
Kumiko, The Treasure Hunter
ドラマ
2014 アメリカ
監督:デヴィッド・ゼルナー
脚本:デヴィッド・ゼルナー、ネイサン・ゼルナー
出演:菊地凛子、勝部演之、河北麻由子、シャーリー・ヴェナード、デヴィッド・ゼルナー、ネイサン・ゼルナー
クミコ
29歳
東京在住(一人暮らし)
仕事:OL(お茶汲み)
友達:ペットのウサギ
趣味:映画に登場する“大金”埋蔵場所の特定作業
将来への確固たる夢も恋人も無く、ただ無為に会社へ通い職場の上長であるマネージャーのためにお茶を汲む毎日。30歳を前にして、会社を辞め結婚相手が見つかるまで帰郷を勧める母親には「昇格が決まっているから辞められない」とウソをつく。これといった目標も無く、マイペースでだらけた生活が染み付いて、口うるさい母親とは同居したくない様子。他人とコミュニケーションを取るのが苦手で、昼休みも若い女子社員の輪に入っていけない。
そんなクミコの楽しみは、ある日拾ったVHSに録画された映画『ファーゴ』’96を繰り返し見ること。“この映画は実際の事件を元に・・・”というテロップから始まる作品で、クミコは主人公が大金を雪原に埋める場所を特定しようとしていた。図書館で大判のアメリカ地図帳を盗み出そうとして捕まったり、ビデオを一時停止して埋蔵場所の目印となる雪原の中の柵をトレースし、その細かな距離を割り出そうとしたり、そのトレース図を(簡単に消えないように?)わざわざ刺繍にしてみたり。やること為すこと、何かズレている。
ある日、マネージャーから仕事の無気力さを指摘され「キャリアアップを目指さない女性社員が君の歳まで居座るのは例がない」とまで言われる。思い切って高校時代の友達に相談しようと喫茶店で待ち合わせするが、子どもを連れた彼女の幸せそうな様子にいたたまれず逃げ出してしまう。
やがてマネージャーから退職勧告のように若い美人の新社員を紹介された上、マネージャーの私的買い物をするよう言い付かり、会社のクレジットカードを渡される。
思い余ったクミコは、『ファーゴ』のお宝探しの旅に出る。
東京で孤独と共に生きる女性がたどり着く“新世界”には、果たして・・・?
孤独と愛情、共感と依存、妄想と現実が渦を成す闇。
何の気なしに観ていて思わず引き込まれてしまいました。
アメリカ人監督ながら、作品のほぼ半分は日本が舞台。
鑑賞後、この丁寧な日本の描写が意味するだろうことに思い当たって驚き、
そして胸が苦しくなるほど切なくなったのです。
簡単には消せそうに無いもやもやのせいで。
【以下、ネタバレ御免】
ほぼ全編、菊地凛子出ずっぱり。
が、『パシフィック・リム』’13のヒロインのように、エキゾチックでミステリアスなオリエンタル・ビューティ的扱いではない。ずぼらで不美人でコミュニケーション障害の暗いアラサー女子という役どころ。海外では『バベル』’06の聾唖女子高生役が注目されたのだけど、実際のところこの女優さん、欧米の観客にはどのような印象を持たれているのかしらん? 本作では表情を読み取りづらい類型的な東洋女子に留まらず、不思議ちゃんを通り越した憎々しげに歪んだ醜い顔を見せるなど、日本のアラサー女子の生々しい姿を好演しています。
作品は前半の日本編と後半のアメリカ編。くっきりと2部構成。
特に日本編における東京での一人暮らし、孤独な人間の荒れた暮らしぶりが皮膚感覚で伝わってきます。ありがちなカリカチュアされた”日本”の描かれ方ではなく、日本の企業内での雰囲気や、友人・知り合い同士の話し方など妙にリアル。ヘタな日本のTVドラマより説得力ある描写になっています。監督・脚本・演者を務めたこのアメリカ人兄弟は、日本に住んだことがあるのでは?と思うくらい。いや、それ以上か。もしくは日本側の脚本サポートか何か、例えば日本人スクリプトドクターが就いたとしか思えない。それほど都心部における荒んだ日常が事細かに描かれて、気持ち悪いくらい迫ってくるのです。
ちらかり放題の狭い部屋。朝、寝起きの着替えで、ブラウスが臭わないか嗅ぐ。カップラーメンの夕食をペットのウサギに箸でつまんで与える。うるさく言われるのがイヤで母親からの電話にはでない。今どきアスペクト比4:3のブラウン管TVに、ビデオも古いVHSプレーヤー。暗い部屋で見る虚実入り乱れる映画『ファーゴ』。イヤな音と共に停止するビデオ。おそるおそるビデオカセットを取り出すと、テープがプレーヤー内で張り付き詰ってびろ~~~んと・・・。捕まった図書館で「(ファーゴの場所が記された)1ページだけが欲しかった」と泣き落とし。無気力に歯止めがかからなくなり、会社も遅刻が多くなる。
孤独を重ね過ぎると、独りよがりを拗らせる。
この拗らせ方の描写が実に日本人的湿り気を帯びていて、身近すぎる感じがゾッとするほど。『パロアルト・ストーリー』’13あたりの現代アメリカンな拗らせ方とも全く違うのです。
若くて美人の新入社員を紹介され、遠まわしに”お前、辞めろ”と言わんばかりのマネージャーのいやらしさ。妻への個人的な贈り物を“適当に見繕って”買って来いと会社名義のクレジットカードを渡す・・・というのはさすがに無いなぁとは思ったけれど。あの荒んだ生活ぶりでは、とても渡米費用は貯めてないだろうから、話しの展開上、良しとする?
ろくに荷物も持たず飛行機を降りたところをみると、渡されたカードで渡米するというのは発作的に思いついた行動のはず。が、アメリカへ連れて行けないペットのウサギと別れるシークエンスは、これでもかというくらい念が入っている。
大きく緑豊かな公園で「おまえは自由だ、行け!」と放そうとしても動かないウサギ。仕方なく地下鉄車両にウサギだけ乗せ、置き去りにする。
彼女が唯一心の拠り所とした相手。ウサギを乗せた車両を涙ながら見送るクミコ。
“新世界”。
東京という巨大都市でありながら閉塞感に包まれた世界から、ひたすら原野を貫く道路だけの開放的なアメリカの片田舎へ。いよいよ“ファーゴ”を目指すクミコ。
「我々は旅行者に奉仕している」という観光案内を装った宗教勧誘。
人助けと言いながら、自らの孤独を癒したいだけの老婦人。
止められたクレジットカード。巨大なフードのように毛布を被りホテルから逃げ出す。
不審者通報を受け、クミコを保護する副保安官。
「『ファーゴ』はエンタメ。これはフェイクで実話ではないんだよ」
なんとか助けようとする副保安官だが、彼女は聞く耳を持たない。
クミコは母親に送金を依頼しようとするが、会社からカード窃盗の話を聞いた母は逆上して彼女を責めるだけ。話を聞こうともしない。追い詰められたクミコは泣きながら「昇格する私を妬んでみんながウソをついている」とさらにウソを重ねようとする。
副保安官が自分を助ける=『ファーゴ』を信じてくれる は、自分の勘違いと知ったクミコ、逃亡。
耳の不自由なドライバーのタクシーを無賃乗車。
タクシーを降りて、雪深い森の中へ逃げ込む。
旅行案内を装った宗教勧誘にしろ、孤独な老婦人にしろ、彼らには基本的に悪意は無い。
むしろ積極的に他者と交わろうとしている。
そして圧倒的善意の存在として描かれる副保安官。(監督本人が好演!)
「君を助けるのは私の職務だからだ。私は職務に忠実なだけだ」と言いながら、
その実やっていることは職務を大きく超えて、過ぎた面倒を見ている。
防寒用の上着や雪靴まで買い与えようとするのだ。
「言葉の壁さえなければ、もっと君を理解できて助けられるのに」
彼が差し伸べる無私の救いの手があまりに暖かく、胸が締め付けられる思いがする。
それは、朴訥とした副保安官の他者を思い遣る“素の人間力”に他ならない。
結果、彼女を救うことはできなかったが、
副保安官が示した本来あるべき人の姿がどれほど美しく見えることか。
『チョコレート・ドーナツ』’12のルディが見せた人間力を彷彿とさせる。
社会がクミコを追い込み、また彼女自身が自ら逃げ込んだ妄想という狂気。
世間体を気にした“結婚”に捉われすぎて、親ですら彼女の窮状を理解できない、しようともしない歪み。会社も“寿退社もできない厄介者”扱いをする。
体面・外面を異常に気にして、本来あるべき個人のアイデンティティの喪失に無頓着な世界。
外見だけでも他と同じ“普通”であれば、それで良しとする社会。
(そもそも“普通”って誰基準のものなのよ?という“ナニが普通問題”は置いといて)
映画前半を通して丁寧に描かれたのは、そんな“ソトヅラ重視日本”の姿ではないか?
日本の現状・ありのままの姿を背景に突きつける分、その痛さは半端ない。
そういう社会で病んでしまったクミコを十分距離を置いた目で追った作品ではないか。
日本で興行主が付かなかったのは、地味な作品という理由だけではないのかもしれない。
他者と上手くコミュニケーションを取れないクミコが真に必要としていたもの。
それは“他者を思い遣る心”なのか。それによる救いなのか。
副保安官と出会った時、というか発作的に渡米を決意した時、
クミコは既に壊れてしまっていたに違いない。
“新世界”に辿り着いても彼女は、
宗教勧誘も、孤独な老婦人も、善意の副保安官も、
関わろうとする全ての人を拒否する。
映し出される“絵”も、徐々に大自然の中に徹底して“独り”を強調していく。
本作自体、実は実際の事件を一部引用し、イメージを膨らませた物語という。
2001年、東京在住のコニシタカコさんがノース・ダコタ州ファーゴから数十キロの地点に凍死体で発見された。発見の数日前に彼女を保護した警官によると、言葉の壁でコミュニケーションがうまく取れなかったが、彼女が映画『ファーゴ』の話を何度もしていたと発表。劇中で埋められた大金を探していたのではと世間は騒ぎ立てた。後に遺書が見つかり、妻子あるアメリカ人男性との失恋による自殺と判明。この一連の事実は『ディス・イズ・ア・トゥルー・ストーリー』’03というドキュメンタリー映画になった。本作の監督・脚本のゼレナー兄弟はファンタジー要素が強い当初の“架空のお宝を信じて探す”内容と、その勘違いの原因となった“言葉の壁”に着想を得て膨らませたそうだ。
(確認記事:NewSphere 20120202 米国では有名な、亡き日本人女性の都市伝説 菊地凛子主演の映画化で好評価 その内容とは?)
実は騒ぎの火種『ファーゴ』’96の“この映画は実際の事件を元に・・・”というテロップ自体が既にフェイクだったと、後に監督したコーエン兄弟がバラしたのだけど。
(確認記事:映画評論家町山智浩アメリカ日記 20140707 菊地凛子が『ファーゴ』の埋蔵金を探す)
「映画を鵜呑みにしてアメリカでお宝探しで迷って死んだ日本人がいるらしい」
昔小耳に挟んだ話を、元ネタの記事を確認していてぼんやり思い出した。
「んなバカな! さすがにそりゃデマだよ~」と笑った覚えもある。
でも、あの話にこんな続報があったなんて知らなかった。
一面、雪に覆われた森の中。
こんもりふくらんだ雪が崩れ、埋もれたクミコが目を覚ます。
眼前の雪原には遠く連なる柵。
『ファーゴ』のあの場所だ! 目印の杭もある!!
雪を掘り返し、念願の大金を詰めたカバンを手にする。
「ほら、私が言ったとおりよ。さ、行こ!」
満足げに微笑むクミコは、傍らのウサギ(!!)に語りかける。
片手に大金の入ったカバンを持ち、もう片方でウサギを抱いたクミコは、
何も無い白銀の世界を、遥か遠くへと歩み去る。
エピローグに描かれるのは、死の直前にクミコが見たに違いないイメージ。
夢をかなえ、唯一の心の友と共に、無垢の世界へと旅立つ切ないエンディング。
が し かーーーしッ!
この映画、ただの切ない悲劇としては釈然としないものがたくさんある。
いくら外面第一の思い遣りに欠けた社会も悪いとはいえだよ、
義務を怠るとか、
(たとえつまらん仕事でも)
淹れたお茶に唾して相手に出すとか、
(どんなにキライな相手だろうが、気持ちはわかるがやっちゃダメだお)
図書館から本を盗み出そうとするとか、
(公共のものだってば)
トイレに行くから見ていてと頼まれた幼い子どもを置き去りにするとか、
(信頼云々の前に“人”としてダメでしょっっっ!)
クリーニングを頼まれたスーツを捨てるとか、
(子供ぢゃないんだからさあ)
会社名義のクレジットカードを使い込むとか、
(アシ、簡単に付いちゃうでしょ)
ホテルの宿泊代払わないどころか毛布をくすねて逃げ出すとか、
(見た目ホームレス、まんま“逝ってる人”なので、ここまでくると誰でも気付く仕掛け)
聾唖者ドライバーのタクシーに無賃乗車なんて
(ん? 何かのメタファー? 『バベル』の菊地凛子へのオマージュ?)
していいわけ絶対ないのだ。
壊れた人が犯した罪は泣き寝入り というのも実に理不尽ではないか。
だからこそ 思い遣りのある 繋がりを持った社会を なのだろうけど
各種通信手段が日々進化して お互い 距離のとり方がどんどん難しくなってきて
構い過ぎ 構われ過ぎも 困ったモンだし
この釈然としない、落ちるところに落ちない、けして答えを定着させられない、
ふわふわさらさらとアスファルトの表面を走る粉雪の波のような美しい不安定さが
この作品の魅力だったりするのです。




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通りすがり (月曜日, 08 10月 2018 16:55)
まあ彼女自身にもなにかしらの問題行動させないと
「なにも死なせることはないじゃないか」「かわいそう」で終わっちゃいますしね
TOY (月曜日, 08 10月 2018 21:10)
→通りすがり 様
ようこそいらっしゃまし。寄り道コースに加えていただけたのでしょうか。
ご再訪、光栄に存じます。
この作品、発想の元ネタ事件ありきですので、
ラストのクミコの処遇は最初から決まっていたと思われます。
甘えと忍耐、我が儘と寛容などなど、社会において主客それぞれが持ち合わせるものですし、
拗らせすぎた独りよがりの行く末としては、ひょっとするとクミコにとってハッピーエンドだったのかも。
ん?
そういう意味では『鑑定士と顔のない依頼人』と締め方は似ているのかしらん?
(今さらだけど“無い”→“ない”に誤表記を訂正)
名無し (月曜日, 08 10月 2018 22:42)
何だか聞けば聞くほど白けた気分になります。
その都市伝説自体、生まれた原因は日本人蔑視からじゃないんですか?
それを日本に対する偏見が強いアメリカ人兄弟が制作したとかでは?
細部の異常なこだわりもまるで彼らお得意「良心のアリバイ造り」の様です。
・・だから日本の悪い社会が原因でこんな悲劇が起きたんだ。僕たち善良な
アメリカ人は何とか助けようとしたのにw・・ってね。
TOY (火曜日, 09 10月 2018 01:08)
→名無し 様
ようこそいらっしゃまし。ご再訪いただき恐れ入ります。
え~と おそらく本作には仰るようなそういった偏見や差別、イデオロギー的な含みは無いかと。
作中のアメリカ人の表現も、皆それぞれが自分の欲求・願望・利益を中心に考え、押しつけようとしていますし。日本には明るい面だけでなくこんな暗い面もあったりするけど、アメリカにだってこんな人たちもいるし・・・という具合。
そんな中で副保安官の存在だけが
“いやいや、この世の中そういう人たちばかりじゃなくてさ”
と、一服の清涼剤的救いとして描かれているのでは?
どの国・組織・会社・家庭、もちろん個人においてさえ“陰”と“陽”を持ち合わせます。本作のクミコは、彼女がたまたま属してしまった“陰”の強い周囲の世界に飲み込まれ、救いの手を得られること無く心の闇に落ちていったのではないでしょうか。クミコにとって一番の悲劇は、日本においてもっと早く副保安官のような人と出会えなかったこと。彼の登場は、あまりに遅すぎたのです。
う~~~ん
私、本文で『社会』という言葉を下手に使いすぎましたかね?
『クミコが属する世界(空間?)』という表現のほうが適切だったかしらん?
何れにしましても、“日本の悪い社会が原因で~”という意味合いは、本作には無いかと存じます。