昨日まで元気に笑い、仕事に出かけて普通に生活していたパートナーが今日、突然亡くなる――。ドラマや小説の設定にはありそうな出来事だが、実際に経験した人はどんな衝撃を受けるのか。

奇しくも、「夫の突然死」に遭遇した小谷みどりさんは、第一生命経済研究所で自身が人の死にまつわる死生学の研究調査を仕事にする立場だった。その経験をふまえて『没イチ パートナーを亡くしてからの生き方』という書籍を刊行した小谷さんに、4回に分けて「パートナーを亡くすということ」を多面的に語っていただく。

「私が殺した?」

2011年4月29日――。朝、ふと目が覚めたら外が明るくなっていました。時計をみると6時過ぎ。夫(当時42歳)は7時には家を出て、成田空港からシンガポールへ向かう予定です。しかし家のなかは静まり返っており、起きている気配がありません。

私は慌てて飛び起き、夫の寝室に向かって、「早く起きて~。遅れる!!」と叫びながら部屋に入りました。しかし、夫はすやすや眠ったまま。「早く!」ともう一度叫びながら、起きない夫に近づいていきました。なんだか様子が違います。

そのとき、夫の腕がふとんからだらりと出ているのに気づきました。腕の内側に内出血のような痣が見えました。「あっ死斑だ!」「死んでいる!」と、とっさに思いました。これまで知識はあっても実際には見たことがないのに、なぜかそれが「死斑」だとすぐに分かったのです。

死んでいることは分かったものの、なぜ死んでいるのか。頭が混乱しました。前の晩、私はとても疲れており、夫が帰宅してしばらくしてから、別の部屋で先に寝てしまいました。夫が何時に寝たのかは分かりませんが、少なくとも夫が帰宅した時の様子は普段と変わりませんでした。

静かに横になっている夫を見て、咄嗟に「私が殺した?」と考えました。

「いや、ありえない。私は先に寝たから」

「じゃあ、私が作った昼のお弁当が原因?」

「お腹を壊すことはあっても、死ぬはずないな」

などと、自問自答を繰り返しました。

今思えば、目からの情報で状況は把握していたものの、脳がちゃんと理解していなかったに違いありません。

夫の知り合いの連絡先を知らない

どのくらいベッドのそばに立っていたかはわかりませんが、「とにかく警察に知らせなきゃ」と、我に返りました。しかしとりあえず消防署に電話しました。やってきた救急隊員は、夫を見るなり警察に連絡し、刑事二人が我が家にやってきたところで帰っていきました。

刑事がくれた名刺には、「刑事組織犯罪対策課」とあります。「やっぱり私がヤッたのか?」と、身に覚えがないとはいえ、とてもドキドキしたのを今でも覚えています。

事情聴取が終わると、「今から検視をするので、検視が終わるまでにソウギヤさんに連絡し、棺を用意してもらってください。あてがなければ、ソウギヤさんを紹介します。奥さんは、お昼前までに警察署へきてください」と言い残し、刑事は夫の遺体を警察署へ連れて行ってしまいました。見送りながら、耳で聞いた「ソウギヤさん」が「葬儀屋さん」だとやっと理解しました。

混乱する一方で、「なぜなのか分からないのですが、タツヤ(夫の名)が死んでいます」と夫の母や兄姉には連絡していました。

一番大変だったのは、親族以外に、夫の死を誰に知らせるかということです。その日はゴールデンウィーク初日。当然、会社は休み。夫の上司の姓だけは知っていましたが、ロックのかかっていなかった夫の携帯を見ると、同じ姓の登録が二件あります。どちらが上司の連絡先なのかはわかりません。50%の確率とはいえ、休みの朝早くに電話をするには、話の内容が内容だけに、相手を間違えたら大変なことになります。

夫の友人を見つけ出すことも大変でした。夫婦なのに、夫の交友関係をほとんど知らなかったことに、愕然としました。

夫の抜け殻に涙が

やがて、内臓をすべて取り出すために頭やのどを切られた跡が生々しい夫の遺体が、「急性心停止 死因不明」と記載された死亡診断書とともに、やっと私のもとに戻ってきました。まるで「抜け殻」のようになった夫が本当にかわいそうで、初めて涙が出ました。
 
抜け殻の遺体が戻って来て、お葬式はどうするかという段階になりました。私は長年、葬送の研究をしているとはいえ、お葬式の喪主なんてやったこともないうえに、その心積もりもないのだから、とにかく気がついたら、すべてが終わり、夫は骨になっていたというのが正直なところです。仕事でこれまで縁のあった葬儀社、火葬場の職員、僧侶などの知り合いが助けてくれたから乗り切れました。

「とにかく気がついたらすべてが終わり、夫は骨になっていた」と小谷さんは葬儀のことを振り返る。金曜日は普通に出勤していたのに、月曜日は遺骨になっているという現実は、とても受け入れられなかった Photo by iStock

葬儀を終えても、私にはなぜ夫が亡くなったのかが分からず、もやもやが残っていました。

夫の同僚たちからも「金曜日まで変わった様子がなく、いつも通り元気だったのに、なぜ亡くなったのか?」と、お通夜の席で何度も聞かれました。柩のなかの夫の喉には、着せたカッターシャツからも解剖の傷が少し見えていたので、「喉を刺して自殺したに違いない。でも、なぜ?」と思った人も多かったかもしれません。

人に自分が死んだ理由をたずねられても、夫自身が気づいていないかもしれないと思いました。

たまたま死の数週間前に行われた社内検診の結果を見ても、どこも悪いところはありませんでした。風邪で会社を休むことも数年に一度あるかどうかというぐらい、もともと健康でした。なぜ亡くなったのかを解明しなければならないという使命感が、私の中でむくむくと湧きあがってきました。

「そうだ、過労死かもしれない」

実は夫の姉が、「お通夜のおときの席で気になる発言を耳にした」と教えてくれました。夫の同僚が、「過労死かもしれない」と仲間同士で話していたというのです。

夫が亡くなった2011年4月29日は、あの東日本大震災からほぼ1カ月半後。夫の勤務先は外資系で、風評などの影響を受けて外国人上司はこぞって本国へ帰ってしまっていました。余震が続く中、従業員の安全確認、節電対応なども夫の責任になりました。会社の節電キャンペーンで、自宅にパソコンを持ち帰って仕事をする時間も増えていたのです。

亡くなる1週間ほど前の休日の朝、「忙しくて死にそう」と夫が言ったので、私は「そんなことで、死ぬはずがないよ」と一笑したことを思い出しました。

「そうだ! 夫は過労死かもしれない」

骨になった夫を見て、確信しました。知り合いの新聞記者にメールをしたところ、過労死110番全国ネットワークなるものがあると教えてくれました。いてもたってもいられず、お葬式の翌日には電話をかけ、弁護士に会いに行きました。死後4日目のことです。

事情を話すと、手付金を払ったら過労死申請の手続きをしてあげると言われました。死んだ原因を知りたい一心で送金を済ませました。

しかし、さまざまなことを周りの人に言われました。「あいつの妻は会社を訴えるらしい」という夫の同僚たちのうわさ話も耳に入ってきましたし、私の同僚のなかには、「過労死申請なんかして、ご主人は喜ぶと思う?」と忠告した人さえいたのです。もっと辛かったのは、夫と親しかった会社の先輩が悪気もなく、「あいつ、あの程度の労働時間で、過労死かなあ。僕なんてもっと労働時間が長い」と、私にメールをしてきたことです。

まわりから幾度となく心無い言葉を浴びせられるたび、夫の心臓がなぜ止まったのか、夫のために絶対に明らかにしてあげたいと、私は心に誓いました。

だから約1年後、労働基準監督署から労災認定の通知をもらったときには、本当にほっとしました。そして、「私は死の研究をしているプロ。あなたを無駄死にさせないからね」と、心の中で夫に報告できました。

「死んだ」とは思えない

7年以上経過した今でも、夫はどこか遠い国に出張していると錯覚をすることがあります。結婚生活の半分近くは、夫はシンガポールに単身赴任していたし、帰国後もアジアへの出張は頻繁だったし、遠いアフリカのジンバブエにも数週間単位で、何度か出張していました。私にとって夫が自宅にいないのは不思議ではなかったので、余計にそう思うのかもしれません。病気で弱って亡くなったり、無残な姿でなくなったりしたわけではないので、「死んだ」とは思えないのです。

実は、私は夫の死後、一種の罪悪感がありました。

それは、「私より先に死んでね。しかもまだ人生やり直しがきくうちに。私がよぼよぼになって一人になっても、もう新しい人生を考えようという気力がないから」と、冗談めかして何度か夫に話したことがあったからです。

しかし夫が亡くなり、この会話をふと思い出した時、結果的にそれが現実になったことに気づき、はっとしました。そのせいで亡くなったわけではありませんが、悪いことを言ったなあと、とても反省しました。

と同時に、夫を亡くして初めて気づいたこと、体験したことをわたしのこれからの人生や研究に活かすことで、「あなたの死を無駄にはしない」と改めて夫に誓いました。

小谷さんは、「夫の死を無駄にはしない」という思いを胸に研究調査活動に「配偶者と死別した人は、その後、一人でどう生きていくか」という大きな課題を据えることにした。その考えを後押ししたのは、実際に当事者になって気がついた「配偶者と死別した人」への周囲の接し方だった。次回は小谷さんが「夫の死」を経て感じた「生きづらさ」と、そこで起こした行動について語ってもらう。