どういうことかというと、「権利」という語は、英語の「Right」の翻訳語です。
「Right」を「権利」と訳したのは、幕末から明治にかけて活躍した秀才、西周(にしあまね)です。
西周(にしあまね)は、30代で徳川慶喜のブレーンを勤めたほどの秀才です。
文久2年にはオランダに留学し、明治にはいってから機関紙「明六雑誌」を発行して、西洋哲学の翻訳や紹介を幅広く行いました。
藝術(芸術)、理性、科學(科学)、技術、哲学、主観、客観、理性、帰納、演繹、心理、義務などは、どれも西周の翻訳語です。
彼は「明六雑誌」の創刊号で、「洋字ヲ以テ国語ヲ書スルノ論」という論文を掲載し、概略次のようなことを述べました。
「たとえば英語の『philosophy(哲学)』を、
『フィロソフィー』とカタカナ語で用いるのではなく、
翻訳語としての熟語(哲学)を創作する。
なぜそうするかといえば、
外国語を外国語のまま紹介したのでは、
専門の学者にはそれでいいかもしれないが、
その心とする語彙が広く世間に普及しない。
欧米の概念は欧米の言葉で学ぶだけでなく、
その意味や意図を、
我が日本のものとしていかなければならない」
これはまさにその通りだと思います。
「リテラシー」などと言っても、何のことかわからないけれど、「読解力と記述力」と日本語で書けば、書き言葉を正しく読んだり書いたりできる能力を指すということがわかるし、ネットリテラシーというのではなく、電子情報の読解力と記述力と書けば、ネット上に反乱する情報を正しく読んだり理解する能力ということが、より理解しやすくなります。
西周(にしあまね)は、こうして英単語のひとつひとつを、和訳し、造語していくという作業を、ずっと続けました。
そしてその西周が、英語の「Right」を翻訳した言葉が「権利」だったのです。
ところが、この「権利」という翻訳語に、福沢諭吉が噛み付いています。
「誤訳だ!」というのです。
そして福沢諭吉は、ただ反発しただけでなく、
「『Right』は
『通理』か『通義』と訳すべきで、
『権利』と訳したならば、
必ず未来に禍根を残す」
と指摘しています。
なぜ、福沢諭吉が、そこまで厳しく噛み付いたのかには理由があります。
第一に「権利」は能動的ですが、「Right」が受動的な力であることです。
「私がリンゴを食べる」というのが、能動です。
「リンゴは私に食べられた」というのが受動です。
「Right」を「権利」と訳せば、個人が自らの利益のために主体となって主張することができる一切の利権という意味になります。
けれど英語の「Right」にそのような意味はありません。
一般的通念に照らして妥当なものが「Right」です。
つまり、「Right」は、個人の好き勝手を認める概念ではなく、誰がみても正当であり妥当なものが「Right」なのです。
要するに、
「そのリンゴはお前が食べたのだろ?
みんながお前が食べるところを見ていたんだ。
間違いないよな。
そのことはRight(間違いない)よな?」
というように使われるのが「Right」です。
誰も「お前がそのリンゴを好き勝手に食べて良い」などと言ってないのです。
ところがその「Right」を「権利」と訳すと、
「俺がリンゴを食べたのは俺の権利だ。
リンゴは俺に食べられるために存在したのだ」
という理屈が成り立ってしまうのです。
これは明らかに誤訳というべきです。
もうひとつ、「Right」には「正義」という意味が含まれますが、「権利」という翻訳語にはその意味が含まれていないことです。
要するにひらたくいえば、誰がみても正しいといえる一般的確実性と普遍的妥当性を兼ね備えた概念が「Right」です。
人のリンゴを勝手に食べておいて、
「あのリンゴは俺に食べられるためにあったのだ」
などと言っても、それは正義の名に値しません。
しかし「権利」だと、リンゴを泥棒した犯人が、
「リンゴは俺に食べられるためにあったのだ。
それは俺の権利なのだ」
という言い方ができてしまうのです。
ですから「権利」だと、お父さんが仕事上の都合でどうしてもパソコンを使いたいのに、子供がパソコンでゲームをしたいといえば、それは子供の権利であり、むりやりお父さんがパソコンを奪えば、それは子供の権利の侵害にあたり、親によるパワハラだなどという、もっともらしい「間違い」が起こってしまうのです。
要するにただのワガママが「権利」になってしまう。
なぜそのような間違いが起こるかと言えば、日本語の「権利」に、正義の概念が含まれていないからです。
この「Right」という単語は、米国の独立宣言にも出てきます。
「They are endowed by their Creator with certain unalienable
Rights, that among these are Life, Liberty, and the pursuit of Happiness.
That to secure these
rights,
Governments are instituted among Men,
deriving their just powers from the consent of the governed,」
直訳すると次のようになります。
「すべての人は生まれながらにして平等であり、
すべての人は神より侵されざるべき
Rightを与えられている。
そのRightには、
Life、Liberty、
そしてthe pursuit of Happinessが含まれている。
そのthe pursuit of Happinessを保障するものとして、
政府が国民のあいだに打ち立てられ、
統治されるものの同意がその正当な力の根源となる。」
つまり、「Right」は「神から与えられているもの」なのです。
ですから「Right」は、常に正義でなければならないのです。
これを「権利」と訳すと、次の文節である「そのRightには、Life、Liberty、そして幸福の追求が含まれている」が違う意味になります。
なぜなら、Life(人生)も、Liberty(道義)も、the pursuit of Happiness(幸福を追求)することなどが、神の意に反した反社会的な欲望であっても、それが「権利だ」と言えるようになってしまうからです。
けれど文意は明らかに、Life(人生)も、Liberty(道義)も、the pursuit of Happiness(幸福を追求)することも、神から与えられた「Right」の内訳と書いています。
これでは意味が非常にわかりづらくなります。
ですから福沢諭吉は、この「Right」を「通義」と訳すべきだと主張しました。
すると米国独立宣言の文章は、次のようになります。
「すべての人は生まれながらにして平等であり、
すべての人は神より侵されざるべき通義を与えられている。
その通義には、
人生、道義、そして幸福の追求がが含まれている。
その幸福の追求を保障するものとして、
政府が国民のあいだに打ち立てられ、
統治されるものの同意がその正当な力の根源となる。」
(福沢諭吉の原訳)
「天ノ人ヲ生ズルハ億兆皆同一轍ニテ、
之ニ附与スルニ動カス可カラザルノ通義ヲ以テス。
即チ其通義トハ
人ノ自カラ生命ヲ保シ自由ヲ求メ幸福ヲ祈ルノ類ニテ、
他ヨリ之ヲ如何トモス可ラザルモノナリ。
人間政府ヲ立ル所以ハ、
此通義ヲ固クスルタメノ趣旨ニテ、
政府タランモノハ
其臣民ニ満足ヲ得セシメテ真ニ権威アルト云フベシ」
要するに「Right」というのは、神から与えられた「一般的確実性と普遍的妥当性を兼ね備えた正義」を言うのです。
自分勝手が許されることが「権利」ではないのです。
ところが「Right」を「権利」と訳すから「権利と義務」とか、よけいにわかりにくくなるのです。
「Right」が「通義」なら、「通議と義務」です。
一般的確実性と普遍的妥当性を兼ね備えた正義と、これを享受するための義務という意味になります。
そうすると、冒頭の中学生の少女の売春行為は、未成年者の売春行為自体が「正義」ではないのだから、実にとんでもないことなのですから、問答無用で、
「あんたが悪い。
だからやめなさい!」
と強く言えるようになるのです。
つまり、日本における権利意識の大きな間違いは、そもそもの誤訳から始まっているのです。
権利という言葉自体が誤訳であり、通義が正しい訳なら、「権利意識」は「通義意識」です。
通義なら、一般的確実性と普遍的妥当性に裏付けられた正義ですから、通義意識は「一般的確実性と普遍的妥当性に裏付けられた正義のための意識」です。
これなら「Right」の語感を正確にとらえたものとなります。
そしてここまでくると、「人権擁護法」などというとんでも法案も、要するに「人権=人の持つ権利」という誤訳の上に誤解を重ね、さらに「Right」を曲解したところから生じている無教養と身勝手が招いた「とんでもない法」であることがわかります。
つまり、人権なるものの本来の意味が、「人の通義」すなわち「国民の一般的確実性と普遍的妥当性に裏付けられた正義」であるとするならば、ごく一部の、日本に住んで日本語を話し日本人のような顔をして日本人のような通名を名乗る日本人でない人たちの利権のために、圧倒的多数のまともな日本人の生活が犠牲になるなど、もってのほかとわかるわけですし、冒頭の中学生のような間違いも起こらなくなるのです。
一般的確実性と普遍的妥当性に裏付けられた正義の中にこそ、Life(人生)も、Liberty(道義)も、the pursuit of Happiness(幸福の追求)もあるのです。
そして、国民の一般的確実性と普遍的妥当性に裏付けられた正義を実現するのが、責任ある政治の役割です。
何事も正義が根本になければ、世の中は真っ直ぐになりません。
その正義を欧米では宗教に求めます。
日本では古来、民をこそ「おほみたから」とするシラス(知らす、Shirasu)に求めました。
そのシラス(知らす、Shirasu)が目的とするものが豈国(あにくに)です。
これは誰もがよろこびあふれる楽しい愛といつくしみにあふれたクニを意味します。
残念なことに、現代日本ではそのシラス(知らす、Shirasu)も豈国も死語となり、それに代わる宗教も育っていません。
それどころか正義でない悪行までもが、あたかも権利のように宣伝され、それを指摘すると差別だと言いがかりをつけられる有様です。
明治以降の日本にある歪み、そして戦後の日本にある歪みは、正していかなければなりません。
そしてそれこそが、本来の「Right」の意味である通議そのものであるといえるのです。
※この記事は2012年10月の記事のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。
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