『もののけ姫』の元ネタの一つ。網野善彦『日本の歴史をよみなおす (全)』 (ちくま学芸文庫)
Posted on 2015.07.29 Wed 09:33:20 edit
今回の記事はいきなり完成版が登場した!
網野善彦(アミノ ヨシヒコ)〈日本の歴史をよみなおす〉
【要約】
・中世日本は農業国だと思われがちだが実際は違った。
・百姓は農民ではない。百姓=多彩な職業。
・処女に価値がなかった。
・カタカナは多くは神仏にかかわりのある文書に使われ、口頭で語られたものを書きとめる文字だった。
・古くから水上移動、水運は大変活発だった。
・金融は神仏の世界に属していた。
・穢れに対する畏怖が抜け落ち差別意識を生んだ
・『もののけ姫』の元ネタの一つ。宮崎駿は網野史観にインスピレーションを受けた。網野自身も『もののけ姫』を「ずいぶん勉強した上でつくられている」と評価。
・我々が感覚的に理解できる社会はどこまでさかのぼれるかというと、室町時代ぐらいまでが限界。ほぼ十四世紀の南北朝動乱以前=十三世紀以前、と以降とでは常識と思想の質にとてつもない隔たりがある。
つまり、十四世紀は大転換期。
第1章 文字について
・カタカナ=口頭、神仏、人ならざる世界
ひらがな=女性
漢字=男性、公的
算数の問題。
漢字、ひらがな、カタカナの三種類の文字を使うと、七種類の文字表現ができる。
唯漢字
ただひらがなのみ
タダカタカナノミ
漢字とひらがな
漢字トヒラガナ
ひらがなトカタカナ
漢字とひらがなトカタカナ。
江戸時代後期の識字率は平均して四割ぐらいだったらしい。特に、都会での識字率は非常に高い。
つまり、日本社会では、文字社会、文書の世界では均質度が高いといえる。
しかし、無文字、口頭の世界ははるかに多様である可能性がある。
文書を見ると、文字の普及≒ひらがなの普及、という形で進行していったことがわかる。
少数派のカタカナは、基本的には口頭で語られることばを表現する際に使われていたといえ、しかも、口頭で語られる言葉が文書にされる場合には、中世前期では、神仏と関わりを持つ場合が多かった。
例えば、カミ(ガミ)に何かを誓う起請文(きしょうもん)、告文(こうもん)、あるいはカミ(ガミ)に願い事をする願文(がんもん)、あるいは逆にカミ(ガミ)の語る託宣を書いた託宣記、あるいは夢を見たときすぐにそれを書き記す夢記などのように、シン仏とかかわりを持ち、しかも口頭で語られたことにかかわる場合に、カタカナが顕著に使われているとはっきりいえる。
カタカナ ハ カミ ノ コトバ ナノダ。
また裁判のとき、被告・原告の双方の発言を記録する場合、漢字にカタカナをかなり交えた文体で書かれることが多い。これを宣命書(せんみょうがき)という。
被告の白状を記した白状記にもこうしたカタカナ混じりの宣命書の文書が使われることが多い。
それから、はっきりしているのは、落書あるいは落書起請(らくしょきしょう)のほとんどがカタカナで書かれていること。
落書は、落とされることで、人のものではなくなり、人以外のもの、シン仏のものになってしまうのでカタカナ書きだったらしい。
落書起請(らくしょきしょう)は、たとえばある集団の中で誰かが盗みをやったとする。しかし誰も白状しないときに、カミ様に誓って偽りを言わないという起請をして落書を書き、無記名投票で犯人の指名をしたりしたそうだ。落書自体が(人間が書いたとしても)シン仏の声であり、これを更に制度化したのが落書起請であり鎌倉中期ごろからみられ室町時代にいたるまでほとんどカタカナ表記。
以上でわかるように、カタカナは、文書の世界では基本的に口頭で言われた言葉を記す文字であり、しかも中世前期には、そのような口頭で語られることを文字にするのは、シン仏に関することが多かったので、必然、神秘的存在や超常存在にからむことになる。
シン仏に関係なく、音を耳で聞いて書きとるときもカタカナが多く使われたそうだ。
カタカナは画数が少ないし、漢字やひらがなよりも早く書けるからかもしれないが。
また、何かを訴える申状(もうしじょう)の中にもときどきカタカナで書かれたものがある。ただし、鎌倉時代の正式の百姓申状の多くは漢字表記。
漢字を使わずカタカナ表記だからといって、幼稚ではないことを念頭に置かないといけない。はじめに習うのがひらがなとカタカナだからといって、馬鹿にしてはいけない。
また、日記というその日に起こったことをその場であるいはすぐあとで記した文書、もカタカナ表記が多い。
実は、寺院関係に伝わった本にカタカナが多い。おそらく、漢文の訓点として使っていたからだと思われる。実際、ひらがな表記の和歌も、僧侶が書くとカタカナになったりする。
禅僧や儒学者もカタカナを江戸時代でもカタカナを多く使っている。
もしかして法律文が昔は漢字とカタカナだったのは以上が理由かもしれない。
まとめ。カタカナは特別な場合に使われるのであり、庶民はあまり使わない文字であった。
(カタカナは早く書く必要がある場合に重宝されたのでは?
そもそもカタカナもひらがなも漢字の簡略化だし。どこがヘブライ語だよ!
中ユ同祖論の提唱者にして日ユ同祖論の原型を作った17世紀のイエズス会士ロドリゲス『日本教会史』
と茶の湯とキリシタン大名とキリスト教人脈と大河ドラマ
と大日本皇道立教会
と鹿児島版田布施の加治屋町
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-90.html
日ユ同祖論と中ユ同祖論の発明者(原型含む)は17世紀のイエズス会士ロドリゲス。
日本のことなのに日本語版Wikiには書いていないうえに、日本語版では日ユ同祖論の起源が明治期のマクラウドだという嘘を書いている。
佐伯の同祖論を支持したのはキリスト教徒。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-83.html)
・ひらがな
=女文字
であり、女文(をんなぶみ)という独特な文体できてきて、すぐれた女性作家文学ができる。
前近代に女性が優れた文学を残す例は世界的にみても日本だけだと思われる。
琉球国王が、日本国王である室町将軍家に手紙を内々に送ったときはひらがなを使っている。ただし、受け取りと返事は女房が書いたのでやはり、ひらがなと女性は不可分と言える。
女流文学が生まれたのは転換期以前すなわち十四世紀まで。室町以降は全然出てこない。
ひらがなははじめは女性が使い、それを男性が取り込む形で普及していった。
男性は、平安から江戸までずっと、公的な世界では漢字を使っている。
公家でも武家でも漢字が正式。
鎌倉への出先暴力担当機関(いわゆる鎌倉幕府)の関東下知状(かんとうげじじょう)などの裁判の判決所はすべて漢字表記。証拠書類はひらがな表記が多いのだが、判決文に書く際にはわざわざ万葉仮名=漢字、になおしている。
江戸時代の百姓(農民じゃないよ)の名前に極めて多い、兵衛、右衛門、左衛門、右馬丞などはみな文書主義律令官職名の変形なのか、漢字表記なのは意味深い。男性名だし。
男性がひらがなを使い始めるのは当然、私的な書状からはじまる。
譲状という、財産を譲るときに作られる中世独特の文書(江戸時代になるとほとんどなくなる)はひらがな表記が多い。
室町時代以降なるとひらがな混じりが爆発的に広まることと関係があるのだろう。
(日本は識字率が高かったらしいので、文字を利用した統治が意識して行われたそうです。高札なんてまさにそう。江戸時代の村請制は、数値計算と読み書きができないとできないことでした。
識字率は、支配層はほぼ百%で、庶民は富裕なら高かったでしょうね。あれ、これだと世界共通の傾向ですね)
ちなみに、鎌倉時代までは字がきれいだが、室町以降はきたない字が増える。文字に対する畏敬の念がなくなり、実用道具と捉えるようになったからかもしれない。
(『どちりなきりしたん』は漢字がほとんどないから読みにくかったなあ。
「どちりいな-きりしたん」16世紀にGODを神と訳していないし、loveを愛と訳していない。偽書を見抜こう。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-21.html)
・明治になると、カタカナがとたんに増え始める。
法律と軍隊では言わずもがな。初等教育で最初に教えられるのはカタカナ。ひらがなじゃないよ。
しかし日常世界の庶民はひらがなが支配的。
(パン屋襲撃 @c3po2006 2013年11月17日
『日本の歴史をよみなおす(全)』 p26 それでは、このような少数派の片仮名は、どういう用途で文書に使われているかということですが、基本的には、口頭で語られることばを表現する場合に使われていたといえます。 ← 振り仮名や外来語が片仮名である理由かもな。
p46 たとえば明治になると、とたんに片仮名がふえはじめる。法律と軍隊の用語には、片仮名がもっぱら用いられますし、初等教育にも片仮名が最初に教えられるようになります。 ← 大日本帝国憲法や民法が漢字+片仮名である理由かもな。)
第2章 貨幣と商業・金融
・拝金主義(文字通り)。
昔々は、土の中は異世界だったから、埋めるとお金は人のものではなくなった。
(今なら、土の中にお金を埋めれば隠すためであり所有権は失わないと考えるでしょうね。
雲の上(見えない)、土の下(見えない)、地上(見える)の三世界が明確に存在している神話って結構多い気がするなぁ。
お金は、紙や金属片に「信用」なる呪術を施して、共同幻想を作ることで成り立っている。
信用創造という国際キリスト教金融資本の金融兵器の根源。
宗教兵器はキリスト教。ユダヤは単なる実行部隊)
・日本で本格的に金属貨幣が鋳造されるのは八世紀はじめ、和同開珎なる銅銭、銀銭がつくられたのははじめだとされていて、それ以来、いわゆる皇朝十二銭という貨幣シリーズが十世紀中ごろまでつくられる。
しかし、金属貨幣がはじめて本格的に流通し始めるのは、十三世紀後半~十四世紀ごろ。
かなり遅く感じられる。
貨幣の鋳造は中国制度の需要にともなっておこなわれた側面と、財源確保の側面などがあるが、調・傭などの貢納に用いられたりしたものの、実質的に社会の中に貨幣が流通したにはしたがほぼ畿内に限られていて全国(範囲に注意)的には流通しなかったらしい。
(貨幣鋳造は権威を示し、財源不足を補うため。
財源に困った日本律令王権は財源が欲しかった。
当時は実物でありお金じゃないことに注意ね。
貨幣制度では、金属片や紙切れを渡して実物を得ることができるので、物々交換のために相手に実物を渡さなくて済みます
……って今の白人キリスト教徒のロスチャイルドを盾にする欧州貴族勢力の銀行家と同じ手口ですな。
しかし、日本律令王権は蓄銭叙位令出しても失敗しました。そもそも商品生産量が多くならないと貨幣を使うメリットが薄いので当然と言えば当然。豪族からすれば、なんでこんな金属片貰って実物渡さないといかんのかというわけです。
張り子の虎を渡して本物の虎が欲しい!
アイボリー @mrunsmily 2014年6月13日
お宝鑑定団は、鑑定家達の魔術を披露する番組という様にもとれる
子子子子子(ねここねこ) @kitsuchitsuchi 8月26日
価値を与えるマジック(魔術+呪術)
①鑑定。支配者が持つ資産=芸術品の価値を上げる。
②信用創造。持っていないお金(無)を貸し付け、返せと要求する、原罪と同じ原理の錬金術。
葉っぱをお金に変える狐(稲荷大社=和風キリスト教の神道詐欺師)に化鹿される話は真実。
@mrunsmily
kS @Jd805 8月27日
@kitsuchitsuchi @mrunsmily 神道詐欺というと、戦前からあったとされる稲荷系神社は全て嘘なんでしょうか?
子子子子子(ねここねこ) @kitsuchitsuchi 8月27日
@Jd805 @mrunsmily 神社が天皇を動かしたのは嘘。愛染寺が伏見稲荷大社の社殿造営や修復、勧進、出開帳を管理した。仏教徒の天皇と本地垂迹説=仏教圧倒的優位、門跡寺院はあるが門跡神社はないことを隠す為に、神道=和風耶蘇教の儲のガーター勲章持ち偽天皇をクリスチャンが捏造。
子子子子子(ねここねこ) @kitsuchitsuchi 8月27日
@mrunsmily 蓄銭叙位令の目的は流通を促す為という説明は一面的。
真の目的は財源=現物確保。物々交換=等価交換が嫌で一方的に財産が欲しい朝廷は、金属片を貯めれば位が得られるようにする。等価交換ではないと理解していた人々にはあまり効果なし。朝廷も金融詐欺で財産を奪おうと画策。
子子子子子(ねここねこ) @kitsuchitsuchi 10月14日
@makeanovel 葉っぱをお金に変える狐や悪い魔法使いが心を操っているお話は本当のことを喩え話で伝えているのだと教えたり、真偽の判断基準を教えたり、嘘だらけだけど本当のことも良いものもあるとセットで伝える等バランスが大事。不登校は実はまとも。学校は定時奴隷労働者の訓練施設。
風の子 @makeanovel 10月14日
ふむふむ、とても役にたちます。なるほど昔話や童話みたいなのには、そういう真理が描かれていたんですね。そういえば狐が作ったんじゃないけど、今私達が価値があると信じてる貨幣ってほんとは・・・みたいに気付けますね。納得。 @kitsuchitsuchi)
・そもそも少なくとも律令時代の日本人は貨幣を、今日つかっているような意味では認識していない。
流通と交換価値としてではなく、和同開珎は、一種の呪術的な意味をもった使われ方もしている。たとえば、寺院を建てる際の基壇(=敷地面より一段高くつくった建物の基礎)に和同開珎を必ず置いたりしたり、あるいは美濃国(岐阜県南部)の不破の関の発掘すると和同開珎が建物の隅に置かれたりしている。
儀式や呪術にも使われた。
要は、貨幣を今のように使う必要がなかったということ。
律令政府の力が弱まって来る十世紀移行には、日本では貨幣が鋳造されなくなる。貨幣が鋳造され流通するには統一国家が必要であり、相応の国力が必要なので当然と言える。
当時も、交換価値としての貨幣として絹や米が使われていて、十二世紀半ばまでは確実に続いている。
ところが十二世紀後半~十三世紀になると、平清盛が力を入れた日宋貿易もあいまって、本格的に宋から銭が流入して来る。
かといってすぐさま交換価値として使われたというわけではなく、十二世紀後半の清盛の時代、疫病が流行すると、この病は銭のせいだと「銭の病」といううわさが広がったりした。
価値尺度としての銭も広まって行ったが、米を基準に価値判断することはずっと続いていくことになる。
兼好法師が書いたらしい徒然草なる書物には、銭を「君のごとく神のごとくおそれとうとみて、従え用いることなく」という話があるように、文字通りの「拝金主義」、呪物的扱いがされることも十三世紀後半~十四世紀にあったりする。
が、十五世紀となると銭は支払いや交換手段として広く流通するようになる。
文字の普及と共に貨幣の普及も、全国均質化を促進し、日本人なる民族が形成されていく。
(兼好法師は神社出身なのに仏教に帰依して出家と言うよくわからない人なのですが、仏教国教時代にも神社と神道は権力があって仏教徒の天皇にものすごく影響したよという嘘の存続のために利用されているのでしょうね。でも兼好「法師」だからね。陰陽師ですら仏教徒なのに。
"12世紀後半の清盛の時代、疫病が流行すると、これは「銭の病」だ、貨幣を使うようになったために起こった病だという噂が広がるような、金属貨幣を呪物として見る意識が強かった"
が、日本人が拝金教信者だらけになることを防いでいた理由の一つでは?
神仏の世界と金融の関係は、宗教と金融の関係に繋がります。
宗教家が金融やると禁欲の教えがあるから欲望の暴走をある程度抑えられていたけど、商人が金融やると欲望の暴走が止まらなくなり超悲惨になります。
商人がカルトを作っているのは、宗教=キリスト教が銀行を牛耳っていることを知っているからでしょうね。
金を支配するなら宗教が一番ってこと。
大企業=カルト。
ブラック=違法企業=カルト。
ブラックと言うな、違法と言え。
帰ってきた魔法使いハンターねこた @lakudagoya 7月23日
つーかなんでヌッポンの「保守」思想はプロテスタントのカルヴァン派の過激派の労働教&経済合理至上主義&拝金主義が入ってるんかね?明治以降の売国奴だけど西洋を批判した文化人 は、西洋の経済合理主義や強欲主義は獣のようだと激しく批判してるのだけどね。保守ってなんだよ?
エドマンド・バークの「保守」の定義は先祖伝来の価値観だ。ヌッポンは拝金主義や労働教は先祖伝来の価値観ではない。江戸時代末期にヌッポンにやって来た外人は日本人は怠け者だと書いてるからな。戦前もだけど、戦後ですら金儲け至上主義的な価値観は商業の世界でもかなりタブーとされたんだよ。
日本の「保守」とやらの異常さを見れば、エドマンド・バークがかなりマトモに見えるぞ?(笑) バークは立憲君主制支持者でリパブリカンだから、王権の正当性は訴えるけど、絶対王政とかは認めないし、ましてや革命なんてご法度という立場だ。それに比べて日本の「保守」は極左にしか見えない。
そもそも日本の支配層だった武家は藩校で朱子学や儒学を学び四書五経を読むわけですよ。儒教では商業は地位が低いとされてたから士農工商という事になるわけ。だからヌッポンの伝統が経済合理主義や拝金主義なんてありえないんです。もし今の特権階級が本当に保守なら何でミッションスクールに行くの?
本当にヌッポンの「保守」が本物なら、ミッションスクールなんか行かなくて昔から続いてきた学問を重視するよね?で、商業の上に倫理観を置いてそれをコントロールするよね。少なくとも戦後のしばらくまではそうだった。で、何で今の「保守」は金を稼がないと死ねみたいな発想になるわけ?
王王大栄 @ououdaiei 7月23日
@lakudagoya そのとおりですよね。保守の多くが心酔する維新志士たちは陽明学者の松陰に、四書五経と兵法をベースにあと知識として世界の知識を学んだわけです。基本は漢籍古典、儒学と兵学です。のにね・・・日本の保守とは「欧米人を保守する。」てことでしょう。
帰ってきた魔法使いハンターねこた @lakudagoya 7月23日
@ououdaiei そうそう、日本の「保守」という連中はクリスチャン臭い価値観で、儒学や陽明学なんて知りもしない連中です。もし江戸時代的な保守(笑)なら中国や韓国を見下すわけないですし、こういった日本古来の学問が失われたことは困りますね。
子子子子子(ねここねこ) @kitsuchitsuchi 10月16日
@makeanovel @onigiri3_ 英国WASPの救貧院=強制労働施設で分かるように、資本主義を発展させたプロテスタントはカトリック以上に奴隷労働肯定。勤勉な日本人を白人は褒めるけど、クリスチャンでもそこまでできない(苦笑)って感じですかね。日本人は無自覚クリスチャン。
風の子 @makeanovel 10月16日
日本の土壌にキリスト教は異質すぎるのでそのものを布教しないで、キリスト教の中身だけをキリスト教とはいわないで日本人になじみやすいものを利用したりして伝播したんですかね。ほんと自覚ないまま欧米のもの好きでした
RT @kitsuchitsuchi 日本人は無自覚クリスチャン。
Orphe @orphechin 2012年12月15日
最近の東の低所得層に対する扱いは実際ヴィクトリア朝めいていてコワイ。家のない人間を救貧院という名前の収容施設で強制労働させてた連中とどう違うのか。
ぽぽやまぽっく @ysm111 2013年7月5日
イギリスっていうと産業革命の頃に救貧院でホームレスを強制労働させたりしてたわけだよな
パン屋襲撃 @c3po2006 2013年11月17日
『日本の歴史をよみなおす(全)』 p50 また支払手段、流通手段としての貨幣というだけではなくて、和同開珎は、一種の呪術的な意味をもった使われ方もしております。 ← 経済人類学みたいな話。)
・中世の市庭(いちば。市場)は、モノとモノとの贈与互酬の関係を断ち切るための場所だった。
虹が立ったところに必ず市場を開け、という慣習が昔からあったことは(藤原道長の邸宅に虹が立ったので市場をそこで開いているほど守られていた)、虹をこの世と別の世とをつなぐものとしてとらえる観念が浸透していたを示しているように思われる。実際、市場は、山と平地の境目や、河原など聖なる世界に近い箇所で開かれるのが普通だった。
俗世から離れさせる市場(=カミガミの世界)が登場するまでは、モノとモノの交換には必ず人間関係がつきまとっていた。それではいわゆる商品経済にはなりえない。そこで特別な機能をもつ市場があらわれ、モノに付随する属人的な人間関係を断つところとなる。
市の場では、モノにせよ、人にせよ、いったん、神の世界のものにしてしまう。誰のものでもない。その上で、モノとモノとの交換が行われる。モノも人も、世俗の縁から切れた「無縁」の状態になる。
市場は、「歌垣」の場にもなる。男も女も、妻や夫との俗縁が切れて、自由に性交渉ができる場ともなる。
市場の無縁度合いは現代からみればスサマジイ。
市場で殺人がおこれば、その場だけで処理し、決して被害者の親族の報復はしてはならない場所だったほど。
(網野善彦が他の著作で盛んに述べている「無縁」「楽」システムも、この市場の中から生まれてきました。
縁を断って無縁にし、別の関係にすることが市場(市庭)の隠れた機能でした。
パン屋襲撃 @c3po2006 2013年11月17日
『日本の歴史をよみなおす(全)』 p56 そしてこれによってもわかるように市場は、神の世界と人間の世界、聖なる世界と俗界との境に設定される、と指摘しておられます。 ← お寺や神社での縁日の延長みたいなものか。)
・日本における金融(利息で儲ける)の起源は出挙(すいこ)。
出挙は、稲作と結びついており、最初に獲れた初穂はカミに捧げられ、神聖な蔵に貯蔵される。この蔵の初穂は、翌年神聖な種籾(たねもみ)として百姓に貸し出される。収穫期が来ると、百姓は蔵から借りた種籾に、若干のカミへのお礼の利稲(りとう。利息のいね)をつけて蔵に戻す。この循環が出挙の原理。。
(要は、借りた側は借りた量よりも多く貸した側に返せということ。
カミを介在させるあたりに、なんか教会が寄付しろと盛んに言うのと同じ雰囲気を感じるね。ヨーロッパではキリスト教徒は利息取れないようにし、「ユダヤ」という「職業」に就かないと利息を取って儲ける金融をできないようにしたのであり、カミでなくGODという違いはあるけど)
律令政府は公出挙(くすいこ)という、国衙の蔵に納められた租稲(そとう)を元本として春に百姓に貸付け、秋に利稲(利息としての稲)をつけて蔵に返済させるという、利息税とでも言える制度があった。
かといって国家以外も出挙はしていた。
金融はシン仏的、宗教的、俗ではない領域の行為だった。
神物(しんもつ)、仏物(ぶつもつ)の貸付は室町以降も続いていて、祠堂銭(しどうせん)といわれる、仏のものとしてれらに寄付された銭を貸し出すという形で低利息の金融が行われている。
(超絶儲かるね。
しかも地面に埋めるだけで無主になってしまうから幾らでも悪用できるね)
・公益や金融業を行う商人や金融業者は俗人にはできず、必然、神仏の直属民という「外れた」人々が担うことになる。
つまり、カミ直属の「神人」(じにん、じんにん)、仏直属の「寄人」(よりうど)、シン仏に準ずる天皇の直属民「供御人」(くごにん)といった「神仏の奴婢」である。
(ヨーロッパでも日本でも、金融と宗教と王族は不可分!)
ちなみに交易を行う人や芸能民も、シン仏や天皇に直属民の地位を得ていた。
例えば、鋳物師(いものじ)は十二世紀以降に、殿上で使う鉄の燈炉(とうろ)を天皇に献上する代わりに、全国を自由に遍歴して鉄や鉄器を販売する特権を認められていて、蔵人所燈炉供御人という長ったらしい名前で呼ばれた。なお、当時は手工業と交易は分離していなかったので(作る人と売る人が同じ)、商人=手工業者、だった。
博打は芸能に入る。確率はシン仏の意志のあらわれ。
(芸能界は裏社会なのは古代から変わりません。遊女や白拍子もね。
日本の歴史をよみなおす(網野善彦・聖なるものから世
http://ameblo.jp/lully-moliele-1660/entry-10550157401.html
”商人や職人の場合も、同じように交易はしだいに、世俗的な行為に転換していきます。商人と職人とはしだいに分化していき、まだ神人、供御人の身分は残っていますが、商業それ自体は世俗的な行為になっていったものと思われます。
職人にそくして一例をあげますと、十三世紀の後半以降に成立したと考えられる「職人歌合」という絵巻があります。何種類かの職人が左右に分れた番いになって歌を詠みあい、それを判者が判定をするという歌合の形式をとりながら、いろいろな職人の職能を歌と絵で示しているもので、江戸時代には「職人尽」として、広く世に流布することになっていくのですが、おそらくとも十三世紀後半から十四世紀にかけて成立した「職人歌合」は、神仏との関係をもつものになっています。
その一つの「東北院歌合」は、東北院でおこなわれた法会に職人たちが集まってきて、そこで歌を詠みあったことになっていますし、「鶴岡放生会職人歌合」は、鶴岡八幡宮でおこなわれた放生会の時に集まった職人たちが歌を詠むというかたちになっており、神仏とのかかわりで、職人歌合が行われたという形式になっています。
この歌合では、二種類の職人が左右にわかれて一番をなしているのですけれども、この二種類の職人が番いにされるに当たっては、何かの理由がかならずあるようです。
たとえば、しばしば鍛治と番匠が番いになっています。番匠は木工、現在の「大工」にあたりますが、なぜそれが鍛治と番いをくんでいるかというと、当時の鍛治は刀鍛治よりも釘鍛治が一般的で、釘や鎹をつくっていたのです。ですから鍛治は建築工として、神社や寺院に所属して寄人などの地位をあたえられています。鍛治が、建築の工人だったから、建築の中心的な職人である番匠と番いをなして現れるわけです。
このように、番いに組み合わせられた二種類の職人は、みなそれなりの理由があるのですが、興味深いのは、「東北院歌合」で巫女と博打打が番いにされている点です。そもそも博打打が職人歌合に登場するということ自体、十三世紀以前の社会の特徴が非常によくあらわれていて、おもしろい問題がそこにあるのですが、おそらくこれは博打打ちも巫女も、一方はさいころで、一方は神かかりによって、神の意志を伝える。そういう職人として番いににされているのですけれどもはないかと私は思うのです。
博打は、一面では社会の中で禁圧されていますけれども、他方で、籤と同じような意味もあったのだと思うので、博打は芸能であり、博打打ちにもそれなりの「道」??博打道があったことは、当時の史料の中でもはっきりいわれています。平安時代の末、「双六別当」「巫女別当」という役職が、加賀国の国ガにあったことがわかっており、京都の朝廷の官庁にも、双六打、博打打や、巫女を統括する役所があったことは確実です。実際、上皇の妃である女院がお産をするとき、祈祷師(験者)のうしろに、悪い「物の怪」をつける「物付」になった巫女がいるのですが、そのそばに双六の盤がおいてあるのです。そして巫女は「博を打つ」、多分さいころをふっています。これも民間でも行われており、博打打と巫女は宮廷でも密接な関係があったのです。
このような意味で博打打も巫女も職人の一種と考えてよいので、両者が番いにされているのも、こう考えれば当然のことです。そして十三世紀につくられた初期の職人歌合が、手工業者、商人、あるいは芸能民などの「職人」を神仏とのつながりのなかでとらえるとらえるいう見方に立っていたことは、この事実を通してはっきりとうかがうことができると思います。
(66.67.68頁より抜粋)”)
※供御=天皇や貴人の食べるもの。
(つまり供御人=支配層が〔精神的に〕食べる人≒生贄ってこと?)
・外れた人々は独特の服装をしていてそれが関所でのチェック項目になっていた。自由通行の特権衣裳。
山賊や海賊も手が出せない。
神人や供御人自身や持ち物を傷つけたり殺したりすると、大変厳しい罰を受けなくてはならないと考えられていて、彼らの死骸のある場所はそれ自体が聖なる場所となりシン仏の所領とされた。
なので、年貢取り立てに起用することもあった。
以上のような特質は、十四~十五世紀以降から大きく変わっていく。
だんだん、俗的になっていく。
・室町時代となると、金融、勧進等などによる寺院の経営が始まる。
鎌倉新仏教系の寺院に多い。禅宗、日蓮宗、律宗、浄土宗、時宗など。土地の所領はあまり持っておらず、特定の檀家や有力な外護者(げごしゃ)からの土地の寄進を受け、その力で維持していた。氏寺などとは異なる。
第3章 畏怖と賎視
・八世紀になると、律令国家が動揺し始めるせいで浮浪者や逃亡者などがたくさん出た結果、重病人や捨て子が問題になったので、非田院、施薬院(せやくいん)を作り、国家の力で救済した。光明皇后の仏教への帰依が原動力。
(税を納める人員確保の目的もあっただろうね)
・平安時代、非田院にいた人々に新生連という姓を与え、都の戸籍に載せて一戸の家とする。
奴婢ではなく、一般の良民、平民として扱われるが「新生連」という印のせいで、一見して非田院出身とわかるようになっている。
(戸籍見たら養子だとわかる今の制度みたいだ。
特別養子だと養子だと分らないようにするけどね。
法律定義集bot @eightspan_crow 7月22日
【特別養子縁組】…家庭裁判所の審判によって幼少時の養子につき、実方との親族関係を断絶し、実体的な法律関係のみならず、戸籍上も養親の実子として取り扱う特別の養子制度。戸籍の父母欄には養親の氏名のみが記載され、続柄も実子と同じように記載される。普通の養子縁組の要件より厳格
じゃがいも @_potato_0723 7月2日
特別養子縁組は両親との関係を断ち切ることができて、年齢制限あり
普通の養子縁組は両親との関係を断ち切らないで、両親、養親ともに存在し戸籍上は養女、養子となる年齢制限なし 私はここが大きな違いだと思ってる)
・ケガレとは、人間と自然のそれなりに均衡のとれた状態に欠損が生じたり、均衡が崩れたりしたとき、それによって人間社会の内部におこる恐れ、不安と結びついている、と考えることができる。恐らく死の不安や恐怖。
・十四世紀までの非人は、江戸時代の被差別部落とは異なる。
神人・寄人と同様、一般の平民百姓とはっきり区別されていた上に、神仏の「奴婢」として聖なる方向に区別された存在だったので、迫害されるだけの身分ではなく、畏怖や畏敬される一面も持つ。
よって不自由民である下人、すなわち世俗の奴婢ともまったく違う存在だった。
畏れられていたケガレを清める力をもつ聖別された職能民として位置づけられることもあった。
俗人には清められぬのじゃ。
南北朝前期の史料に「河原細工丸」といわれる人々が出てくる。長者に率いられて祇園社に属し、「裏無」(うらなし)といわれる履物を献納していた彼らは、「清目」とも呼ばれていた。
斃(へい)牛馬の葬送・解体・皮の処理や、牛や馬の死に伴うケガレの「清め」も河原で行っていた。ケガレを境目にて水に流す。
また、南北朝以降の史料には、井戸を掘ったり、大きな石や樹木を動かすなど、土木作業に携わったりしているのは、自然に対する畏怖の念が強く、自然を大きく改変する事に極めて慎重だった。
井戸を掘る際に陰陽師や河原者が関わっていたらしい。
ケガレ祓い。
・放免とは、広い意味の非人であり、獄舎につながれた後、放免された人々。着釱(ちゃくだ:足枷をつけている人々)とも呼ばれている。
放免された後、天皇直属の検非違使庁の下部(しもべ)にされて蛇の道は蛇だからと利用された。
童名(わらわな)という、幼名に「丸」をつける慣習がある。
しかし、放免は、例外なく「丸」をつけている。大人でありながら「丸」を名乗り、髪形などの姿形も童姿の者たちがいる。たとえば牛飼い。牛飼童。
童は、聖俗の境界にある特異な存在と考えられていたので、名前自体に聖性を持たせた。
(言霊ですね)
牛飼童の髪型を絵巻物で見ると「本鳥(もとどり)」を結ばずに髪を長く流して途中を結んだ髪型でポニーテールみたいな感じだ。ときには顎髭などをはやしている。
当時はもとどりを結んで折烏帽子(おりえぼし)をかぶるのが平民の成年男子の髪型なので、もとどりを切られてざんばら髪、蓬髪にされることは、平民の成人としての地位を剥奪されるほどに重要だった。
本鳥切りという処罰があったほどであり、もとどりを切るのは大きな侮辱を与えることであった。
ところが牛飼はもとどりを結っておらず童姿だった。
八瀬童子(やせどうじ)という、貴人の輿や柩をかつぐ人達が京都の北に住んでいた。かつて大正天皇の柩を誰が担ぐかで問題になったが、結局、京都の八瀬童子が担いだ。しかし皆が年寄りだったので重厚な柩をあわや落としそうになったりしたらしい。
昭和天皇の時も葬列に加わっている。
やせどうじの歴史は非常に古い。
平安時代、十一世紀後半には史料に登場する。
青蓮院(※)に属している炭焼きだった。畏れ多くも自然物を焼く仕事だ。
やせどうじはの名前には「丸」がついていて、恐らく子どもの格好をしていたのだろう。
伝承によると鬼の子孫らしい。
※青蓮院は、三千院(梶井門跡)、妙法院と共に、天台宗の三門跡寺院とされる。「門跡寺院」とは皇室や摂関家の子弟が入寺する寺院(神社じゃないよ!)のことであり、青蓮院は多くの法親王(天皇の皇子や伏見宮家などの皇族の男子で出家後に親王宣下を受けた者)が門主(住職)を務め、宮門跡寺院(門跡神社なんてないよ!)として高い格式を誇ってきた。
・中世前期までの牛馬は「畜生」や「四つ足」などとよばれて、卑しい動物という捉え方をされていなかった可能性がある。
絵巻物の牛は共通して恐い顔をしていて、ときによると牛飼を引っ張って疾走している。おとなしい動物だとは思われていなかったらしい。
要は野獣とみなされていて、それゆえに特殊な地位でないと扱えないとされたのかもしれない。自然物への畏敬だろう。虐待すれば天罰を受けるような獣だった。
・犬神人(いぬひじにん、いぬじにん、いぬじんにん、つるめそう=弦売僧)は、境内や御幸路の死穢の清掃などに従事した。
死者に対して贈られるものと副葬品を収入として取ると言う特権を与えられていた。
祇園社犬神人が現存する限り初めて登場したのは、日蓮の『御書』であり、嘉禄3年(1227年)の山門(比叡山延暦寺)の法然墓所破却が「犬神人(つるめそう)」に命じて行ったとある。
犬という言葉は卑しい意味ではなく、死者の物を取れる=俗ではない存在、という意味だろう。
(犬神人は死んだところが聖なる場になるから犬死にじゃないね)
「丸」は聖と俗の境であることを示し、呪的な力を与えたいときに名前に使うことがあった。
船や刀の名前に「丸」ってつける。命を預ける物だから。
楽器にも丸をつけていた。当時は音はシン仏をの関係でとらえていたから。
子どもの地位は特殊。七歳まではカミのうち。実際、平安時代末に、ある子どもが悪人を指名すると、上皇が本気で検非違使庁に命じて指名された人を捕まえさせることをやっているほど。
(鬼=キ=霊魂やゴースト。
中国語で鬼城=ゴーストタウン)
パン屋襲撃 @c3po2006 2013年11月20日
『日本の歴史をよみなおす(全)』 p113 野獣、あるいは野獣に近い動物は人の力をこえたものを持っており、それを扱う人びとも、ふつうの人と異なる特異な力をもっているという考え方がこの時期の社会にはあったのではないかと思います。
p115 むしろいまあげた「丸」をつけるものは、みないわば聖俗の境界にあるものであることに注意する必要がある。 ← 幼名(梵天丸等)、船の名前(咸臨丸等)、剣の名前(髭切丸等))
・『塵袋』(ちりぶくろ)という、鎌倉後期の古辞書における「穢多」の項目では、「キヨメヲエタと云フ」(清目=えた)、「根本ハ餌取ト云フヘキ歟。餌ト云フハシシムラ鷹ノ餌ヲ云フナルヘシ」(元々は鷹などを飼うための餌を取る職業を意味しており、それが転じて殺生を業とする者全般が穢多と呼ばれるようになった)、最後に「イキ物ヲ殺テウルエタ躰ノ悪人也」としている。
(カタカナ表記なのは『塵袋』が問答形式だからだろうね)
非人や河原者を「穢れ多い」悪人と見なす差別意識、卑賤視する見方が現れてきたことを示す。ケガレを恐れ、畏怖する意識が次第に消え、これを忌避しうる、汚穢として嫌悪するような意識が強くなってきた。自然がより明らかに人々の目に見えてきたために(文明化)、エタなどの人々へ抱いていた畏れの念が薄まり、忌避の念は薄まらなかったからだろう。自然観が変われば対応も変わるのだ。
一五世紀に入る頃、非人、河原者などの人々を「穢多」と呼ぶことが広まり、「清目」も差別語になった。一四世紀を境に、「穢れ」の観念について、かなり大きな社会的変化があったらしい。
・鎌倉新仏教とは、一三世紀後半の時期=ケガレに対する思想的な緊張のあった時期=ケガレに対する意識の転換期、に登場した、ケガレに携わる人々を救済する宗教である。
親鸞の「悪人正機説」なんてまさにそう。
『一遍聖絵』『一遍上人絵詞伝』には他の絵巻物と比べてもたくさんの非人、乞食が登場する。
浄土宗、一向宗、時宗、日蓮宗、禅宗、律宗は悪人、非人、女性に関わる悪、穢れの問題に、正面から取り組もうとした宗教であり、
時宗に関しては、ばくち打ちや童名の者とも近しい関係にある山賊や海賊などの悪党たちが高札を立てて、一遍の布教を妨害するなと宣言したので、三年間も妨害なしで活動できた。
対して、
『天狗草紙』では一遍がやっていることは天狗の所業だと悪罵し徹底的に、えた・非人らを卑しいとしている。
十三世紀末の思想対立がはっきり見られる。
被差別部落が東日本では非常に少ないのは東西の思想と慣習の違いによる。
東日本ではえな(胞衣)をなるべく人が踏んでいけるような戸口や辻などに埋めるが、西日本では、できるだけえなを遠ざけ床下に穴を深く掘ったり遠くの山に埋めたりした。
東は縄文的で、西は弥生的らしい。
東日本では罪人の首を武士が切り落としているが、西日本では放免あるいは非人にやらせている。
胞衣(えな)信仰
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/enasinko.html
第4章女性をめぐって
・鎌倉新仏教はほぼ共通して非人の救済とともに、女性の救済をもう一つの重要な課題にしている。
(中国語訳の仏典なので勝手に儒教的=男尊女卑、に改竄されています。原始仏教における、在家も出家も老若男女皆平等だという本来の教えに戻る運動とも言えるかもしれない。サンスクリットを教祖たちが読めたかは分らないので偶然かもしれませんけど)。
制度を考えるのに特に重要なのは、法律があるからといって守られているとは限らない。法律は単なる建前であり、実際は違っているかもしれないと常に念頭に置いておかないといけない。
明治になっても早いころの離婚率は非常に高いことから、江戸時代の離婚率も相当高いと推察できる。
江戸時代は夫だけが離婚権を持っているというステレオタイプは間違いで、妻の飛び出し離婚もかなりあったと思われる。妻が帰って来ないのでなく泣く離縁状を書く事態もずいぶんあった模様。
縁切り寺に行かないと離婚は絶対できないわけでもなかったらしい。
離縁状だけを見てしまうと、夫が妻に与える形なので誤解を招きやすい。
書く権利ではなく(しなくてもよい)、義務だった(しないとだめ)。そうしないと夫も再婚できない。
・神社や寺院に参籠して子供が授かった話があるが、俗なる関係(夫婦関係など)がない無縁の場所だったのでフリーセックスが行われた結果かもしれない。
・旅人は世俗と縁が切れている。山野・浦浜・市町・道路でおこった殺人事件などはその場にいた者だけで処理をしてかたき討ちのようなかたちで世俗の世界に持ち込んではならないとされたりした。
また中世、道を歩く女性に対して「女捕り(めとり)」、「辻捕り」が行われることがあった。強姦とは少し違う。少なくも建前上は強姦として法令で厳しく禁じられているが、あまり罪は重くない。貞永式目でも禁止されているが、「法師については斟酌あるべし」=坊さんなら(おそらく女性と性交渉の機会がない)事情を考えよ、とある。
道は聖性(性性?)を持っていたらしい。
・十世紀~十一世紀、女性の長者に率いられた、自立した女性職能集団として「遊女」が現れてくる。白拍子、傀儡とともに、神人、寄人と同様、天皇や神に直属する女性職能民だった。
(聖的なものは性的なものでもあるのです)
桂女(鮎売り女性)と大原女(炭や薪を売る女性)がいた。桂女は独特な被りものをしていて、一般人でないことが見ただけで分かるようにして遍歴している。
(パン屋襲撃 @c3po2006 2013年11月20日
『日本の歴史をよみなおす(全)』 p147 文書だけを見ていると、夫が離婚の専権を握っているかのごとく見えるのですが、実際は、むしろ夫は離縁状を書く義務があるといったほうがよい。 ← "三行半=低い女性の地位"という記述が高校歴史教科書からは削除されているかも…
p151 神前や仏前は神仏の力のおよぶ場所であり、そこでは世俗の縁が切れる。万葉集、風土記などに出てくる歌垣の場のように、そこには世俗の妻や夫の関係は持ち込まれない場所であり、(続)
p151 (続)それゆえに、男女が自由に交渉することができたと考えても、決しておかしくないのではないかと思います。 ← 祭りでの浴衣姿に発情するのはその名残りかも知れません。
p165 そうした聖なる倉である土倉の管理に女性がかなりの比重が現れるという事実は、女性の性そのものの特質とおそらく不可分の関係にあるのだと思います。 ← キリスト教世界では女性以外が子を産むのを禁じ、利子を認めなかったと(ヴェニスの商人)。)
第5章 天皇と「日本」の国号
・天皇という称号が安定的に用いられ、制度的に定着するのは、清御原律令制定の頃であり、持統天皇から。つまり持統天皇より前の天皇は天皇ではなく大王(おおきみ)と呼ぶべき。
日本という国号も、七世紀後半、律令体制が確立した天武大王、持統天皇のころ、天皇の称号とセットで定まったと考えられている。それ以前に日本も日本人も存在していない。倭人である。
ちなみに、柵封体制下では国号とは自ら名乗るのではなく中国皇帝から与えられるものだった。
(子子子子子(ねここねこ) @kitsuchitsuchi 10月30日
神道のお札の元ネタは道教のお札。
茅山道教を創始した陶弘景(5・6世紀。皇帝の相談役)は「道教は神道」と主張。
天皇崇拝は星崇拝であり太陽崇拝ではない(天照は誤り)。天皇は天皇大帝の略称。天皇大帝は北極星の神格化であり剣と鏡の二種を象徴として持つ。日本の皇室でも元来は二種の神器。)
桓武天皇は、天智大王系の天皇であり、八世紀、一貫して天皇および大王だった天武大王の皇統につながる人を全部抹殺して天皇となったことから新王朝の王とみる見解もある。その桓武天皇は昊天上帝(こうてんじょうてい)、天帝を祀る中国大陸風の祭祀をしているが、結局は自らの正当性を示す手段として使われていた。
(桓武天皇の母親は、百済系渡来人の高野新傘(たかののにいがさ)だったことも関係しているのかもしれません。
朝鮮半島に住んでいた人の血が天皇家には入っていることを偽天皇が認めたことを、統一教会や生長の家や神道政治連盟や日本会議の似非右翼の皆様は無視するんだよねー。
パン屋襲撃 @c3po2006 2013年11月23日
『日本の歴史をよみなおす(全)』 p186 まず、中国の律令制の骨格は儒教で、天命思想、易姓革命の思想(天子は天の命によってその地位にあるので、天子に徳がなければ、天の命があらたまり、天子の姓がかわる。王朝が交替するという思想)がその背景にあるのですが、(続)
p186 (続)この国家が律令制を取り入れる時に、この天命思想と易姓革命の思想は注意深く排除しているということが注目されます。 ← 中国共産党に"徳"はあるのか。
p204 実際、天皇の称号の定着した持統以来、江戸時代までの天皇は、二、三の例外を除き、みな火葬で、聖武以来仏式ですし、墓も泉湧寺をはじめ、寺院に葬られていたのです。 ← 再び火葬に戻ることは、先日ニュースになってた。
……
天命思想と易姓革命の思想を排除したのは、それらを理由に叛逆されないためでしょうね)
天皇の二つの顔
太政官という貴族合議体の頂点に立つ、公の王としての天皇の顔
各地の贄の貢進をうけとる律令には規定されていない、祭司や稲の王としての天皇の顔である。各地の生産者や職能者とモノを通して結びついていたりする天皇(家)。
おおやけ=大宅(共同体の代表である首長の家や倉)=公
公家=(古代では)天皇。
中世には、将軍=公方(くぼう)、
近世では、幕府・大名=公儀。
平民たちが、年貢・租税を廃棄せよというスローガンを公然と掲げたことは、古代から近世にいたるまでほとんど見られない。租税、年貢を減免せよ、軽減せよという運動は無数におこっているが、年貢をすべて撤廃せよという運動は見られない。
九世紀のころから宮廷行事に仏教行事が本格的に入り込んでくる。もともと僧綱(そうごう)という僧侶の統制機関が律令制の中に設けられていて、国家が僧尼令によって寺院や僧侶を厳しく統制していたのだが、大仏造営の過程で事態が大きく変わり、天皇自身が「仏の奴婢」とまでになってくる。
さらには天台宗と真言宗が登場しだしてくることもあいまって、十世紀以降になると神社と結びついた大寺院の力が非常に強くなってくる。
実際、天皇の称号が定着した持統天皇以来、江戸時代までの天皇は、二三の例外を除き、みな火葬で、聖武天皇以来みな仏式であり、墓も泉涌寺(※。せんにゅうじ。御寺[みてら]と呼ばれる)をはじめ、寺院に葬られていた。墳丘もつくられていないので、昭和天皇のような葬儀や墓は、明治以降にはじめられた。
(「古来の伝統」なんてものは簡単に捏造できます。
伝統=長く続いてきた、と言うなら仏教式じゃないとね。
神道式=キリスト教の変化形式)
※泉涌寺。
ウィキみると、京都市東山区泉涌寺山内(やまのうち)町にある真言宗泉涌寺派総本山の寺院とあるくせに、後の記述で、泉涌寺は律を中心として天台、東密(真言)、禅、浄土の四宗兼学(または律を含めて五宗兼学とも)の道場として栄えたとある。天皇家が戒壇まで作った天台宗系じゃないの? 真言宗の戒壇って天皇家は作っていないんじゃないのかな。真言宗って途中で滅びかけているしおかしいね。
理由↓
“以前なんか「鑑真をやけに取り上げてる」と思った答えなんだけど、「たぶん」天台宗と鑑真の関係だと思う。【20080912】
天台宗はもともと、「北朝天皇の宗教」だったわけ。
で、鑑真=唐で新羅とも関係あるんだけどね。
これは歴代の北朝天皇の菩提寺である京都東山の泉涌寺(せんにゅうじ)も天台宗だったわけ。
1872年に真言宗に改宗させられてるけどね。
さらに鑑真と北朝宗教の天台宗でいうなら、鞍馬寺。(ここと繋がりが深い→貴船神社、貴船→賀茂で、神社全庁にも繋がる)。
鞍馬寺は、もともと天台宗で、神智学に影響されてスピリチュアル化した、今は鞍馬弘教、鑑真の弟子、鑑禎によって作られた。
この鞍馬寺が北朝宗教を微妙に継承し、神智学化したスピリチュアル仏教の巣みたいなとこと予想している。
神社全庁との関係があることでもわかるとおり、今の北朝=左翼と重なる左メソと、南朝支配の明治維新の根幹をなした坂本竜馬のように、その南北融合的なポジションにいたのが鑑真だったってことね。
北朝宗教=天台宗なら、簡単な構図でしょ?
明治維新の時、こういう北朝仏教を弾圧し、一部はこうやって融合した段取りをつけたのがどこかってことなんだけど。
北朝天皇のお墓、泉涌寺を廃仏毀釈で、一時は閉鎖寸前まで追い込み、そして「真言宗」に改宗させたことでもわかるとおり、その神道勢と一緒に天皇すり替えを加担した仏教部の中心が、あの真言宗の本山、「高野山」なわけです。
で、当時は絶えていた南朝正統宗教、真言密教の立川流を復活させてできたのが真如苑なわけ。
天台の教義には、法華経(円)+密(台密)・禅・戒という四宗兼学という言葉があります。
それなのに、その教義に「自分の宗派が一番!」と言い張ってた=対立していた真言宗が、同じ密教だから「無理やり」含まれたことにしてしまってるわけ。
もともと天台宗だった天皇家の菩提寺である泉涌寺が(調べりゃ誰でもわかる)、明治維新後にいきなり、この理論から「真言宗の泉涌寺派」などとなっちまってることから、簡単にわかることなんだけどね。“轍(わだち)【20101126】http://www.mkmogura.com/blog/2010/11/26/972
北朝鮮の核【20080912】
http://www.mkmogura.com/blog/2008/09/12/138
”P129の「次の標的としての北朝鮮そして日本」
まず、ここに慶尚道、全羅道の対立が書かれている。
韓国内での対立、慶尚道=新羅、全羅道=百済、高句麗=北朝鮮のことだ。
この人は、ちょいと北朝鮮のことを「良く言い過ぎ」な感があるが、高句麗と日本の関係は歴史的に見ても深いのは事実であって、その実例が書かれている。
こっから、左翼系?と勝手に判断させてもらったが。
「ひとつ、ふたつ、みっつ」、「やま」「たに」などの日本語の読み方が高句麗の言語からのものであること、
6世紀から8世紀ごろの話や、高松塚古墳、長野や福井、新潟の話、続日本記についてなど。
天智天皇が唐からの攻撃から高句麗を守るため、日本から水軍を派遣したこと、百済からの当時の亡命者のために朝廷に役職を増やしたことなど、壬申の乱などについても書かれていたりする。
これは、実に面白い。
知ってのとおり、日本は「南北朝時代」という言葉があるのでわかるとおり、「南朝」と「北朝」という、朝鮮から来た天皇を祭り上げて歴史を作ってきたわけだ。
さらに言うなら、
>創価学会の母体となった大日本皇道立教会は、南朝を正統とし、その皇道に沿った教育を行う趣旨の元で、1911年に創立された。
そういうこと、創価学会も南朝を掲げている。
昭和天皇と現天皇、靖国カルトを祭り上げてる奴らが慶尚道=新羅なら、創価学会は全羅道=百済になるのかな?ここらへんを今後調べてみたいと思う。
6世紀からの百済の移民が、明治維新後の移民推進に、どう関係してきたのかも。
以前、日本の在日の大部分が全羅道で、戦後の帰国を断った慶尚道とは違うのは書いたわけだ。まず、この本を読んで調べてみればよかった。
まあ、何かわかったら書くつもり。
歴史上、北朝と南朝が入り混じるので、あながち源氏と平氏の対立が今も続いているという話も嘘ではないようだ。
メソなどのイルミナティ勢力や外国からの明確な糸は明治維新からで間違いないと思うのだが。
正直、こんな状態で天皇を祭り上げてるのは、どうかと思う。
「日本という国体維持」に天皇が必要?馬鹿いっちゃいけません。
反権力的な生き方というのは、自分の生まれた土地で、「自分の目に映る大事な物を保守」し、「ない物は作り」「正しいことがわかるように教育し」、多数の反対意見と対立の中で「調和を目指す」ことですよ。
天皇という個人の人権を侵害して、「すり替え説」のように、権力の道具として、あちこちから利用され、奪い合うものに大儀はありません。
(…)
まず、イルミが作った社会主義のシステムを「世襲」でやると、とんでもない馬鹿国家が出来上がるわけだ。
それが今の北朝鮮である。
ただ、世襲が50%を超える安定多数の世襲民主主義である日本も、それに負けず劣らずの馬鹿国家である。
今の日本と北朝鮮の違いは、マーシャルプランにおける貿易黒字をアメリカのために捧げるための成長があったかどうかであって、民主主義、社会主義の違いというものが決定的根拠にはならない。
(…)
相手がイヤなことをしたら、こっちもする。利があるなら、同じぐらいの利で返す。
政治というか、国際間の綱引きとは、ただ、それだけなんだと思うが。
そのバランス感覚については日本は正直、低いと思う。島国だからかな?
これは、すべての国が「自分以外は敵」であって、初めて成り立つ。
共通の敵を作ると、歩調を合わすことになりそうだが、それが反共と共産主義、その他モロモロでアンバランス化するのは歴史が物語っている。
そんなアンバランスの先は、二元論の先であって、間違った答えとして統一された「新世界政府」があるわけです。
正しい対立と、多様性、そこから生まれる調和というものを考えなければと思うわけである。生物的な話だと普通のことなんだけど。
うーん、政治にも繋がる話なんだけど、対立しあって調和する中央銀行のシステムを考えなきゃ。
今のシステムでは戦争がなければ、調和は生まれないとも思ってるわけで。難しいかな?ここらへんの話は。
俺は戦争も武力も否定しない、搾取も人類削減計画も。むしろ存在自体は肯定する。それは対立の一種であり、多様化に繋がることだから。
でも、それ以外の「正しい対立」があると思うのよ。
周りに流されて生かされてるだけならば、北朝鮮の武器もって行列組んでる奴らも、餓死者も、今の日本に住む奴と何も変わらない。”)
・鎌倉幕府の評価における学者の派閥
鎌倉幕府は自立した国家の一つの型とする説は東京と九州の学者に多い。
京都朝廷の軍事部門担当の出先機関とする説は京都と東北の学者に多い。
邪馬台国論争では
東京の学者は九州説で
京都の学者は畿内説が多いらしい。
(古代の発音を考えると畿内説が正しいだろうけど。
やまたいこくって読んだ本居宣長のせいで無駄な争いをしてきたね。
当時の発音を知る為に古代中国語や古代朝鮮語を学ばないと駄目だよね)
鎌倉幕府の特性として
将軍は天皇によって任命される
元号は朝廷のものを使っている
官職体系は朝廷のものとはいえ、右大臣となった源実朝が公卿会議に出てないし、執権が右京大夫になっても京都の行政に関わっていない。
国号がない。
天皇の統治権が東国に及ばなくなった。
蒙古襲来後は九州にも及ばなくなる。
外交権も幕府が持っていたと言える。
天皇「職」は十三世紀後半以降、事実上幕府の意志で決まるようになってきた。
上記のような天皇家の実情をうけて、天皇家も勿論いろいろ改革したりした。
花園天皇や後醍醐天皇が、しきりに鎌倉新仏教(当時では日の浅い新興宗教的扱い)の流れを組む禅僧や、昔からある律宗を身近に呼び寄せたり、律僧の中でも真言密教に深く足を踏み入れた人、文観(もんかん)などを近づけている。
(明治になって、歴代の北朝天皇の菩提寺である京都東山の天台宗寺院である泉涌寺が真言宗に改宗させられたことと関係しているだろうね。
※文観
般若寺の律宗の僧で邪教とされていた真言宗立川流の僧。
後醍醐天皇に重用されて醍醐寺座主・天王寺別当となる。後醍醐天皇中宮藤原禧子の御産祈願と称して鎌倉幕府の調伏などを行っていた事が発覚し、元徳2年(1331年)には逮捕され硫黄島へ流罪。元弘の乱の後に鎌倉幕府が滅亡すると京都へ戻り、建武の新政から南北朝時代となっても後醍醐方に属して吉野へ随行し、東寺長者、大僧正となる。
※真言立川流
真言宗の超異端派セックスカルト。立川流の真髄は性交によって男女が真言宗の本尊、大日如来と一体になることである←これホント。
北朝の天台宗と真っ向から反逆する教義ですね。
敵の宗教を信仰はしませんよってことです。
さすが南朝正統宗教である真言宗異端派の立川流。
この宗教って遊女勢力と結びついてそうだ。遊女勢力は非人あるいは非人的性質を持っているからおかしくないし。
【08】「日本の歴史をよみなおす」第3回レジュメ
http://marunekodosemi.blogspot.jp/2015/06/083.html
”いわゆる平将門、藤原純友の乱で、純友は新羅の海賊とつながりを持っていたと思いますが、独自な国家まではつくりませんでした。しかし、将門の場合は、三ヶ月たらずではあれ、王朝の任命した国司を追いはらって新しい国家をつくり、将門自身は新しい天皇、「新皇」という称号を、八幡の神、菅原道真からあたえられるのです。そして、下総に都を置き、のこりの関東の七カ国に伊豆を加えた八カ国に、国司を任命して、東国国家を樹立します。東国はここで、京都の王朝の統治権からごく短期間であれ、完全に離脱したわけです。日本列島には決して一つの国家だけがあったのではなく、複数の国家があったことをこの事実がよく示しているといえましょう。[205]”
平将門の乱
3か月足らずだが、王朝の任命した国司を追い払って新しい国家を作った。
将門自身、「新皇」という称号を、八幡の神・菅原道真から与えられる。
下総に都を置き、残りの関東の七カ国に伊豆を加えた八カ国に国司を任命し、東国国家を樹立。
藤原純友の乱
藤原純友は新羅の海賊とつながりがあったと思われる。
瀬戸内海から北九州、さらに朝鮮半島との間の緊密な海上交通を基盤としておきた政治動乱。
大陸系仏教 陸路・土地・農業が税の基準 朝廷
VS
海賊系土着信仰 新国家 新宗教
網野善彦「日本の歴史をよみなおす」、第5章天皇と「日本」の国号のまとめと感想
http://ameblo.jp/pianoforte007/entry-11768496286.html
”「職の体系」、神人・供御人制と天皇;
「特定の職を特定の氏が世襲的に請け負う【職の体系】官司請負制といわれる体制が11, 12世紀には国家の体制として形成されてくる。これは王朝国家の体制ともいわれています。職の体系のトップに天皇がいるわけで、天皇は【天皇職】を世襲的に継承することになったといってよい」(200-201頁)
「このような王朝国家を支えた土地制度、租税制度が11世紀の中葉ごろから本格的に形成された荘園公領制という体制です」(201頁)
「荘園公領制の確立と並行して、11, 12世紀ごろに、神人・供御人制という職能民、非農業民にかかわる制度が確立します」(202頁)
仏教と天皇;
「天皇の権威も、在来の神だけではなくて、早くから仏教と深いかかわりを持ちつつ保たれていた」(203頁)
「13世紀の後半から、天皇が即位の時に、密教の灌頂の儀式を行う、【即位灌頂】という儀式をやっていた」(204頁)
日本列島には複数の国家があった;
「鎌倉幕府の評価については、これを一応自立した国家、中世国家のひとつの型として認める見方と、王朝ー京都の権力の出先機関として軍事的な部門を担当する、ひとつの権門にすぎないという見方とが対立しています」(206頁)
「王朝の官職は鎌倉時代にはまだ意味を持っていますが、幕府側の人に与えられた官職は、ほとんど形骸化している」(208頁)
「天皇の統治権が東国におよばなかったことは、重要なことで、やがて蒙古襲来後は九州にも及ばなくなります。さらに外交権も幕府が持っていたと言えますし、【天皇職】は、13世紀後半以降、事実上、幕府の意志できまるようになってきたことは十分注目しておく必要がある」(208頁)”)
・後醍醐天皇はとにかく思いきったことをやる。天皇主導のもとで新しすぎる宗教思想や外来思想を動員して、天皇の権威の危機をなんとかしようとした。
後醍醐天皇は「神人」や、シン仏に準ずる天皇の直属民「供御人」的な勢力を、非人まで含めて軍事力として動員したり、商業を掌握し、貨幣まで発行しようとしている(貨幣鋳造は統一王朝の権力を示す)。
江戸時代になって、武家に対する批判がでてきたとき、それに代わる権威は北朝ではだめだった。北朝は武家と野合し続けている天皇なので、持ち上げようとしても持ち上げようがない。南朝があったからこそ、はじめて武家に対して対抗しうる権威として天皇をかつぐことが可能になっているわけで、南朝の存在がなければ、これは不可能だった。だから、明治天皇は北朝の子孫なのに早くから南朝を正統とすることに決めたのだと思う、と筆者はいっている。
(いやいやいや自分の系統=北朝が正統でないと言うのはさすがにやりすぎでしょ。私は王になる資格なしって言っていることになっちゃうよ。
天皇家が非常に懸命に大切にしてきたのが正統性なのにね。
スクールデイズというゲームでは
南朝を正統とした桂太郎と同じ苗字のヒロインが人気投票一位で、北朝系の西園寺公望と同じ苗字のヒロインは不人気投票一位って明らかに操作されているよね)
・職能民の伝説には貴種流離譚伝説の形を持つものを含めて、起源が天皇であるものが多い。
鋳物師は近衛天皇
木地屋は惟喬親王(これたかしんのう)
被差別部落は醍醐天皇
遊女は光孝天皇。
(惟喬親王
文徳天皇の第一皇子。しかし、文徳天皇は皇太子として第四皇子・惟仁親王=後の清和天皇を立てた。惟喬親王の母が紀氏の出身で後ろ盾が弱かったが、惟仁親王の母は藤原良房の娘・明子だったからでしょう)
〈続・日本の歴史をよみなおす〉
第1章 日本の社会は農業社会か
農業社会ではない。
百姓とは普通の人々、一般人という意味。
たくさんの(百)姓をもった一般の人民。
古代は「おおみたから」と読まれ、農民の意味は勿論ない。
現在でも中国語や韓国語では百姓は文字通りpeopleの意味で使われている。
非農業民を多く含む。
農民は百姓ではない。
百姓は農民ではない。
百姓には海の民、山の民、廻船人も含まれる。漁業、塩業、林業などは無視する学会。
中央政府は農業を基本単位にしていたので、正式文書は当然農業本位になるから誤解が生じた。
江戸時代、年貢の賦課基準となる石高をまったく持っていた、つまり年貢の賦課される田畑を持っていない人を水呑といい、教科書では貧しい農民、小作人と言っている。
無高(石高なし)の百姓を「頭振」と呼ぶ地方もあるが、これは水呑と同じ意味。
水呑百姓が貧乏だとは限らない。土地がない≠貧乏、は現代と同じ。
土地を持てないほどに貧しい農民なのではなく、むしろ土地を持つ必要がない金持ちの多角的企業家は昔からいたのだが、彼らはずっと農地がない=貧乏、だと勝手にみなされてきたの。
村は農村とは限らないし、水呑(頭振)ばかりでも貧しい地域とは限らない。
江戸時代はに町と認められたのは、城下町や堺や博多のような大都市だけで、実質は都市でも大名の権力とかかわりのない都市は制度的には村とされた。
村とされ、検地され、田畑(石高)があれば百姓、なければ水呑だとされた。
農村ではなく山村や漁村では当然水呑ばかりになるが、貧乏とは限らない。
あと、昔の地形は今と全然違っていることに気をつけないといけない。
岐阜県は古代には大垣の近くまで海が入っていたりしたなど。
律令国家の班田収受では海の民にまで水田を与えようとしていたりするように、徹底して水田を基礎にした統治システムにしようとしていた。それは江戸時代までずっと続く。
江戸時代には、田畑や屋敷、山や海、塩の収入までも米に換算したほどに徹底的。
そのせいで、農業が本業でない例えば廻船交易(船商売)する人までもが、本業は農業で、船商売は副業(農間稼ぎ。のうまかせぎ。作間稼ぎ。さくまかせぎ)だとされている。
本業はどうみてもサラリーマンなのに、たまに副業として農業をやっているだけで、兼業農家といういかにも農業主体のような用語があるのは昔からの流れを組んでいると言える。
正式文書は当然、農業基準のものばかりなので、それを多く読む歴史家は、百姓=農民、だと誤解した。
そこで正式でない文書が大事になる。
裏文書、紙背文書という、廃棄するはずだった文書の裏に日記や記録を書いたために残された文書では、動産に関する記述、非農業的な生業に携わる人々が現れる頻度が高いので、実情がよくわかる。
(チラシの裏紙のメモも百年保存すりゃ立派な資料ですぜ。
土地が飯のタネの人は土地に縛られて逃げにくいから土地を土台にした支配体制にしたのでは?
パン屋襲撃 @c3po2006 2013年11月29日
『日本の歴史をよみなおす(全)』 p243 江戸時代、年貢の賦課基準となる石高をまったく持っていない、つまり年貢の賦課される田畑を持っていない人のことを水呑といっており、教科書では、これを貧しい農民、小作人と説明するのがふつうです。 ← 『詳説日本史』には水呑百姓の記述は無かった
p249 輪島の71%の頭振(水呑)の中には、漆器職人、素麺職人、さらにそれらの販売にたずさわる大商人、あるいは北前船を持つ廻船人などがたくさんいたことは間違いないところですし、百姓の中にも、輪島の有力な商人がいたことも明らかなのです。
p261 土地に租税を課している以上、百姓が農民であってほしいのは、国家のきわめて強い意志であり、国家にとってそれがもっとも望ましい事態だったことを考えておく必要があると思います。 ← "国家"を"農水省"と読み替えると、現代でも使える。
p267 これまで歴史家は、襖下張り文書まで整理して丹念に調べることはほとんどやってきませんでした。 ← リサイクルで使っている紙ですからね…
p279 このように、日本列島の社会は当初から交易を行うことによってはじめて成り立ちうる社会だった、厳密に考えれば「自給自足」の社会など、最初から考えがたいといってよいと私は思います。 ← "国民国家"は不可能なのか…)
第2章 海からみた日本列島
海上ルートがきっちりしていたから朝鮮半島の国と連携できた。
磐井の反乱の「反乱」は一つの中心があることが前提なので、正確には反乱ではなく戦争。
(継体大王 ヤマト王権+百済
VS
磐井 九州の王権+新羅(おそらく海賊勢力も含む))
律令国家は、徹底的に陸路中心の制度であり、都を中心に舗装されたまっすぐな道路を基本にしようとしている。
今までは海上交通、河川交通中心だったが、律令国家はそれを無視するように、強烈な意志で陸上の道を中心とした交通体系をつくる。
交通施設の馬家(うまや)も道に沿って四里の間隔で作られているが、河川の多い列島の地形にもかかわらず水駅(みずのうまや)がほとんど見られない。
軍事的な理由や農本主義が理由だろう。
公的な交通は陸路とはいえ、八世紀にはあやしくなりはじめ、陸上交通中心の無理が表面化し、八世紀前半には重い物を運ぶための川と海の交通が公的に認められ始める。
九世紀には再び海と川の交通が交通体系の主軸になる状況が生まれる。
日本霊異記という説話集は八世紀のことを記述していて、酒や米を出挙するとき小さな升で貸して、大きな升で取り立てる不法な利息をとった田中真人広虫女(たなかのまひとひろむしのめ)が登場するなど、女性や坊さんが金融や商業の担い手になっていたことを確認することができる。
おそらく、国家は二十歳以上の成年男子が公認された国家の成員で、女性や坊さんは基本的な国家の成員から外れていたからだろう。
(男よりも女のほうが聖と俗の境目に近いと考えられていたのかもしれませんね。
税をわざわざ陸路で運んだり、後の江戸時代の参勤交代をなぜ船でしなかったのかなあという疑問が解けた気がします。
パン屋襲撃 @c3po2006 2013年11月29日
『日本の歴史をよみなおす(全)』 p319 まだ神仏と結びついているとはいえ、商業資本、金融資本が動いており、米、絹、布などは、交換手段、支払手段、価値尺度の役割をはたす貨幣として機能し、本格的に流通しているわけで、12世紀にはこうした経済のあり方が軌道にのっているのです。
荘園公領制
十三世紀前半までに確立した土地制度。
各地のネットワークで成り立っていて、自給自足ではない(荘園に限ったことではないが)。
荘園と公領=国衙領との区別がはっきりする。
貴族や寺社はその上に自分たち独自の経済体系(各地の重要拠点を手に入れる)を作り上げていくことになる)
第3章 荘園・公領の世界
山奥だから、離れ小島だから辺鄙という感覚をやめること。
離島だからこそ海によって周囲に開かれ交通の要衝になる場合はいくらでもあるし、川と山の道を動く人々にしてみれば山奥は
以外と人の往来が激しい場合が多い。米が食べられず、粟や稗(ひえ)しか食べられないからといって貧しいとは限らない。
膨大な量の銭が船に積まれていた場合、船の底に置かれるバランスを保つためのバラストにされて運ばれてきたのだろう。
中国からはいってきた大量の銭が社会に貨幣として浸透して流通するのは、東日本では十三世紀前半、西日本では十三世紀後半ごろから。
十二~十三世紀ごろまで貨幣として絹と布が流通していた東日本では西日本よりも早く銭が流通し始める。銭十文を一疋(ひき)というが、疋は絹や布の単位なので絹や布が銭に代わっていったことが見受けられる。
対して
西日本では米が交換手段、価値尺度として用いられて庵、平安時代の末には替米(かえまい)という米の手形も現われている。つまりは、現物を動かさずに、手形で米の支払いをすることも行われているほどなので、貨幣としても十分機能している。ゆえに西日本では銭の流通が遅れた。
こうして十三世紀後半から十四世紀になると鎌倉幕府は、関東公事(くじ)という御家人に対する課役も銭で徴収されている。
そのころになると富の象徴としての銭の蓄蔵も盛んになる。鎌倉末~南北朝期、十四世紀以降、大量の銭が土の中から掘り出される事例が非常に増えてくる。「埋納銭(まいのうせん)」、「備蓄銭」と呼ばれる。
地下の世界は他界なので、土の中に物を埋めると、人間の手を離れシン仏の世界のものになってしまう。地下のものは無主物なので、誰のものでもなくなる。なので埋める=隠す、と短絡的に考えてはいけない。
土に埋めてシン仏に捧げてその土地を使わせてもらう、あるいは無主物にしてあらためて上分物、神物(しんもつ)として金融の資本にしていたということも充分考えられる。
第4章 悪党・海賊と商人・金融業者
鎌倉幕府は、土地問題には熱心だが、金銭貸借や流通や商業関係の訴訟は重要視していなかった。
そこで、十一世紀ことまでは神人や供御人などの国の制度の外にあった人々は自立的な金融・流通ネットワークを作り、裁判も自分たちでやり判決を自らの実力、武力で執行していた。これは公権力としては都合が悪いので、王朝国家は、寄人・神人・供御人らの活動に対する統制を強化しつつ、神人・供御人制を公的な制度とし、十二世紀から十三世紀初めのことまでにこれを軌道に乗せることでその活動を抑制したが一時的だった。
悪党・海賊が、海の領主、山の領主であり、公権力とかかわりなく、交通路の安全を保証する武装勢力として存在していた。
比叡山の山僧や山臥(やまぶし)などは商業・金融に携わり、手形の流通を保証していた者も悪党だったりした
このように、交通路の安全や手形の流通を保証する商人や金融業者のネットワークは、十三世紀後半から十四世紀にかけて悪党・海賊によって保証されていたらしい。
「遊手浮食の輩(ともがら)」などとも呼ばれた彼らは、広域的な組織を持ち、何か揉め事が起きると、賄賂や礼銭をとり、訴訟を請け負ってトラブルを自力で解決していた。
山ゴシとは、事前に賄賂をとること。
契約とは、事後に礼銭をとること。
十三世紀後半から十四世紀にかけて、幕府は執拗なまでに悪党・海賊禁圧令を発布する。交通・流通を統制下に入れようとした。
悪党の「悪」とは、日常の安穏を撹乱する、人の力を超えたものとのつながりをもって考えられており、利潤や利子を得る行為そのもの、商業、金融業そのものを悪ととらえる味方があった。ばくち、好色、けがれ、殺生などなど。
異様なほどの力をもつ者を、悪七兵衛(あくしちびょうえ)、悪源太(あくげんた)、悪左府(あくさふ)。
銭、貨幣の魔力にとりつかれ、利潤や利子を追求する商人や金融業者交通路である山や河海にかかわりつつ、狩猟や漁撈のような殺生を好み、博打に打ち込むような人たちは、田畠を基本と考える農本主義的な政治路線に立つ人たちにとっては、まさしく「悪」。
(「悪」
=秩序を乱しうる、人の力をこえたものとのつながりをもるもの
=支配層が制御しにくいもの)
御内人(みうちびと)=北条氏の家督‐得宗の家臣。商人や金融業者と結びついて、河海や山野の交通路を積極的に支配しようとした。
関東御免津軽船とう津軽まで往復し、交易を営む大船二十艘を、北条氏が掌握していた。
十四世紀には、中国大陸との貿易や唐船の派遣を、北条氏がほとんど独占するなど、有力な港はほとんど北条氏の所領となった。流通と廻船交易の組織を北条氏は積極的に容認することによって掌握しようとした。
従来の農本主義的な御家人勢力との対立をもたらす路線をとった。
鎌倉時代後半から南北朝前半の政治情勢はこの二つの政治路線の激しい対立の中で動いている。
1285年の霜月騒動では
農本主義的な政治路線、御家人勢力代表・安達泰盛×
滅亡 負け
VS
海の民などの悪党と結びつく路線をとった北条氏の御内人代表・平頼綱
○勝ち
霜月騒動以降、悪党や海賊をただ弾圧するだけでなくむしろ支配機構に取り込むようにしていった。
当然反発として、熊野海賊たちの大反乱が起こり、幕府は承久の乱や幕府が滅びるときの戦争並みの兵力を動員した。
蝦夷と呼ばれた北海道の海上勢力とも北条氏は大衝突している。
こういう状況のなかで、後醍醐天皇が登場してくる。後醍醐は、このような北条氏に反発する悪党・海賊の武力にも依存して鎌倉幕府を倒す。それゆえ、後醍醐の政治は、得宗と御内人の推進した政治を、さらに極端にまでおし進めたと考えることができる。
非農本主義的で、商業・金融業者に基礎を置いた政治をしようとした。
それは失敗するが、十四世紀末の足利義満の政権にて、後醍醐がやろうとして失敗したことをほぼ実現する。
十四世紀、南北朝の動乱は、日本の社会自体の大きな転換に伴って起こった激動。商品、貨幣、信用経済がそれまでとは違ったレベルで展開し始め、政治・宗教のあり方にも大きな転換を迫ったところから起こった。文明史的な転換期。
日本、琉球、アイヌがそれぞれ自らのアイデンティティを自覚し始める。民族史的転換期でもある。
琵琶湖を航行するときには、堅田の人を「上乗」(うわのり)として船に乗せることになっていた。堅田の「上乗」の旗を掲げて湖を行けば、安全に航海することができた。堅田=湖の領主。堅田に何の挨拶もせずに。当然、関銭や礼銭を払わないといけないが、航行していると、堅田の人たちによって積荷を差し押さえられたり皆殺しにされたりした。挨拶をしておけばむしろ安全に航海でき警護してくれた。
安芸の国では、東から来た船は東の海賊を一人乗せておけば西の海賊は襲撃しないし、西から来た船は西の海賊を一人乗せておけば東の海賊は襲撃しない。報酬必要。
・一遍の教えはまさしく都市的な宗教。商業や金融業者、それと結びついている女性、さらに「非人」といわれた人びと、一方の見方からは「悪」といわれ、穢れているとされつつある人びとのなかに、一遍の教えは広がっていった。
踊念仏も一種の芸能で、桟敷や舞台をつくって多くの人が見物することをねらっているわけで、多くの人の集まる都市的な場の成立を前提にしてはじめてできたもの。
しかしこういう動きを我慢ならないと考えている勢力も当然あった。
第5章 日本の社会を考えなおす
特に鎌倉時代後半、十三世紀後半以降の社会は、銭貨の流通が活発になり、信用経済といえるような状況が展開し、さまざまな形態の資本、金融資本、あるいは商業貿易資本、さらには土木建設に投資される大きな資本が動くようになっている。少し大胆にいえば、これは資本主義的といってもよいぐらいである。
飢饉はまず非農業的な地域、都市的な場に起こるはず。食料を作っているところは飢饉にはなりにくいはず。
東北は、 意外に都市的な性格を持つ地域だったのかもしれないということ。
農村が一番壊滅しにくいんじゃないの?
むしろ、食糧を輸入している都市部や農業をしていない百姓の村が壊滅したのでは。そして百姓を農民だとみなしたので誤解されたと。
(支配層にまっさきに食料を取り上げられた可能性もありますけどね)
重商主義はすでに生まれていた。少なくとも土台は固まっていた。
明治維新を推進した薩摩、長州、土佐、肥前の諸藩は、みな海を通じて貿易をやっていた。辺境の遅れた大名などではない。江戸時代末までに、日本社会には十分に商工業・金融業などの資本主義的な蓄積があった。
・現在使われている商業関係の用語は、中世以来の歴史的な語彙を用いている。
相場=相庭は中世から使われていた。
切手や切符は平安時代から「手形」の意味で使われていた。
株式=株「職」、仕切、寄付き、大引けなどなど面白い言葉多数。
87夜『日本の歴史をよみなおす』網野善彦|松岡正剛の千夜千冊
https://1000ya.isis.ne.jp/0087.html
↑
イシス
……
おまけ
ヨーロッパ史の一代画期=キリスト教暦1453年。
中世から近世へと移った大転換点。
①コンスタンティノープル陥落して東ローマ帝国が滅亡し、オスマン帝国が地中海の覇権を握った年。
②フランス軍がボルドーをイングランドから奪還し、フランス国内におけるイングランド王の領地はカレーのみとなって百年戦争が終わった年。
①オスマン帝国が、コンスタンティノープルを奪い東ローマ帝国を滅ぼしたことの影響
・ジェノヴァ、ヴェネツィア等の地中海貿易で栄えていた都市国家は、その権益をオスマン帝国に奪われる事になり、イタリア(便宜上そう呼ぶ)の一地方都市へと転落。
・イタリアの国の航海士達の多くは、後にスペインやポルトガル等のイベリアの新興国家に移り、大航海時代=白人による有色人種大虐殺・奴隷誘拐貿易時代の所業に加担する。
・白人キリスト教徒にとってコンスタンティノープルは重要な聖地であり、それを有色人種イスラム教国家であるオスマン帝国に奪われたことによる、(十字軍以降に輪をかけた)教皇の権威失墜。
→宗教改革のきっかけの一つ。
・ コンスタンティノープル陥落前後には、多くのギリシャ人の学者・知識人が東ローマで保存・研究されてきた古代ギリシャ・ローマ時代の文献を携えて西欧へと亡命し、これがイタリア・ルネサンスに多大な影響を与えた。
②百年戦争の影響
・十字軍以来没落しつつあった封建諸侯は衰退
→王権強化
→常備軍や官僚制を整備して国王の中央集権化
→絶対主義王政の基礎完成
・戦術の変化(火器)により騎士階級が没落。
・百年戦争の後、イングランドでは、更に「薔薇戦争」が起こって諸侯は疲弊し没落。
→王権は著しく強化されテューダー朝による絶対君主制へつながる。
・フランスでも宗教戦争が起こって内乱が発生した。が、祖国統一で王権が強くなり、ブルボン朝の絶対君主制へと進んだ。
末代の凡夫@matsudai_bonpu • 6月10日
天皇はいかにして大富豪となりしかhttp://blog.livedoor.jp/gensenkeijiban-bousou/archives/38338123.html …伊藤博文らは、天皇を『生きる神皇』に仕上げることにした。そこでキリスト教を導入した。自らもキリスト教に帰依した伊藤は朝廷内部にキリスト教を持ち込んだ。国家神道とキリスト教は驚くほど似ている。と。
ヤシロタケツグ@yashiro_with_t • 4月18日
【1-5要約】定住民の記録は史料に残るが、漂泊する民の記録は残らない。それが網野善彦の教え。「百姓は農民ではない」例:能登半島の農民は痩せた耕作地しかないがみな豊かだった。日本海側一帯で商業活動をしていたから。史料に残らない非定住民の存在も考慮することが大事。
mipoko:NoNukes&NoFur @mipoko611 7月25日
網野本の奥能登の「百姓」に関する記述がおもしろかった。農本主義経済が建前の日本の公的な古文書から見ると、田を持たない「水呑」とされている奥能登の「百姓」は、実はサハリンまで北前船を走らせる商業活動をしてて裕福だったって話。
岸本元 @bowwowolf 3月24日
網野善彦先生の両親もイトコ婚。それどころか《父の両親、つまり私の祖父、祖母もいとこ。母の両親、祖父と祖母もいとこでした》と『日本の歴史をよみなおす』で書かれている。網野先生は日本の社会では近親婚に対するタブーがきわめて弱いとも指摘されている。
イスカリオテの湯葉 @yubais 3月9日
https://twitter.com/yubais/status/574919234737729536 … ふぁぼ数で見ると一番人気は網野さんの本かな。 「もののけ姫の原作」と言ったが別にタタリ神やシシ神が出てくるわけではなく、世界観が全般的に網野ベースという事。タタラ場の女が天皇を知らないと言うシーンなど網野史観の特徴が出ている
J・ナナミ @pinkglalem 7月11日
日本の元凶...#天皇。明治維新以前に日本の普通の人たちは、天皇など知らなかった。伊藤博文が、現人神キャンペーンを行ったため、最初は、ヒンドゥー教由来の低級神「天王」と勘違いする人が多かった。
suisei_sensei @shoemaker_levy 12月3日
『もののけ姫』が網野史観に基づいて、アジール的なたたら場で働く非人集団的なハンセン病者集団を描いたという話は有名だけど、あれはあくまで宮崎駿の創作なんですよね。実際に中世のハンセン病者がたたら場で製鉄業に携わったという歴史的な事実の証明はないわけで。
ENDO @BabylonFilmnoir 2014年7月4日
もののけ姫。 登場人物がみんな士農工商の社会から疎外されたアウトサイダーだよね。 アシタカは蝦夷っていう少数民族だし、 タタラ場には穢多•非人、ハンセン病患者が多くいる。彼らにとってはユートピアだけど、戦争の道具を作っているという矛盾がある。プロットがすげえ。
ツモリ @tsumoriiiii 2014年5月24日
もののけ姫のタタラバで働く人々は「非人」がモデルではという話を聞いた。非人って元々は神に近い存在として天皇のお世話をする役割だったらしいです。包帯を体中グルグル巻きにして、柿色の衣を着けていたとか。それが将軍の時代になり卑しい身分へと変えられてしまったんだそうです。
ブッカーTboneしま2 @tboneshima2 2月14日
網野善彦「日本の歴史をよみなおす」前編読了。面白い。本人が筑摩書房の社員に話した内容が書籍化されたようで、どうりで最初は読み難いと感じたわけだ。しかし内容は期待通り。鎌倉以前は女性の領主がいたことなど、その後の家父長制が確立された時代では封印されたような史実が刺激的。
意識の低い人工知能 @stdaux 2月6日
網野『日本の歴史をよみなおす』を読んでいたら女性の寺社参りに関する話があって、一部の寺社では参籠者は男女の別なく雑魚寝だったこと、しばしばそこで参籠者同士の「間違い」が起こっていたことが書かれていた。それに加えて聖域での出来事は俗界に持ち出さぬ習わし……
ケサグリ @kesaguri 2013年9月26日
網野善彦"日本の歴史をよみなおす(全)" 後半読み飛ばししたけど興味深く面白かった。一番興奮したのが中世のケガレの概念と穢多非人、女性たちのとこ。 処女の純潔を少しも重んじない。 妻が夫に財産を高利で貸し付ける。 妻が夫を離別する。 堕胎はきわめてふつうで20回堕した女性がいる。
Spica @Kelangdbn 2013年7月2日
日本ほど処女信仰の希薄な社会も珍しい。まあいわゆる「未開社会」に行けば似た例は幾らもあるんだろうけどやまと言葉に「処女」にあたる単語がないぐらい膜への意識が低い。マリアまで処女にしちゃったキリスト教圏は世界でも屈指の処女崇拝地域。
「おとめ」は未婚女性のことで処女ではないんですよね
……
前回の記事
中ユ同祖論の提唱者にして日ユ同祖論の原型を作った17世紀のイエズス会士ロドリゲス『日本教会史』と
茶の湯とキリシタン大名とキリスト教人脈と大河ドラマと
大日本皇道立教会と
鹿児島版田布施の加治屋町
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-90.html
の補足。
ken @kenkatap
薩摩藩の英留学150年で交流 鹿児島の高校生ら 【どうしん http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/life-topic/life-topic/1-0160271.html …
▼1865年、薩摩藩が若い留学生を英国へ派遣してから150年
▼留学先となった英国の名門大学、UCLで
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%8B%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%B3#.E6.94.BF.E6.B2.BB.E5.AE.B6.E3.83.BB.E5.AE.98.E5.83.9A …
▼森有礼 ▼小泉純一郎
森有礼(薩摩藩士)=一橋大学創設者、初代の文部大臣
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E6%9C%89%E7%A4%BC …
▼キリスト教に深い関心
▼英語の国語化を提唱したこと(国語外国語化論)でも有名
▼1872年イェール大学の言語学教授宛てに「英語を日本の国語とするべきではないだろうか」という書簡を送る
幕末の薩摩藩士の足跡たどる 英国留学生記念館を公開
【西日本 http://www.nishinippon.co.jp/nnp/kagoshima/article/101318 …
▼19人の功績を讃える資料館
▼留学生は1865年、薩摩藩が派遣
▼初代文部大臣の森有礼や大阪商工会議所初代会頭の五代友厚、サッポロビールの前身の会社を設立した村橋久成ら
日本における同性愛 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E5%90%8C%E6%80%A7%E6%84%9B#.E6.B1.9F.E6.88.B8.E6.99.82.E4.BB.A3.E4.B8.AD.E5.BE.8C.E6.9C.9F.EF.BC.9A.E7.94.B7.E8.89.B2.E6.96.87.E5.8C.96.E3.80.81.E4.BD.99.E3.82.8A.E7.9B.AE.E7.AB.8B.E3.81.9F.E3.81.AA.E3.81.84.E6.99.82.E4.BB.A3.E3.81.B8 …
▼1842年、陰間茶屋禁止
▼幕府も享保・寛政・天保の改革で徹底的な風俗取締まり
▼薩摩藩や土佐藩で男色が盛んだったことを除いて行われなくなった
▼近代、明治維新の中心となった薩摩や土佐を中心に衆道は息を吹返した
あまり知られていない鹿児島県人のヤバイ過去
【NAVER まとめ http://matome.naver.jp/odai/2134500560108964301 …
▼えのころ飯
▼死体に一斉にかぶり付く「ひえもんとり」
▼男色というだけでなく強姦・輪姦が日常的に行われていたという
▼男色趣味=薩摩趣味って言われた時代もあった
薩摩藩・島津重豪(8代) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E6%91%A9%E8%97%A9#.E8.BF.91.E4.B8.96 …
▼三女の茂姫を第11代将軍・徳川家斉に嫁がせた
▼外様大名から将軍正室輩出=薩摩藩だけ
▼養女の篤姫を第13代将軍・徳川家定の正継室に (初訪日のフリーメイソン=ティチングは日本の機密を島津重豪を通し収集)
村山有 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E5%B1%B1%E6%9C%89 …
▼日本ボーイスカウトで最初の宗教章「仏教章」を設定した
▼戦後スカウト運動再興期のスカウト指導者
▼米合衆国シアトル生まれの日本のジャーナリスト
▼AP通信社などに勤務
▼フリーメイソンのメンバーであったという記録がある
後藤新平=ボーイスカウト連盟総裁
▼満鉄、NHK・初代総裁
▼正力松太郎に読売を買取らせた
https://twitter.com/kenkatap/status/283006329893822464 …
▼稲川会傘下・大行社設立 https://twitter.com/kenkatap/status/390686019067985920 …
岩手県水沢市三偉人 https://twitter.com/kenkatap/status/290391575136190465 …
後藤新平とフリーメイソン http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E6%96%B0%E5%B9%B3#.E3.83.95.E3.83.AA.E3.83.BC.E3.83.A1.E3.82.A4.E3.82.BD.E3.83.B3.E3.83.AA.E3.83.BC.E3.81.A8.E3.81.AE.E9.96.A2.E4.BF.82 …
▼独留学中、赤十字という国際結社を通じフリーメイソンに入会の可能性
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E9%96%93%E5%8B%95%E7%89%A9%E5%9C%92#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E3.81.AB.E3.82.88.E3.82.8B.E4.BA.BA.E9.96.93.E3.81.AE.E5.B1.95.E7.A4.BA …
▼人間動物園
▼後藤新平は台湾原住民や漢民族習俗等展示
▼纒足の少女による喫茶は大きな話題に
日本のフリーメイソンリー http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%82%BD%E3%83%B3#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E3.81.AE.E3.83.95.E3.83.AA.E3.83.BC.E3.83.A1.E3.82.A4.E3.82.BD.E3.83.B3.E3.83.AA.E3.83.BC …
▼1887年保安条例は、秘密結社禁止
▼フリーメイソンは、日本政府と協議
▼結果、保安条例対象外とする代わり、日本人を入会させない「紳士協定」が交わされた
▼メイソンリー側によれば、記録が残っているという
初訪日のフリーメイソン=イサーク・ティチング
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B0 …
▼1779年、長崎出島に駐在
▼オランダ東インド会社最高位職歴任
▼1795年、乾隆帝(清の第6代皇帝)治世60年記念式典列席
▼日本の機密を、11代将軍徳川家斉の岳父・島津重豪を通し収集
▼島津重豪(8代)=蘭癖
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E9%87%8D%E8%B1%AA …
▼斉彬(11代)を評価
▼シーボルトと会見
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%96%89%E5%BD%AC …
▼斉彬は、島津藩主家で唯一家康の血を引く当主
▼土佐藩の漂流民で米から帰国したジョン万次郎を保護
▼西郷隆盛らを育てた
フェイド大帝 @FeydoTaitei
イエズス会、イエズス会煩いけど、 同じフランシスコでもザビーの 方じゃなくてカブラルの方を 君達はもっと調べた方がいいと思うよ。
mansaku21 @mansaku21 2011年7月25日
7月25日 天正6年(1578)豊後の戦国大名大友宗麟がイエズス会のカブラルから洗礼を受ける。受洗名はフランシスコ
有閑無是 @AlkanMuze 2013年5月14日
カブラルの友人である大友宗麟もヴァリニャーノに対し「司祭方は様々な困難にぶつかりつつ、次第に賢明になるだろう、・・・自分の国ではその習慣でよろしかろうが、日本人を改宗させようと言うのならば、日本語を学び、日本の礼法に合うように生活せねばならぬ」と語った。
Banjoe(祖母喪中) @Banjoe1971 2012年2月22日
@sagaminoriaki カブラルさん、メガネをかけていたせいで「四つ目のバテレンがおる!」という噂が広がり、それを見るためだけに数千人も集まってきた日本人に恐怖を感じて暴論を吐いた説というのは……。
椎名シギ @dolce_oo 5月29日
眼鏡の相手に「四つ目野郎」って言うのどっかのスラング的な言いまわしかと思ってたら英語で眼鏡をかけた人の事「four eyes」って言うの知って面白~~~~~~そのままかい
雑学たん @zatugakutan 8月22日
「マルドゥック」(マルドゥク)というのはバビロニアの神の名前っすね(°x°)神々の中で最も大きく、強い光を放つという四つ目四つ耳の全てを見通す存在っす。
神bot @god_________bot 17 分17 分前
【マルドゥク】
古代バビロニアで信仰された神。バビロン市の都市神。想像を絶するほど絶妙に作られた四つの目と四つの耳を持ち、この目と耳で何事も見逃さず、聞き逃さない。唇を動かせば炎が噴き出す。他の神々の2倍の力を持つ。 pic.twitter.com/TqFjFZmqMp
好事家 @dilettante_g 2013年2月12日
第13号機って四つ目四本腕でマルドゥク神説あるけど、肩から羽?生えたら6枚羽のセラフィムっぽくもあるよね。
長い記事をお読み下さり本当にありがとうございます!
網野善彦(アミノ ヨシヒコ)〈日本の歴史をよみなおす〉
【要約】
・中世日本は農業国だと思われがちだが実際は違った。
・百姓は農民ではない。百姓=多彩な職業。
・処女に価値がなかった。
・カタカナは多くは神仏にかかわりのある文書に使われ、口頭で語られたものを書きとめる文字だった。
・古くから水上移動、水運は大変活発だった。
・金融は神仏の世界に属していた。
・穢れに対する畏怖が抜け落ち差別意識を生んだ
・『もののけ姫』の元ネタの一つ。宮崎駿は網野史観にインスピレーションを受けた。網野自身も『もののけ姫』を「ずいぶん勉強した上でつくられている」と評価。
・我々が感覚的に理解できる社会はどこまでさかのぼれるかというと、室町時代ぐらいまでが限界。ほぼ十四世紀の南北朝動乱以前=十三世紀以前、と以降とでは常識と思想の質にとてつもない隔たりがある。
つまり、十四世紀は大転換期。
第1章 文字について
・カタカナ=口頭、神仏、人ならざる世界
ひらがな=女性
漢字=男性、公的
算数の問題。
漢字、ひらがな、カタカナの三種類の文字を使うと、七種類の文字表現ができる。
唯漢字
ただひらがなのみ
タダカタカナノミ
漢字とひらがな
漢字トヒラガナ
ひらがなトカタカナ
漢字とひらがなトカタカナ。
江戸時代後期の識字率は平均して四割ぐらいだったらしい。特に、都会での識字率は非常に高い。
つまり、日本社会では、文字社会、文書の世界では均質度が高いといえる。
しかし、無文字、口頭の世界ははるかに多様である可能性がある。
文書を見ると、文字の普及≒ひらがなの普及、という形で進行していったことがわかる。
少数派のカタカナは、基本的には口頭で語られることばを表現する際に使われていたといえ、しかも、口頭で語られる言葉が文書にされる場合には、中世前期では、神仏と関わりを持つ場合が多かった。
例えば、カミ(ガミ)に何かを誓う起請文(きしょうもん)、告文(こうもん)、あるいはカミ(ガミ)に願い事をする願文(がんもん)、あるいは逆にカミ(ガミ)の語る託宣を書いた託宣記、あるいは夢を見たときすぐにそれを書き記す夢記などのように、シン仏とかかわりを持ち、しかも口頭で語られたことにかかわる場合に、カタカナが顕著に使われているとはっきりいえる。
カタカナ ハ カミ ノ コトバ ナノダ。
また裁判のとき、被告・原告の双方の発言を記録する場合、漢字にカタカナをかなり交えた文体で書かれることが多い。これを宣命書(せんみょうがき)という。
被告の白状を記した白状記にもこうしたカタカナ混じりの宣命書の文書が使われることが多い。
それから、はっきりしているのは、落書あるいは落書起請(らくしょきしょう)のほとんどがカタカナで書かれていること。
落書は、落とされることで、人のものではなくなり、人以外のもの、シン仏のものになってしまうのでカタカナ書きだったらしい。
落書起請(らくしょきしょう)は、たとえばある集団の中で誰かが盗みをやったとする。しかし誰も白状しないときに、カミ様に誓って偽りを言わないという起請をして落書を書き、無記名投票で犯人の指名をしたりしたそうだ。落書自体が(人間が書いたとしても)シン仏の声であり、これを更に制度化したのが落書起請であり鎌倉中期ごろからみられ室町時代にいたるまでほとんどカタカナ表記。
以上でわかるように、カタカナは、文書の世界では基本的に口頭で言われた言葉を記す文字であり、しかも中世前期には、そのような口頭で語られることを文字にするのは、シン仏に関することが多かったので、必然、神秘的存在や超常存在にからむことになる。
シン仏に関係なく、音を耳で聞いて書きとるときもカタカナが多く使われたそうだ。
カタカナは画数が少ないし、漢字やひらがなよりも早く書けるからかもしれないが。
また、何かを訴える申状(もうしじょう)の中にもときどきカタカナで書かれたものがある。ただし、鎌倉時代の正式の百姓申状の多くは漢字表記。
漢字を使わずカタカナ表記だからといって、幼稚ではないことを念頭に置かないといけない。はじめに習うのがひらがなとカタカナだからといって、馬鹿にしてはいけない。
また、日記というその日に起こったことをその場であるいはすぐあとで記した文書、もカタカナ表記が多い。
実は、寺院関係に伝わった本にカタカナが多い。おそらく、漢文の訓点として使っていたからだと思われる。実際、ひらがな表記の和歌も、僧侶が書くとカタカナになったりする。
禅僧や儒学者もカタカナを江戸時代でもカタカナを多く使っている。
もしかして法律文が昔は漢字とカタカナだったのは以上が理由かもしれない。
まとめ。カタカナは特別な場合に使われるのであり、庶民はあまり使わない文字であった。
(カタカナは早く書く必要がある場合に重宝されたのでは?
そもそもカタカナもひらがなも漢字の簡略化だし。どこがヘブライ語だよ!
中ユ同祖論の提唱者にして日ユ同祖論の原型を作った17世紀のイエズス会士ロドリゲス『日本教会史』
と茶の湯とキリシタン大名とキリスト教人脈と大河ドラマ
と大日本皇道立教会
と鹿児島版田布施の加治屋町
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-90.html
日ユ同祖論と中ユ同祖論の発明者(原型含む)は17世紀のイエズス会士ロドリゲス。
日本のことなのに日本語版Wikiには書いていないうえに、日本語版では日ユ同祖論の起源が明治期のマクラウドだという嘘を書いている。
佐伯の同祖論を支持したのはキリスト教徒。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-83.html)
・ひらがな
=女文字
であり、女文(をんなぶみ)という独特な文体できてきて、すぐれた女性作家文学ができる。
前近代に女性が優れた文学を残す例は世界的にみても日本だけだと思われる。
琉球国王が、日本国王である室町将軍家に手紙を内々に送ったときはひらがなを使っている。ただし、受け取りと返事は女房が書いたのでやはり、ひらがなと女性は不可分と言える。
女流文学が生まれたのは転換期以前すなわち十四世紀まで。室町以降は全然出てこない。
ひらがなははじめは女性が使い、それを男性が取り込む形で普及していった。
男性は、平安から江戸までずっと、公的な世界では漢字を使っている。
公家でも武家でも漢字が正式。
鎌倉への出先暴力担当機関(いわゆる鎌倉幕府)の関東下知状(かんとうげじじょう)などの裁判の判決所はすべて漢字表記。証拠書類はひらがな表記が多いのだが、判決文に書く際にはわざわざ万葉仮名=漢字、になおしている。
江戸時代の百姓(農民じゃないよ)の名前に極めて多い、兵衛、右衛門、左衛門、右馬丞などはみな文書主義律令官職名の変形なのか、漢字表記なのは意味深い。男性名だし。
男性がひらがなを使い始めるのは当然、私的な書状からはじまる。
譲状という、財産を譲るときに作られる中世独特の文書(江戸時代になるとほとんどなくなる)はひらがな表記が多い。
室町時代以降なるとひらがな混じりが爆発的に広まることと関係があるのだろう。
(日本は識字率が高かったらしいので、文字を利用した統治が意識して行われたそうです。高札なんてまさにそう。江戸時代の村請制は、数値計算と読み書きができないとできないことでした。
識字率は、支配層はほぼ百%で、庶民は富裕なら高かったでしょうね。あれ、これだと世界共通の傾向ですね)
ちなみに、鎌倉時代までは字がきれいだが、室町以降はきたない字が増える。文字に対する畏敬の念がなくなり、実用道具と捉えるようになったからかもしれない。
(『どちりなきりしたん』は漢字がほとんどないから読みにくかったなあ。
「どちりいな-きりしたん」16世紀にGODを神と訳していないし、loveを愛と訳していない。偽書を見抜こう。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-21.html)
・明治になると、カタカナがとたんに増え始める。
法律と軍隊では言わずもがな。初等教育で最初に教えられるのはカタカナ。ひらがなじゃないよ。
しかし日常世界の庶民はひらがなが支配的。
(パン屋襲撃 @c3po2006 2013年11月17日
『日本の歴史をよみなおす(全)』 p26 それでは、このような少数派の片仮名は、どういう用途で文書に使われているかということですが、基本的には、口頭で語られることばを表現する場合に使われていたといえます。 ← 振り仮名や外来語が片仮名である理由かもな。
p46 たとえば明治になると、とたんに片仮名がふえはじめる。法律と軍隊の用語には、片仮名がもっぱら用いられますし、初等教育にも片仮名が最初に教えられるようになります。 ← 大日本帝国憲法や民法が漢字+片仮名である理由かもな。)
第2章 貨幣と商業・金融
・拝金主義(文字通り)。
昔々は、土の中は異世界だったから、埋めるとお金は人のものではなくなった。
(今なら、土の中にお金を埋めれば隠すためであり所有権は失わないと考えるでしょうね。
雲の上(見えない)、土の下(見えない)、地上(見える)の三世界が明確に存在している神話って結構多い気がするなぁ。
お金は、紙や金属片に「信用」なる呪術を施して、共同幻想を作ることで成り立っている。
信用創造という国際キリスト教金融資本の金融兵器の根源。
宗教兵器はキリスト教。ユダヤは単なる実行部隊)
・日本で本格的に金属貨幣が鋳造されるのは八世紀はじめ、和同開珎なる銅銭、銀銭がつくられたのははじめだとされていて、それ以来、いわゆる皇朝十二銭という貨幣シリーズが十世紀中ごろまでつくられる。
しかし、金属貨幣がはじめて本格的に流通し始めるのは、十三世紀後半~十四世紀ごろ。
かなり遅く感じられる。
貨幣の鋳造は中国制度の需要にともなっておこなわれた側面と、財源確保の側面などがあるが、調・傭などの貢納に用いられたりしたものの、実質的に社会の中に貨幣が流通したにはしたがほぼ畿内に限られていて全国(範囲に注意)的には流通しなかったらしい。
(貨幣鋳造は権威を示し、財源不足を補うため。
財源に困った日本律令王権は財源が欲しかった。
当時は実物でありお金じゃないことに注意ね。
貨幣制度では、金属片や紙切れを渡して実物を得ることができるので、物々交換のために相手に実物を渡さなくて済みます
……って今の白人キリスト教徒のロスチャイルドを盾にする欧州貴族勢力の銀行家と同じ手口ですな。
しかし、日本律令王権は蓄銭叙位令出しても失敗しました。そもそも商品生産量が多くならないと貨幣を使うメリットが薄いので当然と言えば当然。豪族からすれば、なんでこんな金属片貰って実物渡さないといかんのかというわけです。
張り子の虎を渡して本物の虎が欲しい!
アイボリー @mrunsmily 2014年6月13日
お宝鑑定団は、鑑定家達の魔術を披露する番組という様にもとれる
子子子子子(ねここねこ) @kitsuchitsuchi 8月26日
価値を与えるマジック(魔術+呪術)
①鑑定。支配者が持つ資産=芸術品の価値を上げる。
②信用創造。持っていないお金(無)を貸し付け、返せと要求する、原罪と同じ原理の錬金術。
葉っぱをお金に変える狐(稲荷大社=和風キリスト教の神道詐欺師)に化鹿される話は真実。
@mrunsmily
kS @Jd805 8月27日
@kitsuchitsuchi @mrunsmily 神道詐欺というと、戦前からあったとされる稲荷系神社は全て嘘なんでしょうか?
子子子子子(ねここねこ) @kitsuchitsuchi 8月27日
@Jd805 @mrunsmily 神社が天皇を動かしたのは嘘。愛染寺が伏見稲荷大社の社殿造営や修復、勧進、出開帳を管理した。仏教徒の天皇と本地垂迹説=仏教圧倒的優位、門跡寺院はあるが門跡神社はないことを隠す為に、神道=和風耶蘇教の儲のガーター勲章持ち偽天皇をクリスチャンが捏造。
子子子子子(ねここねこ) @kitsuchitsuchi 8月27日
@mrunsmily 蓄銭叙位令の目的は流通を促す為という説明は一面的。
真の目的は財源=現物確保。物々交換=等価交換が嫌で一方的に財産が欲しい朝廷は、金属片を貯めれば位が得られるようにする。等価交換ではないと理解していた人々にはあまり効果なし。朝廷も金融詐欺で財産を奪おうと画策。
子子子子子(ねここねこ) @kitsuchitsuchi 10月14日
@makeanovel 葉っぱをお金に変える狐や悪い魔法使いが心を操っているお話は本当のことを喩え話で伝えているのだと教えたり、真偽の判断基準を教えたり、嘘だらけだけど本当のことも良いものもあるとセットで伝える等バランスが大事。不登校は実はまとも。学校は定時奴隷労働者の訓練施設。
風の子 @makeanovel 10月14日
ふむふむ、とても役にたちます。なるほど昔話や童話みたいなのには、そういう真理が描かれていたんですね。そういえば狐が作ったんじゃないけど、今私達が価値があると信じてる貨幣ってほんとは・・・みたいに気付けますね。納得。 @kitsuchitsuchi)
・そもそも少なくとも律令時代の日本人は貨幣を、今日つかっているような意味では認識していない。
流通と交換価値としてではなく、和同開珎は、一種の呪術的な意味をもった使われ方もしている。たとえば、寺院を建てる際の基壇(=敷地面より一段高くつくった建物の基礎)に和同開珎を必ず置いたりしたり、あるいは美濃国(岐阜県南部)の不破の関の発掘すると和同開珎が建物の隅に置かれたりしている。
儀式や呪術にも使われた。
要は、貨幣を今のように使う必要がなかったということ。
律令政府の力が弱まって来る十世紀移行には、日本では貨幣が鋳造されなくなる。貨幣が鋳造され流通するには統一国家が必要であり、相応の国力が必要なので当然と言える。
当時も、交換価値としての貨幣として絹や米が使われていて、十二世紀半ばまでは確実に続いている。
ところが十二世紀後半~十三世紀になると、平清盛が力を入れた日宋貿易もあいまって、本格的に宋から銭が流入して来る。
かといってすぐさま交換価値として使われたというわけではなく、十二世紀後半の清盛の時代、疫病が流行すると、この病は銭のせいだと「銭の病」といううわさが広がったりした。
価値尺度としての銭も広まって行ったが、米を基準に価値判断することはずっと続いていくことになる。
兼好法師が書いたらしい徒然草なる書物には、銭を「君のごとく神のごとくおそれとうとみて、従え用いることなく」という話があるように、文字通りの「拝金主義」、呪物的扱いがされることも十三世紀後半~十四世紀にあったりする。
が、十五世紀となると銭は支払いや交換手段として広く流通するようになる。
文字の普及と共に貨幣の普及も、全国均質化を促進し、日本人なる民族が形成されていく。
(兼好法師は神社出身なのに仏教に帰依して出家と言うよくわからない人なのですが、仏教国教時代にも神社と神道は権力があって仏教徒の天皇にものすごく影響したよという嘘の存続のために利用されているのでしょうね。でも兼好「法師」だからね。陰陽師ですら仏教徒なのに。
"12世紀後半の清盛の時代、疫病が流行すると、これは「銭の病」だ、貨幣を使うようになったために起こった病だという噂が広がるような、金属貨幣を呪物として見る意識が強かった"
が、日本人が拝金教信者だらけになることを防いでいた理由の一つでは?
神仏の世界と金融の関係は、宗教と金融の関係に繋がります。
宗教家が金融やると禁欲の教えがあるから欲望の暴走をある程度抑えられていたけど、商人が金融やると欲望の暴走が止まらなくなり超悲惨になります。
商人がカルトを作っているのは、宗教=キリスト教が銀行を牛耳っていることを知っているからでしょうね。
金を支配するなら宗教が一番ってこと。
大企業=カルト。
ブラック=違法企業=カルト。
ブラックと言うな、違法と言え。
帰ってきた魔法使いハンターねこた @lakudagoya 7月23日
つーかなんでヌッポンの「保守」思想はプロテスタントのカルヴァン派の過激派の労働教&経済合理至上主義&拝金主義が入ってるんかね?明治以降の売国奴だけど西洋を批判した文化人 は、西洋の経済合理主義や強欲主義は獣のようだと激しく批判してるのだけどね。保守ってなんだよ?
エドマンド・バークの「保守」の定義は先祖伝来の価値観だ。ヌッポンは拝金主義や労働教は先祖伝来の価値観ではない。江戸時代末期にヌッポンにやって来た外人は日本人は怠け者だと書いてるからな。戦前もだけど、戦後ですら金儲け至上主義的な価値観は商業の世界でもかなりタブーとされたんだよ。
日本の「保守」とやらの異常さを見れば、エドマンド・バークがかなりマトモに見えるぞ?(笑) バークは立憲君主制支持者でリパブリカンだから、王権の正当性は訴えるけど、絶対王政とかは認めないし、ましてや革命なんてご法度という立場だ。それに比べて日本の「保守」は極左にしか見えない。
そもそも日本の支配層だった武家は藩校で朱子学や儒学を学び四書五経を読むわけですよ。儒教では商業は地位が低いとされてたから士農工商という事になるわけ。だからヌッポンの伝統が経済合理主義や拝金主義なんてありえないんです。もし今の特権階級が本当に保守なら何でミッションスクールに行くの?
本当にヌッポンの「保守」が本物なら、ミッションスクールなんか行かなくて昔から続いてきた学問を重視するよね?で、商業の上に倫理観を置いてそれをコントロールするよね。少なくとも戦後のしばらくまではそうだった。で、何で今の「保守」は金を稼がないと死ねみたいな発想になるわけ?
王王大栄 @ououdaiei 7月23日
@lakudagoya そのとおりですよね。保守の多くが心酔する維新志士たちは陽明学者の松陰に、四書五経と兵法をベースにあと知識として世界の知識を学んだわけです。基本は漢籍古典、儒学と兵学です。のにね・・・日本の保守とは「欧米人を保守する。」てことでしょう。
帰ってきた魔法使いハンターねこた @lakudagoya 7月23日
@ououdaiei そうそう、日本の「保守」という連中はクリスチャン臭い価値観で、儒学や陽明学なんて知りもしない連中です。もし江戸時代的な保守(笑)なら中国や韓国を見下すわけないですし、こういった日本古来の学問が失われたことは困りますね。
子子子子子(ねここねこ) @kitsuchitsuchi 10月16日
@makeanovel @onigiri3_ 英国WASPの救貧院=強制労働施設で分かるように、資本主義を発展させたプロテスタントはカトリック以上に奴隷労働肯定。勤勉な日本人を白人は褒めるけど、クリスチャンでもそこまでできない(苦笑)って感じですかね。日本人は無自覚クリスチャン。
風の子 @makeanovel 10月16日
日本の土壌にキリスト教は異質すぎるのでそのものを布教しないで、キリスト教の中身だけをキリスト教とはいわないで日本人になじみやすいものを利用したりして伝播したんですかね。ほんと自覚ないまま欧米のもの好きでした
RT @kitsuchitsuchi 日本人は無自覚クリスチャン。
Orphe @orphechin 2012年12月15日
最近の東の低所得層に対する扱いは実際ヴィクトリア朝めいていてコワイ。家のない人間を救貧院という名前の収容施設で強制労働させてた連中とどう違うのか。
ぽぽやまぽっく @ysm111 2013年7月5日
イギリスっていうと産業革命の頃に救貧院でホームレスを強制労働させたりしてたわけだよな
パン屋襲撃 @c3po2006 2013年11月17日
『日本の歴史をよみなおす(全)』 p50 また支払手段、流通手段としての貨幣というだけではなくて、和同開珎は、一種の呪術的な意味をもった使われ方もしております。 ← 経済人類学みたいな話。)
・中世の市庭(いちば。市場)は、モノとモノとの贈与互酬の関係を断ち切るための場所だった。
虹が立ったところに必ず市場を開け、という慣習が昔からあったことは(藤原道長の邸宅に虹が立ったので市場をそこで開いているほど守られていた)、虹をこの世と別の世とをつなぐものとしてとらえる観念が浸透していたを示しているように思われる。実際、市場は、山と平地の境目や、河原など聖なる世界に近い箇所で開かれるのが普通だった。
俗世から離れさせる市場(=カミガミの世界)が登場するまでは、モノとモノの交換には必ず人間関係がつきまとっていた。それではいわゆる商品経済にはなりえない。そこで特別な機能をもつ市場があらわれ、モノに付随する属人的な人間関係を断つところとなる。
市の場では、モノにせよ、人にせよ、いったん、神の世界のものにしてしまう。誰のものでもない。その上で、モノとモノとの交換が行われる。モノも人も、世俗の縁から切れた「無縁」の状態になる。
市場は、「歌垣」の場にもなる。男も女も、妻や夫との俗縁が切れて、自由に性交渉ができる場ともなる。
市場の無縁度合いは現代からみればスサマジイ。
市場で殺人がおこれば、その場だけで処理し、決して被害者の親族の報復はしてはならない場所だったほど。
(網野善彦が他の著作で盛んに述べている「無縁」「楽」システムも、この市場の中から生まれてきました。
縁を断って無縁にし、別の関係にすることが市場(市庭)の隠れた機能でした。
パン屋襲撃 @c3po2006 2013年11月17日
『日本の歴史をよみなおす(全)』 p56 そしてこれによってもわかるように市場は、神の世界と人間の世界、聖なる世界と俗界との境に設定される、と指摘しておられます。 ← お寺や神社での縁日の延長みたいなものか。)
・日本における金融(利息で儲ける)の起源は出挙(すいこ)。
出挙は、稲作と結びついており、最初に獲れた初穂はカミに捧げられ、神聖な蔵に貯蔵される。この蔵の初穂は、翌年神聖な種籾(たねもみ)として百姓に貸し出される。収穫期が来ると、百姓は蔵から借りた種籾に、若干のカミへのお礼の利稲(りとう。利息のいね)をつけて蔵に戻す。この循環が出挙の原理。。
(要は、借りた側は借りた量よりも多く貸した側に返せということ。
カミを介在させるあたりに、なんか教会が寄付しろと盛んに言うのと同じ雰囲気を感じるね。ヨーロッパではキリスト教徒は利息取れないようにし、「ユダヤ」という「職業」に就かないと利息を取って儲ける金融をできないようにしたのであり、カミでなくGODという違いはあるけど)
律令政府は公出挙(くすいこ)という、国衙の蔵に納められた租稲(そとう)を元本として春に百姓に貸付け、秋に利稲(利息としての稲)をつけて蔵に返済させるという、利息税とでも言える制度があった。
かといって国家以外も出挙はしていた。
金融はシン仏的、宗教的、俗ではない領域の行為だった。
神物(しんもつ)、仏物(ぶつもつ)の貸付は室町以降も続いていて、祠堂銭(しどうせん)といわれる、仏のものとしてれらに寄付された銭を貸し出すという形で低利息の金融が行われている。
(超絶儲かるね。
しかも地面に埋めるだけで無主になってしまうから幾らでも悪用できるね)
・公益や金融業を行う商人や金融業者は俗人にはできず、必然、神仏の直属民という「外れた」人々が担うことになる。
つまり、カミ直属の「神人」(じにん、じんにん)、仏直属の「寄人」(よりうど)、シン仏に準ずる天皇の直属民「供御人」(くごにん)といった「神仏の奴婢」である。
(ヨーロッパでも日本でも、金融と宗教と王族は不可分!)
ちなみに交易を行う人や芸能民も、シン仏や天皇に直属民の地位を得ていた。
例えば、鋳物師(いものじ)は十二世紀以降に、殿上で使う鉄の燈炉(とうろ)を天皇に献上する代わりに、全国を自由に遍歴して鉄や鉄器を販売する特権を認められていて、蔵人所燈炉供御人という長ったらしい名前で呼ばれた。なお、当時は手工業と交易は分離していなかったので(作る人と売る人が同じ)、商人=手工業者、だった。
博打は芸能に入る。確率はシン仏の意志のあらわれ。
(芸能界は裏社会なのは古代から変わりません。遊女や白拍子もね。
日本の歴史をよみなおす(網野善彦・聖なるものから世
http://ameblo.jp/lully-moliele-1660/entry-10550157401.html
”商人や職人の場合も、同じように交易はしだいに、世俗的な行為に転換していきます。商人と職人とはしだいに分化していき、まだ神人、供御人の身分は残っていますが、商業それ自体は世俗的な行為になっていったものと思われます。
職人にそくして一例をあげますと、十三世紀の後半以降に成立したと考えられる「職人歌合」という絵巻があります。何種類かの職人が左右に分れた番いになって歌を詠みあい、それを判者が判定をするという歌合の形式をとりながら、いろいろな職人の職能を歌と絵で示しているもので、江戸時代には「職人尽」として、広く世に流布することになっていくのですが、おそらくとも十三世紀後半から十四世紀にかけて成立した「職人歌合」は、神仏との関係をもつものになっています。
その一つの「東北院歌合」は、東北院でおこなわれた法会に職人たちが集まってきて、そこで歌を詠みあったことになっていますし、「鶴岡放生会職人歌合」は、鶴岡八幡宮でおこなわれた放生会の時に集まった職人たちが歌を詠むというかたちになっており、神仏とのかかわりで、職人歌合が行われたという形式になっています。
この歌合では、二種類の職人が左右にわかれて一番をなしているのですけれども、この二種類の職人が番いにされるに当たっては、何かの理由がかならずあるようです。
たとえば、しばしば鍛治と番匠が番いになっています。番匠は木工、現在の「大工」にあたりますが、なぜそれが鍛治と番いをくんでいるかというと、当時の鍛治は刀鍛治よりも釘鍛治が一般的で、釘や鎹をつくっていたのです。ですから鍛治は建築工として、神社や寺院に所属して寄人などの地位をあたえられています。鍛治が、建築の工人だったから、建築の中心的な職人である番匠と番いをなして現れるわけです。
このように、番いに組み合わせられた二種類の職人は、みなそれなりの理由があるのですが、興味深いのは、「東北院歌合」で巫女と博打打が番いにされている点です。そもそも博打打が職人歌合に登場するということ自体、十三世紀以前の社会の特徴が非常によくあらわれていて、おもしろい問題がそこにあるのですが、おそらくこれは博打打ちも巫女も、一方はさいころで、一方は神かかりによって、神の意志を伝える。そういう職人として番いににされているのですけれどもはないかと私は思うのです。
博打は、一面では社会の中で禁圧されていますけれども、他方で、籤と同じような意味もあったのだと思うので、博打は芸能であり、博打打ちにもそれなりの「道」??博打道があったことは、当時の史料の中でもはっきりいわれています。平安時代の末、「双六別当」「巫女別当」という役職が、加賀国の国ガにあったことがわかっており、京都の朝廷の官庁にも、双六打、博打打や、巫女を統括する役所があったことは確実です。実際、上皇の妃である女院がお産をするとき、祈祷師(験者)のうしろに、悪い「物の怪」をつける「物付」になった巫女がいるのですが、そのそばに双六の盤がおいてあるのです。そして巫女は「博を打つ」、多分さいころをふっています。これも民間でも行われており、博打打と巫女は宮廷でも密接な関係があったのです。
このような意味で博打打も巫女も職人の一種と考えてよいので、両者が番いにされているのも、こう考えれば当然のことです。そして十三世紀につくられた初期の職人歌合が、手工業者、商人、あるいは芸能民などの「職人」を神仏とのつながりのなかでとらえるとらえるいう見方に立っていたことは、この事実を通してはっきりとうかがうことができると思います。
(66.67.68頁より抜粋)”)
※供御=天皇や貴人の食べるもの。
(つまり供御人=支配層が〔精神的に〕食べる人≒生贄ってこと?)
・外れた人々は独特の服装をしていてそれが関所でのチェック項目になっていた。自由通行の特権衣裳。
山賊や海賊も手が出せない。
神人や供御人自身や持ち物を傷つけたり殺したりすると、大変厳しい罰を受けなくてはならないと考えられていて、彼らの死骸のある場所はそれ自体が聖なる場所となりシン仏の所領とされた。
なので、年貢取り立てに起用することもあった。
以上のような特質は、十四~十五世紀以降から大きく変わっていく。
だんだん、俗的になっていく。
・室町時代となると、金融、勧進等などによる寺院の経営が始まる。
鎌倉新仏教系の寺院に多い。禅宗、日蓮宗、律宗、浄土宗、時宗など。土地の所領はあまり持っておらず、特定の檀家や有力な外護者(げごしゃ)からの土地の寄進を受け、その力で維持していた。氏寺などとは異なる。
第3章 畏怖と賎視
・八世紀になると、律令国家が動揺し始めるせいで浮浪者や逃亡者などがたくさん出た結果、重病人や捨て子が問題になったので、非田院、施薬院(せやくいん)を作り、国家の力で救済した。光明皇后の仏教への帰依が原動力。
(税を納める人員確保の目的もあっただろうね)
・平安時代、非田院にいた人々に新生連という姓を与え、都の戸籍に載せて一戸の家とする。
奴婢ではなく、一般の良民、平民として扱われるが「新生連」という印のせいで、一見して非田院出身とわかるようになっている。
(戸籍見たら養子だとわかる今の制度みたいだ。
特別養子だと養子だと分らないようにするけどね。
法律定義集bot @eightspan_crow 7月22日
【特別養子縁組】…家庭裁判所の審判によって幼少時の養子につき、実方との親族関係を断絶し、実体的な法律関係のみならず、戸籍上も養親の実子として取り扱う特別の養子制度。戸籍の父母欄には養親の氏名のみが記載され、続柄も実子と同じように記載される。普通の養子縁組の要件より厳格
じゃがいも @_potato_0723 7月2日
特別養子縁組は両親との関係を断ち切ることができて、年齢制限あり
普通の養子縁組は両親との関係を断ち切らないで、両親、養親ともに存在し戸籍上は養女、養子となる年齢制限なし 私はここが大きな違いだと思ってる)
・ケガレとは、人間と自然のそれなりに均衡のとれた状態に欠損が生じたり、均衡が崩れたりしたとき、それによって人間社会の内部におこる恐れ、不安と結びついている、と考えることができる。恐らく死の不安や恐怖。
・十四世紀までの非人は、江戸時代の被差別部落とは異なる。
神人・寄人と同様、一般の平民百姓とはっきり区別されていた上に、神仏の「奴婢」として聖なる方向に区別された存在だったので、迫害されるだけの身分ではなく、畏怖や畏敬される一面も持つ。
よって不自由民である下人、すなわち世俗の奴婢ともまったく違う存在だった。
畏れられていたケガレを清める力をもつ聖別された職能民として位置づけられることもあった。
俗人には清められぬのじゃ。
南北朝前期の史料に「河原細工丸」といわれる人々が出てくる。長者に率いられて祇園社に属し、「裏無」(うらなし)といわれる履物を献納していた彼らは、「清目」とも呼ばれていた。
斃(へい)牛馬の葬送・解体・皮の処理や、牛や馬の死に伴うケガレの「清め」も河原で行っていた。ケガレを境目にて水に流す。
また、南北朝以降の史料には、井戸を掘ったり、大きな石や樹木を動かすなど、土木作業に携わったりしているのは、自然に対する畏怖の念が強く、自然を大きく改変する事に極めて慎重だった。
井戸を掘る際に陰陽師や河原者が関わっていたらしい。
ケガレ祓い。
・放免とは、広い意味の非人であり、獄舎につながれた後、放免された人々。着釱(ちゃくだ:足枷をつけている人々)とも呼ばれている。
放免された後、天皇直属の検非違使庁の下部(しもべ)にされて蛇の道は蛇だからと利用された。
童名(わらわな)という、幼名に「丸」をつける慣習がある。
しかし、放免は、例外なく「丸」をつけている。大人でありながら「丸」を名乗り、髪形などの姿形も童姿の者たちがいる。たとえば牛飼い。牛飼童。
童は、聖俗の境界にある特異な存在と考えられていたので、名前自体に聖性を持たせた。
(言霊ですね)
牛飼童の髪型を絵巻物で見ると「本鳥(もとどり)」を結ばずに髪を長く流して途中を結んだ髪型でポニーテールみたいな感じだ。ときには顎髭などをはやしている。
当時はもとどりを結んで折烏帽子(おりえぼし)をかぶるのが平民の成年男子の髪型なので、もとどりを切られてざんばら髪、蓬髪にされることは、平民の成人としての地位を剥奪されるほどに重要だった。
本鳥切りという処罰があったほどであり、もとどりを切るのは大きな侮辱を与えることであった。
ところが牛飼はもとどりを結っておらず童姿だった。
八瀬童子(やせどうじ)という、貴人の輿や柩をかつぐ人達が京都の北に住んでいた。かつて大正天皇の柩を誰が担ぐかで問題になったが、結局、京都の八瀬童子が担いだ。しかし皆が年寄りだったので重厚な柩をあわや落としそうになったりしたらしい。
昭和天皇の時も葬列に加わっている。
やせどうじの歴史は非常に古い。
平安時代、十一世紀後半には史料に登場する。
青蓮院(※)に属している炭焼きだった。畏れ多くも自然物を焼く仕事だ。
やせどうじはの名前には「丸」がついていて、恐らく子どもの格好をしていたのだろう。
伝承によると鬼の子孫らしい。
※青蓮院は、三千院(梶井門跡)、妙法院と共に、天台宗の三門跡寺院とされる。「門跡寺院」とは皇室や摂関家の子弟が入寺する寺院(神社じゃないよ!)のことであり、青蓮院は多くの法親王(天皇の皇子や伏見宮家などの皇族の男子で出家後に親王宣下を受けた者)が門主(住職)を務め、宮門跡寺院(門跡神社なんてないよ!)として高い格式を誇ってきた。
・中世前期までの牛馬は「畜生」や「四つ足」などとよばれて、卑しい動物という捉え方をされていなかった可能性がある。
絵巻物の牛は共通して恐い顔をしていて、ときによると牛飼を引っ張って疾走している。おとなしい動物だとは思われていなかったらしい。
要は野獣とみなされていて、それゆえに特殊な地位でないと扱えないとされたのかもしれない。自然物への畏敬だろう。虐待すれば天罰を受けるような獣だった。
・犬神人(いぬひじにん、いぬじにん、いぬじんにん、つるめそう=弦売僧)は、境内や御幸路の死穢の清掃などに従事した。
死者に対して贈られるものと副葬品を収入として取ると言う特権を与えられていた。
祇園社犬神人が現存する限り初めて登場したのは、日蓮の『御書』であり、嘉禄3年(1227年)の山門(比叡山延暦寺)の法然墓所破却が「犬神人(つるめそう)」に命じて行ったとある。
犬という言葉は卑しい意味ではなく、死者の物を取れる=俗ではない存在、という意味だろう。
(犬神人は死んだところが聖なる場になるから犬死にじゃないね)
「丸」は聖と俗の境であることを示し、呪的な力を与えたいときに名前に使うことがあった。
船や刀の名前に「丸」ってつける。命を預ける物だから。
楽器にも丸をつけていた。当時は音はシン仏をの関係でとらえていたから。
子どもの地位は特殊。七歳まではカミのうち。実際、平安時代末に、ある子どもが悪人を指名すると、上皇が本気で検非違使庁に命じて指名された人を捕まえさせることをやっているほど。
(鬼=キ=霊魂やゴースト。
中国語で鬼城=ゴーストタウン)
パン屋襲撃 @c3po2006 2013年11月20日
『日本の歴史をよみなおす(全)』 p113 野獣、あるいは野獣に近い動物は人の力をこえたものを持っており、それを扱う人びとも、ふつうの人と異なる特異な力をもっているという考え方がこの時期の社会にはあったのではないかと思います。
p115 むしろいまあげた「丸」をつけるものは、みないわば聖俗の境界にあるものであることに注意する必要がある。 ← 幼名(梵天丸等)、船の名前(咸臨丸等)、剣の名前(髭切丸等))
・『塵袋』(ちりぶくろ)という、鎌倉後期の古辞書における「穢多」の項目では、「キヨメヲエタと云フ」(清目=えた)、「根本ハ餌取ト云フヘキ歟。餌ト云フハシシムラ鷹ノ餌ヲ云フナルヘシ」(元々は鷹などを飼うための餌を取る職業を意味しており、それが転じて殺生を業とする者全般が穢多と呼ばれるようになった)、最後に「イキ物ヲ殺テウルエタ躰ノ悪人也」としている。
(カタカナ表記なのは『塵袋』が問答形式だからだろうね)
非人や河原者を「穢れ多い」悪人と見なす差別意識、卑賤視する見方が現れてきたことを示す。ケガレを恐れ、畏怖する意識が次第に消え、これを忌避しうる、汚穢として嫌悪するような意識が強くなってきた。自然がより明らかに人々の目に見えてきたために(文明化)、エタなどの人々へ抱いていた畏れの念が薄まり、忌避の念は薄まらなかったからだろう。自然観が変われば対応も変わるのだ。
一五世紀に入る頃、非人、河原者などの人々を「穢多」と呼ぶことが広まり、「清目」も差別語になった。一四世紀を境に、「穢れ」の観念について、かなり大きな社会的変化があったらしい。
・鎌倉新仏教とは、一三世紀後半の時期=ケガレに対する思想的な緊張のあった時期=ケガレに対する意識の転換期、に登場した、ケガレに携わる人々を救済する宗教である。
親鸞の「悪人正機説」なんてまさにそう。
『一遍聖絵』『一遍上人絵詞伝』には他の絵巻物と比べてもたくさんの非人、乞食が登場する。
浄土宗、一向宗、時宗、日蓮宗、禅宗、律宗は悪人、非人、女性に関わる悪、穢れの問題に、正面から取り組もうとした宗教であり、
時宗に関しては、ばくち打ちや童名の者とも近しい関係にある山賊や海賊などの悪党たちが高札を立てて、一遍の布教を妨害するなと宣言したので、三年間も妨害なしで活動できた。
対して、
『天狗草紙』では一遍がやっていることは天狗の所業だと悪罵し徹底的に、えた・非人らを卑しいとしている。
十三世紀末の思想対立がはっきり見られる。
被差別部落が東日本では非常に少ないのは東西の思想と慣習の違いによる。
東日本ではえな(胞衣)をなるべく人が踏んでいけるような戸口や辻などに埋めるが、西日本では、できるだけえなを遠ざけ床下に穴を深く掘ったり遠くの山に埋めたりした。
東は縄文的で、西は弥生的らしい。
東日本では罪人の首を武士が切り落としているが、西日本では放免あるいは非人にやらせている。
胞衣(えな)信仰
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/enasinko.html
第4章女性をめぐって
・鎌倉新仏教はほぼ共通して非人の救済とともに、女性の救済をもう一つの重要な課題にしている。
(中国語訳の仏典なので勝手に儒教的=男尊女卑、に改竄されています。原始仏教における、在家も出家も老若男女皆平等だという本来の教えに戻る運動とも言えるかもしれない。サンスクリットを教祖たちが読めたかは分らないので偶然かもしれませんけど)。
制度を考えるのに特に重要なのは、法律があるからといって守られているとは限らない。法律は単なる建前であり、実際は違っているかもしれないと常に念頭に置いておかないといけない。
明治になっても早いころの離婚率は非常に高いことから、江戸時代の離婚率も相当高いと推察できる。
江戸時代は夫だけが離婚権を持っているというステレオタイプは間違いで、妻の飛び出し離婚もかなりあったと思われる。妻が帰って来ないのでなく泣く離縁状を書く事態もずいぶんあった模様。
縁切り寺に行かないと離婚は絶対できないわけでもなかったらしい。
離縁状だけを見てしまうと、夫が妻に与える形なので誤解を招きやすい。
書く権利ではなく(しなくてもよい)、義務だった(しないとだめ)。そうしないと夫も再婚できない。
・神社や寺院に参籠して子供が授かった話があるが、俗なる関係(夫婦関係など)がない無縁の場所だったのでフリーセックスが行われた結果かもしれない。
・旅人は世俗と縁が切れている。山野・浦浜・市町・道路でおこった殺人事件などはその場にいた者だけで処理をしてかたき討ちのようなかたちで世俗の世界に持ち込んではならないとされたりした。
また中世、道を歩く女性に対して「女捕り(めとり)」、「辻捕り」が行われることがあった。強姦とは少し違う。少なくも建前上は強姦として法令で厳しく禁じられているが、あまり罪は重くない。貞永式目でも禁止されているが、「法師については斟酌あるべし」=坊さんなら(おそらく女性と性交渉の機会がない)事情を考えよ、とある。
道は聖性(性性?)を持っていたらしい。
・十世紀~十一世紀、女性の長者に率いられた、自立した女性職能集団として「遊女」が現れてくる。白拍子、傀儡とともに、神人、寄人と同様、天皇や神に直属する女性職能民だった。
(聖的なものは性的なものでもあるのです)
桂女(鮎売り女性)と大原女(炭や薪を売る女性)がいた。桂女は独特な被りものをしていて、一般人でないことが見ただけで分かるようにして遍歴している。
(パン屋襲撃 @c3po2006 2013年11月20日
『日本の歴史をよみなおす(全)』 p147 文書だけを見ていると、夫が離婚の専権を握っているかのごとく見えるのですが、実際は、むしろ夫は離縁状を書く義務があるといったほうがよい。 ← "三行半=低い女性の地位"という記述が高校歴史教科書からは削除されているかも…
p151 神前や仏前は神仏の力のおよぶ場所であり、そこでは世俗の縁が切れる。万葉集、風土記などに出てくる歌垣の場のように、そこには世俗の妻や夫の関係は持ち込まれない場所であり、(続)
p151 (続)それゆえに、男女が自由に交渉することができたと考えても、決しておかしくないのではないかと思います。 ← 祭りでの浴衣姿に発情するのはその名残りかも知れません。
p165 そうした聖なる倉である土倉の管理に女性がかなりの比重が現れるという事実は、女性の性そのものの特質とおそらく不可分の関係にあるのだと思います。 ← キリスト教世界では女性以外が子を産むのを禁じ、利子を認めなかったと(ヴェニスの商人)。)
第5章 天皇と「日本」の国号
・天皇という称号が安定的に用いられ、制度的に定着するのは、清御原律令制定の頃であり、持統天皇から。つまり持統天皇より前の天皇は天皇ではなく大王(おおきみ)と呼ぶべき。
日本という国号も、七世紀後半、律令体制が確立した天武大王、持統天皇のころ、天皇の称号とセットで定まったと考えられている。それ以前に日本も日本人も存在していない。倭人である。
ちなみに、柵封体制下では国号とは自ら名乗るのではなく中国皇帝から与えられるものだった。
(子子子子子(ねここねこ) @kitsuchitsuchi 10月30日
神道のお札の元ネタは道教のお札。
茅山道教を創始した陶弘景(5・6世紀。皇帝の相談役)は「道教は神道」と主張。
天皇崇拝は星崇拝であり太陽崇拝ではない(天照は誤り)。天皇は天皇大帝の略称。天皇大帝は北極星の神格化であり剣と鏡の二種を象徴として持つ。日本の皇室でも元来は二種の神器。)
桓武天皇は、天智大王系の天皇であり、八世紀、一貫して天皇および大王だった天武大王の皇統につながる人を全部抹殺して天皇となったことから新王朝の王とみる見解もある。その桓武天皇は昊天上帝(こうてんじょうてい)、天帝を祀る中国大陸風の祭祀をしているが、結局は自らの正当性を示す手段として使われていた。
(桓武天皇の母親は、百済系渡来人の高野新傘(たかののにいがさ)だったことも関係しているのかもしれません。
朝鮮半島に住んでいた人の血が天皇家には入っていることを偽天皇が認めたことを、統一教会や生長の家や神道政治連盟や日本会議の似非右翼の皆様は無視するんだよねー。
パン屋襲撃 @c3po2006 2013年11月23日
『日本の歴史をよみなおす(全)』 p186 まず、中国の律令制の骨格は儒教で、天命思想、易姓革命の思想(天子は天の命によってその地位にあるので、天子に徳がなければ、天の命があらたまり、天子の姓がかわる。王朝が交替するという思想)がその背景にあるのですが、(続)
p186 (続)この国家が律令制を取り入れる時に、この天命思想と易姓革命の思想は注意深く排除しているということが注目されます。 ← 中国共産党に"徳"はあるのか。
p204 実際、天皇の称号の定着した持統以来、江戸時代までの天皇は、二、三の例外を除き、みな火葬で、聖武以来仏式ですし、墓も泉湧寺をはじめ、寺院に葬られていたのです。 ← 再び火葬に戻ることは、先日ニュースになってた。
……
天命思想と易姓革命の思想を排除したのは、それらを理由に叛逆されないためでしょうね)
天皇の二つの顔
太政官という貴族合議体の頂点に立つ、公の王としての天皇の顔
各地の贄の貢進をうけとる律令には規定されていない、祭司や稲の王としての天皇の顔である。各地の生産者や職能者とモノを通して結びついていたりする天皇(家)。
おおやけ=大宅(共同体の代表である首長の家や倉)=公
公家=(古代では)天皇。
中世には、将軍=公方(くぼう)、
近世では、幕府・大名=公儀。
平民たちが、年貢・租税を廃棄せよというスローガンを公然と掲げたことは、古代から近世にいたるまでほとんど見られない。租税、年貢を減免せよ、軽減せよという運動は無数におこっているが、年貢をすべて撤廃せよという運動は見られない。
九世紀のころから宮廷行事に仏教行事が本格的に入り込んでくる。もともと僧綱(そうごう)という僧侶の統制機関が律令制の中に設けられていて、国家が僧尼令によって寺院や僧侶を厳しく統制していたのだが、大仏造営の過程で事態が大きく変わり、天皇自身が「仏の奴婢」とまでになってくる。
さらには天台宗と真言宗が登場しだしてくることもあいまって、十世紀以降になると神社と結びついた大寺院の力が非常に強くなってくる。
実際、天皇の称号が定着した持統天皇以来、江戸時代までの天皇は、二三の例外を除き、みな火葬で、聖武天皇以来みな仏式であり、墓も泉涌寺(※。せんにゅうじ。御寺[みてら]と呼ばれる)をはじめ、寺院に葬られていた。墳丘もつくられていないので、昭和天皇のような葬儀や墓は、明治以降にはじめられた。
(「古来の伝統」なんてものは簡単に捏造できます。
伝統=長く続いてきた、と言うなら仏教式じゃないとね。
神道式=キリスト教の変化形式)
※泉涌寺。
ウィキみると、京都市東山区泉涌寺山内(やまのうち)町にある真言宗泉涌寺派総本山の寺院とあるくせに、後の記述で、泉涌寺は律を中心として天台、東密(真言)、禅、浄土の四宗兼学(または律を含めて五宗兼学とも)の道場として栄えたとある。天皇家が戒壇まで作った天台宗系じゃないの? 真言宗の戒壇って天皇家は作っていないんじゃないのかな。真言宗って途中で滅びかけているしおかしいね。
理由↓
“以前なんか「鑑真をやけに取り上げてる」と思った答えなんだけど、「たぶん」天台宗と鑑真の関係だと思う。【20080912】
天台宗はもともと、「北朝天皇の宗教」だったわけ。
で、鑑真=唐で新羅とも関係あるんだけどね。
これは歴代の北朝天皇の菩提寺である京都東山の泉涌寺(せんにゅうじ)も天台宗だったわけ。
1872年に真言宗に改宗させられてるけどね。
さらに鑑真と北朝宗教の天台宗でいうなら、鞍馬寺。(ここと繋がりが深い→貴船神社、貴船→賀茂で、神社全庁にも繋がる)。
鞍馬寺は、もともと天台宗で、神智学に影響されてスピリチュアル化した、今は鞍馬弘教、鑑真の弟子、鑑禎によって作られた。
この鞍馬寺が北朝宗教を微妙に継承し、神智学化したスピリチュアル仏教の巣みたいなとこと予想している。
神社全庁との関係があることでもわかるとおり、今の北朝=左翼と重なる左メソと、南朝支配の明治維新の根幹をなした坂本竜馬のように、その南北融合的なポジションにいたのが鑑真だったってことね。
北朝宗教=天台宗なら、簡単な構図でしょ?
明治維新の時、こういう北朝仏教を弾圧し、一部はこうやって融合した段取りをつけたのがどこかってことなんだけど。
北朝天皇のお墓、泉涌寺を廃仏毀釈で、一時は閉鎖寸前まで追い込み、そして「真言宗」に改宗させたことでもわかるとおり、その神道勢と一緒に天皇すり替えを加担した仏教部の中心が、あの真言宗の本山、「高野山」なわけです。
で、当時は絶えていた南朝正統宗教、真言密教の立川流を復活させてできたのが真如苑なわけ。
天台の教義には、法華経(円)+密(台密)・禅・戒という四宗兼学という言葉があります。
それなのに、その教義に「自分の宗派が一番!」と言い張ってた=対立していた真言宗が、同じ密教だから「無理やり」含まれたことにしてしまってるわけ。
もともと天台宗だった天皇家の菩提寺である泉涌寺が(調べりゃ誰でもわかる)、明治維新後にいきなり、この理論から「真言宗の泉涌寺派」などとなっちまってることから、簡単にわかることなんだけどね。“轍(わだち)【20101126】http://www.mkmogura.com/blog/2010/11/26/972
北朝鮮の核【20080912】
http://www.mkmogura.com/blog/2008/09/12/138
”P129の「次の標的としての北朝鮮そして日本」
まず、ここに慶尚道、全羅道の対立が書かれている。
韓国内での対立、慶尚道=新羅、全羅道=百済、高句麗=北朝鮮のことだ。
この人は、ちょいと北朝鮮のことを「良く言い過ぎ」な感があるが、高句麗と日本の関係は歴史的に見ても深いのは事実であって、その実例が書かれている。
こっから、左翼系?と勝手に判断させてもらったが。
「ひとつ、ふたつ、みっつ」、「やま」「たに」などの日本語の読み方が高句麗の言語からのものであること、
6世紀から8世紀ごろの話や、高松塚古墳、長野や福井、新潟の話、続日本記についてなど。
天智天皇が唐からの攻撃から高句麗を守るため、日本から水軍を派遣したこと、百済からの当時の亡命者のために朝廷に役職を増やしたことなど、壬申の乱などについても書かれていたりする。
これは、実に面白い。
知ってのとおり、日本は「南北朝時代」という言葉があるのでわかるとおり、「南朝」と「北朝」という、朝鮮から来た天皇を祭り上げて歴史を作ってきたわけだ。
さらに言うなら、
>創価学会の母体となった大日本皇道立教会は、南朝を正統とし、その皇道に沿った教育を行う趣旨の元で、1911年に創立された。
そういうこと、創価学会も南朝を掲げている。
昭和天皇と現天皇、靖国カルトを祭り上げてる奴らが慶尚道=新羅なら、創価学会は全羅道=百済になるのかな?ここらへんを今後調べてみたいと思う。
6世紀からの百済の移民が、明治維新後の移民推進に、どう関係してきたのかも。
以前、日本の在日の大部分が全羅道で、戦後の帰国を断った慶尚道とは違うのは書いたわけだ。まず、この本を読んで調べてみればよかった。
まあ、何かわかったら書くつもり。
歴史上、北朝と南朝が入り混じるので、あながち源氏と平氏の対立が今も続いているという話も嘘ではないようだ。
メソなどのイルミナティ勢力や外国からの明確な糸は明治維新からで間違いないと思うのだが。
正直、こんな状態で天皇を祭り上げてるのは、どうかと思う。
「日本という国体維持」に天皇が必要?馬鹿いっちゃいけません。
反権力的な生き方というのは、自分の生まれた土地で、「自分の目に映る大事な物を保守」し、「ない物は作り」「正しいことがわかるように教育し」、多数の反対意見と対立の中で「調和を目指す」ことですよ。
天皇という個人の人権を侵害して、「すり替え説」のように、権力の道具として、あちこちから利用され、奪い合うものに大儀はありません。
(…)
まず、イルミが作った社会主義のシステムを「世襲」でやると、とんでもない馬鹿国家が出来上がるわけだ。
それが今の北朝鮮である。
ただ、世襲が50%を超える安定多数の世襲民主主義である日本も、それに負けず劣らずの馬鹿国家である。
今の日本と北朝鮮の違いは、マーシャルプランにおける貿易黒字をアメリカのために捧げるための成長があったかどうかであって、民主主義、社会主義の違いというものが決定的根拠にはならない。
(…)
相手がイヤなことをしたら、こっちもする。利があるなら、同じぐらいの利で返す。
政治というか、国際間の綱引きとは、ただ、それだけなんだと思うが。
そのバランス感覚については日本は正直、低いと思う。島国だからかな?
これは、すべての国が「自分以外は敵」であって、初めて成り立つ。
共通の敵を作ると、歩調を合わすことになりそうだが、それが反共と共産主義、その他モロモロでアンバランス化するのは歴史が物語っている。
そんなアンバランスの先は、二元論の先であって、間違った答えとして統一された「新世界政府」があるわけです。
正しい対立と、多様性、そこから生まれる調和というものを考えなければと思うわけである。生物的な話だと普通のことなんだけど。
うーん、政治にも繋がる話なんだけど、対立しあって調和する中央銀行のシステムを考えなきゃ。
今のシステムでは戦争がなければ、調和は生まれないとも思ってるわけで。難しいかな?ここらへんの話は。
俺は戦争も武力も否定しない、搾取も人類削減計画も。むしろ存在自体は肯定する。それは対立の一種であり、多様化に繋がることだから。
でも、それ以外の「正しい対立」があると思うのよ。
周りに流されて生かされてるだけならば、北朝鮮の武器もって行列組んでる奴らも、餓死者も、今の日本に住む奴と何も変わらない。”)
・鎌倉幕府の評価における学者の派閥
鎌倉幕府は自立した国家の一つの型とする説は東京と九州の学者に多い。
京都朝廷の軍事部門担当の出先機関とする説は京都と東北の学者に多い。
邪馬台国論争では
東京の学者は九州説で
京都の学者は畿内説が多いらしい。
(古代の発音を考えると畿内説が正しいだろうけど。
やまたいこくって読んだ本居宣長のせいで無駄な争いをしてきたね。
当時の発音を知る為に古代中国語や古代朝鮮語を学ばないと駄目だよね)
鎌倉幕府の特性として
将軍は天皇によって任命される
元号は朝廷のものを使っている
官職体系は朝廷のものとはいえ、右大臣となった源実朝が公卿会議に出てないし、執権が右京大夫になっても京都の行政に関わっていない。
国号がない。
天皇の統治権が東国に及ばなくなった。
蒙古襲来後は九州にも及ばなくなる。
外交権も幕府が持っていたと言える。
天皇「職」は十三世紀後半以降、事実上幕府の意志で決まるようになってきた。
上記のような天皇家の実情をうけて、天皇家も勿論いろいろ改革したりした。
花園天皇や後醍醐天皇が、しきりに鎌倉新仏教(当時では日の浅い新興宗教的扱い)の流れを組む禅僧や、昔からある律宗を身近に呼び寄せたり、律僧の中でも真言密教に深く足を踏み入れた人、文観(もんかん)などを近づけている。
(明治になって、歴代の北朝天皇の菩提寺である京都東山の天台宗寺院である泉涌寺が真言宗に改宗させられたことと関係しているだろうね。
※文観
般若寺の律宗の僧で邪教とされていた真言宗立川流の僧。
後醍醐天皇に重用されて醍醐寺座主・天王寺別当となる。後醍醐天皇中宮藤原禧子の御産祈願と称して鎌倉幕府の調伏などを行っていた事が発覚し、元徳2年(1331年)には逮捕され硫黄島へ流罪。元弘の乱の後に鎌倉幕府が滅亡すると京都へ戻り、建武の新政から南北朝時代となっても後醍醐方に属して吉野へ随行し、東寺長者、大僧正となる。
※真言立川流
真言宗の超異端派セックスカルト。立川流の真髄は性交によって男女が真言宗の本尊、大日如来と一体になることである←これホント。
北朝の天台宗と真っ向から反逆する教義ですね。
敵の宗教を信仰はしませんよってことです。
さすが南朝正統宗教である真言宗異端派の立川流。
この宗教って遊女勢力と結びついてそうだ。遊女勢力は非人あるいは非人的性質を持っているからおかしくないし。
【08】「日本の歴史をよみなおす」第3回レジュメ
http://marunekodosemi.blogspot.jp/2015/06/083.html
”いわゆる平将門、藤原純友の乱で、純友は新羅の海賊とつながりを持っていたと思いますが、独自な国家まではつくりませんでした。しかし、将門の場合は、三ヶ月たらずではあれ、王朝の任命した国司を追いはらって新しい国家をつくり、将門自身は新しい天皇、「新皇」という称号を、八幡の神、菅原道真からあたえられるのです。そして、下総に都を置き、のこりの関東の七カ国に伊豆を加えた八カ国に、国司を任命して、東国国家を樹立します。東国はここで、京都の王朝の統治権からごく短期間であれ、完全に離脱したわけです。日本列島には決して一つの国家だけがあったのではなく、複数の国家があったことをこの事実がよく示しているといえましょう。[205]”
平将門の乱
3か月足らずだが、王朝の任命した国司を追い払って新しい国家を作った。
将門自身、「新皇」という称号を、八幡の神・菅原道真から与えられる。
下総に都を置き、残りの関東の七カ国に伊豆を加えた八カ国に国司を任命し、東国国家を樹立。
藤原純友の乱
藤原純友は新羅の海賊とつながりがあったと思われる。
瀬戸内海から北九州、さらに朝鮮半島との間の緊密な海上交通を基盤としておきた政治動乱。
大陸系仏教 陸路・土地・農業が税の基準 朝廷
VS
海賊系土着信仰 新国家 新宗教
網野善彦「日本の歴史をよみなおす」、第5章天皇と「日本」の国号のまとめと感想
http://ameblo.jp/pianoforte007/entry-11768496286.html
”「職の体系」、神人・供御人制と天皇;
「特定の職を特定の氏が世襲的に請け負う【職の体系】官司請負制といわれる体制が11, 12世紀には国家の体制として形成されてくる。これは王朝国家の体制ともいわれています。職の体系のトップに天皇がいるわけで、天皇は【天皇職】を世襲的に継承することになったといってよい」(200-201頁)
「このような王朝国家を支えた土地制度、租税制度が11世紀の中葉ごろから本格的に形成された荘園公領制という体制です」(201頁)
「荘園公領制の確立と並行して、11, 12世紀ごろに、神人・供御人制という職能民、非農業民にかかわる制度が確立します」(202頁)
仏教と天皇;
「天皇の権威も、在来の神だけではなくて、早くから仏教と深いかかわりを持ちつつ保たれていた」(203頁)
「13世紀の後半から、天皇が即位の時に、密教の灌頂の儀式を行う、【即位灌頂】という儀式をやっていた」(204頁)
日本列島には複数の国家があった;
「鎌倉幕府の評価については、これを一応自立した国家、中世国家のひとつの型として認める見方と、王朝ー京都の権力の出先機関として軍事的な部門を担当する、ひとつの権門にすぎないという見方とが対立しています」(206頁)
「王朝の官職は鎌倉時代にはまだ意味を持っていますが、幕府側の人に与えられた官職は、ほとんど形骸化している」(208頁)
「天皇の統治権が東国におよばなかったことは、重要なことで、やがて蒙古襲来後は九州にも及ばなくなります。さらに外交権も幕府が持っていたと言えますし、【天皇職】は、13世紀後半以降、事実上、幕府の意志できまるようになってきたことは十分注目しておく必要がある」(208頁)”)
・後醍醐天皇はとにかく思いきったことをやる。天皇主導のもとで新しすぎる宗教思想や外来思想を動員して、天皇の権威の危機をなんとかしようとした。
後醍醐天皇は「神人」や、シン仏に準ずる天皇の直属民「供御人」的な勢力を、非人まで含めて軍事力として動員したり、商業を掌握し、貨幣まで発行しようとしている(貨幣鋳造は統一王朝の権力を示す)。
江戸時代になって、武家に対する批判がでてきたとき、それに代わる権威は北朝ではだめだった。北朝は武家と野合し続けている天皇なので、持ち上げようとしても持ち上げようがない。南朝があったからこそ、はじめて武家に対して対抗しうる権威として天皇をかつぐことが可能になっているわけで、南朝の存在がなければ、これは不可能だった。だから、明治天皇は北朝の子孫なのに早くから南朝を正統とすることに決めたのだと思う、と筆者はいっている。
(いやいやいや自分の系統=北朝が正統でないと言うのはさすがにやりすぎでしょ。私は王になる資格なしって言っていることになっちゃうよ。
天皇家が非常に懸命に大切にしてきたのが正統性なのにね。
スクールデイズというゲームでは
南朝を正統とした桂太郎と同じ苗字のヒロインが人気投票一位で、北朝系の西園寺公望と同じ苗字のヒロインは不人気投票一位って明らかに操作されているよね)
・職能民の伝説には貴種流離譚伝説の形を持つものを含めて、起源が天皇であるものが多い。
鋳物師は近衛天皇
木地屋は惟喬親王(これたかしんのう)
被差別部落は醍醐天皇
遊女は光孝天皇。
(惟喬親王
文徳天皇の第一皇子。しかし、文徳天皇は皇太子として第四皇子・惟仁親王=後の清和天皇を立てた。惟喬親王の母が紀氏の出身で後ろ盾が弱かったが、惟仁親王の母は藤原良房の娘・明子だったからでしょう)
〈続・日本の歴史をよみなおす〉
第1章 日本の社会は農業社会か
農業社会ではない。
百姓とは普通の人々、一般人という意味。
たくさんの(百)姓をもった一般の人民。
古代は「おおみたから」と読まれ、農民の意味は勿論ない。
現在でも中国語や韓国語では百姓は文字通りpeopleの意味で使われている。
非農業民を多く含む。
農民は百姓ではない。
百姓は農民ではない。
百姓には海の民、山の民、廻船人も含まれる。漁業、塩業、林業などは無視する学会。
中央政府は農業を基本単位にしていたので、正式文書は当然農業本位になるから誤解が生じた。
江戸時代、年貢の賦課基準となる石高をまったく持っていた、つまり年貢の賦課される田畑を持っていない人を水呑といい、教科書では貧しい農民、小作人と言っている。
無高(石高なし)の百姓を「頭振」と呼ぶ地方もあるが、これは水呑と同じ意味。
水呑百姓が貧乏だとは限らない。土地がない≠貧乏、は現代と同じ。
土地を持てないほどに貧しい農民なのではなく、むしろ土地を持つ必要がない金持ちの多角的企業家は昔からいたのだが、彼らはずっと農地がない=貧乏、だと勝手にみなされてきたの。
村は農村とは限らないし、水呑(頭振)ばかりでも貧しい地域とは限らない。
江戸時代はに町と認められたのは、城下町や堺や博多のような大都市だけで、実質は都市でも大名の権力とかかわりのない都市は制度的には村とされた。
村とされ、検地され、田畑(石高)があれば百姓、なければ水呑だとされた。
農村ではなく山村や漁村では当然水呑ばかりになるが、貧乏とは限らない。
あと、昔の地形は今と全然違っていることに気をつけないといけない。
岐阜県は古代には大垣の近くまで海が入っていたりしたなど。
律令国家の班田収受では海の民にまで水田を与えようとしていたりするように、徹底して水田を基礎にした統治システムにしようとしていた。それは江戸時代までずっと続く。
江戸時代には、田畑や屋敷、山や海、塩の収入までも米に換算したほどに徹底的。
そのせいで、農業が本業でない例えば廻船交易(船商売)する人までもが、本業は農業で、船商売は副業(農間稼ぎ。のうまかせぎ。作間稼ぎ。さくまかせぎ)だとされている。
本業はどうみてもサラリーマンなのに、たまに副業として農業をやっているだけで、兼業農家といういかにも農業主体のような用語があるのは昔からの流れを組んでいると言える。
正式文書は当然、農業基準のものばかりなので、それを多く読む歴史家は、百姓=農民、だと誤解した。
そこで正式でない文書が大事になる。
裏文書、紙背文書という、廃棄するはずだった文書の裏に日記や記録を書いたために残された文書では、動産に関する記述、非農業的な生業に携わる人々が現れる頻度が高いので、実情がよくわかる。
(チラシの裏紙のメモも百年保存すりゃ立派な資料ですぜ。
土地が飯のタネの人は土地に縛られて逃げにくいから土地を土台にした支配体制にしたのでは?
パン屋襲撃 @c3po2006 2013年11月29日
『日本の歴史をよみなおす(全)』 p243 江戸時代、年貢の賦課基準となる石高をまったく持っていない、つまり年貢の賦課される田畑を持っていない人のことを水呑といっており、教科書では、これを貧しい農民、小作人と説明するのがふつうです。 ← 『詳説日本史』には水呑百姓の記述は無かった
p249 輪島の71%の頭振(水呑)の中には、漆器職人、素麺職人、さらにそれらの販売にたずさわる大商人、あるいは北前船を持つ廻船人などがたくさんいたことは間違いないところですし、百姓の中にも、輪島の有力な商人がいたことも明らかなのです。
p261 土地に租税を課している以上、百姓が農民であってほしいのは、国家のきわめて強い意志であり、国家にとってそれがもっとも望ましい事態だったことを考えておく必要があると思います。 ← "国家"を"農水省"と読み替えると、現代でも使える。
p267 これまで歴史家は、襖下張り文書まで整理して丹念に調べることはほとんどやってきませんでした。 ← リサイクルで使っている紙ですからね…
p279 このように、日本列島の社会は当初から交易を行うことによってはじめて成り立ちうる社会だった、厳密に考えれば「自給自足」の社会など、最初から考えがたいといってよいと私は思います。 ← "国民国家"は不可能なのか…)
第2章 海からみた日本列島
海上ルートがきっちりしていたから朝鮮半島の国と連携できた。
磐井の反乱の「反乱」は一つの中心があることが前提なので、正確には反乱ではなく戦争。
(継体大王 ヤマト王権+百済
VS
磐井 九州の王権+新羅(おそらく海賊勢力も含む))
律令国家は、徹底的に陸路中心の制度であり、都を中心に舗装されたまっすぐな道路を基本にしようとしている。
今までは海上交通、河川交通中心だったが、律令国家はそれを無視するように、強烈な意志で陸上の道を中心とした交通体系をつくる。
交通施設の馬家(うまや)も道に沿って四里の間隔で作られているが、河川の多い列島の地形にもかかわらず水駅(みずのうまや)がほとんど見られない。
軍事的な理由や農本主義が理由だろう。
公的な交通は陸路とはいえ、八世紀にはあやしくなりはじめ、陸上交通中心の無理が表面化し、八世紀前半には重い物を運ぶための川と海の交通が公的に認められ始める。
九世紀には再び海と川の交通が交通体系の主軸になる状況が生まれる。
日本霊異記という説話集は八世紀のことを記述していて、酒や米を出挙するとき小さな升で貸して、大きな升で取り立てる不法な利息をとった田中真人広虫女(たなかのまひとひろむしのめ)が登場するなど、女性や坊さんが金融や商業の担い手になっていたことを確認することができる。
おそらく、国家は二十歳以上の成年男子が公認された国家の成員で、女性や坊さんは基本的な国家の成員から外れていたからだろう。
(男よりも女のほうが聖と俗の境目に近いと考えられていたのかもしれませんね。
税をわざわざ陸路で運んだり、後の江戸時代の参勤交代をなぜ船でしなかったのかなあという疑問が解けた気がします。
パン屋襲撃 @c3po2006 2013年11月29日
『日本の歴史をよみなおす(全)』 p319 まだ神仏と結びついているとはいえ、商業資本、金融資本が動いており、米、絹、布などは、交換手段、支払手段、価値尺度の役割をはたす貨幣として機能し、本格的に流通しているわけで、12世紀にはこうした経済のあり方が軌道にのっているのです。
荘園公領制
十三世紀前半までに確立した土地制度。
各地のネットワークで成り立っていて、自給自足ではない(荘園に限ったことではないが)。
荘園と公領=国衙領との区別がはっきりする。
貴族や寺社はその上に自分たち独自の経済体系(各地の重要拠点を手に入れる)を作り上げていくことになる)
第3章 荘園・公領の世界
山奥だから、離れ小島だから辺鄙という感覚をやめること。
離島だからこそ海によって周囲に開かれ交通の要衝になる場合はいくらでもあるし、川と山の道を動く人々にしてみれば山奥は
以外と人の往来が激しい場合が多い。米が食べられず、粟や稗(ひえ)しか食べられないからといって貧しいとは限らない。
膨大な量の銭が船に積まれていた場合、船の底に置かれるバランスを保つためのバラストにされて運ばれてきたのだろう。
中国からはいってきた大量の銭が社会に貨幣として浸透して流通するのは、東日本では十三世紀前半、西日本では十三世紀後半ごろから。
十二~十三世紀ごろまで貨幣として絹と布が流通していた東日本では西日本よりも早く銭が流通し始める。銭十文を一疋(ひき)というが、疋は絹や布の単位なので絹や布が銭に代わっていったことが見受けられる。
対して
西日本では米が交換手段、価値尺度として用いられて庵、平安時代の末には替米(かえまい)という米の手形も現われている。つまりは、現物を動かさずに、手形で米の支払いをすることも行われているほどなので、貨幣としても十分機能している。ゆえに西日本では銭の流通が遅れた。
こうして十三世紀後半から十四世紀になると鎌倉幕府は、関東公事(くじ)という御家人に対する課役も銭で徴収されている。
そのころになると富の象徴としての銭の蓄蔵も盛んになる。鎌倉末~南北朝期、十四世紀以降、大量の銭が土の中から掘り出される事例が非常に増えてくる。「埋納銭(まいのうせん)」、「備蓄銭」と呼ばれる。
地下の世界は他界なので、土の中に物を埋めると、人間の手を離れシン仏の世界のものになってしまう。地下のものは無主物なので、誰のものでもなくなる。なので埋める=隠す、と短絡的に考えてはいけない。
土に埋めてシン仏に捧げてその土地を使わせてもらう、あるいは無主物にしてあらためて上分物、神物(しんもつ)として金融の資本にしていたということも充分考えられる。
第4章 悪党・海賊と商人・金融業者
鎌倉幕府は、土地問題には熱心だが、金銭貸借や流通や商業関係の訴訟は重要視していなかった。
そこで、十一世紀ことまでは神人や供御人などの国の制度の外にあった人々は自立的な金融・流通ネットワークを作り、裁判も自分たちでやり判決を自らの実力、武力で執行していた。これは公権力としては都合が悪いので、王朝国家は、寄人・神人・供御人らの活動に対する統制を強化しつつ、神人・供御人制を公的な制度とし、十二世紀から十三世紀初めのことまでにこれを軌道に乗せることでその活動を抑制したが一時的だった。
悪党・海賊が、海の領主、山の領主であり、公権力とかかわりなく、交通路の安全を保証する武装勢力として存在していた。
比叡山の山僧や山臥(やまぶし)などは商業・金融に携わり、手形の流通を保証していた者も悪党だったりした
このように、交通路の安全や手形の流通を保証する商人や金融業者のネットワークは、十三世紀後半から十四世紀にかけて悪党・海賊によって保証されていたらしい。
「遊手浮食の輩(ともがら)」などとも呼ばれた彼らは、広域的な組織を持ち、何か揉め事が起きると、賄賂や礼銭をとり、訴訟を請け負ってトラブルを自力で解決していた。
山ゴシとは、事前に賄賂をとること。
契約とは、事後に礼銭をとること。
十三世紀後半から十四世紀にかけて、幕府は執拗なまでに悪党・海賊禁圧令を発布する。交通・流通を統制下に入れようとした。
悪党の「悪」とは、日常の安穏を撹乱する、人の力を超えたものとのつながりをもって考えられており、利潤や利子を得る行為そのもの、商業、金融業そのものを悪ととらえる味方があった。ばくち、好色、けがれ、殺生などなど。
異様なほどの力をもつ者を、悪七兵衛(あくしちびょうえ)、悪源太(あくげんた)、悪左府(あくさふ)。
銭、貨幣の魔力にとりつかれ、利潤や利子を追求する商人や金融業者交通路である山や河海にかかわりつつ、狩猟や漁撈のような殺生を好み、博打に打ち込むような人たちは、田畠を基本と考える農本主義的な政治路線に立つ人たちにとっては、まさしく「悪」。
(「悪」
=秩序を乱しうる、人の力をこえたものとのつながりをもるもの
=支配層が制御しにくいもの)
御内人(みうちびと)=北条氏の家督‐得宗の家臣。商人や金融業者と結びついて、河海や山野の交通路を積極的に支配しようとした。
関東御免津軽船とう津軽まで往復し、交易を営む大船二十艘を、北条氏が掌握していた。
十四世紀には、中国大陸との貿易や唐船の派遣を、北条氏がほとんど独占するなど、有力な港はほとんど北条氏の所領となった。流通と廻船交易の組織を北条氏は積極的に容認することによって掌握しようとした。
従来の農本主義的な御家人勢力との対立をもたらす路線をとった。
鎌倉時代後半から南北朝前半の政治情勢はこの二つの政治路線の激しい対立の中で動いている。
1285年の霜月騒動では
農本主義的な政治路線、御家人勢力代表・安達泰盛×
滅亡 負け
VS
海の民などの悪党と結びつく路線をとった北条氏の御内人代表・平頼綱
○勝ち
霜月騒動以降、悪党や海賊をただ弾圧するだけでなくむしろ支配機構に取り込むようにしていった。
当然反発として、熊野海賊たちの大反乱が起こり、幕府は承久の乱や幕府が滅びるときの戦争並みの兵力を動員した。
蝦夷と呼ばれた北海道の海上勢力とも北条氏は大衝突している。
こういう状況のなかで、後醍醐天皇が登場してくる。後醍醐は、このような北条氏に反発する悪党・海賊の武力にも依存して鎌倉幕府を倒す。それゆえ、後醍醐の政治は、得宗と御内人の推進した政治を、さらに極端にまでおし進めたと考えることができる。
非農本主義的で、商業・金融業者に基礎を置いた政治をしようとした。
それは失敗するが、十四世紀末の足利義満の政権にて、後醍醐がやろうとして失敗したことをほぼ実現する。
十四世紀、南北朝の動乱は、日本の社会自体の大きな転換に伴って起こった激動。商品、貨幣、信用経済がそれまでとは違ったレベルで展開し始め、政治・宗教のあり方にも大きな転換を迫ったところから起こった。文明史的な転換期。
日本、琉球、アイヌがそれぞれ自らのアイデンティティを自覚し始める。民族史的転換期でもある。
琵琶湖を航行するときには、堅田の人を「上乗」(うわのり)として船に乗せることになっていた。堅田の「上乗」の旗を掲げて湖を行けば、安全に航海することができた。堅田=湖の領主。堅田に何の挨拶もせずに。当然、関銭や礼銭を払わないといけないが、航行していると、堅田の人たちによって積荷を差し押さえられたり皆殺しにされたりした。挨拶をしておけばむしろ安全に航海でき警護してくれた。
安芸の国では、東から来た船は東の海賊を一人乗せておけば西の海賊は襲撃しないし、西から来た船は西の海賊を一人乗せておけば東の海賊は襲撃しない。報酬必要。
・一遍の教えはまさしく都市的な宗教。商業や金融業者、それと結びついている女性、さらに「非人」といわれた人びと、一方の見方からは「悪」といわれ、穢れているとされつつある人びとのなかに、一遍の教えは広がっていった。
踊念仏も一種の芸能で、桟敷や舞台をつくって多くの人が見物することをねらっているわけで、多くの人の集まる都市的な場の成立を前提にしてはじめてできたもの。
しかしこういう動きを我慢ならないと考えている勢力も当然あった。
第5章 日本の社会を考えなおす
特に鎌倉時代後半、十三世紀後半以降の社会は、銭貨の流通が活発になり、信用経済といえるような状況が展開し、さまざまな形態の資本、金融資本、あるいは商業貿易資本、さらには土木建設に投資される大きな資本が動くようになっている。少し大胆にいえば、これは資本主義的といってもよいぐらいである。
飢饉はまず非農業的な地域、都市的な場に起こるはず。食料を作っているところは飢饉にはなりにくいはず。
東北は、 意外に都市的な性格を持つ地域だったのかもしれないということ。
農村が一番壊滅しにくいんじゃないの?
むしろ、食糧を輸入している都市部や農業をしていない百姓の村が壊滅したのでは。そして百姓を農民だとみなしたので誤解されたと。
(支配層にまっさきに食料を取り上げられた可能性もありますけどね)
重商主義はすでに生まれていた。少なくとも土台は固まっていた。
明治維新を推進した薩摩、長州、土佐、肥前の諸藩は、みな海を通じて貿易をやっていた。辺境の遅れた大名などではない。江戸時代末までに、日本社会には十分に商工業・金融業などの資本主義的な蓄積があった。
・現在使われている商業関係の用語は、中世以来の歴史的な語彙を用いている。
相場=相庭は中世から使われていた。
切手や切符は平安時代から「手形」の意味で使われていた。
株式=株「職」、仕切、寄付き、大引けなどなど面白い言葉多数。
87夜『日本の歴史をよみなおす』網野善彦|松岡正剛の千夜千冊
https://1000ya.isis.ne.jp/0087.html
↑
イシス
……
おまけ
ヨーロッパ史の一代画期=キリスト教暦1453年。
中世から近世へと移った大転換点。
①コンスタンティノープル陥落して東ローマ帝国が滅亡し、オスマン帝国が地中海の覇権を握った年。
②フランス軍がボルドーをイングランドから奪還し、フランス国内におけるイングランド王の領地はカレーのみとなって百年戦争が終わった年。
①オスマン帝国が、コンスタンティノープルを奪い東ローマ帝国を滅ぼしたことの影響
・ジェノヴァ、ヴェネツィア等の地中海貿易で栄えていた都市国家は、その権益をオスマン帝国に奪われる事になり、イタリア(便宜上そう呼ぶ)の一地方都市へと転落。
・イタリアの国の航海士達の多くは、後にスペインやポルトガル等のイベリアの新興国家に移り、大航海時代=白人による有色人種大虐殺・奴隷誘拐貿易時代の所業に加担する。
・白人キリスト教徒にとってコンスタンティノープルは重要な聖地であり、それを有色人種イスラム教国家であるオスマン帝国に奪われたことによる、(十字軍以降に輪をかけた)教皇の権威失墜。
→宗教改革のきっかけの一つ。
・ コンスタンティノープル陥落前後には、多くのギリシャ人の学者・知識人が東ローマで保存・研究されてきた古代ギリシャ・ローマ時代の文献を携えて西欧へと亡命し、これがイタリア・ルネサンスに多大な影響を与えた。
②百年戦争の影響
・十字軍以来没落しつつあった封建諸侯は衰退
→王権強化
→常備軍や官僚制を整備して国王の中央集権化
→絶対主義王政の基礎完成
・戦術の変化(火器)により騎士階級が没落。
・百年戦争の後、イングランドでは、更に「薔薇戦争」が起こって諸侯は疲弊し没落。
→王権は著しく強化されテューダー朝による絶対君主制へつながる。
・フランスでも宗教戦争が起こって内乱が発生した。が、祖国統一で王権が強くなり、ブルボン朝の絶対君主制へと進んだ。
末代の凡夫@matsudai_bonpu • 6月10日
天皇はいかにして大富豪となりしかhttp://blog.livedoor.jp/gensenkeijiban-bousou/archives/38338123.html …伊藤博文らは、天皇を『生きる神皇』に仕上げることにした。そこでキリスト教を導入した。自らもキリスト教に帰依した伊藤は朝廷内部にキリスト教を持ち込んだ。国家神道とキリスト教は驚くほど似ている。と。
ヤシロタケツグ@yashiro_with_t • 4月18日
【1-5要約】定住民の記録は史料に残るが、漂泊する民の記録は残らない。それが網野善彦の教え。「百姓は農民ではない」例:能登半島の農民は痩せた耕作地しかないがみな豊かだった。日本海側一帯で商業活動をしていたから。史料に残らない非定住民の存在も考慮することが大事。
mipoko:NoNukes&NoFur @mipoko611 7月25日
網野本の奥能登の「百姓」に関する記述がおもしろかった。農本主義経済が建前の日本の公的な古文書から見ると、田を持たない「水呑」とされている奥能登の「百姓」は、実はサハリンまで北前船を走らせる商業活動をしてて裕福だったって話。
岸本元 @bowwowolf 3月24日
網野善彦先生の両親もイトコ婚。それどころか《父の両親、つまり私の祖父、祖母もいとこ。母の両親、祖父と祖母もいとこでした》と『日本の歴史をよみなおす』で書かれている。網野先生は日本の社会では近親婚に対するタブーがきわめて弱いとも指摘されている。
イスカリオテの湯葉 @yubais 3月9日
https://twitter.com/yubais/status/574919234737729536 … ふぁぼ数で見ると一番人気は網野さんの本かな。 「もののけ姫の原作」と言ったが別にタタリ神やシシ神が出てくるわけではなく、世界観が全般的に網野ベースという事。タタラ場の女が天皇を知らないと言うシーンなど網野史観の特徴が出ている
J・ナナミ @pinkglalem 7月11日
日本の元凶...#天皇。明治維新以前に日本の普通の人たちは、天皇など知らなかった。伊藤博文が、現人神キャンペーンを行ったため、最初は、ヒンドゥー教由来の低級神「天王」と勘違いする人が多かった。
suisei_sensei @shoemaker_levy 12月3日
『もののけ姫』が網野史観に基づいて、アジール的なたたら場で働く非人集団的なハンセン病者集団を描いたという話は有名だけど、あれはあくまで宮崎駿の創作なんですよね。実際に中世のハンセン病者がたたら場で製鉄業に携わったという歴史的な事実の証明はないわけで。
ENDO @BabylonFilmnoir 2014年7月4日
もののけ姫。 登場人物がみんな士農工商の社会から疎外されたアウトサイダーだよね。 アシタカは蝦夷っていう少数民族だし、 タタラ場には穢多•非人、ハンセン病患者が多くいる。彼らにとってはユートピアだけど、戦争の道具を作っているという矛盾がある。プロットがすげえ。
ツモリ @tsumoriiiii 2014年5月24日
もののけ姫のタタラバで働く人々は「非人」がモデルではという話を聞いた。非人って元々は神に近い存在として天皇のお世話をする役割だったらしいです。包帯を体中グルグル巻きにして、柿色の衣を着けていたとか。それが将軍の時代になり卑しい身分へと変えられてしまったんだそうです。
ブッカーTboneしま2 @tboneshima2 2月14日
網野善彦「日本の歴史をよみなおす」前編読了。面白い。本人が筑摩書房の社員に話した内容が書籍化されたようで、どうりで最初は読み難いと感じたわけだ。しかし内容は期待通り。鎌倉以前は女性の領主がいたことなど、その後の家父長制が確立された時代では封印されたような史実が刺激的。
意識の低い人工知能 @stdaux 2月6日
網野『日本の歴史をよみなおす』を読んでいたら女性の寺社参りに関する話があって、一部の寺社では参籠者は男女の別なく雑魚寝だったこと、しばしばそこで参籠者同士の「間違い」が起こっていたことが書かれていた。それに加えて聖域での出来事は俗界に持ち出さぬ習わし……
ケサグリ @kesaguri 2013年9月26日
網野善彦"日本の歴史をよみなおす(全)" 後半読み飛ばししたけど興味深く面白かった。一番興奮したのが中世のケガレの概念と穢多非人、女性たちのとこ。 処女の純潔を少しも重んじない。 妻が夫に財産を高利で貸し付ける。 妻が夫を離別する。 堕胎はきわめてふつうで20回堕した女性がいる。
Spica @Kelangdbn 2013年7月2日
日本ほど処女信仰の希薄な社会も珍しい。まあいわゆる「未開社会」に行けば似た例は幾らもあるんだろうけどやまと言葉に「処女」にあたる単語がないぐらい膜への意識が低い。マリアまで処女にしちゃったキリスト教圏は世界でも屈指の処女崇拝地域。
「おとめ」は未婚女性のことで処女ではないんですよね
……
前回の記事
中ユ同祖論の提唱者にして日ユ同祖論の原型を作った17世紀のイエズス会士ロドリゲス『日本教会史』と
茶の湯とキリシタン大名とキリスト教人脈と大河ドラマと
大日本皇道立教会と
鹿児島版田布施の加治屋町
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-90.html
の補足。
ken @kenkatap
薩摩藩の英留学150年で交流 鹿児島の高校生ら 【どうしん http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/life-topic/life-topic/1-0160271.html …
▼1865年、薩摩藩が若い留学生を英国へ派遣してから150年
▼留学先となった英国の名門大学、UCLで
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%8B%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%B3#.E6.94.BF.E6.B2.BB.E5.AE.B6.E3.83.BB.E5.AE.98.E5.83.9A …
▼森有礼 ▼小泉純一郎
森有礼(薩摩藩士)=一橋大学創設者、初代の文部大臣
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E6%9C%89%E7%A4%BC …
▼キリスト教に深い関心
▼英語の国語化を提唱したこと(国語外国語化論)でも有名
▼1872年イェール大学の言語学教授宛てに「英語を日本の国語とするべきではないだろうか」という書簡を送る
幕末の薩摩藩士の足跡たどる 英国留学生記念館を公開
【西日本 http://www.nishinippon.co.jp/nnp/kagoshima/article/101318 …
▼19人の功績を讃える資料館
▼留学生は1865年、薩摩藩が派遣
▼初代文部大臣の森有礼や大阪商工会議所初代会頭の五代友厚、サッポロビールの前身の会社を設立した村橋久成ら
日本における同性愛 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E5%90%8C%E6%80%A7%E6%84%9B#.E6.B1.9F.E6.88.B8.E6.99.82.E4.BB.A3.E4.B8.AD.E5.BE.8C.E6.9C.9F.EF.BC.9A.E7.94.B7.E8.89.B2.E6.96.87.E5.8C.96.E3.80.81.E4.BD.99.E3.82.8A.E7.9B.AE.E7.AB.8B.E3.81.9F.E3.81.AA.E3.81.84.E6.99.82.E4.BB.A3.E3.81.B8 …
▼1842年、陰間茶屋禁止
▼幕府も享保・寛政・天保の改革で徹底的な風俗取締まり
▼薩摩藩や土佐藩で男色が盛んだったことを除いて行われなくなった
▼近代、明治維新の中心となった薩摩や土佐を中心に衆道は息を吹返した
あまり知られていない鹿児島県人のヤバイ過去
【NAVER まとめ http://matome.naver.jp/odai/2134500560108964301 …
▼えのころ飯
▼死体に一斉にかぶり付く「ひえもんとり」
▼男色というだけでなく強姦・輪姦が日常的に行われていたという
▼男色趣味=薩摩趣味って言われた時代もあった
薩摩藩・島津重豪(8代) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E6%91%A9%E8%97%A9#.E8.BF.91.E4.B8.96 …
▼三女の茂姫を第11代将軍・徳川家斉に嫁がせた
▼外様大名から将軍正室輩出=薩摩藩だけ
▼養女の篤姫を第13代将軍・徳川家定の正継室に (初訪日のフリーメイソン=ティチングは日本の機密を島津重豪を通し収集)
村山有 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E5%B1%B1%E6%9C%89 …
▼日本ボーイスカウトで最初の宗教章「仏教章」を設定した
▼戦後スカウト運動再興期のスカウト指導者
▼米合衆国シアトル生まれの日本のジャーナリスト
▼AP通信社などに勤務
▼フリーメイソンのメンバーであったという記録がある
後藤新平=ボーイスカウト連盟総裁
▼満鉄、NHK・初代総裁
▼正力松太郎に読売を買取らせた
https://twitter.com/kenkatap/status/283006329893822464 …
▼稲川会傘下・大行社設立 https://twitter.com/kenkatap/status/390686019067985920 …
岩手県水沢市三偉人 https://twitter.com/kenkatap/status/290391575136190465 …
後藤新平とフリーメイソン http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E6%96%B0%E5%B9%B3#.E3.83.95.E3.83.AA.E3.83.BC.E3.83.A1.E3.82.A4.E3.82.BD.E3.83.B3.E3.83.AA.E3.83.BC.E3.81.A8.E3.81.AE.E9.96.A2.E4.BF.82 …
▼独留学中、赤十字という国際結社を通じフリーメイソンに入会の可能性
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E9%96%93%E5%8B%95%E7%89%A9%E5%9C%92#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E3.81.AB.E3.82.88.E3.82.8B.E4.BA.BA.E9.96.93.E3.81.AE.E5.B1.95.E7.A4.BA …
▼人間動物園
▼後藤新平は台湾原住民や漢民族習俗等展示
▼纒足の少女による喫茶は大きな話題に
日本のフリーメイソンリー http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%82%BD%E3%83%B3#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E3.81.AE.E3.83.95.E3.83.AA.E3.83.BC.E3.83.A1.E3.82.A4.E3.82.BD.E3.83.B3.E3.83.AA.E3.83.BC …
▼1887年保安条例は、秘密結社禁止
▼フリーメイソンは、日本政府と協議
▼結果、保安条例対象外とする代わり、日本人を入会させない「紳士協定」が交わされた
▼メイソンリー側によれば、記録が残っているという
初訪日のフリーメイソン=イサーク・ティチング
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B0 …
▼1779年、長崎出島に駐在
▼オランダ東インド会社最高位職歴任
▼1795年、乾隆帝(清の第6代皇帝)治世60年記念式典列席
▼日本の機密を、11代将軍徳川家斉の岳父・島津重豪を通し収集
▼島津重豪(8代)=蘭癖
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E9%87%8D%E8%B1%AA …
▼斉彬(11代)を評価
▼シーボルトと会見
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%96%89%E5%BD%AC …
▼斉彬は、島津藩主家で唯一家康の血を引く当主
▼土佐藩の漂流民で米から帰国したジョン万次郎を保護
▼西郷隆盛らを育てた
フェイド大帝 @FeydoTaitei
イエズス会、イエズス会煩いけど、 同じフランシスコでもザビーの 方じゃなくてカブラルの方を 君達はもっと調べた方がいいと思うよ。
mansaku21 @mansaku21 2011年7月25日
7月25日 天正6年(1578)豊後の戦国大名大友宗麟がイエズス会のカブラルから洗礼を受ける。受洗名はフランシスコ
有閑無是 @AlkanMuze 2013年5月14日
カブラルの友人である大友宗麟もヴァリニャーノに対し「司祭方は様々な困難にぶつかりつつ、次第に賢明になるだろう、・・・自分の国ではその習慣でよろしかろうが、日本人を改宗させようと言うのならば、日本語を学び、日本の礼法に合うように生活せねばならぬ」と語った。
Banjoe(祖母喪中) @Banjoe1971 2012年2月22日
@sagaminoriaki カブラルさん、メガネをかけていたせいで「四つ目のバテレンがおる!」という噂が広がり、それを見るためだけに数千人も集まってきた日本人に恐怖を感じて暴論を吐いた説というのは……。
椎名シギ @dolce_oo 5月29日
眼鏡の相手に「四つ目野郎」って言うのどっかのスラング的な言いまわしかと思ってたら英語で眼鏡をかけた人の事「four eyes」って言うの知って面白~~~~~~そのままかい
雑学たん @zatugakutan 8月22日
「マルドゥック」(マルドゥク)というのはバビロニアの神の名前っすね(°x°)神々の中で最も大きく、強い光を放つという四つ目四つ耳の全てを見通す存在っす。
神bot @god_________bot 17 分17 分前
【マルドゥク】
古代バビロニアで信仰された神。バビロン市の都市神。想像を絶するほど絶妙に作られた四つの目と四つの耳を持ち、この目と耳で何事も見逃さず、聞き逃さない。唇を動かせば炎が噴き出す。他の神々の2倍の力を持つ。 pic.twitter.com/TqFjFZmqMp
好事家 @dilettante_g 2013年2月12日
第13号機って四つ目四本腕でマルドゥク神説あるけど、肩から羽?生えたら6枚羽のセラフィムっぽくもあるよね。
長い記事をお読み下さり本当にありがとうございます!
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