2018年10月11日

子どもに残せることは、結局それが誰であろうと「ほんの一部」なのではないだろうか

残せることはほんの少ししかない。けれどそれはゼロではない。

そんなことを考えました。


ところが、どんなに「ギリシア人の家庭教師」をやってのけようとしても、父親ではやってのけられない部分があることに、途中で気づくことになった。
というのも、親は親という立場を逃れられないからだ。

親の側が、どんなに対等に子どもに接しているつもりでも、子どもからみた親は、社会のルールやテンプレートの元型(アーキタイプ)としての側面を免れない。

同じ”アドバイス”でも、親に言われるのと友達に言われるのでは子どもにとっての意味が全然変わってくるのも、子どもからみた親が”超自我”の座を司っているからに他ならない。
親には親にしか伝えられないことがあると同時に、親には決して伝えられないことも、またあるのである。

対して、「ギリシア人の家庭教師」には、そのような制約は無い。
「ギリシア人の家庭教師」は、兄貴や姉貴的な存在であり、幼なじみ的な存在でもある。
親代わりにはなれないが、親には決して伝えられないことを伝えられるのが「ギリシア人の家庭教師」という立場だ。


自分の話をします。

以前書いたことがありますが、私には兄が一人います。兄は、私よりも五歳年上で、私が小学校に入った時には既に小学校の最上級生でしたし、中学に入った時には大学受験にひーこらいっていました。

大体において、五年の懸隔というものはかなり大きなものでして、私は子ども時代、兄と対等になれたことは殆どありません。大筋、私が何かの遊びを覚えた時には、兄は既にその遊びを卒業している、ということが常だったと思います。

上記、シロクマ先生の書かれたことを読んで、私が最初に思ったのは、「ギリシャ人の家庭教師」の影響力はそこまで大きかったのだろうか?ということでした。あるいは、「ギリシャ人の家庭教師」には制約はなかったのだろうか?ということでもあるかも知れません。

私にとっての「ギリシャ人の家庭教師」は、おそらく兄だったろうと思います。私は兄と様々な対話をしましたし、兄がしたこと、兄が残したものに触れながら生きてきました。父母が留守がちだったこともあり、兄との接触時間は、身近な人間の中では一番長かったと思います。

兄の影響がなかったかというとそんなことはなく、間違いなくありました。色々とありました。例えばの話、私のゲーム趣味は元来兄の門前の小僧から始まりました。兄が買ったゲーメストを初めて読んだときのことは、今でも覚えています。あれは衝撃でした。

ただ、水面に落ちた波紋がどんどん広がっていくように、兄から受けた影響というものは「スタート地点」というものが大きく、それが広がっていく過程には、あまり兄の姿はなかったような気もするのです。入口を教えてもらった後は、私はある程度勝手にその世界にのめり込みました。多分、他にも色々教えてもらった「入口」はあったと思うのですが、私が選んだのはゲームと言う世界だったのです。

一方、私がゲームにのめり込んでいる間、兄はもっぱら受験勉強をしていました。実を言うと、私は兄と「ゲームで遊んだ」ことは殆どありません。5歳違いともなるとその実力差も圧倒的で、普通のゲームでは勝負になりませんし、勝負になる頃には兄はゲームどころではありませんでした。

私がもっと小さな頃の兄との対話は、断片的にしか覚えていませんが、やはりそれは何かのスタート地点だったのだろうなあ、とも思います。

そして、その「スタート地点」としての影響という話であれば、私は他にも色んなものから受けました。父から、母から。友人から。本から。新聞から。テレビから。ゲームから。何か一つのものが、他のどれかより大きく優越しているのかというと、どうもそういうこともなさそうに思うのです。

「誰かの人格に影響を与える」というのは、多分「小さなスタート地点を作る」ことの積み重ねなのではないかなあ、と、そんな気がしています。そしてそれは、頻度の差こそあれ、実は程度の差においては、あまり「誰が作ったか」に左右されないものなのではないかなあ、と。親だろうが、友人だろうが、兄だろうが、その影響は同じように小さく、同じように大きなものなんじゃないかなあ、と。

つまるところ、私の中での「文化資本のプリインストール」というものに対するイメージは、誰か一人が大きな波を立てるというよりは、色んな人が色んな小石を投げ込んで、その小石の立てた波が時にはぶつかり時には重なって、やがて大きなうねりを作っていくような、そんなものなのです。

勿論、周囲の環境によって、どんな石を投げ込むか、どれくらいの頻度で石を投げ込むかはある程度コントロール出来るのだろうと思います。ただ、投げ込まれた小石の波が大きくなっていくかどうかは、結局本人の選択次第、スタンス次第であるように思うのです。

昔の「ギリシャ人の家庭教師」にはそれ以上のことが出来たのかな?と、私は思います。もしかしたら出来たのかも知れませんが、案外、「他の人よりは多く石を投げ込むことが出来た」という程度のものだったのかも知れない、という気もします。そこはよくわかりません。少なくとも私に限って言えば、兄から受けた影響というものは、父や母から受けた影響と、度合いに関してはそれ程異ならないように思います。


つまるところ何が言いたいかというと、

「親が与えることが出来る影響は、勿論制限される」
「けれど、それは「親の限界」というよりは、誰だろうと関係なく、他者に与えることが出来る影響というものには多分限界がある」
「だからといって、与える影響が無意味だということにはならない」
「結局、受けた影響をどう育てるかは自分次第」
「周囲の人間が出来ることは、なるべくたくさんの良質な石を投げ込んであげること」

というような点に集約されます。

そういう意味で、私は「ギリシャ人の家庭教師」的なものを、それ程は要望していません。自分が子どもに作ってあげれる「スタート地点」は僅かばかりかも知れないけれど、それはゼロではない。そして、自分が作った「スタート地点」は、必ず他の「スタート地点」とも何らかの共鳴をして、最終的にはきっと、自分にとって望ましいものを選び取っていってくれるだろうと。

そんな風に考えているのです。

今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 23:06 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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