託したこととは、平和を取り戻すこと以外にはあり得ません。
そのことを、武人ではない文官であり、かつ歌人でもある定家に託したということは、殺し合いを続ける鎌倉武士達に、殺さない文化、殺し合いになる前に、互いに察して事態を解決する文化を、是非とも定着させてほしいというメッセージです。
すくなくとも藤原定家は、式子内親王の歌を、そのようなメッセージとして受け止めました。
藤原定家は、考えに考え、鎌倉の三代将軍源実朝を、自分の和歌の弟子にすることを思いつきます。
そして定家は和歌を通じて、五百年続いた天皇と大御宝の平和で安定した世が、どのように生成され、形成し、発展し、その結果どのような文化が根付いたのか、そこにある本質とは何かを、徹底して実朝に仕込みました。
源実朝は、頭の良い青年です。
ものすごい吸収力を発揮して、定家の教えをどんどん吸収して行きました。
鎌倉では、「こんどの三代将軍は、貴族ボケして歌ばかり詠んでいる腰抜けだ」と悪口を言うものもいました。
けれど、そのように批判したり対立的に物事を考えること自体が、敵対を生み、殺し合いを呼び、世の中を乱すのです。
藤原定家にしても、源実朝にしても、いまさら貴族の世が戻ってくるとは思っていません。
武力をもった武士団という強力な政治勢力がすでに誕生しているのです。
問題は、その武士団という武闘勢力の力を、いかに平和的な勢力に変えていくか。
武を抑えるために武を用いたら、争いは大きくなります。
その典型が源平合戦です。
武を抑えるためには、武を抑える思想を定着させていかなければなりません。
十七条憲法には、第十六条に「古之良典(古の良典を用いよ)」とあります。
混迷する時代を乗り切るためには、古典にその知恵を求める。
歴史は繰り返すものだからです。
定家は、和歌を通じて、実朝に察する文化を、そして十七条憲法にある精神を伝えて行きました。
実朝はそれによく答えてくれました。
これでようやく、世の平穏を取り戻すことができる。
そう定家が確信を持った矢先、その源実朝が鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮で刺殺されてしまうのです。
1219年、定家57歳のときのことです。
最後の頼みの綱が、切れてしまったのです。
後鳥羽院は「もはや鎌倉政権との武力衝突やむ無し」として、さかんに過激発言を繰り返しています。
このままでは、後鳥羽院の要請に応じて地方の武士団が挙兵し、世は再び戦乱の世となってしまいます。
「それでも戦うべきだ」と後鳥羽院はおっしゃいます。
けれど定家は、「それは違う。断じて違う。短慮を起こさず、どこまでも平和の道を築いていくべきだ」と主張します。
後鳥羽院はそんな定家に激怒しました。
「お前の顔など見たくない。二度とオレの前に顔を出すな。歌会にも出入り禁止じゃ!」
この時点で藤原定家は、政界を引退し歌人として、歌の指導などをして生きています。
それが歌会にさえ出入り禁止という。
つまり、後鳥羽院のこのお言葉は、定家に死ねと言っているようなものです。
定家は謹慎処分となりました。
都を事実上追い出され、小倉山に蟄居(ちっきょ)です。
翌年、後鳥羽院は鎌倉幕府倒幕のため挙兵をします(承久の乱)。
けれどその乱は、事前に発覚し、後鳥羽院は隠岐に流されてしまう。
わずか1年前、後鳥羽院と激しく対立し、中央政界を追われた藤原定家は、今度は中央政界と鎌倉をつなぐ政界の実力者として高い官位を得て、政治的影響力を増したのです。
けれど、だからといって調子に乗って政治の世界で権力を揮うことを、定家は望みませんでした。
むしろ、飛鳥、奈良、平安と続いた大和文化を、源氏物語、土佐日記など、様々な作品の書写や評釈を通じて、日本の文化そのものを拡散し、日本の持つ文化性そのものを時代が取り戻せるよう、必死の努力を続けたのです。
このあたりの定家の行動は、非常におもしろいものです。
世の中から、政界への復帰を求められながら、後鳥羽院と政治的に対立しながらも後鳥羽院を尊敬していた定家は、喜々として政界に復帰するのではなく、取り戻すべき日本の文化そのものを取り戻すべく、そのまま謹慎蟄居先である小倉山に篭って、文化の伝承者としての道を選ぶのです。
それから11年、71歳になった藤原定家は、後堀河天皇から、新たな歌集の編纂を命ぜられました。
そしてまる三年をかけて『新勅撰和歌集』をまとめあげます。
その『新勅撰和歌集』の中から、さらに抜き出した百首の歌を、宇都宮入道蓮生(頼綱)の求めで小倉山荘の障子に貼ったのが、1235年の5月27日のことでした。
これが5月27日が「百人一首の日」とされる根拠になった日です。
けれど、そこに貼りだされた百首歌(『百人秀歌』)と『百人一首』は、似てはいますが、実は別なものです。
翌年(1236年)、75歳になった定家は、『新勅撰和歌集』、そして『百人秀歌』をもとに、彼の晩年最後の仕事として、後世に遺すべき総決戦の歌集として、『小倉百人一首』の選出を開始します。
世の中が、平安から鎌倉へと激動し、明察功過などどこへやら、短慮と短慮が対立し衝突して、すぐに武力衝突になる。
人の生命が奪われ、世が乱れ、悲惨な殺人事件が頻発する。
女達が安心して生きられた時代はどこへやら、武器をつきつけられて着衣を奪われ、強姦され、他人の子を孕ませられたり、あるいは殺される。
毎日のように、悲惨なニュースがもたらされる。
そんな世の中がなぜ生まれるのか。
世の中の価値観が狂い、世の中の秩序が乱れ、日本人が日本人としての文化性を失っている。
だからこそ、考えられないよな短慮な事件が頻発する。
「ならば」、その日本人の文化の根源を、どうやって世間に知らしめ、定着させていくのか。
どうやって日本を取り戻すべきなのか。
そのために何が必要なのか。
理論や理屈をいくら説いてもダメなのです。
頭でわかっても、それは行動にならないからです。
理屈では人は動かないのです。
ではどうしたら良いのか。
人は感じて動くものです。
だから「感動」といいます。
そうであれば、感動のなかに、取り戻すべき日本の姿を浮き彫りにする。
和歌には感動があります。
ならば、その和歌を効果的に配置することで、和歌を順に読み解いて言ったら、誰もが感動し、日本の文化を取り戻そうとする決意を新たにする。
そういう歌集を創ろうではないか。
それは、勅撰和歌集のような長大なものではなく、そうだ。百首くらいがちょうどよい。
百人の歌人から一首ずつ、百首の歌で、大和の文化を全部語り尽くしてはどうだろうか。
いやまて。
せっかく歌集にしても、その歌集自体が歴史の中に埋没してしまってはなんにもならない。
それに、五百年続いた平和な日本が、いまこうして音を立てて崩れた今、その日本が、再びもとの美しい姿を取り戻すには、いったいどのくらいの歳月がかかるだろうか。
もしかすると、それは五百年?、いや千年はかかるかもしれない。
であれば、千年の間、歌の意味さえも失われてしまったとしても、その歌だけは生き残る。
そうだ。歌には言霊がある。
その言霊の美しさだけは生き残る。
そしていつの日か、きっとその歌の意味を理解する者が現れるに違いない。
それがいつのことかはわからない。
けれど、その日まで、歌集が生き残ってくれなければならない。
そのためには、たとえどんなに歌が貶められたとしても、あるいは言葉が失われてしまったとしても、それでも音の美しさだけで口承され、人々に愛され続けるだけの歌を、選ばなければならない。
定家は、それまで自分が学んだ全ての知識と情熱を傾け、晩年最後の仕事として、百人一首の編纂を開始しました。
たった百首の歌を選び、配置するのに、まる4年の歳月がかかりました。
1241年、藤原定家は、79歳で永眠しました。
そして定家が晩年の全情熱を傾けた百人一首は、小倉山荘に残った彼の遺産とともに、彼の遺族たちによってまとめられ、桐の箱に大切に入れられ、藤原家の蔵にしまわれました。
百人一首は、こうして藤原定家の死とともに、完全に倉庫に眠ったままになってしまうのです。
その百人一首が、あらためて世に出てきたのは、なんと定家の死後230年経ったあとの時代のことでした。
応仁の乱が終わった戦国中期です。
この時代、世の中の価値観は混乱し、細川家といえば当時は大大名の家柄でしたけれど、その細川のお殿様のところの家人たちが、貴族である西園寺さんの家を襲い、西園寺さんの娘さんの着ている衣装まで(下着まで)剥いで持ち帰ってしまう。
貴族たちの荘園は、武士団によって片端から強奪され、貴族たちの生活は困窮を極め、その荘園を奪った武士達は、また別な武士達に殺され、奪われる。
そんなことが日常的に繰り返された時代となっていました。
どうしてこのような混乱が起きたのか。
理由は、三代将軍足利義満にあります。
義満は、明国と交易を開始し、明国皇帝から日本国王の宣旨を受けました。
「国非二君(国に二君なし)」とは聖徳太子の十七条憲法の第12条にある言葉です。
義満は、それを破り、国に天皇と、支那王朝から柵封を受けた日本国王の二君を形成してしまったのです。
このことが世の中の秩序を乱しました。
そして日明貿易は、巨大な富を足利将軍家にもたらしましたけれど、同時に、支那、朝鮮から大量な人が日本に移住してくる結果をもたらしました。
当時の日本は、秩序が乱れ、人が人と殺し合い、奪い合うたいへんな状況にありましたけれど、それでも支那、朝鮮人からしれみれば、日本はきわめて治安の良い安定した国だったのです。
なぜなら、彼らの国では、支配層がただやみくもに、被支配層の人々から、財も女も食い物も衣類も、それどころか生命まで、まるで虫けら同然に殺し、奪っていく。
だから、田畑そのものが育たない。
それどころか、村落共同体自体が育たない。
なぜなら、武器をもった軍隊がやってきたら、村人たちはただ逃げるか殺されるかしか選択肢がない。
彼の国では、軍隊と暴徒と極道は同じものなのです。
そんな支那朝鮮からみたら、日本はまるで極楽です。
上に述べた西園寺家にしても、なぜ細川家の家人に襲われたかといえば、西園寺家はなんら武装していないのです。ガードマンさえいない。だから簡単に襲うことができる。
そして襲った側も、綺麗どころの娘さんを丸裸にして着衣まで奪って逃走したけれど、娘さんを強姦などしていないのです。
目的は美しい衣類を奪うことにあり、強姦は恐れ多かったのでしょう。
そんな日本に、ひもじくなれば人の肉でも平気で食らうという異人たちが大挙してやってきたわけです。
治安が乱れ、毎日のように、少年が殺害されたり、マンションのエレベーター前で主婦が(子供の見ている前で)殺害されたり、とんでもない事件が相次いで起こる。
いまから500年前のことです。
そんな時代にあって、さしもの藤原家でも、困窮を極め、先祖の遺産を処分することになります。
そして連歌師の飯尾宗祗(いいおそうぎ)に、藤原定家の遺産箱の処分を委託しました。
箱の中をあらためた飯尾宗祇は、そこで百人一首を発見します。
飯尾宗祇は連歌師です。歌の専門家であり、察する文化の継承者です。
「藤原定家は、『新勅撰和歌集』を編纂していながら、なぜ、あえて『百人一首』を編纂したのだろうか。」
この疑問が、すべての答えの手がかりとなりました。
勘の鋭い飯尾宗祇は、瞬く間に『百人一首』が持つ歌の深み、そして藤原定家の「日本を取り戻したい」という強い情熱を見抜きます。
そして彼の主催する連歌会のメンバーを中心にして、百人一首のいわば「研究会」を彼の仲間たちと発足させます。
それは、毎日が驚きの連続でした。
900年前の大化の改新からはじまる日本の大きな改革。
それを成し遂げた天智天皇、それを完成させた持統天皇が、天皇として自ら政治権力を揮うのではなく、むしろ権威というお立場となって、民衆を大御宝(おおみたから)とし、自らは農作業やお洗濯をして、民とまったく同じように労働に精を出されていたこと。
そして平安中期になると、安全で安心な社会の中で、数多くの女流歌人たちがのびのびと人生を謳歌していたこと。
その平安な時代が音を立てて崩れ去ろうとしたとき、どんな気持ちで人々が時代を取り戻そう、時代を支えようと努力したのかということ。
それはまるで、神秘の扉を開けて冒険するような、たいへんな刺激に満ちたものでした。
こうして飯尾宗祗と、その仲間たちは、大名や豪商などを招いた連歌会の席や、あるいは勉強会を通じて、この感動と興奮を周囲に伝えていきます。
そして飯尾宗祗が晩年になったとき、宗祇はこの『百人一首』の全てを、当時、日本における古典の第一人者であった三条西実隆に、伝授します。
その三条西実隆は、全国のお大名や実力者たちから、源氏物語の書写などを頼まれていた人でもありました。
当時は、印刷技術などなかった時代です。
本は全部、書写したのです。
そして一流の学者の書写した、たとえば三条西実隆が書写した源氏物語は、いまのお金なら、1冊200万円ほどもする高価なものでした。
そしてこの写本は、使者によって注文先の豪商や大名、その奥方たちに届けられます。
これは、ただ届けるだけでは済まないのです。
使者となった者は、そこで講義を依頼されるからです。
そしてその席で、使者となった弟子たちは、同時に百人一首の伝播を行いました。
百人一首は、こうして全国に広がり、それもただ広がっただけでなく、その内容の凄みの「語り」とともに伝播したのです。
このことがきっかけとなり、戦国大名たちや当時の豪商たちの動きが変わりました。
彼らは、ただ自分の領地が富むことだけを考えるのではなく、積極的に天子様(天皇)を仰ぎ、その天皇のもとで日本をあらためて統一する。そのために働く、という選択を彼らにもたらしたのです。
そしてそのことは、そのまま、どの大名が京の都に登って、新たな日本の政権になるかを、世の中の最大の関心事にまでしていきました。
こうして今川義元が、京に上ろうとして桶狭間で討たれ、信長が天下布武を宣言し、秀吉が関白太政大臣となって政権を担い、日本が再び統一されていくことになりました。
その頃の百人一首評釈を、細川幽斎(藤孝)が書いています。
その評釈は、昨今の百人一首の解説本とは、内容がまるで異なります。
まさに細川幽斎は、藤原定家、飯尾宗祗、三条西実隆と続く、百人一首の本来の意味を、しっかりと学び、伝承した人であったわけです。
その細川幽斎の子が、細川忠興で、その妻が明智光秀の娘の細川ガラシャ夫人です。
その細川ガラシャ夫人の辞世の句が、有名な次の歌です。
散りぬべき時知りてこそ世の中の
花も花なれ 人も人なれ
戦国大名たちは、その中期までは、まるで文化性を失ったかのような状態でした。
けれど後期になりますと、ものすごく深い文化の香りが高くなり、そして関が原くらいの時代になると、女性たちも武将の妻として、たいへんな気丈さをみせる女性たちになっていきます。
日本が、大和人としての文化を取り戻したのです。
そして一度、文化の香りを取り戻した日本は、そのまま一気に江戸270年の太平の世を築いています。
日本は、変わったのです。
定家の時代、後鳥羽院は「平和のために戦う」とおっしゃいました。
定家は「平和を願うなら人々の心を変えなければダメだ」と言いました。
二人は激しく対立しました。
結果は、後鳥羽院は破れ、定家の願いもすぐには叶えられませんでした。
定家の願いが叶ったのは、なんと定家の死後374年経った1615年の大阪夏の陣以降のことでした。
定家の志が、なぜすぐには叶わなかったのか。
それは、元寇があったからです。
神々は、定家の時代から、すでに元寇を予見し、日本の武士達に戦いを教えていたのだろうと思います。
そして次の大きな戦いは、植民地支配との戦いでした。これはウシハク世界を相手にする壮大な戦いです。
そして日本全土が焼け野原になりながらも、世界から植民地は一掃されました。
では、次に必要なことは何でしょうか。
真に平和を求めるなら、武器を手にして戦って平和を得るのではなく、武力を行使せずに平和を実現することなのではないでしょうか。
戦後の日本の試練は、ずっとそのためのものであったような気がします。
約6000年続いたウシハク世界を終わらせ、本当の意味でのシラス世界を築く。
いま、そのための大きな戦いが始まっているように思います。
愛と調和を求めた式子内親王の御志(おんこころざし)は、いまなお日本列島を覆っています。
そしてその御心は、日本人の血肉となって世界から植民地支配を一掃し、さらに戦争のない愛と調和に満ちた世界の実現に向けて、いま大きく動き出そうとしています。
ご生前に、魂の緒よ、絶えなば絶えねと詠まれた式子内親王は、魂魄となってこの日本にとどまり、いま世界を変えようとしているのです。
※本稿は2016年8月の記事の再掲です。
お読みいただき、ありがとうございました。
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