劇場へ足を運んだ観客と演じ手だけが共有することができる、その場限りのエンターテインメント、舞台。まったく同じものは二度とはないからこそ、時に舞台では、ドラマや映画などの映像では踏み込めない大胆できわどい表現が可能です。
前回の本欄「LGBTへの偏見が声高に叫ばれたいま振り返りたい、長谷川博己がゲイ男性を演じた名作「トーチソング・トリロジー」」で、アメリカで生まれたゲイをテーマにした作品を紹介しましたが、日本の誇る伝統芸能である歌舞伎の作品にも、男性同性愛=衆道(しゅどう)をモチーフにした作品が存在します。
江戸から明治にかけて大きな人気を得ながらも、風俗上好ましくないと男女の恋愛に挿げ替えられた挙句すたれてしまっていましたが、平成に入って復活。男性同士の愛情が軸にあるからこそ、武士の心や忠義を大事にする歌舞伎の演目らしい魅力がより際立った「染模様恩愛御書(そめもようちゅうぎのごしゅいん)」です。
武士の若者や成人男性と少年とが契りを交わす衆道は、ただの同性愛や性的関係ではなく、優れた武士となるために必要な心構えを学ぶ教育的な習俗であり、互いの親を自分の親とも思うほどの、信頼できる味方を作る手段でもあったことは、現在でもよく知られています。歌舞伎の演目には数多くの武士が登場しますが、衆道自体はアクセント程度になることが大半で、大きく取り扱われることはほとんどありません。そもそも歌舞伎では、恋愛を真正面から取り上げることは、意外と少ないのです。
「染模様〜」は、通称「細川の血達磨」とよばれる伝説からうまれた狂言「蔦模様血染御書(つたもようちぞめのごしゅいん)」を基にした作品です。徳川家康から拝領した家宝、領地を認める御朱印状を収めた倉が火事になり、自身の腹をさばいて中に入れ、家宝を火から守った細川家の家臣・大川友右衛門の忠義話で(もっとも、史実ではないそうです)、正徳2(1712)年に京都で初めて上演。
寛政12(1800)年には江戸で、役名や家宝の中身を変え、衆道で契りを結んだふたりによる敵討ちの物語「男券盟立願(おとこむすびちかいのりゅうがん)」として描かれました。明治に入り三世河竹新七が書いた「蔦模様〜」では、主演の初世市川左團次が、火事の場面で本当に衣裳や頭に火をつけて劇場を走り回るという大胆な演出で大評判を呼びました。
仇討ちで結びつく男と男
武州上州の領主秋元家の家臣、大川友右衛門は、カキツバタの咲き乱れる浅草寺の庭で、美貌の小姓、印南数馬と出会い恋に落ちます。友右衛門は侍の身分を捨てて数馬が奉公する細川家へ中間(雑務役)として仕え、ふたりは情けを交わしますが、数馬には幼少時に殺された父親の仇討ちという宿願がありました。数馬の大願に共感した友右衛門は、助太刀をすることを誓い、ふたりは義兄弟の契りを結びます。
美しい数馬には、腰元(侍女)のあざみも心を寄せていました。友右衛門と数馬が思いを重ね合っていく姿に嫉妬したあざみは、主君の細川越中守に告げ口。主の許可を得ずに家臣同士で通じあう不義は本来なら手討ちされてしかるものですが、仇討ちしたいという武士の真情に胸を打たれた越中守はふたりを許したうえ、改めて友右衛門を家臣として迎え入れます。
運命はめぐり、数馬の敵が細川家を訪れ仇討ちは果たしたものの、敵の策略により屋敷は火事に。家宝の御朱印状が収められた宝蔵も火に囲まれてしまいます。
「蔦模様〜」が上演されなくなったのは、明治後半頃から「男色は好ましくない」という風潮が強くなったことが理由です。そのため、数馬を男性である小姓ではなく女性の腰元にした普通の恋愛物語に変えられたのですが、友右衛門の愛情がどれほど強いかを表すのは、立派な武士である彼がアイデンティティであるはずの侍という地位をなげうつからこそ。数馬のいちばんの望みを成就させることができたのも友右衛門が戦う能力のある男性であるからであり、男女への設定変更は、この最大の魅力を失わせてしまいました。
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