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読めないニックネーム(再開版)

世の中の不正に憤る私が、善良かもしれない皆様に、有益な情報をお届けします。単に自分が備忘録代わりに使う場合も御座いますが、何卒、ご容赦下さいませ。閲覧多謝。https://twitter.com/kitsuchitsuchi

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菊池 ‏@kikuchi_8  唯識はユングとフロイトよりはるか格上。思想や哲学は世界をどう解釈するかという「世界観モデル」に過ぎない 

国際秘密力研究
kokuhiken.exblog.jp
珍しくブログもやっている。


ずっといい忘れてたんだけどさ、私は思想の比較研究がすきなのであって、陰謀論も思想の一種として趣味で研究してるんだ。
支配層って思想系の資料は特に改竄やらかすしプロパガンダやらかすから迷惑なんだ。
だから支配層叩きもやっているわけよ。
嘘から本当を見つける作業さ。本ブログみても資料集的側面が強いでしょ?

時代が進むごとに、だんだん東洋と中東思想っぽくなるのが西洋思想。
そして自分らは最先端だと言い張る。 東洋中東を取り入れて改悪しただけなのにね。
異端審問性癖とか「信じるか信じないかの二択の善悪二元論」はまったく改善されないし、
実体思想は絶対そのままだし。
善悪の調和をニューエイジ系は言ったりするけど、
善悪の調和に貢献する無記(善悪二元論から逃れる方法の一つ)に対しては異端審問を食らわせてくるから口だけだな。
善悪の調和の元ネタはストア派ね。
グノーシスだと善悪二元論で調和はありえないからね。
でもニューエイジはグノーシス(物質=悪。霊魂=善)も取り入れている。
無記や不語怪力乱神に対してはグノーシス流の「信じるか信じないか断言しろ!」善悪二元論食らわせて来るから悪質。

結局オリエンタリズム。
西洋の最先端思想=古代中東東洋思想を科学的ヤソ的に改造しただけ。 最先端どころか周回遅れ。
工作員っぽいユングの思想って、阿頼耶識縁起の劣化です。 仏教は無意識の研究どころか、阿頼耶識という潜在意識を浄化して悪影響を取り除く技術まで瑜伽行唯識学派が4~5世紀に開発ずみ。
西洋のいう進化や進歩って悪化と劣化の間違いでは?

菊池 ‏@kikuchi_8 2015年5月8日
オカルトと陰謀論のセット売り現象について議論していたのが、いつの間にか霊現象の有無について議論している事になっている怪。

閉店です ‏@lakudagoya 2015年5月8日
@kikuchi_8 いつもこのパターンです。でも、デリケートな問題ではあるようです。

菊池 ‏@kikuchi_8 2015年5月8日
@lakudagoya 信仰を否定された宗教者の火病反応に近いものを感じますが。しかし、現実には私もねこたさんもオカルト現象自体を否定しているわけでもない。「無記」とお互い言っていただけなわけですよね。それがいつの間にかあのような大炎上になっていて驚きました。

閉店です ‏@lakudagoya 2015年5月8日

@kikuchi_8 うーん、このあたりの事は何故かうまく伝わらないんですね。なので陰謀論とオカルトのセット売りと、オカルトの実在については両論併記か別に話す必要があると思ってます。別に二枚舌ではなくて、うまく説得するにはどうしたらいいか?といつも悩みますね。


菊池 ‏@kikuchi_8 2015年5月8日

@lakudagoya スピと陰謀論は野球とサッカーみたいにジャンルが違うとはっきりおっしゃっているわけですよね。野球もゴルフも趣味だという人は別に二枚舌という訳ではないです。しかし野球のルールをゴルフに適用することはカテゴリーミステイクと。そういうご趣旨と承っているのですが。

閉店です ‏@lakudagoya 2015年5月8日

@kikuchi_8 自分は非魔導師の魔道師研究家なので、ホロスコープやゲマトリアがどのくらい効果があるのかは不明なんですが、そういう力が支配力の源泉になってるかもですね。この場合は、不可視な力を用いてと、それを人を騙す宗教詐欺の道具に使っての2パターンあるのでは?と思いますが。

菊池 ‏@kikuchi_8 2015年5月8日

@lakudagoya そう思います。魔術という意味でのオカルトは現実に使用されていると思います。タヴィストックの洗脳科学とかはまさにそうで。「自己の意志を強制し人や自然を操作する技術」とクロウリーあたりが魔術を定義してたようですが、これは近代科学の定義にも当てはまりそうです。

閉店です ‏@lakudagoya 2015年5月8日

@kikuchi_8 私はですね、魔術に関してもできるだけ当たり前に説明したいんですよね。潜在意識が現実を規定してるというものがあれば、いじめとかで自閉気味になってる事で人とうまくコミュニケーション取れなかったりする問題がありますよね。仏教ではそれを阿頼耶識と言いますが

菊池 ‏@kikuchi_8 2015年5月8日

@lakudagoya 魔術を一つの現実的な技術として定義されるお考えは魅力的だと思います。私も唯識は興味あります。人間の思考や行為の積み重ねが、潜在意識のあり方を規定し人格を形成していく、という阿頼耶識縁起の考え方ですね。これはよく考えるとごく当たり前のことなんですよね。

閉店です ‏@lakudagoya 2015年5月8日

@kikuchi_8 私は、スピ系のオカルトを超常現象のように扱う姿勢はどうも苦手なんです。たとえば否定しかされなかった人は自分に自信がない。自信がないから何をやってもうまく行かないみたいな当たり前の話なんですよ。なのでそれを変えるには潜在意識と行動を変えるしか。当たり前の事です

菊池 ‏@kikuchi_8 2015年5月8日

@lakudagoya それはまさに「現行熏種子 種子生現行」という阿頼耶識縁起そのものですね。表層意識でなされる行動の影響が潜在意識に影響を与え、そこに蓄えられた影響力の残滓がある機縁を得て表層意識に上り具体的な行為として現象する。それがまた潜在意識に・・。という循環です。

閉店です ‏@lakudagoya 2015年5月8日

@kikuchi_8 魔術ってですね、そういう仏教で言われた当たり前の法則を「認識」して現実を操る「認識(グノーシス)」の技なんですよね。まあこういうところは自然科学に対する人文科学のようなところがありますけどね、スピ系の言う大きな事じゃないと思う。こういう姿勢が嫌われます(笑)

菊池 ‏@kikuchi_8 2015年5月8日

@lakudagoya 唯識も古代の深層心理学だと思います。性的抑圧で一元的に説明する感じのフロイトや集合無意識という形而上学を立てるユングよりも、より現実に即した理論だと私は思います。魔術も要するにそういう現実に即した近代以前からある経験科学という解釈ですね。納得できます。

閉店です ‏@lakudagoya 2015年5月8日

@kikuchi_8 阿頼耶識や倶舎論ですっけ?そっちのほうがユングやフロイトよりも現実に即してますね。オカルトと切り捨てられるものは大抵経験科学なんですが、一応道教呪術でも何でもそうなんですけど、法則性というものを重視しますよね?スピ系はこのあたりの緻密な法則性無視しますしね。

菊池 ‏@kikuchi_8 2015年5月8日

@lakudagoya 私はそう思っています。阿頼耶識は無記性で、善でも悪でもないという規定は現実的に思います。深層心理に心的実在が宿っているという話でもないです。それなりに経験的に確かめられた限りでの事が理論化されている趣です。法則性より超常性に拘る方が多いのでしょうか?

閉店です ‏@lakudagoya 2015年5月8日

@kikuchi_8 経験則で確かめられた話で仏教などでは既に理論化されてますけど、それが言葉ではなく、体験でしかわからない真理!とか迫ってくるのが苦手なだけで。超常性にこだわる方で私の事を霊的な事体験してないからと見下してくる人は、とても多いですね。量産型イエスキリストさんとか

菊池 ‏@kikuchi_8 2015年5月8日

@lakudagoyaなるほど。経験はそれなりに言語化しないと人には伝わらないですからね。「歩く」という現象は実際に歩いてみないと分からないにしても、「私は歩く」という表現は普通に通用します。超常性に拘ると、なにがしかの選民意識に囚われがちと思うのは私の偏見でしょうか。

菊池 ‏@kikuchi_8 2016年5月

初期仏教の研究者(仏教の思想第2巻存在の分析より)によると我が国では江戸時代までは仏教の宗派を問わず学僧達が倶舎論や唯識学を「性相学」として学んでいたとの事。仏教の基礎学として哲学的なアビダルマ=論が学ばれていた。往生要集で有名な源信は一面では倶舎論研究の学者だったそうである。

しかし、明治以後は仏教宗派を問わず性相学を学ぶという伝統は廃れてしまったそうだ。ここにも憑依型戦術に侵入された原因の一つを見る。江戸時代までは学僧達が初期仏教や初期大乗の基礎学を修める事で異質な要素の流入を防いでいたが、明治以後はその枠が無くなり神智学などに侵入される隙を生んだ。

「桃栗三年柿八年」にかけて論蔵習得の難しさを例えて「唯識三年倶舎八年」と言われる。こういう格言がある事自体、日本ではアビダルマがしっかり学ばれていた事を物語っている。こういうよき伝統はやはり明治で廃れてしまっている。仏耶一元論や神智学化など、この伝統があれば防止できたはずである。

倶舎論と唯識学を習得したほどの学僧ならば、仏耶一元論や神智学など鼻で笑うはずである。鈴木正三などが切支丹に対したように、徹底的に論破した上で日本の伝統思想を換骨奪胎して西洋化する思想攻勢を完全に防ぎ得たはずである。こういう知的武装が解除されてしまったが故に、侵攻を許したと考える。

唯識では、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識という「心王」(しんのう)と、
貪瞋癡など煩悩の心所や無貪無瞋無癡の善の心所など「心所」(しんじょ)
の組み合わせで心=識の構造を説明する。心王とは心の要素の中心。心所とは心王に付随する心作用である。心王と心所が相応する。

唯識の心王心所論の原型は部派仏教の説一切有部の心・心所論だと思われる。
説一切有部を批判する事で中観派の空の哲学が完成し、空を踏まえた上で、説一切有部のアビダルマを再構成したものが唯識である。唯識とはいわば大乗のアビダルマである。アビダルマとは経・律・論の三蔵の中の論の事である。

唯識は最初ちんぷんかんぷんでよく分からなかったが、興福寺僧侶が書いた「唯識 こころの哲学―唯識三十頌を読む」という解説書を読んだら概要がつかめてきた。興味があられる方がおられたらお勧めする。心理や洗脳の分析はフロイトやユング(彼ら自体が罠だから)ではなく唯識を応用して分析したい。

唯識とフロイトでは、深層心理に対する捉え方が異なる。フロイトは表層意識と対立す深層心理はドロドロした動物的衝動が渦巻く領域という捉え方だと思うが、唯識では、深層心理は表層意識のあり方次第で善にも悪にもなり、深層心理自体は価値的に無記だと見る。唯識の捉え方の方が合理的だと感じる。

フロイトはタヴィストック理論に多大な影響を与え、ユングはグノーシスや錬金術など秘密結社と密接な理論なので、彼らの理論自体が国際秘密力の思想ツールと言える。従って秘密力の心理戦術や洗脳工作を分析する場合には彼らの理論をも俯瞰して見ないといけない。だから日本に根付いた唯識理論を使う。

「なんでこやつは唯識の話ばかりしているのだ?」と疑問に思われた方もいるかもしれないが、唯識の理論をよく使っているのは今述べた理由による。フロイトやユングに対抗しうる日本及び東洋の知的遺産を「破国際秘密力」に応用したいという意図である。この古代心理学は現代でも通用すると考えている。

それそのものが国際秘密力の思想ツールであるフロイトやユングを相対化し、日本人として自前の立脚地に基づいて彼らの心理戦術を分析する場合、唯識理論は極めて貴重な「視点」「枠組み」「武器」となると考える。唯識は奈良時代から日本に根付く伝統なのである。活用させて頂かない手はない。

前にも何度も書いているが思想や哲学は世界をどう解釈するかという「世界観モデル」に過ぎないと考えている。世界を分析する為の「枠組み」である。したがって、特定の思想哲学を絶対化する事は危ない。唯識もそういう態度で活用している。何より唯識自身がそういう態度なのである。そこがよいと思う。

つまり、フロイトやユングなど国際秘密力系の心理理論を相対化する為に唯識の視点・枠組みを活用するという事である。

菊池 ‏@kikuchi_8 2015年3月26日

@aliceizer ユングは興味深いですね。心とは、集合無意識という共通の場と自我という固有の領域の二つから成る、というお考えでしょうか?私はそれとは違って、「自己」というあり方そのものが間主体的に形成されており、それが同時に固有のものである、と考えています。

菊池 ‏@kikuchi_8 2016年4月9日
易経は「占いの書」と「義理の書」(哲学の書)という二つの側面がある。義理の書として易経が説く人生哲学は「謙虚」に集約されると思う。驕るとろくなことがないという「真理」は古代も今も変わらないのだろう。慎みを宝とした老子や我執を戒める仏教など年月に耐えてきた思想は大体同じことを言う。
易経の説く所では、四季の様に事物には勢いが伸びる時節と縮む時節があり、要するにバイオリズムだが、事物の循環の中でその時その場で適正な行動を選択する「中庸」が重要であるとする。勢いが伸びても驕らず縮んでも落ち込み過ぎない、中正の態度である。直線的な時間観の終末思想とはかなり異なる。

西洋の終末思想では、「世界の終わりが来て救世主が降臨して最終戦争が起きて」という断定的に空想を語るのが特徴だが、易経では「予言」というより、人生や歴史の経験則を「大体こうすれば大過はないのでは?」と人間の身の処し方を諭す形である。前者は宿命論だが、後者は「生き方指南」の趣である。

仏陀が「世界は有限か無限か」など答えの出ない形而上学的問いを「苦の克服」という実践には役に立たない命題として避けた態度を「無記」と言う。妙な終末論やオカルトが陰謀追及者を惑わし「援兵化」する道具になっているが、現実的な命題を中心とする「無記」の態度は誘導防衛策としても適切である。
易経のよい所も、空想的予言を語るのではなくあくまで歴史や人生の経験則に則って生き方の指針を示す所である。陰陽思想も元々は自然の観察から得られた一つの世界観モデルに過ぎない。自然界で四季が循環する様に人事もまたしかり、という解釈である。東洋の古典は現実的であまり飛躍が無い所が良い。

中尾 綾 ‏@ayajet128 2016年4月9日
@kikuchi_8 ユングも易に興味をもってましたね。

菊池 ‏@kikuchi_8 2016年4月9日

@ayajet128 そうですね。ユングは禅や道教など東洋思想にも興味を持っていたようです。でも、正しく解釈していたとは思えませんが。

中尾 綾 ‏@ayajet128 2016年4月9日

@kikuchi_8 ユングはノーベル物理学賞を受賞したヴォルフガング・パウリと共同研究し、同期性と非因果的な連結の原理という論文を。ユング研究所から共著、自然現象と心の構造を刊行。ヘルマン・ヘッセ、ライプニッツも易を高く評価しています。

菊池 ‏@kikuchi_8 2016年4月9日

@ayajet128 ご教示ありがとうございますm(_ _)mライプニッツが易の影響を受けたというのは何かで読んだ記憶があります。量子論の理論物理学者であるニールス・ボーアが易経や老荘思想に傾倒していたようです。







菊池 ‏@kikuchi_8 2016年4月10日

@take35c @ayajet128 ご教示感謝ですm(_ _)m初期仏教が説く生住滅の三相ですね。確かにコンピュータ科学の基礎になった2進法は陰爻と陽爻で万象を表す易経の世界観と似ていると思います。古代の東洋思想ほど、最先端科学が導き出した世界観と似ているという不思議ですね。

(似ているのでなく真似ただけ。
最先端科学=西洋発。
東洋と中東思想の西洋への流入量が増えるにしたがってそれを反映した科学技術が生まれただけ)

竹田 ‏@take35c 2016年4月11日

@kikuchi_8 @ayajet128 全くもってご理解の通りです。
一切はあっという間に滅して、変化している→「一切行無常」。
全ては滅して変化しているので、変わらぬ自分など無い→「一切法無我」。
それが解らず執着したり、身体や意識を自分と思う事で苦の連鎖に→「一切皆苦」。
解らない人のために少し補足すると、刹那滅であるから一切行無常。全てはあっという間に生滅して変化している。 なので一貫して観察する主体などあり得ない。 ところが仏教ではその一貫した主体を「我」としている、故に一切法無我。
菊池 ‏@kikuchi_8 2016年4月12日

@take35c @ayajet128 その通りですね。もし変化しない実体としての「我」があるとすると、「観察」という時間的幅を持った働きは一連の変化の過程なので不可能になります。例えば、甲という事物の一瞬を捉えた視覚Aが永遠に不変であれば、甲の変化する動きを捉えられません。

政志@綺麗な声に憧れる← ‏@nioumasashi 11 分11 分前

@take35c @kitsuchitsuchi @kikuchi_8 @ayajet128 直リンはしないでおきますh ttps://twitter.com/ryomashiro/status/640472463923503105





菊池 ‏@kikuchi_8 2016年5月21日

西洋キリスト教社会では、人と動物の関係に関して二つの見方があるように思う。一つは「人は動物より一段高い」とする見方である。もう一つは「人など所詮動物に過ぎない」という見方である。これは実はどちらも動物蔑視観に基づいている。動物を蔑視した上で人を上にするか否なの違いに過ぎないのだ。

キリスト教では人間は動物より一段高いという前提がある。反対のフロイト思想等は「生物学主義」と言われ、人間を動物と同じ次元に引き下げると批判される。生物学主義は人間など所詮動物だとする。正反対に見えるが、実はどちらも動物蔑視観が前提である。日本人は人も動物も等しく尊いと考える。

フランシス・フクヤマが東洋人は人を動物と同じと考えていると批判していたと記憶している。西洋では「動物は下等」という前提があるので人を動物と同一視したら人を卑しめる事になるのかもしれないが、東洋では人も動物も等しく生命であり尊いとするので「人と動物は同じ」と言っても意味が全く違う。

まとめると、西洋の「人間と動物は同じ」は、「動物は下等」という前提のもと、人間をそこに「引き下げる」というニュアンスであるが、東洋の「人間と動物は同じ」は、「人間も動物も等しく尊い」というニュアンスなのである。前提の違いを無視するととんでもない曲解をしてしまう事になる。

菊池 ‏@kikuchi_8 2015年1月6日
スッタニパータ1035【 師は答えた、「アジタよ。世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、気をつけることである。(気をつけることが)煩悩の流れを防ぎまもるものでのである、とわたしは説く。その流れは智慧によって塞がれるであろう。」】←洗脳防止の指針にもなりうる名句かと。

「 ブッダのことば スッタニパータ」中村元訳(岩波文庫)から引用。碩学・中村元先生のわかりやすい名訳。定番である。一読をお勧めする次第である。


菊池 ‏@kikuchi_8 2月17日
参考。唯識は現在でも十分活用できる考察が多い。個人的にはフロイトやユングなどより参考になった。https://twitter.com/kikuchi_8/status/828258668852371456 …
菊池‏@kikuchi_8 2月5日
唯識が言う対象を識別した際の意識の展開過程
①卒爾心(そつにしん)対象に気づく漠然とした認識)
②尋求心(じんぐしん)「これは何だろう?」と推求する心
③決定心(けつじょうしん)「これは〇〇だ」と判断する心
④染浄心(ぜんじょうしん)対象に執着する心➄等流心(とうるしん)執着心の持続。

菊池 ‏@kikuchi_8 2月
対象認識の発生プロセスを唯識の用語を借りて分析①卒爾心(対象に気づく)②尋求心(「これはなんだろう?」と対象を推求)③決定心(対象について「これは〇〇だ」と判断)④染浄心(対象に愛着や嫌悪が発生)➄等流心(染浄心の継続)
〇「気を付ける」はできれば①~③で行う。④からは誘導の領域。

言葉は強力である。ある言葉を繰り返し刷込まれるとその言葉が示す概念が実在する様な感覚になる(宗教や形而上学)。我々が認識している「世界」も自分で知覚して確かめたものは少なくて(特に国際政治)、大半が誰かが与える情報によって構築されている。だから情報をしっかり吟味する事が不可欠だ。

「意志を強制して対象を操り支配する」というのが「魔術」の本質だが、その定義からすると情報操作や洗脳宣伝、思想工作などはまさに「魔術」そのものだと言える。これらは人間の概念的思考に働きかける。情報も思想も言葉≒概念の塊なので「魔術」を破るには言葉の性質を見破るのが近道だと考える。

言葉の性質の一つが何度か述べている「名と義の相互客塵性(言葉の表記とそれが示す概念・事物の結びつきは本来必然的ではない)」。ある事物をある名称で呼ぶのは社会的な慣習・約束事に基づく。だが、繰り返し使用している内に必然だと思えてくる。西洋のロゴス中心主義はここから来る。魔術の源泉。

ある事物をある名称で呼ぶと実質が無いのにその名称通りの性質があるように思えてきたり(「安倍は愛国保守」等)、証拠もないのに何かの存在を名辞で示すとそれが実在と思えてくる(造物主概念やイデア論など)。ある意味言葉は人間の心理的環境を作り出す力がある。だから魔術師は言葉≒概念を操る。

対「洗脳」「魔術」対策で着目すべき言葉≒概念の性質は主に二つあると思う。
①仮構作用。仮構とは言葉によって事物存在を認識の中に立ち上がらせる作用である。「丸いざらざらしたそれ」を「りんご」として立ち上がらせるなど。知覚が伴わない概念的存在は言葉とイメージ(表象)のみで立ち上がる。

②執着の対象。知覚的存在にしろ概念的存在にしろ、概念によって「それ」として認識された対象は苦(不快)・楽(快)・不苦不楽(どちらでもない)いずれかの値を帯びる。苦は引き離し、楽は引き寄せる。この時点で行動が促される。まとめると言葉の魔術は①対象ひいては環境を作り出し②行動を操る。

言葉の二つの性質①事物存在を認識の中に立ち上げる②認識者の行動を促す。かかる性質を持つ言葉=ロゴスを操作する事で魔術師は人の「(心理的な)環境」を作り人の「行動」を促し操作する。言葉の性質を悪用した技術である。よって対処法は言葉の性質を見破り言葉の魔術を無効化する事と結論できる。

唯識で言う「遍計所執性」とは概念の仮構作用によって立ち上がった事物存在に執着している心理状態を示す。つまり言葉の魔術に嵌められている状態である。「遍計所執性」を破り言葉の魔術に惑わされなくなった心理状態を「円成実性」と名付けた。唯識はある意味「魔術の破り方」そのものだと言える。

吾人が唯識を頻繁に活用しているのは魔術を破る為のヒントがあると見ているからである。国際秘密力は「意志を強制する技術=魔術」を駆使して世界を支配しようとする。印度で1500年以上前に生まれ、日本では1300年以上の歴史を持つ「唯識」という学問は「魔術を解除する方法」としても読める。

一神教や神秘主義などに憑依されていない伝統的学問を活用して魔術を破る。これぞ「破国際秘密力」の醍醐味であると思う。唯識は日本の伝統的学問の中でも極めて論理性が高い。陳那(ディグナーガ)などの論理学を伴うので当然と言えば当然であるが。論理性の高さ故どうしても活用する頻度が高くなる。

とはいえ、唯識を金科玉条にしては元も子もない。どのようなものであれ、あくまで「学問として活用する」「参考程度」という姿勢が大切だと考える。何分1500年以上前のものなので不合理な点も無きにしも非ずである。活用できる部分を活用すべきであろう。思考し活用するのは常に自分自身である。





閉店です ‏@lakudagoya 2017年2月19日
菊池氏のRTにエアリプ。

おばちゃん、それ古典的な記憶術やで。ローマ時代からあるやつ。

4福音書を12宮に関連付けて覚えた強者の話とか。
記憶術って便利やで。
本は一度読めば大抵どの本に何が書いてあったか思い出せる。
商品の棚に置いてあるものも大抵記憶できるから、買い物の無駄足が無くて良いな。
後はインプットに少し時間かかるけど、図書館や大型書店の本棚にどこにあるのか覚えたり。
でも日常のは忘れる。
知識は記憶術を駆使すれば、世界で一番軽い資産になるわけ。
金塊は重くて持ち運べないけど知識や智慧は空気よりも軽いからね。
ほーしゃのー等で脳みそのハードディスクがやられない限り。
あと、記憶術便利なのは一度読めば記憶できるから、本を借りて済ますことができる所かな?
遊牧民が知識や智慧を重んじるのは、持ち運べる中で一番軽い資産だから。
今のようにトラックがあるわけじゃないから、遊牧民は家畜かアクセサリーか知識か智慧くらいしか資産を持てない。
それだから、あまり持っててもしょうがないので溜め込む事があまりないから金離れが良い。

記憶術は古代の哲学者が使ってた通常能力です。
書物文化のあるギリシャ・ローマでも本を丸ごと覚えたりするの普通なのに、書物を使わないケルトとかどうやってたんだろ?
賛歌や詩の文化は文字を持たない地域の記憶術でもあるよ。
ほれヴェーダ宗教。




菊池 ‏@kikuchi_8
西洋思想には「観念論VS唯物論」という両建構造がある。これを「火がついたロウソク」の喩えで「破両建」する。観念論とは「ロウソクがなくても火が単独で燃える」という説である。唯物論は「火はロウソクだ(火は無でロウソクに還元される)」という説である。どちらも不合理である事が分かる。

「火がついたロウソク」の喩えでは火を「精神」に、ロウソクを「身体」「物質」にそれぞれ喩えた。龍樹が「アートマンと心身の不一不異」を論証する為に中論で使った有名な比喩を借りたのである。

「火がロウソク抜きで単独で燃える」とするのは不合理だが、「火は非実在でロウソクは実在なので、火は全てロウソクに還元される」というのも不合理だ。ロウソクに依って火はあるが、だからといって「火はロウソクだ」と還元する事はできない。火とロウソクは同じでも異なるでもない。不一不異である。

「心身と自己」の関係も「火とロウソク」の関係と同様に不一不異である。心身の諸要素を離れて「自己」はないが「自己」は心身の諸要素に還元し尽くされる訳でもない。「音とメロディー」の関係と同じである。個々の「音」を離れて「メロディー」はないが、個々の「音」が「メロディー」なのではない。


たまたま読んだ某印度哲学者の見解があまりに変だと思ったから唐突にこの様な事を書いた。「心身とは別の常住不変のアートマンがある」という見解。証明しようもないが、不合理さは明らかである。「不変」だから心身の動きとは全く無関係で何をしようと影響がないので「努力」などは全く無意味となる。


「無我論」は「自己は無い」論ではなく「実体=自性としての自己は無い」論であり「他に依って(無自性なものとして)自己はある」論と言える。端的に「自己は無い」ではなく「依存関係によって自己はある」と言っている。「常住不変のアートマン」を設定する印度哲学よりこっちの方が合理的だと思う。


印度哲学は国際秘密力研究的にも重要なのでたまに調べるが、印度哲学・仏教哲学クラスタの人々は「アートマンの有無」という形而上学的命題を紀元前さながらに論じている。あまり意味があるとは思えない。定義次第である。「不変」という定義をするなら、あってもなくても全く無意味な概念と言える。

「不変の自己=アートマン」という概念が無意味である事は先に述べた通りである。文字通り「不変」であるなら「自己変革」「自己の向上」という「変化」はありえないので「努力」とか「修行」は全く無意味となるからである。かといって自己=無でもない。変化しつつ持続する。それが「自己」である。


「他に依ってある自己」は「変化しつつ持続する」ので「常住」でも「断滅」でもない。
よって常住論でも虚無論でもない。
そういった両極端を排するのが「中道」である。それはまた現実の観察から得られるので、
仮定と想像に基づく無意味な形而上学的思索=戯論を排する無記の立場でもある。


印度哲学を調べていると、印度哲学や仏教哲学の愛好家達が己の形而上学的見解に固執して無意味な争いをしているのが目に入り、うんざりする事がしばしばである。「ブッダはアートマンを説いたか」などどうでもいい話である。ブッダが説こうと説くまいと「不変のアートマン」は論理矛盾に陥るのだから。

正統印度哲学者など「常住不変のアートマン」に固執する立場からの「無我」説批判は「無我=自己は無い=虚無論」と曲解して藁人形論法の方式で非難する場合が殆ど
である。「無我」とは「自己に常住不変の実体はない→依存関係によって自己はある」という意味なので完全にこの批判は的外れだと言える。


「無我」とは「変化する現象として自己はある」の意味。
端的に「自己は無い」と言っているのではない。
「空」も同様である。「依存関係に基づいて生起する現象としてある」から「空」なのであって「無」ではない。
「空」であるものは「ある」のである。虚無論でも常住論でもない。だから「中道」。



「自己」とは「実体」ではなく一種の「ゲシュタルト」だと考える事も出来る。「自己」は心身の様々な要素(「五蘊」などと言う)に依存して存在するが、個々の心身の要素がそのまま「自己」なのではない。要素に依存して成立するが、要素そのものでもない。「音」に対する「メロディー」と同様である。

要素に依存して成立するゲシュタルトは個々の要素そのものではないが、個々の要素を離れてあるのでもない。
誰が歌っても同じ「桃太郎唱歌」(プロフィール写真にちなむ)であるが、個々の歌い手の「声」「音」は違う。個々の「声」「音」を離れて「唱歌」があるのでもない。要素と全体は相互依存関係


「アートマンという常住不変の実体がないと認識作用も宙に浮いてしまう」とあるインド哲学者が書いていたがそうではないと思う。抽象的に考えるからそういう結論に陥る。認識作用は抽象的ではなく常に具体的なものである。例えば「見る」作用は常に「具体的な何か」を見ている。「見る」一般は無い。

注記。「アートマン観念が無いと認識作用が宙に浮く」とは「Aさんのアートマン」「Bさんのアートマン」がないとある認識作用がAさんのものなのかBさんのものなのかが区別できないという意味である。印度六派哲学の立場に立つ某印度哲学者の所論である。

「アートマン(常住不変な「私」)がないと誰の認識作用か分からなくなる」という事は無い。認識作用の個別具体性を規定するのは抽象的な「私」ではなく認識が行なわれる「場」である身体が置かれた空間的配置である。空間的配置こそが「個」を規定する、と思う。そこに「私」という名称を与えるのだ。

逆に人から個別具体的な属性や作用、性質を全てはぎ取った末に残る「アートマン(私)」は何の特徴も持っていない無色透明で没個性な抽象的存在(「存在」と言えるのかすら疑問)なので、逆にこのアートマン概念を以てしては自他の区別ができなくなる。近代的な「個人」や「自我」の観念にも通じる。


ここで言っているのは一般的に使われる「個性」「個性的」とかの話ではなく、もっと原理的な話です。「個人」「自己」とはどのような条件で存在しているのか?という。人間は抽象的存在ではありえない。必ずある時間のある空間に配置されている。

どんなに「無個性」と言われる人間でも「個別具体性=個性」はどこまでも付きまとう。まず、人は特定の親から生まれ、特定の環境で育ち、ある時間にある空間を占めつつ存在する。この具体的条件を置いて「個人」は存在しえない。ここで論じたのはそういう個人存在が持つ不可避の構造についてである。
「あいつは個性的だ」「個性的でなければいけない」「没個性な人だ」等々の一般的な価値判断の話ではない。「自己」とか「個人」そのものの存立構造の話である。言葉の定義やニュアンスは「名と義の相互客塵性(能記と所記の結合の恣意性)」の為に様々な解釈が可。よって定義のすり合わせが不可欠。


前出印度哲学者は龍樹ら仏教哲学者は「認識主体は無い」と主張したとして批判していたが「認識対象と認識主体の相互依存性」を説いたのであって端的に「認識主体は無い」と言ったのではないだろう。「行為」と「行為者」も同じ。行為と行為者はそれぞれ実体としてあるのではなく相互依存的に成立する。

六派哲学(ヴァイシェーシカなど)の様な実体論に固執すると「存在は実体としてある」と頑なに信じるようになる為か「依存関係による生起=縁起」が見えなくなるので、長年印度哲学を探求してきたような人こそかえって不合理な結論に陥る場合があるようだ。印度哲学クラスタを観察して得た感想である。

「認識作用が属する常住不変の自己がなければ、ある認識作用が誰のものか区別がなくなる」はない。逆にあらゆる性質や属性を捨象した「自己」ではかえって自他の区別ができない。認識作用が誰に属するかを規定するのは、その認識作用が機能する「場」である心身が置かれた空間的時間的配置だと考える。

ある「個人」から具体的な行為、性質、属性等々を全てはぎ取っても残る「自己」とは無色透明なそれこそ無個性な「存在」?である。これでは自他の区別すらつかない。その人が生きてきた環境や履歴を離れて「個性」はない、と言える。抽象的な「自己」「個人」とは実は「個性」とは真逆の概念である。

印度六派哲学の一つヴァイシェーシカ派(勝論派)は「合理主義的実在論」とされる。しかし実体を想定する実在論は「合理的」である事は難しい。何故なら変化する現象と実体の概念は矛盾するからだ。だから実体観を維持しつつ整合性を保とうとすると現象と実在の二元論(二世界論)にならざるを得ない。
「不変の実体」という概念と現実に観察される変化する現象の整合性を取ろうとすると必然的に「実在界」と「現象界」を二分する二世界論になる。「イデア界」を設定したプラトンが典型である。
部派仏教の説一切有部も無常な現象と実体としての「ダルマ」(それ以上分割不能な存在の構成要素)を分けた。

実体論を徹底すると二世界論になるし合理的であろうとすれば無実体論に落ち着く。ヴァイシェーシカ派が実体論に固執しつつも二世界論になっていないのは思考の不徹底さ故だと言える。しかし、それがまた西洋哲学のプラトニズム的伝統とは違った印度哲学の健全な現実感覚をも表しているのかもしれない。

菊池 ‏@kikuchi_8 2月14日
「『認識主体』を認識しようとすると『認識対象』になってしまい『認識主体』を認識する事はできない」と書いた。
所謂無限後退である。これは「認識するもの・認識されるもの」で構成される認識の構造から来る必然。「認識主体」と「認識対象」は常に相対しているので前者が後者になる事はできない。

この事を踏まえた上で神秘主義を分析する。新プラトン主義では「一者」という実在を対象として立てる。そこに認識主体たる自己が合一するという考えだ。これが何故「神秘主義」とされるのか。「認識主体が認識対象になる事はできない」以上「合一」は「神秘」と説明するしかない。要するに「逃げ」だ。

物事を論理的合理的に思考した上で、その限界を見極め沈黙する事と、最初から論理をすっ飛ばして適当なドグマを作って「神秘」と言い張るのでは全く意味が異なる。理性や論理の限界を弁える者は「無記」「沈黙」にはなるが、「神秘主義」にはならない。主義=イズムとは何らかの独断を意味するからだ。

新プラトン主義(西洋神秘主義の原型)は「一者が存在する」という独断と「一者から世界が流出した」という独断と「我が一者と合一する」という独断から構成される。これは理性を限界まで駆使して見極めた、という類のものではない。沈黙とは逆で言葉で明確にドグマを立てているからである。
つまり、新プラトン主義を原型とする西洋神秘主義では、言葉で明確にドグマを説きながら、その非論理性を誤魔化す為に「神秘」を持ち出しているに過ぎないのである。「非合理故に我信ず」の類である。中途半端に言葉を用いて「神秘」を語るくらいなら、最初から何も語らない方が誠実であると言えよう。

菊池 ‏@kikuchi_8 2月13日

自明視されている「精神と物質」というカテゴリーも歴史のある時点で制作されたものかもしれない。古代日本では「モノ」という言葉で精神も物体も表した。仏教で言う「色」とは「いろ・形」の事で視覚という感覚との関連で物質が捉えられている。精神と物質の境界が西洋のカテゴリより曖昧である。

「精神と物質」を巡る様々な主張も収拾がつかない形而上学的命題の一つである。人の経験世界(知覚し認識する世界)の中で視覚や触覚の作用に「物質」という名称を与えた外部化し、それに対する認識主観の側を「精神」とした、という機制かもしれない。思う程「精神」と「物質」の境界は明確ではない。

菊池 ‏@kikuchi_8 2015年1月6日

@ayajet128 @kitsuchitsuchi なるほど。フランクフルト学派のアドルノの理論がタヴィストック研究所の洗脳科学に大きな影響を与えたそうですね。フロイトがドラック本を書いているのですね。深層心理について研究したフロイトの心理学も洗脳科学の基盤の一つのようです。

中尾 綾 ‏@ayajet128 2015年1月6日

@kikuchi_8 フロイトは1884年、コカについてという有名な論文を書いてました。マリファナじゃないです。コカがインディオの労働に欠かせないものとして使われていることや実験した結果、発見なども記してます。フロイトはアインシュタインと文通してましたね。養老孟司が翻訳してます。

中尾 綾 ‏@ayajet128 2015年1月6日

@kikuchi_8 フロイトは1884年、コカについてという有名な論文を書いてました。マリファナじゃないです。コカがインディオの労働に欠かせないものとして使われていることや実験した結果、発見なども記してます。フロイトはアインシュタインと文通してましたね。養老孟司が翻訳してます。

菊池 ‏@kikuchi_8 2015年1月6日

@ayajet128 ご教示ありがとうございます。中南米系の麻薬ですね。「アヤワスカ」という植物を神秘主義の実践に用いている人たちがおりますね。インディオがコカを傷口に塗って痛みを緩和させていたという話を読んだことがあります。猶太系の科学者同士で繋がりがあったのですね。>文通

中尾 綾 ‏@ayajet128 2015年1月6日

@kikuchi_8 イエズス会についての社会学的研究はロヨラによって定められた心霊修行がそれに従う人々の全ての行動におのずと与えている影響を調べること。この研究はある特定の社会の栄枯盛衰に作用を及ぼしうる諸条件を、イエズス会の構造の分析から一般的に明るみにだすことになるだろう。

菊池 ‏@kikuchi_8 2015年1月6日
@ayajet128 おお、これはまさにイエズス会の手口を現代の洗脳科学に応用しようとしたという決定的証拠になりそうですね。まさに「認知操作」の科学的研究以外の何物でもありませんね。ヴァイスハウプトもイエズス会出身でイルミナティの組織構成はイエズス会から影響を受けているそうです。

中尾 綾 ‏@ayajet128 2015年1月6日

@kikuchi_8 アドルノに関する本を借りたのがかなり昔で、今日メモしたノートを見てたらイエズス会がでてきて。自分でもびっくり。当時はイエズス会にあまり注目してなくて。

菊池 ‏@kikuchi_8 2015年1月6日

@ayajet128 なるほど。すごい発見だと思います。そうやって以前はさほど注目していなかった情報が後々繋がってきて一つの全体像が浮かび上がってくるのが陰謀研究の面白いところですね^^

中尾 綾 ‏@ayajet128 2015年1月7日

@kikuchi_8 タバコを嫌ったヒットラーは覚醒剤の愛好家だった。主治医モレル博士はビタミン剤と偽って覚醒剤の注射をしていた。1942年夏以降依存症状を見せ始める。ナチスドイツはパイロットたちに覚醒剤を支給。英国、連合国、ソ連軍も使用。フロイトはコカイン依存症だった。
トゥーレ協会から勉強した方がいいかも。

菊池 ‏@kikuchi_8 2015年1月7日

@ayajet128 ご教示ありがとうございます。ヒトラーの演説時とかの異常興奮、自己陶酔はパラノイアだからと説明されることが多いですが、薬物の効果でもあったのですね。納得です。フロイトがコカインに関する本を書いていたことを教えていただきましたが、コカイン依存症だったのですね。








子子子子子(ねここねこ)
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※本を出せる陰謀論者のブログや本や講演会は以下(最低限心理操作術と支配層の視点を学んでから)で判断基準が育つまで一切無視しないと信者化!
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19:25 - 2016年11月27日
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子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi 2016年11月27日

子子子子子(ねここねこ)さんが菊池をリツイートしました

グーラ『論理で人をだます法』
野崎昭弘『詭弁論理学』
架神恭介『完全教祖マニュアル』
マキアヴェリ『君主論』
大田俊寛『現代オカルトの根源』←@kikuchi_8様とねこたさんオススメ
https://twitter.com/kitsuchitsuchi/status/801322992584232961 …

子子子子子(ねここねこ)さんが追加
菊池 @kikuchi_8
オカルト好きの人におすすめの本がある。「現代オカルトの根源」大田俊寛著。現代のオカルトの起源が思想史的に解明されている良書。現代の各種思想・思潮というものは必ず過去を遡れば起源やネタ元がある。その辺に自覚的だとどっぷり洗脳されない耐性が身に就くと思う。思想史的な予備知識は…
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子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi 2016年11月27日

子子子子子(ねここねこ)さんが子子子子子(ねここねこ)をリツイートしました

ハフ『統計でウソをつく法』
孫子
佐藤優『神学の思考』
聖書(創世記、出エジプト、マルコ伝、黙示録)
魚川祐司『だから仏教は面白い!』
稲生平太郎『定本 何かが空を飛んでいる』
プラトン『国家』
フリース『イメージ・シンボル事典』

子子子子子(ねここねこ)さんが追加
子子子子子(ねここねこ) @kitsuchitsuchi
君主論や完全教祖マニュアル以外の良書集↓
https://twitter.com/ououdaiei/status/791890550550990848 …
https://twitter.com/ououdaiei/status/791891112382205952 …
https://twitter.com/ououdaiei/status/791892495584022528 ……
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子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi 2016年11月29日

子子子子子(ねここねこ)さんが菊池をリツイートしました

『統計でウソをつく法』
①誰がそういっているのか?出所
②どういう方法で分かったのか?調査方法
③足りないデータはないか?隠されている資料
④いっていることが違ってやしないか?問題のすりかえ
⑤意味があるかしら?どこかおかしくないか?

子子子子子(ねここねこ)さんが追加
菊池 @kikuchi_8
@kitsuchitsuchi 「詭弁論理学」はいいですね。あと、香西秀信氏の「論理病をなおす!」「レトリックと詭弁」「論より詭弁~反論理的思考のすすめ~」なども参考になりました。工作員の駆使する詭弁術の種明かし本としても活用可能だと思います。
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子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi 2016年11月29日

knznymmmy”統計でウソをつく法はおもしろいぞおー♥
全くなにひとつも不正なしに統計を出した結果を操作する実例が紹介されてたりする”

必読真偽判定術
史料批判方法
http://1st.geocities.jp/huhito80/F-M-Siryouhihan.html …
歴史学研究法
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%B3%95 …
1件の返信 8件のリツイート 4 いいね
子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi 2016年11月30日

木下是雄『理科系の作文技術』
”事実(証拠をあげて裏付けできる)と意見(判断、推論)をきっちりわけろ
事実を述べる文に主観に依存する修飾語(意見)を入れない…
ここからは「意見…区切りを明確に…”http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-118.html …

藤村シシン『古代ギリシャのリアル』

井筒俊彦bot ‏@Izutsu_bot 1月27日

ただ、いわゆる客観的現実と、いわゆる主体的意識とが混淆し融合して渾然たる一体をなしたものが現世している。それが見方によって、力点をどこにおくかによって、客体的現実になったり、主体的現実になったりして現れてくるだけのこと。『イスラーム哲学の原像』



読んでくださり感謝しますが、この人のツイートとブログを直接お読みになってくだされば幸いです。
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