萌キャラ論争などを見ていると、何もかもが飽和して頭打ちであるから議論が起きるのではないかと感じる。
飽和していない時代というのは、基本的に揉めたりしないものだ。
どんどん成長させていけばいいだけなのだ。
変にも揉めずに発展させれば別の表現やらというものが新たな希望を見せてくれるかもしれないという幻想を抱くことが出来たのだ。
そして、なかなか新しいものというのが生み出されそうにない。
そうなると限られたパイを如何に分けるかという喧嘩が起きるのだ。
また、資本主義の限界を感じている人々が増えているというのもそういうことだ。
自分も何もかもが頭打ちで飽和した時代を如何に生きればいいのかわからない。