イギリスパン

日本にやってきた外国人たちが話題にする食べ物といえば、わりと顔ぶれが決まっている。
日本で暮らす外国人は、逆駐在さんとでもいうべき、アメリカ大企業の日本担当でもなければ、最近はビンボな人間が多いので、価格との相関において話題になることが多いが、例えばビーフシチューで、なぜ日本ではビーフシチューがあんなに高額なのかという話題は、かーちゃんシスターが日本にやってきた1980年代からのものであるらしい。
だいいち、それ以前に、日本ではなぜ構えも重々しいレストランでビーフシチューが供されるのか?

あのピザの値段は、いったいなにか。
おらが国ではMサイズのピザが、日本ではLサイズだと詐称していて、しかも2400円!
詐欺なのではないか。
もしくは外国人に対する嫌がらせではないか。

だいたい日本にやってきた外国人は日本という罠にはまってにっちもさっちも、サッチモ・アームストロングになりはててしまっている人が多いので、特に安直な気持で英会話講師としてやってきてしまった人は悲惨であることが多かった。

まず何年も日本にいるうちに頭が日本人になってしまっている。
いつか東京で、このひとは英会話講師でなくて某私大の英語講師だったが、アメリカ人の友達とふたりで久闊を叙して、そのあとで、ふたりでひさしぶりに酒でも飲もうということになった。

六本木の半地下のスポーツバーに階段をとんとんと降りて行ったら、突然、この友達の様子がおかしくなって「ガメ、ここは、やめよう」という。
なんで? と聞くと、「外国人が、たくさんいて、こわい」
だって。
冗談でいってるのかとおもったら、本気だった。

頭が日本人になって帰化してしまっているのに、日本語はまるで話せない哀れな外国人なぞ、例えば東上線の上板橋などというところに行くと掃いて捨てるほどいて、池袋の一定のバーに行くと、こういう英語人たちが蝟集して、日毎夜毎、日本のさまざまな悪い点について侃々諤々と議論している。

選挙権もないんだけどね。
自分たちのやりきれない日々の実情を、なにかにぶつけないではいられないのですよ。

最も多い類型は、日本人のガールフレンド、あるいはもっと深刻な場合には妻がいて、日々の、みすぎよすぎを英会話教授に頼っている。
そうこうしているうちに、あっというまに日本の経済は没落して、例えばイギリス人ならば、故国にもどるなんちゅうのは、経済的に言って、夢のまた夢です。
彼の貯えなどは1ヶ月で、いとも簡単に費消されてしまうであろう。

ところが、こういう人というのは、日本に対する憤懣で、もうはちきれんばかりになっているのね。

英語も日本人初学者にあわせて、わかりやすくしようと試みつづけた結果、アクセントが日本人にわかりやすく変更されているのは、もちろん、妙にゆっくりな英語で、しかも構文でおかしくなっている。

おかしくなっている、というのは、妙に正しい英語になってしまっていて、初めのうち、なぜだろう?と不思議だったが、日本人の受験英語の影響が強いピジョン化したすみずみまで日本的に正しい英語という不思議な英語になっているのでした。

Tokyo Pop

という、わしの好きな映画がある。
映画としてはBクラスムービーということになるのだとおもうが、バブル経済全盛期の日本における外国人たちの生活と気持をあますところなく精確に描いた映画として、かーちゃんシスターが、わしがひとりで日本に行くと決めたときに「観ていくといい」と教えてくれた映画です。

「ガイジンの女とセックスする」という動機で付き合い始めて、やがて同棲するに至る日本人の男とアメリカ人の若い女の人のカップルの純愛物語。

このカップルは、映画のなかで、日本のヒットチャートをかけのぼって、押しも押されもしない大スターになるが、やがて、女の人のほうは、自分の生活がfakeであると感じるようになってゆく。

日本社会そのものに現実感を感じられなくなっていって、バーであったアメリカ人とのやりとりを引き金にして、アメリカにもどって、一から出直そうと決心します。

アメリカ人たちに、まわりの日本人がいくら「この人は日本では有名なロックスターなんだよ」と述べても、アメリカ人たちは、たいして興味もなさそうに、知らない名前だな、というだけで、関心ももってくれない。

日本人のボーイフレンドと別れて、アメリカに帰ると決心して、
I don’t belong here.
と述べるシーンで、わしなどは、なんど泣いたかしれない。

日本のひとは、この映画を観て、あるいは英語人の日本社会に対する偏見に満ちた映画だとおもうかもしれない。
でも、そうではないのす。

この映画はKaz KuzuiとFran Rubel Kuzuiという日本人とアメリカ人のカップルによって作られた映画で、西洋からの一方的な視点で出来ているわけではない。

一見、似ているので、かえって本質的に全く異なるのだということが判らなくなる、ということがあるでしょう?

日本をわかりにくくしていているのは、西洋と似すぎていることで、民主制で、議論好きで、まったく西洋流儀の小説を書く、でもどこかが、本質的に西洋ではない、と、長く付き合っているうちに、西洋人たちは感じはじめる。

なにかが、おかしい、とおもいはじめる。
ほんとうは、なにかがおかしいのではなくて、単純に別の文明なだけなのだけれど、あまりに表面の相貌が似ているので、日本は少し劣った西洋社会なのだとか、アメリカと較べてどうだという議論が出てきてしまう。

なんだか、よくわからないが、おなじ文明の社会同士なのだという前提が間違っているからだよね。

現実の西洋にはビーフシチューのレストランは存在しないし、メニューに書き込んでビーフシチューをだす店をあるにはある(カナダなどは数が多いらしい)が、つまりはパブ飯で、日本でいえば、居酒屋でだす雑炊みたいなものだとおもう。

イギリスパンって、あるでしょう?
初めてみたとき、おおげさに言えば、ショックをうけてしまった。

イギリスパンって、なんだ?
とインターネットで調べたりした。

子供のときにも、あの背が高い食パンを目撃したことがあるはずだが、多分、日本語が話したり聞けたりはしても、まるで読めなかったせいで、気が付かなかったのだとおもう。

おとなになって、日本を再訪したときのことです。
あとでなじみになったベーカリーに行ったら、「イギリスパン」があって、
これはなんですか?
と聞いたら、若い女の店員さんが、一瞬怪訝な顔をしてから、頭の働きがいい人だったのでしょう、すぐに
「イギリスには、ないんですか?」と聞いて、
おもしろいですね!と述べていた。

きみは、ガメだなあー、おおげさな、と笑うだろうけど、そういうことに、わしは明治時代に「西洋の国にならなければ」と必死の気持で思い定めた日本が歩いてきた苦難の道に考えがゆく。

なにもかもがそうだったのだ、と言いたくにさえなる。
自分を西洋人のいるところまで引き揚げなければダメになる。
アジアにとどまっていては、この国は終わりになってしまう、と強く思い定めたことで日本はアジア一の「強国」になっていたが、同時に、まるで不治の病であるかのように、自分のアイデンティティに常に苦しむことになった。
嫌ないいかたをすると、自分で自分に呪いをかけてしまったのだと思います。

エラソーにいうと、日本語がある程度のレベルに達して、わしは日本人の痛みが感じられるようになってきたのではないだろうか。
日本人の苦しみを自分のことのように感じられるようになったとは言わないが、日本という孤独な文明がなめた辛酸を少しは判るようになってきた気がする。

知ってのとおり、所謂「西洋」は歴史を通じて、どんどん横につながっていって、「西洋」と呼びうる共通性を持った一個の巨大な文明をつくるに至った。
いまはアジアの国々が、中国を軸にして、あるいは反発して、あるいは共鳴して、次第次第に、「アジア文明」という一個の文明をつくりつつある。

日本は、自分が仲間はずれになってゆくのを肌で感じながら、どうすればいいか判らなくて、青ざめた顔で学校の廊下に立ち尽くしている子供のようにして、ジッと床の一点を見つめている。

肩を落としている日本を見ていると、ときどき、「ああ、イギリスパンね。 名前のとおりイギリス人は、これが大好きで、バタを塗って、みんな毎朝これを食べているんだよ!」
と、ほんとうでないことを述べて慰めてあげたくなる。

いいよ、もう、これを西洋だということにしてしまえばいいじゃない。
「ほんとうの西洋」なんて、西洋人にだって、どうせ、もうありゃしないんだから、と言いたくなることがあるのです。

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