血のメーデー事件
【事件概要】
1952年5月1日、この日の第23回メーデーで、参加したデモ隊が使用不許可とされていた皇居前広場(人民広場)に突入し、警官隊と衝突。2人が死亡した。
※メーデー・・・・毎年5月1日に行われる国際的な労働者の祭典。1886年5月1日、米国で行われた8時間労働制要求のゼネストとデモが発端となった。89年の第二インターナショナル創立大会で決定し、90年から挙行。日本では大正9年(1920)に第一回が行われ、昭和11年(1936)以降禁止されたが、同21年復活。労働祭。五月祭。
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【メーデー前の混乱】
1946年5月1日、10年ぶり、戦後はじめてとなるメーデーが皇居前広場で行なわれた。ところが、50年6月の人民決起大会での米兵への暴行事件を理由に、皇居前広場の集会は一切禁止されることとなった。このため51年5月のメーデーは芝公園で行なわれることとなった。
1952年4月、吉田内閣は前年に引き続いて、中央メーデーの会場に使用することを禁止した。主催者である総評(日本労働組合総評議会)は広場を管理する厚生大臣・吉武恵市を相手取って、不許可を取り消す訴訟を起こした。
4月28日、東京地裁は「表現の自由を侵害。違憲」として総評の主張を認める判決を下したが、政府は控訴し、広場使用不許可も解かなかった。メーデーは3日後に迫り、二審にはもう間に合わない。このため明治神宮外苑広場を使うしかなくなった。
メーデーの直前には不穏な空気が流れていた。1、2年前から学生運動の火の手があがっていたこともあり、「参加者は人民広場へ行進を強行するはず」といった情報があり、また警視庁予備隊が月島で催涙弾の発射演習を行なうというニュースもあった。
【地は赤く染まる】
5月1日、第23回メーデー。全国400ヶ所以上で110万人の人が集まった。東京では朝から明治公園に約40万人(主催者側発表。警察調べでは15万人)が参加していた。ちなみにこの日は共産党機関紙「アカハタ」の復刊日でもある。
大会は左派社会党・鈴木茂三郎、右派社会党・加藤勘十、労農党・堀真琴、共産党・細川嘉六、平和推進会・妹尾義郎、日農・八百板正、文化人代表・清水幾太郎らがあいさつを始め、続いて各労組代表が演説、祝電披露をした。
決議文の朗読が始まる頃、演壇の左右にいた全学連、東京土建、朝鮮人大学生の数十人が演上に殺到し、「実力を持って人民広場に行こう!」「皇居前を奪還しよう!」と叫びながら、赤旗を振り始めた。彼らは整理係に制止されたが、これで会場は騒然となった。
結局、「再軍備反対、民族の独立を闘いとれ!」「低賃金を統一闘争で打ち破れ!」を中心スローガンとして、「破壊活動防止法粉砕!」などの決議が採択されたが、この騒ぎのため式が文化行事などを残して早々と終わると、参加者は東、西、南、北、中部の5コースに別れてデモ行進を行なった。午後0時半頃のことである。
労働歌を歌いながらのジグザグ・デモは、「再軍備反対!」「戦争反対!」「国辱の日 四・二八を忘れるな!」といったスローガンが踊った。この途中、デモ隊が交番や自由党本部に投石するという一幕もあったという。この年のメーデーでは各企業のレッドパージ組や学生らが多く参加。また発効されたばかりの「日米安全保障条約」への批判が強く、さらに人民広場問題などにより、参加者の不満がたまっていた。
午後2時頃、組のひとつが日比谷公園に着いた。それから都学連の学生らが「実力をもって人民広場(皇居前広場)に入ろう」と叫び、日比谷交差点付近で警官隊と小競り合いした後、馬場先門から広場に入ろうとしてまず最初の衝突が起こった。デモ隊は手薄だった警官隊を押しきって侵入し、後のデモ隊もそれに続いた。
デモ隊が集合し終え、ひと息ついていた午後2時25分、二重橋前に布陣していた増援の警官隊約5000名が「かかれ」の号令とともにデモ隊に向かって突入した。警官隊は催涙ガス、ピストルを使用。デモ隊側もプラカードや旗ざお、竹ヤリと投石などでこれに応戦。近くの第1生命相互ビル(元GHQ)の屋上では、国連軍、在日米軍の将兵らがこの様子を眺めていた。
さらにデモ隊は濠端に停められていた米軍の自動車を焼き打ちし、13台が炎上した。消防車が来ても、デモ隊は消火活動を妨害するなど、日比谷一体ではバスも都電も動けなくなり、一時交通がマヒした。
その後も一部が抵抗を続けたものの、多くの参加者は広場から逃げ出した。
この衝突で、法政大学生・近藤巨士(23歳)が頭を打って死亡、都職員・高橋正夫(23歳)も射殺された。2人の他にも1500人が負傷、警官側も800人あまりが負傷者を出した。まさに広場を赤く染めた「血のメーデー」となった。
同様の衝突事件は全国でもあった。京都では会場の二条城前広場を出発した7万近いデモ隊が円山公園で警官ともみ合いになり、派出所、市役所の窓ガラスが壊され、ここでも鎮圧のために催涙弾が使われた。警官側、デモ隊側合わせて50人以上が重傷を負った。他にも、宮城、神奈川、滋賀、奈良、兵庫など22件、209人が検挙された。
午後3時40分頃、警視庁と東京地検はデモ隊による騒擾事件として、騒乱罪をの適用を決定した。この衝突事件で逮捕されたのは1232人で、そのうち261人が起訴された。
総評は「メーデー事件は共産党分子による不祥事で、何ら無関係」とした。
一方、メーデーの前から反対闘争が続いていた破防法も衆院を通過し、7月に成立した。
【裁判】
長い裁判が始まった。一審だけで18年かかっている。
1970年1月28日、東京地裁、93人に執行猶予付き有罪判決、残り110名は無罪とした。ちなみに被告261人のうち16人はすでに死亡していた。
1972年11月21日、東京高裁・荒川正三郎裁判長は騒擾の成立を認めず、84人の被告全員に無罪を言い渡した。東京高検は12月に上告を断念し、これで無罪が確定した。
リンク
wikipedia 「日本労働組合総評議会」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%8F%E8%A9%95
wikipedia 「メーデー」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%BC
≪参考文献≫
角川書店 「昭和史探訪6 戦後三○年」 三國一朗 井田麟太郎・編 河出書房新社 「常識として知っておきたい昭和の重大事件」 歴史の謎を探る会・編
ぎょうせい 「裁判からみた百大事件の結末」 真島一男
警察警備局 「回想 戦後主要左翼事件」 現代書館 「FOR BEGINNERS 全学連」
講談社 「昭和 二万日の全記録 9 独立―冷戦の谷間で」 講談社 「ビジュアル版・人間昭和史 昭和の事件簿」 扇谷正造監修 講談社 「歴史エンタテインメント 昭和戦後史 上 復興と挑戦」 古川隆久
作品社 「犯罪の昭和史 2」 三一書房 「明治百年100大事件 上」 松本清張監修 三一書房 「日本迷宮入事件」 森川哲郎
新人物往来社 「別冊歴史読本 戦後事件史データファイル」 新風舎 「激動昭和史 現場検証 戦後事件ファイル22」 合田一道
騒人社 「戦中・戦後五十年 忘れ得ぬあの日その時」 朝日新聞東京社会部OB会
第一法規出版 「戦後政治裁判史録2」 田中二郎 佐藤功、野村二郎・編 筑摩書房 「その時この人がいた もうひとつの昭和史」 井出孫六
東京法経学院出版 「明治・大正・昭和・平成 事件犯罪大事典」 事件・犯罪研究会・編 図書出版社 「増補版 事件百年史」 楳本捨三
日本放送出版協会 「ニュースカメラの見た激動の昭和」 『日本ニュース』記録委員会編 扶桑社 「戦後史開封 昭和20年代編」 産経新聞「戦後史開封」取材班・編
毎日新聞社 「1億人の昭和史 6 独立-自立への苦悩」 毎日新聞社 「毎日グラフ別冊 サン写真新聞 ”戦後にっぽん”7 昭和27年=1952・壬辰」
毎日新聞社 「シリーズ20世紀の記憶 冷戦・第3次世界大戦 1946-1956 ビートゼネレーション」
メーデー事件被告団 「メーデー裁判 たたかいの記録」 岡本光雄
友人社 「一冊で昭和の重要100場面を見る」 友人社編
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