してネット情報と紙情報を読み比べたけど、ネットには大事な事は一切記されてないよ。
アウグスティヌスの「神の国」の正体が「スピキオの夢」を見たらクリアにわかるんだよね。
— ねこた (@lakudagoya) 2016年7月29日
この気持ち悪いカードね、スピキオの夢に描かれるのに似てるストア派の宇宙論を表してるの。
彼らにとって天の世界こそ地上の統治モデルの理想だもん。 pic.twitter.com/L6unIeZodd
あと、ストア派が面白いのは、グノーシスの思想の背景がすっきり理解できる。
「スピキオの夢」で「人間は神なり」という一文があったのだけど、それであー!と全部を理解した。
グノーシス派の人たちが死んだら惑星の層を抜けて天に至るって話の元ネタはこっちだったんかよ!
面白いなぁー!
この本に収録されてる「スピキオの夢」を読みながら、エヴァの「魂のルフラン」を聴くといいよぉ〜! 世界の名著〈第13〉キケロ,エピクテトス,マルクス・アウレリウス (1968年) を Amazon でチェック!
ねぇ?みんな。世界の陰謀を発くなら「スピキオの夢」はちゃんと読んでおこうな?
ストア学派の思想がこれほどわかる本も少ないの? 世界の名著〈第13〉キケロ,エピクテトス,マルクス・アウレリウス (1968年)
キケロの「スピキオの夢」とかマルクス・アウレリウス「自省録」とか見てますと、ローマ人は質実剛健な文化あったんだなと思う。
なんかなーキリスト教お嬢様教育の理念とか見ると、古代ギリシャ・ローマに比べて女々しいというか質実剛健で簡素な美しさがないんだよね。
ストア学派によると、宇宙は火で焼き尽くされるか洪水で滅ぼされるかだもの。
これ「スピキオの夢」って本に書いてあるよ。ストア学派の終末論は火で焼き尽くされるか洪水かのどちらなの。 「カルデアの神託」にも神的な火の崇拝が書いてあるよ。断片だけどね。 新プラトン主義って何?
「スピキオの夢」を見ると、ストア学派の人たちはヒューマニストだったんだなと思った。
智者は恒星天というお星様の世界に行くのだもの。
世界の名著〈第13〉キケロ,エピクテトス,マルクス・アウレリウス (1968年)
<資料>マールクス・キケロー「国家について」〔二〕
http://ci.nii.ac.jp/els/110000401367.pdf?id=ART0000840235&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1490002877&cp=
以下、『世界の名著13』内の水野有庸が翻訳した『スキピオの夢』。
全18頁しかないのによくもこれだけ重要個所を詰め込んだものだ。
この水野有庸の翻訳が一番重要。
やはり注釈が大事。
(古代にできた重要本!って神道カルトあたりが捏造しまくっている聖典(笑)があるけどさ、
「では解釈書や注釈書が時代ごとにあるはずですよね?著者名と書名を教えて」
と聞くと黙るよ。
四書五経の注釈書何冊あると思ってんの?
仏典も聖書もコーランもすさまじい量だよ?
当然、偽書か判断するための基準もできているよ。
偽書を創る奴らって解釈書までは捏造する知恵がないからね。
時代ごとに創らないといけないから大変だよね。
当時の知識人が一切言及しない理由もでっち上げないといけないし。
つまり既存の資料の中身を改竄する手法のほうが多いだろうね)
違う翻訳で再読すると見のがしていた重要個所が浮かび上がる。
邦訳が複数ある重要な本は読み比べが有効。
引用で誤字脱字は気を使うが、
特にひらがなやカタカナが連続するところ、
特に「てにをは」、
漢字の送り仮名に注意。
ゆっくり音読が有効。
黙読だと見のがす。
漢字は句読点の代わりになるので、文章の区切りとしても重要。
引用すると文書を書いた人の文章の癖が良くわかる。
“太陽は、ほかのことごとくの、光を放つものの群れにとって、その総司令、その首領、その光度の調節者。宇宙の霊であって、そのほどよい和らぎのみなもと。太陽がそなえている力はまことに強大で、あまねく万物を、自分の光で輝きわたらせるほど。この太陽に、従者のように侍り従うのは、片方ではウェヌスの、片方ではメルクリウスの進みゆく道。
しまいに、最下の輪を、月が、太陽の放つ光に照らし出されながら、回(めぐ)ってゆく。けれども、その下には、死すべきものが、崩れ滅びゆくものが、あるばかり。その例外は、神々の恵みによって人類へ授けられた知性だけ。つまり、月より上が、あらゆるものの不滅である所なのである。それからもう一つ、宇宙の中央にあって、九番目のものである地のたま(「たま」に傍点)は、動かずにいるばかりか、下の極みをもなしており、したがって、目方のあることごとくのものは、自分の落ち癖によって、その上へと、ひた走りに急ぎゆく」”
『世界の名著13』内の水野有庸 訳『スキピオの夢』、
九(キケロ『国家論』第十七章p.74
・75頁の大スキピオが語る諸天体の軌道の概略図
円(楕円ではない)の外に円が続いている図。
中央が地球。
地球の一つ外が月。
月の一つ外が水星。
以下、水星、金星、太陽、火星、木星、土星、天球(恒星天)
の順に外に位置している。
(太陽=宇宙の霊は光を放つもののボス。
金星と水星は太陽の従者。
太陽神が最高神の思想は多い。
キケロは太陽派っぽい。
神々が与えた知性は滅びないという思想)
・当時から土星までは見えていたことがわかる天体描写。
宇宙には和音が響いている
(らしいが宇宙は真空なので音なんて以下略)
“ そればかりではない。はるか将来に生まれてくる世代が、すすんで、われらひとりひとりの功(いさお)を、跡絶(とだ)えなくその父祖が語るのを継いで、つぎの世に伝え残すようなことをしてくれるとしても、一定の時がいたればかならず襲ってくるはずの、地上の各地に及ぶ洪水と劫火のゆえに(3)、われらが手にすることができる誉れは、永遠であることはおろか、年数(としかず)のながいものでさえないのである。
また、おまえのことが後世の人々の語りぐさになろうと、それに格別どれほどの意味があろうか。過去の時代の人々は、後世の人々にくらべて、人数も少なくないばかりか、優れた人物であったにちがいないのに、この人々の口からは、おまえの話など、出たわけもないことを思えば。
…
(3) たとえばストア派の考えかたによると、一定の周期が回ってくるごとに、天体を構成するアイテールの勢力が極大に達して、その火力により全宇宙は炎上し、滅び去る。逆に、海をはじめとする水の勢力が宇宙の火の勢力に打ち勝つと、全地上は洪水に襲われる。ストア派以外にも、たとえばルクレティウスが、『万有について』第五巻第三八〇~四一五行で、類似の考えを述べている。”
『世界の名著13』内の水野有庸 訳『スキピオの夢』、
十三(キケロ『国家論』第二十一章p.78(注釈はp.79)
(火が先。水は後。
世界が始まって間もない黄金時代が最高でだんだん劣化していくって思想。
進歩主義=だんだんよくなっていくって思想と真逆。
進化論ではなく劣化論。
末法思想も劣化論)
ねこた @lakudagoya 2016年7月23日
マタイによる福音書 3章 11節 「わたしは、悔い改めに導くためにあなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方はわたしよりも優れておられる。わたしはその履物をお脱がせする値打ちもない。その方は聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。 」 え?311人工地震テロ?
聖書だと水が先。水の洗礼者よりも火の洗礼者のほうが上。
ストア派だと火が先)
・人=心(が本体であり、肉体は本体ではない)
“神であるぞ、おまえは。”p.81
の文の次にその根拠が続く。
滅するものを不滅のものが動かしているから人は神。
自分で自分を動かすものが不滅。
魂は自分で自分を動かすことにかけてはほかに類のないもの。
∴魂は不滅。
動きのはじめをなすもの(万物を産むもの)とは、自分が自分によって動かされるもののことである。
これは生まれることも死ぬこともない。
(殺人大好きカルトになるのをどうやって防ぐのか?
魂はある一定量最初からあったってこと?
魂の数はあらかじめ決まっている疑惑)
・魂を幽閉する肉の快楽に溺れるな、神々も人間も従うべきである法を犯すな。
・注釈
(スキピオを取り巻く一座の談話が発展し、スキピオが自分が見た夢をみなに聞かせる気になった。このスキピオの夢は長年口外しなかったものであった。)
小スキピオがこの夢を見たのは紀元前149年。
この談話は前129年で、小スキピオ暗殺の直前。
(公式の信用できない耶蘇教成立年代より前かつそこまで前ではないことが重要。
本書は短いし内容も素晴らしいから、外国語学習に便利。
生徒にあらかじめ日本語訳で代表的作者の本のうち短いものを読ませて、一つ選ばせて学習してもらうとよいのでは?)
CiNii 論文 - <研究ノート>新ストア主義研究の新段階 : ギュンター・アーベル著『ストア主義と初期近代-倫理学と政治学の領域における近代思想の発展史-』,とくにその「紀律化」の分析に関して https://t.co/pUF8MaHLAI #CiNii
— なえなつ (@japan19890108) 2017年3月24日
なんか見つけた
∸――
ねこた(おしまい!) @lakudagoya
シルヴァノスの教えにこんなものがある
「最悪の死とは無知以外の何のことであろうか?金銀を愛するな。これらには何の益もない。むしろ智慧を衣のように身に纏え。知識を王冠のように頭上に抱け。洞察をその玉座としてその上に座せ。お前はこの3つを上なる所で再び手にするだろう。」
このシルヴァノスちゃんの教えはグノーシスの文献からの引用なんだけど、これ経営者とか立派な大人が座右の銘とすべき言葉だよ。テルマエロマエでハドリアヌスが風呂で思惟するように、経営者は実務よりも思考を研ぎ澄まして欲しいと思うのはネトゲ廃人ニートのプラトニズム的な妄想かしら?(笑)
この世界はロゴスで動かされてる。ストア学派は、この世界を動かす原理の事をロゴス(摂理。そーめんのおめめのプロビデンスと言ったがいいかや?)と言ったが、新約聖書の言葉は神であったという一文は、極めてストア派的な世界観が潜んでるのがわかるだろう。それを実行してるのが耶蘇教な。
後の耶蘇教のフレームとなった、国家を越えた人類愛とか、奴隷制度はアカンのや!全ては神の前に平等!とかその他諸々の事は、実は耶蘇教が言い出す前はストア派の哲学者が言ってたりしたんだよね。マルクス・アウレリウスとかの本、この人耶蘇教大嫌いなのに、何でこんな耶蘇教臭い発想してんの?とか
となると、アダム・ヴァイスハウプト他が神の代わりに崇拝した「理性」というのは、ストア派の哲学者の皆さんが崇拝した、自然法則=神そのものであるロゴスの事じゃないかな?ニャンゲンの理性じゃなくて、この世界を動かしてる自然法則そのものという汎神論的な世界観だと矛盾も出ないよね?
ぬーん、ぬこたさんはこんなブログ見ちゃうと、もっとバビロニアやエジプト学頑張って日ユ同祖論いぢめに精を出さねばにゃーと思いまする。http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/28761416.html … ふーんアカシアの木がホルス君の樹かー。このー樹何の樹日立の樹。ヒラムは何でアカシアの元に眠るの?
(生命(いのち)の樹の秘密にせまる Part7 アダムとアダパ
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/28761416.html)
そもそもよく考えると、フリーメイソン=ユダヤって大本教系陰謀論のとこじゃなってるけど、じゃあ何でフリーメイソンの神話にあるヒラムは太陽が中天に昇るころ、午後の祈りを捧げてたの?ユダヤ教に午後の祈りとか太陽礼拝の儀式とかあったっけ?ヤハウェは嵐の性質を持ってるのにこりゃないだろ?w
あとフリーメイソンの職人の位階の儀式で聖書で神が太陽を中天に固定するシーンを引用しちゃったりしてるんだけど、なんかーユダヤライクじゃないよねっ!あとユダヤって物凄く部族っぽいのに、何でメイソンだけストア派ちっくな階級や人種や宗教に囚われないなんていうお題目を唱えるの
note*** @n_plus 2015年9月10日
“ストア派によれば、世界は物質的で、神あるいは自然として知られている理性的な実体であり、能動的・受動的の二種類に分けられる。受動的な実体は物質であり(…)「運動を加えられないと動かないままでいる」” ストア派 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A2%E6%B4%BE …
ねこた(おしまい!) @lakudagoya 2015年11月16日
手元にヘルメス文書のアスクレピウスの邦訳のコピーがあるのだけど(引用元 グノーシスの変容よりhttp://www.amazon.co.jp/%E3%83%8A%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%9E%E3%83%87%E3%82%A3%E6%96%87%E6%9B%B8%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%B3%E3%82%B9%E6%96%87%E6%9B%B8-%E3%82%B0%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%81%AE%E5%A4%89%E5%AE%B9-%E8%8D%92%E4%BA%95-%E7%8C%AE/dp/4000226290/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1447668451&sr=8-1&keywords=%E3%82%B0%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%81%AE%E5%A4%89%E5%AE%B9 …)これに日本雛形論のよーなエジプト雛型論があんのだよね。出口は日本を世界の雛形と言ったけど、この本にはエジプトこそ天のイメージだと書いてる。
フェイド大帝 @FeydoTaitei 1月3日
あちゃ〜‼︎
で、出たよ〜
アレキサンドリア図書館w
#FateGO
#FGO pic.twitter.com/nhdmtz16td
フェイド大帝さんがまた優しく 説明してやる! 耳の穴かっぽじってよく聞くがよろし! この連中はね、アレキサンドリア (エジプト)に人類の真の歴史書や 神学書が蔵されてたと信じ込んでてね、
で、特にキリスト教の興りに ついてバチカンにとって都合の 悪い事が書かれていたと 思い込んでてね、この図書館に 放火したのはカソリックだ! と断罪してるわけ。
この主張をしてる連中は グノーシス主義の一派である 中世のカタリ派(異端として バチカンに潰された)の子孫を 自称してて、「ウリ達のご先祖様に 賠償を要求するニダ!」と 憤ってカソリックを脅迫してるの。
で、このカタリ派と何の関係も無い 日本や韓国、イソラエルの キリスト教系カルトも群がって 一緒にカソリックを叩いてるわけ。 当然得をするのはアングロサクソン系 のプロテスタント陣営とおフレンチ の無宗教(新左翼)主義者ね。
で、アレキサンドリアと 原始キリスト教の関係なんだけど、 新約聖書のパウロの宣教録を 読むと、パウロってのは アンティオキア(現シリア辺り) とか、コリントス、ローマの 話はよくするけど、
当時の大都市のアレキサンドリアの 話には余り触れたがらないのよ。 「アポロ」という同じキリスト教の 宣教師のライバルが先行で布教してて これに勝てなかったんだねぇ。
今のバチカンのカソリックってのは 基本的にパウロのキリスト教の事を 指すのよね。 聖書が1巻本になったのもずっと 後で、マルキオン聖書に対抗して エイレナイオスの時代に纏められた のが原型だと言われている。
だから、キリスト教ってのは 最初の頃は沢山宗派があったの! で、特に人気があったのが グノーシス主義だった事が 過去の資料(エウセビオスの教会史とか) から分かってるわけ。
第2章のネロ編でネロに仕えてた 宮廷魔術師が速攻で殺された話 あったろ?w グノーシス派の有力な教祖の 一人であった魔術師シモンだと 言われてる。
グノーシス派で特に有名なのが ヴァレンチノス派ね。 fategoスレでこの名前出た時は 流石工作員共と笑ったけどねw
でローマでの布教編を読めば 分かるけど、パウロがやってくる 前からどーもプリスカ夫婦という 怪しい二人がすでにローマで キリスト教を布教しててローマから 追放処分を受けてた事がわかる。
ローマやアンティオキアに伝わってた キリスト教が、「アレキサンドリアに だけは伝わってなかった」って 不自然だろ?w 仏教学の見地からだとカソリックの ロザリオが仏教の数珠由来で ある事が分かってるので、
アレキサンドリアはインドとも 貿易をしていた事が考古学から 明らかになってるから、 初期キリスト教はインドの方の アーリア系宗教からの影響が 強かったのではないかと 言われている。
当然、キリスト教の元ネタが インドやイランのパクリの 可能性が高い事は、西洋白人様 やパウロ派(つまりカソリック) に取って都合が悪いから、 アレキサンドリアを焼いたの ではないかとこの連中は 疑ってる。
まぁ、日本の場合は戦後アメリカの 影響が強いから(実際は明治時代から) プロテスタントや、カソリック以外 に有利な言論をデ○ズニーとか 使って、子供から刷り込んでく 政策を取ってるので、
こう言った事情に疎いと 速攻でカモられる。 ゲームやアニメ、受験用の 日本史だけじゃなく、世界史も ちゃんと勉強しろってこった。 以上!)
(”アキラとプリスカ 16章3〜5節
アキラとプリスカ(プリスキラ)というユダヤ人夫婦もパウロの挨拶の対象となっています。「使徒言行録」18章にも彼らは登場しています。西暦49年に、彼らはローマから退出しなければならなくなりました。この年に、ローマ皇帝クラウディウスがユダヤ人をローマから追放したからです。ローマ人歴史家スエトニウスは、ユダヤ人たちが「クレストゥス」に煽動されて暴動を起こした、と記しています。当時普通の奴隷の名前だった「クレストゥス」(「まとも」という意味)と、私たちの主の御名「キリスト」は、当時同じように発音された言葉でした。スエトニウスが事態を誤って理解し、ユダヤ人たちがこぞって誰か奴隷の指導の下で暴動を起こした、と勘違いしたのだと思われます。ところが実際には、ローマ在住のユダヤ人たちは、ナザレのイエスがキリストであるかどうか、互いに論争していたのです。これらの争いの中で、イエス様を受け入れようとしなかった不信仰なユダヤ人たちは、イエス様を信じるユダヤ人たちに対してシナゴーグ(ユダヤ人の集会堂)からの追放などの懲罰を適用したのであろうと思われます。その処置が非常に厳しいものであったため、周囲の注目を集めるほどの騒乱が生じてしまったのでしょう。
ユダヤ人たちのローマ追放は徹底さを欠く短期間の処置だったものと思われます。皇帝クラウディウスが54年に没した後、ユダヤ人追放令は解除されました。ですから、アキラとプリスカがその後再びローマに戻ってきていたのは大いにありうることです。彼らは主を証しする勇気ある信仰者でした。パウロの説明によれば、彼らはある時には、使徒の命を救うために自らの首を差し出すことさえしたのです(16章4節)。この出来事について、私たちは残念ながら何も知りません。もしかしたらそれは、パウロがエフェソで経験した大きな危険と関係があるものかもしれません。この出来事も私たちには謎のままです。ともあれ、アキラとプリスカの家ではキリスト信仰者たちが集っていました。これは、彼らの居住地には多くの小さな信徒の群れがあったことを示唆しているものと思われます。パウロは普通の場合、手紙の宛名として特定の教会を想定しますが、ここではそれとは異なり、手紙の受け取り手が「ローマの教会」ではなくて、「ローマにいる聖徒たち」宛てになっていることに注目しましょう。”
https://www.bibletoolbox.net/ja/seisho/rooma16shou
”問題宣教者アポロ
使徒言行録に登場する人物で、アカイア州のコリント教会とアジア州エフェソ教会に関わる人物に、アキラとプリスキラがいます。
二人はもともとシリアのポントス州出身のユダヤ人で、おそらく12使徒たちによるメシア=イエスと信じるエルサレム教会の信仰に入った人物でした。その後、二人はローマ市に移り、ローマにあったユダヤ教の会堂において、メシア=イエス運動を展開したのでした。
ところが、そうした活動がユダヤ人たちの反発を買うようになり、騒擾罪で訴えられ、クラウディウス帝はローマ市から騒ぎを起こしたメシア=イエス運動の首謀者たちを追放したのです。およそ紀元49年ごろ、クラウディウ帝がそうしたユダヤ人追放令を出し、この時の首謀者の内の二人がつまりは、アキラとプリスキラだというわけです。
そして二人はローマからコリントへ活動の場を移し、ちょうどその頃、マケドニア州から同じく、ユダヤ人たちに追われるかたちで、パウロがアテネからコリントへとやってきたのでした。使徒言行録18章はパウロとそうしたアキラとプリスキラがコリントで出会ったことを記しています。
さて、コリントでしばらくの間、パウロとアキラとプリスキラは行動を共にし、その後、パウロと共に海を渡ってアジア州エフェソの町へ移ります。パウロは、それからアンティオキアに移っていき、そして、アキラとプリスキラはエフェソ教会に留まり、しばらくそこでエフェソの教会の人たちを指導するのです。
ところが、そこにエジプト・アレキサンドリアからユダヤ人の雄弁家がエフェソへとやってきます。それがアポロでした。
【 アポロ登場 使徒言行録18章24~28節 】
24)さて、アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロという雄弁家が、エフェソに来た。
25)彼は主の道を受け入れており、イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていたが、ヨハネの洗礼しか知らなかった。
26)このアポロが会堂で大胆に教え始めた。これを聞いたプリスキラとアキラは、彼を招いて、もっと正確に神の道を説明した。
27)それから、アポロがアカイア州に渡ることを望んでいたので、兄弟たちはアポロを励まし、かの地の弟子たちに彼を歓迎してくれるようにと手紙を書いた。アポロはそこへ着くと、既に恵みによって信じていた人々を大いに助けた。
28)彼が聖書に基づいて、メシアはイエスであると公然と立証し、激しい語調でユダヤ人たちを説き伏せたからである。
アポロはエジプトのアレクサンドリア出身のユダヤ人で、旧約聖書に精通しており、しかも、雄弁家でした。そして、彼は、エルサレムからはじまってエジプトのユダヤ人にまで広まったメシア=イエス運動によって薫陶を受け、イエスをメシアと信じるユダヤ人キリスト者となったのです。そして、アポロはエジプトから、エフェソまで、おそらく会堂から会堂へと、離散のユダヤ人に対して、ユダヤ人たちが十字架につけて殺したイエスこそメシアであるということを伝えていたのです。ところが、アポロの福音理解は、あくまで十字架の贖罪であり、罪を悔い改めるヨハネの洗礼しか知らなかったのです。
アポロがエフェソにあるユダヤ人会堂においてそうしたメシア=イエス運動を展開しているのをアキラとプリスキラは耳にし、そして、あるとき、アポロを家に招いて、より正しい福音理解をさせたのです。
ところが、アポロには自分の思いとして、アカイア州に行くことを望んでいた関係で、エフェソの教会の人たち、またアキラとプリスキラは、アカイア州の教会、すなわちコリントの教会の人たちに手紙を書いてアポロに持たせ、アカイア州へと派遣したのでした。
【 コリント教会で問題が勃発 コリントの信徒への手紙1 1章10~13節 】
10)さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。
11)わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。
12)あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。
13)キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。
アキラとプリスキラがアカイア州へ送り出した宣教者アポロはコリントの教会に行き、そこで大きな働きをしました。ところが、それがコリントの教会の中で大きな問題に発展します。それは、上記のところでもわかりますが、アポロの宣教は非常に力強かったのですが、その力強さというのが、間違った方向へと進んでいってしまったのです。そして、事が大きくなってか定かではありませんが、アポロはコリントの教会を出て行って別のところへと行ってしまったようです。
パウロは、自分の協力者であるアキラとプリスキラが指導し、派遣したアポロについて、コリントの教会の人たちとの間で、何とか和解させようと努力をしたのです。
そして、当の問題を起こしたアポロに対しても、コリントの教会の人たちの前で謝罪し、和解することを勧めていたことが同じくコリントの信徒への手紙1 16章12節のところにうかがえます。
「兄弟アポロについては、兄弟たちと一緒にあなたがたのところに行くようにと、しきりに勧めたのですが、彼は今行く意志は全くありません。良い機会が来れば、行くことでしょう。」(コリントの信徒への手紙1 16章12節)
【 後日談 テトスへの手紙 3章13節 】
「法律家ゼナスとアポロとを、何も不自由しないように、よく世話をして、送り出してください。」(テトスへの手紙3章13節)
テトスは、パウロの弟子の中でも数少ない割礼を受けていないキリスト者です(ちなみに、テモテはギリシア人を父に、またユダヤ人を母に持つギリシア人とユダヤ人のハーフでしたが、使徒言行録16章をみるとわかるように、パウロはテモテに割礼を受けさせユダヤ人にしています)。しかし、テトスへの手紙はパウロが弟子テトスに対して記した手紙ということになっていますが、成立年代からすれば、それはパウロの死後40年近くが過ぎており、そういう意味では、後の教会があえてそのように記したものと思われます。
この言葉がパウロの意思を継いだものであるかは定かではありませんが、コリントの教会で問題を起こしたアポロを、パウロはただダメ出しをしたのではありません。この事柄をどのようにしてイエス・キリストの福音をもとにして解決するか、それがパウロのコリントの信徒への手紙を記したその原動力になっていたのだと思います。そして、その意味で、パウロはアポロを悪者にして教会の輪から追い出そうとしたのではありません。むしろ、互いに罪の告白によって和解することをパウロは願っていたのです。しかし、パウロが生きていた間にそれが実現したかは定かではありません。テトスへの手紙にみるこうした記述は、パウロの死後40年を経てアポロを、異邦人教会においてなお大事な人材として扱っていることを示しています。”
http://blog.livedoor.jp/yokoya2000/archives/7982998.html
席ゼキ @seki_zeki 2015年7月29日
プラトンの四元徳「知恵、勇気、節度、正義」
アリストテレスの五つの徳目「学問的知識、技術、思慮、知恵、知性(直知)」
ストア派の徳「思慮、勇気、正義、節度」
妨げの情念「苦悩、恐怖、欲望、快楽」
トマス・アクィナスの三元徳「信仰、希望、愛」四元徳の上位
マルクス・アウレリウス @MAureliusBOT 4月6日
ストア派哲学によれば、人間は肉体(肉)、霊魂(息)、および叡智(指導理性)から成る。指導理性は宇宙を支配する理性の一部、すなわち神的なものの分身であって、これが人間の心の中に座を占めるダイモーンであり、人間の人間たる所以のものである。(訳者解説)
メガネ民族の大移動 @wndwpn 1月12日
ストア派の教えに「失ったと言うな。お返し申したと言え。悪人に奪われた?殺された?それを与えし者(神)がなんぴとを通してお前から取り返そうがガタガタ言うな。自分の持ち物は一時預かってるものと心得よ」とかいういかにも厳しい一説がある。やっぱストア派ってカッチョ良いわ
哲学科の鶴丸国永bot @tetsu_tsuru 2015年12月9日
λόγος (ロゴス/logos)とはlegein(拾い集める・数える・物語る)に由来し、言葉・事柄そのもの(真相)・法則・根拠・尺度・理性・理法・摂理などの意味を持つギリシア語の単語だ。英語のlogicの語源でもある。ストア派や新約聖書では神に等しい意味が与えられているぞ
康平 @actorkouhei 2015年7月26日
ヘレネス「やべぇギリシア崩壊したし二つの派閥に別れよ」
ストア派「偉大な神が創った世界の中で神が与えてくれた知性を使って徳を積んで善く生きて行こう。」
エピクロス派「苦しいことを避けるために、よく考えて行動し(思慮)、欲張らないで(自足)、正直で静かに(正義)生きていこう。」)
閉店です @lakudagoya 2015年5月3日
みんあさ、イルミちゃん調べたかったら、マニ教のグノーシスも調べてね。「マミさんは真のキリスト教に目覚めたようです」 で検索してみて。これ青木健の「マニ教」という本を買わなくてもいいくらい内容が充実してる。マニ教の恐ろしさは、既存の宗教に寄生して神話を換骨奪胎して乗っ取る作戦だから
全国の陰謀論コミュのみんあ、元気かな?毎日イルミちゃんをサタンだ~ルシファーだぁ~と叩くのは結構だけんど、たまにはマニ教の手法でも勉強してイルミちゃんの考察をもっともっと深めて欲しいなぁ。マニさんは真のキリスト教に目覚めたようです。http://t.co/Eluq6Cqc6t
— 閉店です (@lakudagoya) 2015年5月16日
ディシディアFFのコンセプトがまんまマニ教なのでクソワロス
— 閉店です (@lakudagoya) 2016年8月17日
光と闇の勢力が何かを「召喚」して戦わせるって、生殖が嫌いだったマニ教独特の表現だよ?
光と闇の元ネタはマニ教なんでマニさんにちゃんと著作権料は払うの忘れるなよ?w pic.twitter.com/ZqinMYDXl6
閉店です @lakudagoya 2015年5月2日
「マミさんは真のキリスト教に目覚めたようです」ほんと面白かったなあ!その辺のマニ教を解説した本より内容が濃くてストーリーが良いね。
「マミさんは真のキリスト教に目覚めたようです」が面白かった!マニ教の本買わなくても内容がわかるよ。http://t.co/Eluq6Cqc6t
— 閉店です (@lakudagoya) 2015年5月1日
神話10 マニ教の教説
http://gnosticthinking.nobody.jp/gnosismyth010.html
“イブン・アン・ナディーム『学術書目録』およびテオドーロス・バル・コーナイ『評注蒐集』より
■1.光と闇の原理
世界の太初に存在したのは、「光」と「闇」という二つの原理であった。光と闇は互いに分かれて存在しており、それぞれの大地には「光の王」と「闇の王」が住んでいた。光の王は自らの分身として、「柔和」、「知識」、「理知」、「奥義」、「洞察」を持っていた。これに対して闇の王の分身とは、「霧」、「火焔」、「熱風」、「毒」、「暗黒」である。
■2.闇の王が光の存在に気づく
あるとき闇の王(「サタン」や「イブリース」と呼ばれる)は、自分より高いところにある光の輝きに気づいた。彼はその高貴さに驚愕すると同時に、それを手に入れたいと欲する。他方で光の世界もまた、闇の王の行為に気がつき、彼が死と破壊を企てていることを認識した。
■3.原人の創造
闇の王の征服に対抗するために、光の王は「原人」を創造する。原人は、「大気」、「風」、「光」、「水」、「火」という五つの神々を、甲冑として身に纏った。「彼が身に纏った第一のものは静かな大気であり、次には燃えさかる光に満ちた高貴な大気を、あたかもマントを着るかのように羽織った。さらにその光の上に重ねて、今度はアトム(原子)で満ち満ちた水を着て、さらに吹きまくる風で覆った。それに加えて火を楯と槍のように手に取ると、楽園から下方に向かって突撃し、戦いの場となるべき場所に接する領域の境のところまでやってきた」。
■4.光が闇に呑み込まれる
光の王が原人を派遣したのに対して、闇の王もまた、五人の種族(「濃煙」、「炎」、「闇」、「熱風」、「霧」)を集めて自らの甲冑とし、原人に立ち向かった。闇の王と原人は長い間戦い続けたが、やがて闇の王が勝利を収めたのである。闇の王は原人が持っていた光を呑み込んでしまうとともに、原人とその配下の種族を闇の世界に監禁してしまった。
■5.光と闇の混合
原人が闇の王に敗れるのを見た光の王は、原人を救済するために「光の友」を派遣した。これによって原人は監禁を解かれ、何とか救い出されたが、彼がその身に纏っていた五つの光の要素は、闇の要素と混合してしまった。原人は闇の大地の最深部へと降りていき、暗黒の五つの種族の根を断ち切って後続が育たないようにするとともに、彼に属する天使の一人に、光と闇の混合物を光の世界と闇の世界の境界にまで引き上げるように命じた。
■6.世界の創造
光の王は、配下の天使の一人に、これらの混合物を素材として世界を造るように命じた。そこで天使は、十の天と八の大地を造り、各天使にそれぞれの支配を委任した。次いで光の王は、太陽と月を創造し、「光の船」として大空に浮かべた。このようにして、現在ある世界が創造されたのである。
■7.光の使者とアダマスの派遣
原人や神々の祈りに応えて、光の王は「第三の使者」を呼び出した。光の使者は世界に到来し、その姿を現したが、それは男性でも女性でもあるものであった。闇の神々は光の使者の姿を目にし、そのあまりの美しさに、彼への情欲で一杯になってしまう。「その情欲の直中で彼らは、あの光、すなわち五人の光り輝く神々から彼らが呑み込んでいた光を、自分たちの内側から漏らし始めた」。光の使者は、彼らが漏らした体液から「光」と「罪」を分離し、「光」を回収する。そして、地に落ちた「罪」の部分からは、闇の王に似たおぞましい獣が生み出された。光の世界は「アダマス」を派遣し、これを討伐させたのだった。
■8.人間の誕生
光の使者が去ってしまってなお、闇の神々はむなしくその美しい姿を追い求めていた。すると、闇の王の息子のアシャクルーンが彼らに、「お前たちの息子と娘たちを私のところに連れて来なさい。この私が、お前たちが見たという姿と同じものを造ってやろう!」と呼びかける。彼らが子供たちを連れてきてアシャクルーンに引き渡すと、アシャクルーンは男の子を、その連れ合いであるネブローエールは女の子をそれぞれ食い尽くし、その後に性行をして、息子と娘を産み落とした。光の使者に似ているこれらの子供たちは、アダムとエバと呼ばれた。
■9.イエスの派遣
天使たちの求めに応じ、アダムとエバを闇の勢力の支配から解放するために、イエスが派遣される。イエスはアダムに近づき、彼を死の眠りから呼び覚ました。また、アダムに取り憑いた誘惑の悪霊を追い払い、無数のアルコーンたちを捕縛した。さらにイエスは、アダムに生命の木の実を食べさせたので、これによってアダムは自分が何者であるかを知ったのである。悲嘆のあまりに、アダムは次のように叫ぶ。「禍いだ、禍いだ、私のこの肉体を造った者、私の魂を食い尽くす者、私を奴隷の身に貶めた謀反者たちよ!」
■10.カインとアベル
その一方でエバは、一人のアルコーンの性欲の対象となり、はなはだ醜い男の子であるカインを産んだ。さらにカインは母親のエバと交わり、それによってアベルが産まれた。カインはなおもエバと交わり、二人の娘を産む。その名は「世界の賢女」と「所有欲の娘」であり、カインは「所有欲の娘」を、アベルは「世界の賢女」を妻とした。その後、天使の一人が「世界の賢女」のもとにやってきて、彼女と交わったため、二人の娘が産まれた。これを見たアベルは、カインが自分の妻と交わったのではないかと疑い、カインを非難したため、カインは激しく腹を立て、アベルに襲いかかって石でその脳髄を打ち砕き、殺してしまったのである。
■11.セツの誕生
エバと交わったアルコーンは、自分の息子が引き起こした惨劇を見て困惑した。彼はエバに魔術の言葉を教えて、アダムに魔術をかけるように命じた。しかしエバはアダムと交わり、一人の優美な、見目麗しい息子を産んだのだった。アルコーンはこれに怒り、その子どもを殺そうとしたが、アダムは息子を連れてその場を離れていった。そしてアダムは息子の周囲に三重に円を描き、「光の王」、「原人」、「生命の霊」の名前を記して神に祈りを捧げた。これを見たアルコーンたちは、一目散にそこから退散した。アダムはこの息子にセツと名づけた。
アルコーンはエバに、アダムを自分たちのところへ連れて帰るように命令した。エバはアダムのもとを訪れ、再び肉欲のままに彼と交わろうとしたが、セツはこの行為を非難して言った、「さあ、私たちは立ち上がって東の方にある光と神の知恵に向かって急ぎましょう」。こうして、アダムとセツ、「世界の賢女」とその娘たちは、連れだって光の方へと歩んだ。これに対し、エバ、カイン、「所有欲の娘」は奈落に落ち込んだのだった。
■12.人間の運命と終末
死を迎えるに際して、人間の運命は三つに分かたれる。「真実なる者」が死ぬと、光の神々が彼を迎え、彼は光の船である月を通過して光の世界へと帰って行く。その肉体は闇に属するものであるため、奈落へと投げ捨てられる。「真実なる者たちを守る者」が死ぬと、光の神々とともに、悪魔たちもまたそこに現れる。彼は光の神々に取りなしを求めるが、その罪障が完全にぬぐい去られるまでは、救済されることはないのである。「所有欲と肉欲の支配のもとに屈服してしまった罪人」が死ぬと、悪魔たちだけが現れ、彼に拷問を加える。それは世界の終末まで続き、最後には世界とともに奈落の中に投げ込まれてしまう。
世界の終末に際しては、「原人」や「生命の霊」といった光の神々が来臨する。彼らは世界の周囲をめぐり、その中を眺めおろして、「真実なる者」たちを救い出して光の世界へと帰昇させる。また、太陽と月は闇と混じり合った光を抽出し、これを光の世界へと手渡すのである。光が闇から分かたれるとき、世界の運動を支配していた天使たちが撤退してしまうため、世界は崩壊して火が激しく噴き出す。この火災は一四六八年の間続き、これによって世界は完全に燃え尽きてしまうのである。”
マニ教 [ヘレニズム・ローマ]
http://morfo.blog.so-net.ne.jp/2011-05-15
”神格を固有名詞ではなく普通名詞で表現して世界各地で布教しました。
…原初に善悪の2つの原理「偉大な父/闇の王」を立てるので、「絶対的2元論」だと言えます。
光の国の「偉大な父」の回りには、5つのシェキナー(光輝・住居)である「知性/知識/思考/思慮/決心(あるいは柔和/奥義/洞察)」がいます。
これらはゾロアスター教のアムシャ・スプンタの相当する大天使的存在で、これらは光の国の大気を形成しています。そして、光の国の大地は光の5元素である「空気/風/光/水/火」で構成されています。
一方、闇の国の「闇の王」の回りには、5つのアイオーン(悪霊)であり闇の大地を構成するや闇の5元素である「煙/火/風/水/闇(あるいは霜/熱風)」がいます。
その後生まれる宇宙はこの光と闇の5元素の混合体です。
このように、ロゴスやイデアの有無ではなく、元素まですべてを善悪の2つの原理で考える点がマニ教の絶対的2元論の特徴です。
ズルワンに相当する「偉大なる父」は、アナーヒターやに相当する「生命の母」を、そして、息子でアフラマズダやミスラ、ロゴスに相当する「原人間」を、次に5大元素の大天使に相当する「5人の息子」を生み出します。
「原人間」は「5人の息子」をにして、「闇の王」とその「5人の息子」と戦い、まるで毒を盛るように、自ら彼らに食われます。
つまり、「原人間」やそれから生まれる霊魂は、堕落によるのではなく、自ら悪を克服するために悪の中に身をたとする点がマニ教の大きな特徴です。
「偉大なる父」は、「原人間」達を救済するミスラに相当する「光の友」、「偉大な者」、「生ける霊」を生みます。この3者にはほぼ共に働くので、一体の存在とも考えられます。
宇宙は闇の中に残った光を分離するための機械として、悪のアルコーン達の遺体から作られます。
宇宙はゾロアスター教のように悪を閉じ込めて撃退する「牢獄」ではなく、光の「分離器」なのです。太陽と月は分離した光の集積所です。
また、12宮の霊である「12人の処女」は抽象的に「王権/知恵/勝利/確信/廉直/真理/信心/寛容/正直/善行/正義/光」と呼ばれます。
そして、宇宙には10天と8地があります。
次にやはりミスラに相当する「第3の使者」が生み出され、彼が宇宙を働かしま悪魔達の情欲を刺激して光を回収しますが、悪達は光の回収を防ぐために光を人間に集めて欲を植え付けます。
つまり、人間が生殖によって子孫を残すことは、光を奪われないための悪魔の陰謀なのです。
この考え方にも徹底的な現世否定主義的な絶対的2元論があります。
次に「輝くイエス」が人間に対する啓示者として現れます。
彼は、「偉大なる父」からの使者であると同時に、「闇」の中に堕ちた「光」の人格化でもあって、「原人間」の受苦の象徴でもあるのです。
その後に現れたマニ自身は、キリスト教のヨハネ福音書に語られる「救いの霊」、「真理の霊」だと考えました。そして、終末には「光の狩人(大いなる思考)」が最終的な救済者としてやってきます。”
マニ教からボン教、そしてトンバ教へ
http://mikiomiyamoto.bake-neko.net/waroflightanddarkness.htm
” マニ教はライバル宗教そっくりにメタモルフォーゼし、核となる魅惑的な二元論コンセプトだけは残して、キリスト教や仏教を侵蝕していった。聖アウグスティヌスとマニ教司祭フォルトゥナトウスの公開討論(註12)では、マニ教司祭はおのれをキリスト教徒と称し、聖書を手に持って巧みに引用しながらディベートをしているのだ。また中国では、マニ経典を仏典や道教の経典(註13)のようにみせかけたりもした。チベットのボン教経典が仏典そっくりに編纂されるのは、あるいはそのような融通無碍なマニ教方式だったのではないか?
博覧強記のトゥクァン・ロサン・チューキニマも、マニ教のことは知らなかっただろう。仏教のメガトン級の波が押し寄せる前に、マニ教の波がチベット高原に届いていた可能性はないだろうか。もし上述の三名のボン教徒がマニ教徒であったと仮定するなら、それはマーニーの生存した3世紀からの数世紀の間に起ったことにちがいない。マーニー自身、シンドやバルーチスタンまで行って布教をしているので、カシミールやプルシャでもマニ教のことは知られていたかもしれない。通常、マニ教は国教として受け容れたウイグル人によって西域からチベットにもたらされ、その存在は知られていたと考えられているが、そうだとすると、7、8世紀のこととおもわれる。
このように、光と闇の神話がマニ教→ボン教→トンバ教と送られてくる可能性を吟味し、その背景を焙り出してきた。しかし、マニ教の二元論的哲学がトンバ教に受け渡されたかといえば、かならずしもそうとはいえない。マーニーはこの世の苦しみは肉体が悪魔によって造られたことに起因していると考え、光の国への魂の解脱をめざすことから二元論を展開した。しかしナシ族は形而上的な思考法には馴染みがなく、魔を跋除し、災いを防ぐためによむ百近くの経典のなかに二元論的神話を取り込んだのだ。日常的には二元対立的なものは見当らず、白、清浄への志向性がナシ族の特徴である。
「白と黒の戦争」では、戦いにおいてつねに光、白、善の側が勝利を収める。物語としてはマンネリかもしれないが、そうして精神のホメオスタシスが保たれるのだ。ひとが重い病に臥したとき、トンバがやってきて儀式をおこない、そのなかでこの物語をよむ。それは物語の形式をとった祭詞・呪詞であり、炉辺で語られるたのしい神話・伝説の類とは意味合いがまったくちがうのだ。
さて、マニ教が直接トンバ教に影響を与えたかについても、いちおう吟味してみる必要があるだろう。洛陽や泉州をはじめ中国各地に拡がったマニ教も、中国西南まで達したという証拠を見出すことはできない。
ただ気になるのは、年代すらも曖味な伝説的なトンバ教中興の祖阿明(アミ)だ。その名前からしてマニ教を彷彿とさせる(中国東岸のマニ教は明教とよばれた)が、二元対立というより、光、白、善、清浄を志向する伝道者(ボン教徒だったかもしれない)であり、あるいはナシ族は無量光仏アミターバ(阿弥陀仏)とダブらせて考えてきたかもしれない。アミターバもまた中央アジア起源(註14)とも、ゾロアスター教起源(註15)ともいわれるのだ。
…
註1 アラビアのイスラム学者イブン・アン・ナディームが十世紀末に著した『フィーリスト』等術書目録)のマニ教に関する一節。ハンス・ヨナス著『グノーシスの宗教』(人文書院)より引用。矢吹慶輝『マニ教と東洋の諸宗教』大貫隆『グノーシスの神話』などにも訳がある。
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註13 仏典のような「摩尼光仏教法儀略」、道教経典のような「老子化胡経」。
註14 浄土経典の翻訳者が唐代以前は西域や北インド出身が多いことから言われてきた。(矢吹慶輝『阿弥陀仏の研究』)
註15 光明神という点で共通する。岡田明憲『ゾロアスターの神秘思想』
…
アフラ・マズダーは天(望ましい統治)、水(完全性)、大地(献身)、植物(不死)、動物(善なる心)、人間(聖なる霊)、火(秩序)という七段階を経て世界を創造した。それに対し、悪の霊は天に穴をあけ、水を汚し、大地を砂漠化し、植物を枯らし、植物や動物に死をもたらし、火を消した。
ゾロアスター教はこのような宇宙観にしたがい、死体を悪に打ち負かされたものとみなし忌避することはあったものの、マニ教のように生きているじぶんの肉体を嫌悪することはなかった。マニ教のこの(霊にたいする)物質否定・現世否定は神学上の重大な論点であり、同時代のキリスト教やグノーシス主義、のちのカタリ派などの異端に大きな影響を及ぼした。
マニ教(摩尼教)はとくに中国において、しばしばゾロアスター教と混同されてきた。しかしゾロアスター教が古代宗教的、民族宗教的性格をもち、布教活動を積極的にはしなかったのに比べ、マニ教はカリスマ的開祖による「創唱宗教」であり、燎原に火が燃え広がるように勢力を拡大した。その中味もゾロアスター教だけでなく、仏教、キリスト教、新プラトン派、ピタゴラス派などの教義や要素を取り入れた宗教のごった煮のような宗教だった。そのようなものが生まれたのには、マーニーが文明の十字路とよべるバビロニアに生まれ育ったことが大きく作用しているだろう。
マーニーの父パーティクはメディアの都ハマダンのベルシア人だが、何らかの理由でベルシアの首都クセノフォンに移ってきた。あるとき「偶像の館」(偶像崇拝の寺院)で、肉、酒、女を遠ざけよという神の声のようなものを聞き、それから「沐浴を実践する人びと」という宗教(イラクからイランにかけて現存するマンダ教か)を信仰するようになった。この啓示があってから間もなくの216年4月14日、妻マリアムはマーニーを産んだ。
マーニーは12歳のとき、双子の精霊から父の宗教を離れよという啓示を受け、24歳のときには伝道をせよという啓示を受けた。まずはインドへ向い、シンドやバルーチスタンに到達した。なぜインドへ向かったのかはわからないが、このときに仏教やバラモン教の影響を受けたことは十分に考えられる。
マーニーはバビロニアに戻り、シャープフル一世(在位240~272)の弟ぺーローズを改宗させた。それがきっかけで王宮に呼ばれ、「シャープフラガーン」という預言書を提出し、王から寵愛されるようになった。このあと「生ける福音書」「いのちの宝」「プラグマティア」「秘儀の書」「巨人の書」「書簡」などの七巻の教義書(ほとんど題名のみ知られるが、トルファン文書の断片などから一部は復元された)のほか、「讃美歌と祈祷集」「宇宙図と注釈」を著したという。また弟子たちによって「ケファライア(講話集)」が編纂された。
仏教経典や聖書が弟子や使徒によって書かれた、あるいは(言葉を)書き写したのにたいし、マーニーはみずから教義を記し、伝教しようとしたのは特筆すべきことだろう。しかも各言語で明示し、辺境の国々まで広まることを望んでいる。またマーニーはブッダ、ゾロアスター、イエスにつづく使者としておのれをとらえていた。さまざまな点でマーニーのアイデアは斬新であり、一種の宗教革命を起したといえるだろう。
マーニーは高弟をローマ帝国に送り、布教させ、成功を収めた。ディオクレティアヌス帝からカトリックなどとともに弾圧を受けたものの、その後も布教活動はうまくいき、北アフリカにまで教えを広めることができた。しかし国内ではゾロアスター教勢力の抵抗にあうなかでシャープフル一世が没し(272年)、後ろ盾をなくしたマーニーは投獄されるはめになった。そして26日後の277年2月24日に獄死した。連体はふたつに裂かれ、首は門に吊るされたという。
サーサーン朝およびゾロアスター教は、マーニーの勢いに恐れをなしたからこそマーニーを死に至らしめ、また死後も禁令を発布したのである。しかしその死によってマニ教は奇妙な展開をみせることになる。マーニーは自らの殉教を予想していたのか、多くの教義書を著したほか、教団組織(註18)を組み立て、教団の確立と発展のお膳立てを整えていた。その結果、ベルシア内では勢いを失ってしまうものの国外に活路を見出し、西方はガリアやスペイン、東方は中央アジアから中国へと伝播していったのである。
とりわけ中国東岸の福建では長く生き延び、14世紀初頭までその活動を確認することができる。「夷堅志」に書かれた喫菜事魔とはマニ教のことだったのである。「摩尼光仏教法儀略」「下部讃」「摩尼教残経」などのマニ経典は、根本義を二宗三際と表現している。二宗とは明暗の二原理、三際とは原初、中間、終末のことであり、宗義はほぼ原型のまま伝えられたと考えられる。清代に入ると、福建のマニ教は次第に秘密結社化していき、解放(1949年)前まで存続したともいわれるが、その実態はあきらかになっていない。(註19)
マニ教の神話はゾロアスター教の系譜につらなる光と闇の神話である。『フィーリスト(学術書日録)』の冒頭部分は宇宙開聞からはじまる。(註20)
マ二は教えている……世界の太初を成すのは二つのもの(本質)、すなわち光と闇である。この両者は互いに分れている。その光は第一の大いなる栄光の存在であって、いかなる数による限定も受けず、神そのもの、光の楽園の王である。彼は、柔和と知識と理知と奥義と洞察の五つの分身(註21)から成り、さらに、愛と信仰と誠実と高潔と知恵という五つの霊的属性から成る。
マ二がさらに主張するところでは、この光の神はこれらの属性とともに、初めを持たない存在である。この神と同時に初めなきものがさらに二つあって、その一つは大気の圏(光のエーテル)、もう一つは大地である。マ二はこれに付け加えて言う、その大気の圏は柔和と知識と理知と奥義と洞察という五つの分肢を持ち、大地は低層の空気の流れ、風、光、水、そして火という分肢を持つ。闇はこれと別の存在であり、その五つの分身は霧と火炎と熱風と毒と暗黒である。
マ二は教えている……かの光の本質は闇の本質に直接鐘を接していて、両者の間には何の隔壁もない。光は上方と右側と左側に向かっては無窮であるが、その(下方の最も低い)部分では闇に接している。同じように闇も下方と右側と左側に向かっては無限である。
このあとの展開は以下のごとく。
暗黒の大地からサタンが生じる。その頭はライオン、身体は竜、翼は鳥の翼、尻尾は魚の尾鰭、足は地を遣う動物の足のごとくだった。このサタンは、イブリース(註22)(ギリシア語デミウルゴスの転靴。時間の上で永遠なる者、原悪魔)という名のもとに闇から生じたあと、万物を呑み込んで、破滅を広げながら深淵に向かって下降していった。
そのあとサタンは高い所を欲すと、光の大地(プレーローマ)はそれに気づき、洞察、知識、奥義、理知、柔和の世界を送った。
光の楽園の王は、右手の霊、5つの世界、12の要素から原人を招喚した(生み出した)。(註23)原人は五大要素(大気、風、光、水、火)の神を鎧のごとくまとい、敵の領域と接する場所へ向かった。
サタンも濃煙、炎、闇、熱風、霧という五大要素の種族をまとい、原人と立ち向かった。やがてサタンが原人にたいして勝利を収め、原人の光を呑み込むとともに監禁した。(*神的自然の一部が物質に捕らわれたことの象徴)そこで光の楽園の王はもうひとりの神を送り、サタンを打ち破った。彼は「光の友」と呼ばれた。
それから「喜悦」と「生命の霊」が境界に至ると、奈落で原人と天使たち(五大要素)がサタンや「倣慢な押し迫る者たち」、「闇の生命」に取り囲まれているのを瞥見した。「生命の霊」が稲光のごとく大声で叫ぶと、原人は別の神になった。
原人とサタンが闘ったとき、光の5つの部分と闇の5つの部分とが混じりあった。すなわち濃煙が静かな大気と、炎は火と、光は闇と、熱風と風は、霧は水と混じりあったのだ。(*現実世界は対立する要素が混じりあって形成されている)
光の楽園の王はこれら混じりあったものを素材にして世界を造るよう命じた。
それは光の敵分を闇の部分から解き放つためだった。王は10の天と8つの大地を造り、一人の天使には天を支え、別の天使には大地を保つよう命じた。各天には12の門を設けた。各門の玄関に6段の階段を設け、その一段ごとに30の通路を、各通路に12の列を設けた。
王は世界の廻りに溝をこしらえ、分離した闇を投げ込もうとした。それから世界の光を抽出して太陽と月を造った。
【評注蒐集によれば】大いなる父は求めに応じて第三の使者を呼び出した。使者は12人の処女を呼び出した。船(太陽と月)が天の真ん中に達したとき、使者は自分の姿をあらわした。それは男でもあり、女でもあった。男のアルコーン(闇の子)は女の姿を見て、女のアルコーンは男の姿を見て、情欲でいっぱいになった。その情欲のなかで彼らは呑み込んでいた光を漏らしはじめた。その漏れた光にアルコーンたちの罪も、パン生地に混じった頭髪のように、闇の大地から昇る月に混じり込んだ。(註24)
アルコーンたちと星辰の一人、押し迫る暴力、所有欲、肉欲、罪が互いに性交し、最初の人間アダムが生まれた。そして第二の性交からハヴァー(エバ)が生まれた。
5人の天使は、神の光が汚辱のなかにあるのを見た。そこで彼らはイーサー(イエス)を送り出した。二人のアルコーンは、イーサーと付き添っていた神の二人を監視し、二人(アダムとエバ)を釈放した。
[評注蒐集によれば】イエスは彼(イエス)の魂が万物になかにあって猛獣の歯牙、象の歯牙の前に投げ出されていること、呑み込む者たちの口に呑み込まれ、吸い込む者たちのロに呑み込まれ、犬たちに食われ、すべて存在する物のなかに捕らえられ、闇の汚物のなかに繋がれていることを明かした。(註25)
アルコーンは彼の娘であるハヴアー(エバ)と寝て、その結果容貌の醜い赤い男、カインが生まれた。つぎにカインは母親と寝て、その結果白い男、ハービール(アベル)が生まれた。カインがまた母親と寝ると、二人の娘、「世界の賢女」と「所有欲の娘」が生まれた。カインは「所有欲の娘Lを要り、「世界の賢女」はハービールに与えた。「世界の賢女」は光と神の知恵から流出してきたという。その後ひとりの天使がやってきて彼女と交わり、「助けに来りませ」と「助けを与えたまえ」を産んだ。ハービールはこのことを知って怒り、母ハヴァーに告発した。カインは逆上してハービールに襲いかかり、石で脳髄を打ち砕いて殺した。そして「世界の賢女」を妻とした。
もし死が一人の真実な者に近づくと、原人が光の神を指導的賢者として派遣する。また三人の神々と真実な者の魂に似た乙女も到来する。サタンもあらわれるが、神々によって追い払われる。神々は真実な者の手をとって月の領域へ、原人のもとへ、生ける者たちの母であるナナハのもとへ登っていき、最初に光の楽園にいたときの状態に戻る。太陽と月と光の神々が彼の身体からもろもろの力を引き出し、残りの部分は闇に属するので、奈落へと投げこまれる。
人間の魂が分れる三つの道がある。それは真実なる者の道、真実なる者を助ける者の道、罪人の道である。
太線は炎熱のサタンと混じりあった光を、月は寒冷のサタンと混じりあった光を賛美の柱に沿って抽出する。月はこの光を太陽に手渡し、太陽はさらに上なる賛美の世界の光に手渡す。もはや(光と闇が)分離することができなくなったとき、(大地と天を担う)天使たちが手を引き、その結果至高のものが最下層のものと混じりあい、激しく燃え盛り、光が解き放たれるまで燃え尽きることはない。この大火は1468年つづく。
この期間のあと、闇の霊は光が解放されたことを知って意気阻喪し、用意された墓のなかに入っていく。光の楽園の王はこの世の大きさほどもある岩で墓を封鎖する。
…
時代を飛んで、12、3世紀、南フランスを中心として数十万人とも数百万人ともいわれる信徒を獲得した、異端ですますにはあまりにも大きなカタリ派に目を転じてみよう。彼らはみずからも宣するように、マニ教そのものといってもいいほど、マニ教の教義に基づいていた。パウロ派(註26)、ブルガリアのボゴミール派(註27)を経由して(上述のフォルトゥナトゥスが仏シャンパーニュに逃れ、それ以来マニ教が伝承されてきたという言い伝えもあるが)、ここにマニ教が蘇ったのだ。
カタリ派が勢力を拡大したのは、当時のカトリック教会の聖職者が聖職売買を行うなど、腐敗堕落しきっているのを目の当たりにし、人びとが幻滅させられていたところへあらわれた禁欲的な宗教だったからである。カタリ派の完徳者(パルプェ)は粗末な衣裳をまとい、托鉢しながら放浪生活を送り、祈りと瞑想に耽った。人びとの目には、その清貧さはカトリックの聖職者以上に、使徒たちの姿に近いと映ったのだ。
上に述べたように、マニ教徒は、現世はサタンが造った(正確には光と闇の混合物から造った)悪しき世界とみなし、ひたすら悪しき肉体を離れて天に昇ることを欲していたので、カタリ派がこういう清貧生活を送るのは当然だった。
それに対抗するには、似たような生活を送るのがもっとも有効な手段だった。そこで聖ドミニクス及びドミニコ会が無所有と断食の生活を標棟し、カタリ派撲滅に尽力をそそぐ。ドミニコ会からは多くの異端審問官が輩出された。
しかしいっこうに衰える様子のないカタリ派にたいし、教会側はついに1209年、アルビジョア十字軍を派遣する。兵士の数は30万人ともいわれ、フランスの南北戦争とでもいうべき大戦乱となった。しかし、最終的には1244年、難攻不落のモンセギュール要塞の陥落で幕を閉じた。これ以降二元論は欧州の表舞台から姿を消す。
カタリ派はフォルトゥナトゥスの伝統を受け継ぎ、聖書を多用した。彼らは聖書のつぎの一フレーズにこだわった。
万物は言(ことば)によってつくられた。言によらず無がつくられた。
これは「ヨハネによる福音書」(1章3節)のカタリ派のラテン語からオツク語への翻訳である。(註28) 日本聖書協会発行の聖書の訳では、つぎのようになる。
すべてのものは言(ことば)によってできた。できたもののうち、一つとしてこれ(言)によらないものはなかった。
そう、これは四世紀後半のアウグスティヌスとマニ教徒フォルトウナトクスとのあいだの論争の再燃なのだ。
一見するとカタリ派の解釈はこじつけのようにおもえる。しかし無(nihil)は副詞であるとともに、名詞でもあり、アウグスティヌスもしばしば名詞として用いていた、とネッリは言う。「何も作らない」ではなく、「無を作る」というふうに。このほか聖書では「コリント人への第一の手紙28章4節と13章2節でのみ「無」と訳されるが、他のすべては「……でない」と副詞として訳されている。
カタリ派の解釈によって、「無」が存在感をもつようになる。ひとたび存在と非・存在という二元対立を認めてしまうと、悪も実体化してしまう。唯一の神が万物を造ったとするなら、悪をも造ったということになるではないか。
マニ教徒がアウグスティヌスにたいして攻めたポイントもここだった。そこでアウグスティヌスは考え方の転換をはかった。
「悪は何らかの実体であるというマニ教徒に反論して、われわれはつぎのように主張しよう。悪は実体ではなく、存在性の高いものが低いもののほうへ向かう性向であると」(『セクンディヌスへの反論』)
しかしまさにこのアウグスティヌスのことばから、カタリ派は悪しき実体という概念を借用したのではないかと、ネッリは指摘する。アウグスティヌスのいう価値の低下した実休を、歴史的にそうなったと考えるのではなく、超時間的に捉え、原理として捉えればそれでよかったのである。アウグスティヌスはマニ教徒から反・マニ教徒の側にまわったわけだが、ある意味ではことばの転換ですむようなものでもあった。
もう一度「ヨハネによる福音書」に戻ろう。カタリ派の視点からすると、正統派の訳にも疑念がなくはない。「すべてのものは言によってできた」の一節ですむのに、なぜ「できたもののうち……」と同じ意味の一節を加えなければならなかったのだろうか。
ネッリも言うように、「ヨハネ」にはおびただしく光ということばが登場し、「人々は光よりも闇を好んだ」(23章19節)というようなフレーズもある。また物質世界を否定する箇所も多い。なぜか「ヨハネ」は二元論的な傾向を多分にもち、そんなほのかな異端の匂いを、真正な異端派は逃さなかったのだ。青葉(ロゴス)と神を同一とするヨハネの見方は神秘思想家、たとえば近年では神智学のシュナイダーらの共感を呼んだ。
註16 バビロンにはゾロアスター以前に光、善を代表するベル・マルドゥク(Bel Marduk)と暗闇、死、地下を代表するネルガル(Nergal)という神がすでにあったという。(Yuri Stoyanov 2000)
註17 バングエスト、ニョリ『ゾロアスター教論考』(平凡社)
註18 すべてを統括する教長(サーラール)の下に二大の教師(ハモージヤグ)、その下に72人の監督(イスパサグ)、その下に360人の長老(マヒスタグ)、その下にすべての選ばれた人(アルダワーン)というヒエラルキーを作った。アウグスティヌスはマニ教徒だった頃、「選ばれた人」 ではなく、一般信者である「聴聞者」だった。もし「選ばれた人」だったら歴史は変っていた?
註19 Lin Wushu 'On the Spreading of Manichaism in Fujian, China'
註20 大貫隆『グノーシスの神話』
註21 シェキナー。神の肢体、アイオーンとも。矢吹訳では寛容、知識、知性、不知覚、識別力の五眷族。
註22 アラビア語。ベルシア語でアーリマン。シリア語やコプト語の資料ではギリシア語の質量、ヒュレーをあてる。プラトンやアリストテレスのヒュレーとは異なり、能動的な邪悪さをもつ。
註23 グノーシスの流出原理。ベルシアでは光の神をあらわすオルムズドの名でよばれた。
註24 マニ教徒が地上で回収した光は、讃美歌に載せて月に送られる。月がそうして満ちて満月になると太陽に手渡し、欠けていく。
註25 マニ教の教理「受難のイエス」を示す。受難とは光の捕縛のこと。
註26 ユスティニアヌス帝に追放されてブルガリアに住みついたマニ教の一派。物質および物質と結びついた生活は悪であり、悪事をおこなう神が創造したと考えた。
註27 ブルガリアがビザンツ帝国の支配下にはいると一挙に帝国内に弥漫した二元論的異端宗教。修道士バシレイオスが創始。パウロ派を受け継ぎ、教義や組織はマニ教に酷似している。ボゴミール派の子孫はサラエボあたりでイスラム教徒として生き残っているという。(Paul Kriwaczek “In Search of Zarathustra”)
註28 ルネ‥ネッリ『異端カタリ派の哲学』
…
グノーシス主義のバシリデース派の世界種子について述べたい。ヒッポリュトスの『全異端反駁』から知れるバシリデースの教説は以下の通りである。(註34)
世界の種子は自らの内にすべてを持っている。ちょうど芥子の種がすべてを一緒に混ぜ合わせて、きわめて小さな中に包括してもっているのと同様である。つまり芥子種は根、幹、枝、葉の他に、その木から生まれる数えきれない量の他の新たな種子を自分の中に持っており、その実った種がさらにまた他の木の種子となるというように度重なって行く、その可能性をすべて持っているのと同様である。
絶対的な無としての存在しない神(原初の状態)から発生する世界種子は、宇宙卵と言い換えてもいいだろう。それは一種の可能体なのである。世界種子の概念はヒンドゥーにもみられ、ムーラプラキリティとよばれる。また現在のビッグバン理論の特異点もいわば世界種子といえるだろう。
”
ねこた @lakudagoya2:54 - 2017年3月19日
ねこねこさん、新記事お疲れ様。
ディアトリベーって代表作はセネカくんの「書簡」だよ。
パウロさんのお手紙もこの手法が取り入れられてるねぇ?
ねぇ?
この前おいらが朗読したお手紙もそうだねぇ?
ツイキャス録画どうぞ 「セネカとパウロの往復書簡」 https://t.co/hSqIrGNGQY
— ねこた (@lakudagoya) 2017年3月13日
【エロ画像集】
「イルミナティ・メーソンというユダヤが黒幕」は「支配層は悪魔」と同じく嘘!
ノーベル賞はエキュメニカル・スウェーデンボルグ賞!(ロスチャイルド賞は嘘)
~文章技術について私が守っていること①~
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-118.html
イマさんのジャパリパーク
http://ataraxiaaquaria.seesaa.net/article/447464292.html
”イラン版のノアさんであるイマさんは、アフラ・マズダーに呼び出されて以下のものを作るように言われました。
イマよ、この世界に致命的な冬がやってくる。猛烈で破壊的な氷結に襲われる。 物質世界に破滅的な冬がやってくる。雪が降り積もる。最も高い山々にまで。バル(地下室また地下の格納所)を造れ。馬場の四隅の届く長さに。そこに羊や牛、人間、鳥、そして赤く燃える炎の種子を運び込むのだ。
汝はそこで地上で最も優れた男女の種子、地上で最も優れたあらゆる家畜の種子、地上で最も優れたあらゆる樹木の種子、最も香りが甘くて最も実ったあらゆる果実の種子を運び込むのだ。
これらの種子はどれも2つずつ運び込み、人々がバルにいる限り尽きないように保存すること。
身体に障害のある者や腹の飛び出た者、不能なものを正気でない者やハンセン病のものは入れてはならない。
「神々の魔術 上巻 180項より」
”
イマさんのジャパリパークその2
http://ataraxiaaquaria.seesaa.net/article/447464856.html
”イマさんが作ったバルというかジャパリパークの詳細
最も大きい場所には9つの通路を作る。 中ほどの場所には6つの通路。最も小さい場所には3つの通路。
最も大きい場所の通路には男女1000人分の種子を運び込む。中程の場所の通路には600人。最も小さい場所の通路には300人の種子を運び込む。
「神々の魔術 上巻 184項より」
ここまではゾロアスター教の文書の引用部分。ここから先は作者の注釈。
これをハイテク種子銀行(絶滅する危険のある種子を保存する場所)の仕様書と考えるのは奇抜すぎるようだ。
だがバルの他の「技術的な」面についてはどう判断したら良いのだろう?
例えば照明装置だ。この場所に扉をこしらえ、それをアフラ・マズダーから与えられた黄金の指輪で封印する。
さらにイマは「自ら輝く窓」も作る。
この「自ら輝く窓」とはいかなるものかとイマが説明を求めたところ、アフラ・マズダーは「考案されてない光と考案された光がある」と謎めいたことを告げた。
前者は星や月や太陽のことで、長い冬の間はバルの中から見ることができない。
後者は「人工の光」で「下から輝く」。
イマは指示されたとおりバルを完成させた。
それ以降バルは「自らの光で輝いた」これを成し遂げたイマは
こられの謎の光源は旧約聖書ではゾーハルと言われてます。あの「光輝の書」のあれです。
ここからゾロアスター教の文書の引用
1.6キロの長さの床に水流を作った。常緑の土手に取り鳥を住み着かせたそこには尽きることのない食料がある。更に居住するための建物を作った。バルコニーと中庭と回廊のある家だ。
「神々の魔術 上巻 185項より」
彼は男女の種子を運び込んだ。あらゆる種類の樹木の種子と、あらゆる種類の果実の種子を運び込んだ。彼が運び込んだあらゆる種子はどれも二つあり、人々がバルにとどまる限り、尽きる事がないように保存された。
「神々の魔術 上巻 185項より」
40年ごとに、どの男女にも二人の子が生まれる。男と女だ。これらすべての家畜でも同じだ。そして、イマが作り出したバルの人々はこの上なく幸せな人生を送る。
「神々の魔術 上巻 185項より」
ここから作者の意見
興味深いことにこの訳者は、古代の様々な注釈を引用した脚注を書いている。
それによると「バルの住民は150年生きた。誰も死ななかったという人もいる。」
さらに興味特に興味深いのは。
すべての男女の間にできた子は性的結合ではなく、「バルに保存されていた種子」によるものだと言う。
イマに繋がる、謎の失われた技術に関する手がかりは他にもある。
奇跡の杯は、世界中で起きてることを見ることができる。また宝石が散りばめられたガラスの玉座「ガラスの馬車とも称される」は空を飛ぶことができる。
以上バルの中身でした。”
§
§
ナグ・ハマディ写本(ナグ・ハマディしゃほん、The Nag Hammadi Codices)あるいはナグ・ハマディ文書(ナグ・ハマディぶんしょ、The Nag Hammadi library)
燈火 @to_moshibi 22:03 - 2017年3月20日
子子子子子(ねここねこ)さんのブログですが、最新の記事の文字がとても読みやすくなっていていい感じになっています。
個人的には字体の変更と文字の色分け具合がうまく作用していると思いました。
ねこた(おしまい!) @lakudagoya 2015年8月20日
ぬこたさん色々面白い本読んだんだ。「マヌ法典」「聖書外典偽典 5」(第四のエズラ書収録)「グノーシスの変容」「初期ギリシア哲学」「聖別された肉体」「タルムード」などなど。やっぱね、本は読むべきだよ。ネット陰謀論の嘘も本を読めば一刀両断なんてのも多いよ。
「神秘のカバラー」を読んだ後に「私は、これで生命の樹を理解した」と、もしそう思うのなら、あなたは生命の樹を殆ど理解していない 証拠である。
まずは、「パス」だ。
生命の樹において、「パス」は「セフィラ」と同じくらい重要だ。
しかし、「神秘のカバラー」には、セフィラについては詳述されていても、パスについては、殆ど記されていないことに気づくであろう。
パスを理解するのは、まずセフィラについて、ある程度の知識が無ければならない。
だから、初心者は、まず「神秘のカバラー」を読むことが求められるのだ。
では、パスについて知識を得るのに良書は何か? と問われれば・・・
ガレス・ナイトの「A Practical Guide to Qabalistic Symbolism」である
『エゾテリスム思想』(文庫クセジュ)
世界の名著一覧見てたら第一巻がインド思想(優遇?)で、 ヴァーツァーヤナ「論証学入門」(服部正明訳) マーダヴァ「ジャイナ教綱要」(宇野惇訳)
ティトゥス・ルクレティウス・カルス(ラテン語: Titus Lucretius Carus, 紀元前99年頃 - 紀元前55年)は、共和政ローマ期の詩人・哲学者。エピクロスの思想を詩『事物の本性について』に著した。
物の本質について
http://blog.livedoor.jp/nina313/archives/52196659.html
ルクレティウスにおける原子の集合論とその射程 Tutrone, "Between Atoms and Humours"
http://d.hatena.ne.jp/nikubeta/20121101/p1
エピクロスの宇宙論を詩の形式で解説。説明の付かない自然現象を見て恐怖を感じ、そこに神々の干渉を見ることから人間の不幸が始まったと論じ、死によってすべては消滅するとの立場から、死後の罰への恐怖から人間を解き放とうとした。6巻7400行からなる六歩格詩『事物の本性について(英語版)』(ラテン語: De rerum natura)を著して唯物論的自然哲学と無神論を説いた。
影響
ルクレティウスの著作は長い間知られていなかった。1417年にイタリアの人文主義者ポッジョ・ブラッチョリーニ(Poggio Bracciolini)によって、ドイツの修道院で『事物の本性について』の写本が再発見された[1]。同書はルネサンス期の思想に大きな影響を与え、原子論が発展する原動力となった。
ルクレティウス入門
http://origine-mundi.xyz/lucretius-for-beginners/
『物の本質について』(樋口勝彦訳、岩波文庫)
『万物の根源/世界の起源を求めて』(塚谷肇訳、近代文藝社)
『事物の本性について』(世界古典文学全集21、藤沢令夫・岩田義一共訳、筑摩書房)
ウェルギリウス『アエネーイス』と併収
世界の名著一覧見てたら第一巻がインド思想(優遇?)で、 ヴァーツァーヤナ「論証学入門」(服部正明訳) マーダヴァ「ジャイナ教綱要」(宇野惇訳)
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