「先入観にとらわれてものごとを見ないように」
「それはあなたの先入観でしょ?」
私たちは日常的によくこうした言い回しをして、まわりの人をたしなめたりする。
先入観とは、あらかじめ私たちの心の中に入っていて(つまり先入していて)、ものごとの見方を固定的なものに枠づける観念のこと。
関西人はコミカルで軽薄で、女性はか弱く、東北人はネクラ、東大生は冷たいヤツらといったあたりまではご愛敬だが、黒人は怠け者、イスラム教徒はテロリストなどとなってくるとシャレにはならなくなる。
そもそも先入観というのはどこから来るのか。新聞やテレビなどのマスメディアが大量生産し、まき散らす画一化したイメージが人々の心に先入したのだというのが、2000年代までのメディア論、コミュニケーション論のほぼ統一された見解だった。
2010年代半ばにスマートフォンが普及し、それにともなってLINE、Twitter、Facebook、InstagramといったSNS(ソーシャル・ネットワーキング・システム)が急速に一般化すると、様相が変わってきた。
テレビ局や新聞社が一方向的に送り出す情報を一般の人々が受け取るというマス・コミュニケーションの図式ではなく、一般の人々が見聞きしたさまざまなことがらが人々自身によって発信され、拡散され、タイムラインをうねり、渦を巻きながら流布していくという、新たなネット・コミュニケーションが展開されるようになったのだ。
それではネット・コミュニケーションが一般化して、先入観はどうなったのだろうか。
日々スマートフォンのタイムラインに溢れかえる情報のなかで目立つには、短くて、よりインパクトのあるメッセージが要求される。それらは先入観に満ちたものになる傾向がある。トランプ大統領やネトウヨのTwitter投稿をみればそれは明らかだろう。
マスメディアだけではなく、多様な人々が発言できるようになったはずなのに、どうしてこんなことになるのだろうか。
ここではそのことを、先入観を意味する二つの英語、ステレオタイプ(stereotype)とバイアス(bias)という言葉の意味を確かめることで考えてみたい。
まず、ステレオタイプについてである。この言葉を生み出したのは、米国のジャーナリスト、政治評論家であるウォルター・リップマンだった。
20世紀に入って現代社会の基本的な仕組みが成り立ちはじめたとき、すなわち国際戦争を経験し、普通選挙に基づく民主主義や大衆消費、学校教育などが体制化する際に、メディアはなくてはならない存在となった。
それまで人々は何千年ものあいだ、相対的に狭い地理的空間のなか、伝統的な共同体のなかで、顔見知りの人々にかこまれて暮らしてきていた。
しかし社会の仕組みが複雑化し、人々が直接経験できないことがらが人々の生活を左右するようになってくると、環境監視のためのマスメディアとして新聞やラジオが発達することになったのである。逆にマスメディアの発達が、複雑な社会を可能にしたともいえる。
マスメディアの重要性に最も早くに気づいた一人がリップマンだった。