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2018-10-10

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・人それぞれの感じ方があるのかもしれないが、
 ぼくは、小さいときから「かわいそう」と思われるのが、
 なによりもいやだった。
 「かわいそう」と平気で言う人のことを、
 ご親切にありがたいとは到底思えず、
 早くそこからいなくなってくれと思っていた。
 あんたが言ってるそのことばが、ぼくの、
 いちばん言われたくないことばなんだと怒っていた。

 ぼく自身が、なにかについて「かわいそう」と
 感じることはないのかと言えば、
 どういう場合かと具体的には思いつかないのだが、
 なくはない、ような気がする。
 ただ、「かわいそう」と感じることを、
 できるかぎりなくそうとしているような気がする。
 理由はおそらく、ぼくが「かわいそう」と思われるのを、
 ほんとうにいやだったからだ。

 先日、気仙沼のたくさんの友人たちとの食事会のとき、
 そういえばと気がついたのも、それだった。
 ここにいるすべて人たちのこと、ひとりひとりについて、
 「かわいそう」と思ったことは、一度もないなぁと。
 ぼくは、口に出してそれを言った。
 「だって、かわいそうじゃないもの」と笑う人がいた。
 「かわいそうでやってたら、続かなかったんじゃない?」
 と、ことばを続ける人もいた。
 そうなんだ、きっと、気仙沼のなかまたちも、
 「かわいそう」と言われたくない人たちだったんだ。
 ぼくらは、現実の人たちとつきあうときに、
 「かわいそう」と言われたり言ったりすることが、
 まったくないように、考えを組み立ててきたのだろうか。

 しかし、映画を観ているときにも、
 ぼくは「かわいそう」とは思わないようにしているのか。
 ああ、しているかもしれない。
 「わぁ…きっついよなぁ」とは思うのだけれど、
 「つらいよ、これは」とも思うのだけれど、
 「かわいそう」とは思わないようにしてるかもしれない。
 なんか、こういう考え方の大もとは、
 「じぶんにもおなじことがあるかもしれない」かなぁ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「可哀想だた、惚れたってことよ」の、正体や如何に?


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