前回記事『なぜ性表現は性的搾取に繋がるのかの覚え書き』で、性表現に関する一連のツイートを転載したのですが、議論相手の青識亜論を知っている人には良く分かるように、議論はこれにとどまりませんでした。
 さて、そうした一連の議論において、表現の自由を訴えるという、ある種人権を擁護する立場にある人々の不誠実さというのがはっきりと浮かび上がってきましたので記録しておきましょう。

 人の話を聞いていない
 すでに周知の事実となっているところではありますが、青識亜論は人の話を理解できていません。市の名誉のために言えば、この特徴は氏に限らず広くみられるところなのですが、ともかく氏の反応はわかりやすく典型的です。
 議論の最中、私はずっと氏が「すでに述べたことを単に繰り返し尋ねているだけ」の回数を数えていましたが、その回数はたった1日のやりとりで28回に達していました。これはそこそこ厳しい基準でカウントされたものであり、条件を緩めれば30回を超すことは確実です。
 もちろん、込み入った話になれば一度のやり取りでは理解できないこともあるでしょうが、その場合は具体的にどこがどういう風にわからないかを明確に示すべきです。議論を振り返ると実際、氏が単に言葉足らずで意図が通じていない場合も散見されるのですが、「追試とは?」などと短すぎる言葉で尋ねるのは単に議論を成立させる努力を相手に投げすぎでしょう。

 驚くべき無知
 これも氏に限らずですが、私に議論を吹っ掛けようとした彼らの多くが驚嘆すべきほどにものを知りませんでした。例えば性被害の文脈ではさほど珍しくもない言葉・概念である「性的搾取」を知らなかったり、挙句私の造語だと思い込む人も少なくありませんでした。
 しかしというべきか、やはり青識亜論の右に(左か?)出る者はいない印象でもあります。性犯罪被害において、明示的な同意を軽視する風潮から、あるいはノーと言っても通じないという事例から、はっきりした同意のないセックスをレイプとみなせない人々は無視できないほどいるというのは常識に属する認識のはずですが、しかし彼には理解できておらず性犯罪と殺人をいっしょくたにするという暴論を何度も振りかざす始末です。
 しかも察するに、論文検索のマストアイテムグーグルスカラーの存在すら知らなかった模様。じゃあどうやって今まで証拠の論文を検索してたんだ?と思うのですが、その謎は次項で解けます。

 原典に当たっていない疑惑
 議論も進むと私も疲れてきて、夜も更けてきたためか眠くなってしまったせいで相当判断力が落ちていたようです。
 上掲したように、氏が「カチンスキー報告だ」と言って提示してきたURLの先の論文が、まさかカチンスキーの手によるものではないとは!言い訳をすると、あたかも出典元の論文であるかのように提示されたものが全然違う論文であるということは、アカデミックの世界ではうっかりミスでない限りあり得ないことで、私はこんな可能性を無意識のうちに排除していたのでした。「引用したテキストを見ていただければわかりますが」とまで言っているわけですが、引用したテキストにはデンマークやらなんやらの分析などどこにもないのでおかしーなーとは思ってたんですよ。

 さて、じゃあモノホンのカチンスキー報告はどこに?という話になるわけですが、どうも提示された論文で言及されている引用文献がそうらしい。しかし引用文献は少なくともオープンアクセスではないことから、グーグルスカラーすら知らない程度の文献検索能力を持つ氏が読めたとは到底思えず、その研究の理解にも疑問が挟まれることとなりました。
 なぜこんなことが起きたのか、可能性としては(1)誰かからカチンスキー報告だと教えてもらったが、氏が英語がさっぱりなので内容を読めずに気づけなかった(2)引用のルールを知らないので孫引きで十分だと思ったの2つですが、まさか、まさか私に散々「研究を示せ」「統計を示せ」と言ってきた人が(2)の認識を持っているとは思えないのでいやマジで、たぶん(1)なんでしょう。表現の自由議論をリードする氏にも、誰かの話をコピペするだけでお手軽論破していた時代があったのかもしれません。
 もっとも当該論文、作者が日本人のせいか英語はひどく容易であり、ずぼらしてグーグル翻訳にぶっこむとあっさり読めたりします。氏はそうやって一通り読んだふりをすることすらしなかったのでしょうか。
 ちなみに当人に、原文を確認したのかどうかは問い合わせ中ですが、今のところ返事がありません。

 セクハラ野郎の登場
 私は仕事上、嫌気のさすような犯罪の記録を読むこともしょっちゅうなのでいまさら性的表現くらいでいちいち動じませんが、もちろん公共の場で氾濫する表現を批判する人の中にはそうしたものが苦手であるからこそ陳列場所を配慮してほしいと思う人もいるでしょう。そう考えるのが常識的な想像力というものです。
 しかし表現の自由戦士たちに想像力はありません。読解力も知識もないなら何が残るんだと思いますが、驚くべきことに良心もありません。その結果がセクハラめいたリプでした。わざわざ貼り付けることはしませんが。

 こそこそ、ちまちま
スクリーンショット (13)
 新橋九段VS青識亜論(実況は、私三沢がお送りします)
 さて、なぜかこのパッとしないブロガーに粘着するキモイ人ですが、今回も出てきました。直接話しかけてこない代わりにまとめを作るという陰湿さでもって「女は陰湿」というステレオタイプに抗する人権活動家でもあります。これならまだ、クズなりに直にリプを送り付けてきた人のほうがまだ誠実というわけで、クソの足元にも及ばないってなかなかすごいことになってるなと思います。
 さて、当該のまとめは案の定というか、私のツイートを途中引っこ抜いたりして記録としては不完全なものとなっています。
 特に前半のリンゴやら、学校やらに関しては上掲のツイートのように、大元となった記事を前提としなければ理解しにくく、っていうかそこを読まなくてもそういう解釈にはまずならないだろと思えるところで呆れてものも言えません。
 また画像からもわかるのですが、氏は「性的搾取」だけではなく「性的自由」という概念も理解できていないようです。性的自由とはいうでもなく「性(に関する)行為を誰とどれだけするかを決める自由」であり、性犯罪を禁じる法律の多くはこれを守っています。このことが理解できていないということはつまり、彼が性行為の際に女性から明示的な拒絶を示されても理解できない可能性を示唆しており非常に恐ろしいことです。女性は近寄らないほうがいいでしょう。

 表現の自由戦士には議論で対応してはならない
 さて、これほどの実例からもはっきりとわかるように、ゾーニングを求める場合表現の自由戦士との議論に臨んではいけません。碌なことにならないからです。彼らのことは徹底的に無視し、性表現を扱う主体、例えばコンビニの陳列であればコンビニを経営する企業などに直接申し出るのがいいでしょう。
 もちろん、ゾーニングは本来その表現の生産者や主要な消費者、ゾーニングしてほしいと望む人々との議論を通じた調整によってなされることが理想です。しかし生産者や主要な消費者たる彼らが、このように議論不能に陥っているのであれば理想がかなえられるときは永遠に来ず、やむをえません。調整を介さず直接にゾーニングを申し出る場合、それを口実に過剰なゾーニングあるいは規制につながる恐れも否定できませんが、選択肢がない以上仕方ありません。
 非常に残念なことですが、彼らが内輪の論理に耽溺しているうちに表現の自由は死ぬでしょう。