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ホーム » 証言 » ローレンス スノーデン (Lawrence F.Snowden)さん

証言

タイトル 「沖縄返還直後の在日米軍幹部」 番組名など 戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 2013年度「地方から見た戦後」
第1回 沖縄 “焦土の島”から“基地の島”へ
氏名 ローレンス スノーデン (Lawrence F.Snowden)さん 収録年月日 2013年6月11日

チャプター

[1] なぜ 沖縄に米軍基地が存在するのか  06:27
[2] 米軍兵士による犯罪  04:55
[3] 伊江島での住民狙撃と裁判権  07:39

再生テキスト

Q:返還によって沖縄の人々は、米軍基地が大幅に整理縮小されるのではないかと期待しました。その世論をどう捉えていたのでしょうか?

基本的には、日本政府が沖縄の米軍基地の必要性を国民に納得させるのはとても難しいことだと思います。日米両国の関係は複雑で、時には難しく、時には摩擦があるように見えますが、実際はそうではありません。根底では日本とアメリカはお互いを必要としているからです。

沖縄に住む年配の方々の中には、2つの異なるグループがあると思います。これは私が沖縄に通って沖縄の人たちと会って分かったことです。 1つは米軍の駐屯に猛反対するグループ。彼らは基地や施設をもっと減らすべきだと考えています。ただ、防衛力は必要だとは考えています。もう1つのグループは、米軍の駐屯を大歓迎しているグループ。彼らは我々の存在が必要だという強い考えを持っています。“米軍なしでは、我々は安全を保てない”と。つまり、住民の意見は今も昔も分かれています。現在米国政府は土地を返還し続けているので、住民感情が落ち着いてくれることを期待します。今後は部隊の一部を島から移動させる予定もあります。事態は改善するでしょう。

Q:基地は、返還前とほぼ同じ規模のままで維持されています。それはなぜでしょうか?交渉を開始したときからの米国政府の方針ですか?

こういった問題における交渉は基本的に米国の国務省によって行われることになっています。我々軍は部隊を維持するために何が必要かを割り出しているだけで、その後の交渉は国務省に委ねています。“安全保障に必要な土地を日本政府と交渉して我々に提供してくれ”と。

Q;沖縄に米軍基地を置く重要性をもう少し説明していただますか?

そうですね。それが重要なのには理由があります。軍の配備先が米国から遠い場合、対応が遅れないよう、安全保障の面で前線基地を置く必要が出てきます。有事の場合に備え、前もって軍隊を送るのです。 そこで、沖縄に部隊を配備するとなれば、彼らが宿泊する生活の場が現地に必要になりますね。いざというときに戦える様、訓練する場所も必要です。 沖縄に部隊を配備する際、土地の確保は重要です。航空機や飛行場も管理し維持しなくてはなりません。そうなるとやはり基盤となる施設が必要です。ですから基地は、軍を配備し戦闘に備えるためです。 それが目的ですから、ですが、多くの沖縄の人々が不満を抱いていると思います。米軍が沖縄の土地を占有してきたからです。ですが、軍用地の一部を返還することになっています。駐屯は続きますが、海兵隊の一部はグアム島に移るのです。

日本の皆さんに理解してほしいのは、自由は“無料”ではないということです。自由を守るためには防衛拠点を置く必要があります。そのため、沖縄は非常に重要です。あらかじめ米軍を配備し、前線を維持するための場所だからです。非常時に米国から部隊を前線に送っても遠すぎて間に合いません。 ですから沖縄だけでなく、日本の本土や韓国にも、前もって軍隊を配備し、有事に備えておく必要があるのです。その国を助けるだけにとどまらず、共に防衛活動にあたる準備もできています。安全保障条約においては、日本への攻撃は米国への攻撃とみなし、適切に対応します。

米兵が問題を起こすと大変遺憾に思います。もちろん基地の中でもよくないことなのですが、とりわけ基地外での違法行為は深刻に受け止めます。やはり兵士も人間ですから問題は起きてしまうでしょう。どんな集団にも、悪事を働く人間が少しはいるものです。ですが、その数名のために全員を犠牲にはできません。 我々は米兵に現地の法律を順守させようとしています。慣習を守り、人々に敬意を払い権利を尊重するのです。 米兵による犯罪が多発した頃、私は在日米軍の参謀長でした。日米合同委員会では日本側代表が大河原大使、米軍代表を私が務め、全件に対処しました。 中には日本側に裁判権があると我々が感じた事件もいくつかありました。それでも大概の場合は、日米地位協定に従って、我々の側で違反した者を処分しました。基地外の事件で日本に裁判権が無いのは今も同じです。 事件ごとに状況は異なり、処分の決定は大変でした。我々が言えることは、規則を破る者の数を最小限にとどめるよう、今後も努力を続けるということです。兵士たちには現地の慣習や価値観を教え、日本は我々の受け入れ国なのだと自覚させます。 日本人を守るためには、日本人の望んでいることを尊重するべきです。だから基地外で事件を起こしてはなりません。難しい問題ですが、米軍司令部は事件の再発防止のため尽力しています。それでも、完全に防げる保障は無いと思われます。

Q:それはどの国においても?

そのとおりです。

Q:オフ・リミット(歓楽街などへの米兵立ち入り禁止令)などの強攻策を講じた理由は何ですか?

その方法には、一定の効果がありました。飲酒ができる店などに司令官が出向き、問題が起きぬよう経営者にあらかじめ伝えておくのです。この方法が功を奏した例もありました。店に兵士を立ち入らせず、問題を未然に防いだのです。しかし結局は彼らは別の場所へ行くようになりました。それが問題になったこともあります。 問題を起こすのは、大抵、酒好きな若い兵士です。つい飲み過ぎてしまい基地外でトラブルになってしまいます。近年では沖縄の司令官が米兵に対し飲酒を全面的に禁止するという措置を新たに打ち出していました。よい試みでしたが、なかなか難しい面もあります。  我々がとった対処法は、日本政府と協力し合い、我々の努力を日本側にもよく理解してもらうことでした。沖縄のさまざまな施設と提携して、騒動や不品行の元となる場を作らないように努めました。 それでも問題を完全に無くすことは難しいです。いくら教育しても、なぜか数人はどうしても規則を守れないのです。

Q:当初、公務時間外での事件だとして、裁判権を日本側に渡そうとしていたと思います。ですが、公務時間内だと途中で主張を変えました。なぜ、米国側は方針を転換したのですか?その判断の根拠は何ですか?

それは本当に難しい件です。その事件の概要を覚えていますが、この年では、詳細を思い出せません。我々の側で、決定事項を変更したことは、まだ記憶に残っています。当初、事件の担当者たちは、日本に裁判権を渡すと判断しました。しかし上層部の者が検討して「安全保障条約の観点から、それはできない」と言ったのです。 そのため当初の決定が変更されたのです。それ以上は覚えていませんが、非常に残念な事件でした。しかし我々はなんとか解決に至ったと思っています。その件については合法的に対処しました。多大な影響が出たとは思っていません。長い目で見ればそう感じます。ですが事件当時は大問題でした。 Q:参謀だった1970年代に、日本政府とはどのような交渉を?裁判権に関して何か話しましたか? 

このような件で? そうですね。裁判権については日米合同委員会で討議しました。大河原大使(日米合同委員会での日本側代表・大河原良雄外務省米局長)は大変すばらしい人物でした。彼の部下たちも非常に優秀で、彼らのうち5人が大使になりました。知り合うことができて光栄でした。とにかく個々の件について事実関係を確認し、情報を集めて、あらゆる可能性を話し合いました。 しかし最終的には、答えを出さなければなりません。お互い安全保障条約に従って合意することが多かったです。大抵は、そのように処理しました。つまり当時は合同委員会で話し合って対処していたのです。米国側の代表として大河原大使と働くことができたのは大変光栄なことでした。

Q:米兵が日本国内で事件を起こしても、日本に裁判権はありません。その根拠となるのが日米地位協定ですが、これに対して、沖縄県民を中心に強い批判の声があります。不平等な協定だと言われていますが、この協定をどう評価されますか?改定についてはどう思いますか?   変更を提案する余地はあると考えています。どんな共同合意でもそう思います。改定がよい考えかどうかは分かりません。改定することによって基地反対の人々が納得するかどうかも分かりません。改定する可能性があるという話は聞いたことがありません。そういった動きは無いと思います。議題には挙がったことがあるかもしれませんが、具体的な進展はまだありません。反対意見のために改定をすれば、結果的に、協定そのものの質が落ちてしまう気もします。まだ現状維持がいいと思いますが、意見を聞くことは重要です。改定が必要だと感じる人々もいるのですから。

Q:米国側からすれば、自国の若者たちが、日本を始め、東アジアの防衛を担うわけですね。彼らは命を危険にさらしているわけですよね。でも日本には米国を守る義務はありません。 この不平等感が、協定改定の日米協議を妨げているとの見方があるのですが・・

いいえ、その点に関しては何の反発もなかったと思います。軍は、そのことについては考えもしなかったはずです。我々が部隊を海外へ派遣する際には、彼らにその目的や使命を話します。安全保障条約の重要性を理解させているのです。そして日米関係の大切さを強調します。不平等だという考えは無いはずです。 “米国は日本を守るのに、日本は米国を守らない”とは思いません。そのように考えないのは、我々は日米関係こそが今後の東アジアの状況を左右すると思うからです。

その点に関しては誰も異論はありません。これからもそうだと思います。日本にいる米軍の将兵も、日本の重要性を理解し、献身的に任務に当たっています。その姿勢は今後も変わりません。この先も日米関係を良好に保ち続けることが重要だと思います。

プロフィール

ローレンス・スノーデンさんは、米海兵隊幹部として朝鮮戦争、ベトナム戦争を体験。1972年、沖縄返還の1か月後に在日米軍参謀長として東京に赴任した。3年間の日本滞在中は、沖縄を中心に日本各地に展開する米軍を指導する立場にあった。また、日米合同委員会のアメリカ側代表として、日米地位協定の実施に関わる問題や、米兵の起こした事故・事件などに関し、日本側と協議した。

1921年
バージニア州シャーロッツビルに生まれる
1942年
バージニア大学卒業後、海兵隊に入隊
1944年
サイパン島、テニアン島攻撃に参加
1945年
硫黄島攻撃に参加後、グアム島の海兵隊部隊に赴任
1953年
朝鮮戦争下の韓国に赴任
1962年
キューバ危機に際し、海兵隊指揮官としてカリブ海上で警戒にあたる
1964年
大佐に昇格、ハワイに赴任
1966年
海兵隊指揮官として戦時下のベトナムに赴任
1970年
参謀本部に配属
1972年
少将に昇格 6月に在日米軍参謀長として東京に赴任(~1975年)
1977年
海兵隊本部の参謀長に任命される
1979年
引退

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