イヴ・トゥモア『Safe In The Hands Of Love』の衝撃とは? 謎に包まれた奇才音楽家を気鋭ライター3人が分析
ベルリンの先鋭的な電子音楽レーベル、PANから作品を発表するなど、その実験的な音楽性で注目されてきたイヴ・トゥモアことショーン・ボウイ。坂本龍一のリミックス・アルバム『ASYNC - REMODELS』への参加も話題となるなか、彼が名門・ワープと契約を交わしたというニュースは衝撃的だった。そんな奇才音楽家のワープ・デビュー作となる本作『Safe In The Hands Of Love』は去る9月に何の予告もなしに配信リリース。このたび国内盤が発売となる。
めったにインタヴューを受けず、その捉えどころのない音楽性と共に、多くの部分が謎に包まれているイヴ・トゥモア。一方で〈Pitchfork〉が現在のところ2018年の最高点となる9.1点を付けて絶賛するなど、音楽家として非常に高い評価を得ているのもまた事実だ。そこでMikikiでは彼の実像に迫るべく、imdkm、八木皓平、近藤真弥という3人の気鋭ライターに本作、そしてイヴ・トゥモアというアーティストについての分析を依頼。それぞれ〈リズム〉〈実験性〉〈アーティストとしての存在感〉という3つのテーマで筆を揮ってもらった。3つのテキストから彼の音楽に少しでも迫れることを願うばかりだ。 *Mikiki編集部
YVES TUMOR Safe In The Hands Of Love Warp Records/Beat Records(2018)
imdkmが分析する〈リズム〉
――ビートからノイズへと歪み、崩壊していく音楽的ドラマ
先ごろリリースされたイヴ・トゥモアの最新作『Safe In The Hands Of Love』は、彼の過去の作品と比較しても明確にビートを強調した作りになっている。2016年の前作『Serpent Music』においてもリズムの実験は際立っていた――ポリリズミックなビートの組み立てに耳を奪われる“Dajjal”で明らかなように。けれども、本作のビートはよりシンプルで、もっと言えばダンサブルだ。
『Serpent Music』は、硬質なエレクトロニック・ビートと環境音を交えたドローン的な音響を往還する間に弛緩したR&BやAORのループが挿入される、44分間に及ぶ特異な音楽体験を聴き手にもたらした。その前年の習作的な作品集『When Man Fails You』からは、ひとつのループを基調としてそれを変調させていくという彼の基本的なアプローチが伺えるが、『Serpent Music』も方法の点ではその延長線上にあるだろう。
そうしたアプローチに加えて本作には、例えばダブステップやトリップホップを想起させる力強いビートが現れる。“Honesty”のファットなベースラインとアタッキーなクラップは初期グライムのような不穏さを漂わせ、つづく“Noid”や“Licking An Orchid”の生々しいアンビエンスを湛えたドラムスは、90年代のオルタナティヴ・ロックを連想させる一方で、唸るような低域やアトモスフェリックなウワモノのマッチにトリップホップの香りも感じる。ストリングスを取り入れたドラマティックな構成で本作のクライマックスをなす“Recognizing The Enemy”は、そのあふれるエモーションがドラムスの響きにも現れているようだ。一方で、本作の最後にダメ押しのように無造作に挿入される80sポップスの断片は、折衷的なサウンドでエモーショナルなドラマを描いてきたこの作品の一貫性をほぐしてしまう、強烈な異物として作用している。
このように、グルーヴの把握が容易で、着実に高揚感をもたらすビートは、前作以上に存在感を増したヴォーカルとあいまって極めてポップに響く。それだけに、7拍子の“All The Love We Have Now”や、6拍子を基本としたつんのめったビートが展開する“Let The Lioness In You Flow Freely”の2曲で迎えるラストの、崩壊寸前のサウンドがもたらすカタルシスは大きい。特に“Let The Lioness In You Flow Freely”は、過剰にアタックを潰す処理を施したドラム・ループが拍節の感覚をぼやけさせ、ビートがノイズすれすれにまで還元されていく。
唯一、ハーシュ・ノイズに満ちたビートレスのドローンが展開する“Hope In Suffering(Escaping Oblivion & Overcoming Powerlessness)”は、以前トゥモアが重要な影響源として言及したスロッビング・グリッスルを彷彿とさせる。思えば彼らこそ、インダストリアルなノイズとリズム・マシーンの強力なビートの間の緊張関係のなかに表現の核を見出したバンドだと言っていいだろう。より身体的でポップなサウンドに舵を切ると共に、本作は彼が明かしたルーツのひとつへと通じるものなのかもしれない。
八木皓平が分析する〈実験性〉
――イヴ・トゥモアは実験音楽の未来を切り拓く
90年代半ばごろからエクスペリメンタル・ミュージックの中核を担ってきた電子音響~エレクトロニカは、ラップトップの民主化をはじめとしたさまざまなテクノロジーの発展により進歩を遂げてきたが、ゼロ年代の終盤以降はかつての勢いを失いつつあるように思えてならない。ノイズやアンビエント/ドローンはひとつのパターンとして消費されるようになってしまった。
音楽における〈実験性〉を再考すべき時が来ている。それは、ここ数年ぼく自身がずっと感じてきたことで、その感覚は今年になってより一層確信に近いものになった。だからぼくは本稿で、今年屈指の傑作であるイヴ・トゥモア『Safe In The Hands Of Love』を通して、エクスペリメンタル・ミュージックの所在を考えるための試論を書こうと思う。
エクスペリメンタル・ミュージックはノイズやアンビエント/ドローンといった要素それ自体に存在するわけではない。そのことに気付いたエクスペリメンタル・ミュージックの音楽家たちがここ数年、ヴォ―カリズムを開拓していったことは注目に値する。ぼくが〈変声音楽の時代〉と呼ぶ音楽シーンの現状は、その傾向を包括するものだ。エクスペリメンタル・ミュージックの先鋭性を保ちながらヴォーカルを取り入れ、スムースなものにすることなくエンターテインメントとして響かせること。彼らはこの〈エンターテインメント〉というハードルに、真の〈実験性〉を見出しはじめている。
2018年は、先鋭的な電子音楽を作り続けてきた音楽家が、自身の音楽にヴォーカリゼーションを取り入れることで斬新な作品をリリースしてきた年だ。たとえばワンオートリックス・ポイント・ネヴァー『Age Of』、ソフィー『Oil Of Every Pearl's Un-Insides』、渋谷慶一郎『Scary Beauty』、ロウティック『Power』、アムネジア・スキャナー『Another Life』等がそれにあたる。
もちろん歴史を遡っていけば先鋭的な電子音楽家がヴォ―カリゼーションを導入した音楽作品をいくつも見つけられるが、その質と量、ヴァリエーションにおいて2018年は抜きん出ていると感じる。そして、イヴ・トゥモアの新作『Safe In The Hands Of Love』もその流れに位置しているのだ。
キャリアを通してイヴ・トゥモアの多彩なサウンドの中心を形成する大きな要素として挙げられるのは、何とも奇妙な音色の連続性だ。どんな音色/テクスチャーやビートが扱われようと、リヴァーブをはじめとした様々な音響処理を媒介に、バラバラに思える各音色が繋がりを持っている。ビートやヴォーカルが際立ち、サウンドがクリアになったようにも思える『Safe In The Hands Of Love』にもそれは当てはまる。収録曲“Noid”の冒頭を聴くと、初めは〈けっこう分離感があるじゃないか〉と思うかもしれないが、2分を越えた後に現れるヴォーカルを聴いてもらえれば、そのヴォーカルが冒頭よりもはるかにバック・トラックの深くへと沈み、トラックとの連続性を持っていることがわかるだろう。
“Lifetime”や“Recognizing The Enemy”をはじめ、いくつかの楽曲ではヴォーカルが平面的/拡散的に広がっていくようなミックスになっていることから、ヴォーカルとトラックが分離せず、相互に貫入しあうようなサウンド・デザインになっていることがわかる。これは電子音響~エレクトロニカ以降のサウンドで歌モノを作ろうとしたときに、トラックとヴォーカルが完全に分離したカラオケ的サウンドに陥ることの真逆を行くものだ。それがイヴ・トゥモアの鋭利でアグレッシヴなサウンドとマッチするように形作られていることは特筆すべき点だろう。それが極めて高度な達成を見せているのが、終盤の2曲であり、“All The Love We Have Now”~“Let The Lioness In You Flow Freely”、この流れを聴くだけでも本作の素晴らしさが伝わると思う。
チルウェイヴ~ポスト・ダブステップ~インディーR&Bにおけるヴォーカルを形容する際に、頻繁に〈ゴーストリー〉というワードが使用される。本作もどこかその流れに位置するようなヴォーカリズムが散見されるが、そのゴースト=ヴォーカルは、いったい何に憑いているだろう。その問いに対し、イヴ・トゥモアは明確に、〈それはバック・トラックである〉と宣言しているようだ。確固たるメロディーを持ちながらトラックに同化し、かつ存在感を見せるゴースト=ヴォーカルはある種の詩的な情緒表現を退け、あくまで唯物的な在り方でぼくらに新たな快楽への扉を開けてくれる。その扉の先には新しいエクスペリメンタル・ミュージックが待っているように思える。
近藤真弥が分析する〈アーティストとしての存在感〉
――クィア・アーティスト? LGBTの音楽家? カテゴライズをかわすイヴ・トゥモア
“Licking An Orchid”のミュージック・ビデオを観たときの衝撃はいまも忘れられない。最新アルバム『Safe In The Hands Of Love』から先行公開されたこのMVには、赤いライトに照らされたトゥモアが登場する。目を引いたのは、トゥモアの顔をかたどったと思われる仮面を被った者と向き合うシーンがたびたび登場することだ。その者の姿は実にさまざまである。トゥモアと瓜二つになったかと思えば、長髪の女性にもなる。そうした者に対するトゥモアのアクションも印象的で、ただ見つめるときもあれば、情熱的にキスを交わす場面も見られる。
“Licking An Orchid”のMVを観ていて思い出したのは、トゥモアはクィア・シーンの周辺から出てきたアーティストであるということだった。トゥモアは2012年にクィア・ラッパーのミッキー・ブランコと出逢ったのをきっかけに、注目を集めるようになったのは多くの人が知るところだ。
こうした背景をふまえると、トゥモアの表現にはクィア・アートと接続できる側面があることに気づくだろう。クィア・アートといえば、U2“One”(91年)のジャケットに作品が使われた写真家のデイヴィッド・ヴォイナロヴィッチ、スロッビング・グリッスルやペット・ショップ・ボーイズのMVを手がけた映画監督のデレク・ジャーマンなどが有名かもしれない。もっと過去に遡れば、同性への愛に溢れる詩を多く残した古代ギリシャの女性詩人サッフォーや、そのサッフォーが題材の「ミティリーニの庭のサッフォーとエリナ」(1864年)を描いた画家のシメオン・ソロモンなどもいる。
クィア・アートはずばり、社会が作り上げた〈ノーマル〉を問う表現だ。社会が要請する常識、普通、規範などに批判的な眼差しを向けることで、セクシュアル・マイノリティーといった社会的少数者の居場所を生み出す。
こうしたクィア・アートの性質はトゥモアの表現にも見出せる。それは先述した“Licking An Orchid”のMVのみならず、『Safe In The Hands Of Love』にも同じことが言えるだろう。このアルバムは、トゥモアが愛聴していたというニルヴァーナ的な激しいグランジ・サウンドもあれば、R&Bやヒップホップの要素も顔を覗かせる。キャッチーな歌メロや踊れるグルーヴは、エクスペリメンタル・ミュージックのアーティストというイメージを打ち破るかのように紡がれる。そこにはジャンルやスタイルといった境目はなく、己の欲望に忠実な音だけが存在するのだ。
そうしたトゥモアの表現は、あらゆる価値観や文化にアクセス可能で、過去も未来も関係なくフラットな視点で接するようになった現在が生み出した新しい音楽、といったネットが一般化して以降うんざりするほど聞かされたクリシェで祭り上げることも可能だが、それでは不十分だろう。そのモダンな感性に、〈ノーマルを問う〉というクィア・アートのアティチュードを重ねたのが、トゥモアのおもしろさなのだから。
トゥモアのおもしろさをどうにか理解しようと、今後多くの批評家やジャーナリストがあれやこれやと語るだろう。その過程で、どうにかして何かしらのジャンルに括ろうと苦心する者も出てくるかもしれない。しかしトゥモアには、その苦心を遠ざけようするところが見られる。自身の音楽を明確にカテゴライズしていないように、セクシュアリティーについても、いまのところはっきりと明言していないのだ。〈多くの人は私の存在が何なのか困惑してると思う。けどそれでいい〉という有名な発言にも、曖昧であることを望んでいるかのような姿勢が窺える。
この姿勢から想起したのは、映画「ムーンライト」(2016年)だった。バリー・ジェンキスによるこの映画は、〈ゲイ映画〉や〈LGBT映画〉と言われることが多い。だが、これらの括りはおかしなところがある。主人公のシャイロンは劇中で、ゲイだと示す言葉を言っていないからだ。もちろんセクシュアル・マイノリティーの文脈でも解釈できる作品だが、鈴木みのり氏の言い方を借りれば、そう思わせるシャイロンの行為は〈同性愛的経験〉と言うのが妥当だろう。このような構造を無視して、〈ゲイ映画〉や〈LGBT映画〉と括るのは、自分は何者であるか不明瞭なシャイロンの主体性を奪うことになりかねない。
このことを考慮する慎重さは、トゥモアを語る際にも必要なものだ。そう考えるとイヴ・トゥモアという存在は、私たちが無意識に秘めている暴力性や抑圧的思考を暴き出す可能性も秘めた、妖艶な誘蛾灯と言えるだろう。