二〇二〇年東京五輪・パラリンピックの関連費用が三兆円を超える可能性が出てきた。理念が定まらない開催が費用の膨張を招いたのではないか。
二〇年東京五輪・パラリンピックの関連費用で、会計検査院は国が既に約八千十一億円を支出したと明らかにしている。これまで国の負担分は千五百億円としていたのを大きく上回り、経費の総額は三兆円を超える可能性が出てきた。これまでの見込みより、一兆円近い増額となる。
◆三兆円を超える経費
経費が膨らむ背景には、各省庁の関連施策費に大会との関連が薄い事業などが含まれていることもあるという。「五輪関連」として予算を出せば、通りやすくなると考えたのかもしれない。
このような便乗が出てきてしまうのは、東京五輪・パラリンピックを通してどのような街や社会をつくろうとしているかのビジョンが、はっきりしていないためではないか。理想とする最終形が分かりにくければ、本当に必要なものを線引きすることは難しくなり、その結果としてガバナンス(統治)が崩れやすくなる。そんな危惧を抱いてしまう。
五輪は世界最大のスポーツの祭典だ。費用もかさみ、開催に手を挙げる国は国民や開催都市の人たちが納得できる大義の説明が必要になっている。
例えば一二年ロンドン五輪は、公害などで荒廃した地区をメイン会場とすることで再開発することを目的とした。一六年リオ大会は、初の五輪開催となった南米大陸の文化などを世界にアピールして関心を広め、国内経済を活発にして貧富の格差を埋めようとした。東京大会の次に開催する二四年のパリも、移民の低所得者層が多く住む郊外を再開発することで都市部との住環境や貧富の格差をなくし、テロなどの犯罪を撲滅しようとしている。
◆目指すゴール見えない
東京大会には、このような目指すべきゴールがなかなか見えない。復興五輪とうたうが、東北の被災地を聖火リレーが走るだけでは、この言葉が持つ重みに応えたとはいえないだろう。五輪後も含めて震災からの復興をどのように後押しするか指し示すことで、初めて復興五輪といえるのではなかろうか。そうでなければ、五輪関連の予算を復興予算に回す方がいいという声にも一理あると思えてしまう。
大義なき五輪が税金の一層の無駄遣いを生んでいるのだとすれば、国民や都民にとっては悲劇でしかない。
一方で、コストカットばかりに目を向けるのも避けるべきだ。例えばスポーツ施設は、試合を行うためだけにあるものではない。スポーツを見に来た人が心の底から楽しみ、笑顔になり、人と人とのつながりを生み、地域を活性化させる場でもある。そしてコンサートなどによる収益も見込める複合施設ともなる。
過剰なコストカットによりバリアフリー化を怠ったり、デザインや照明、音響装置などの設備が観客にストレスを感じさせるものとなれば、五輪後はその施設から人は離れて維持費ばかりがかさむことになる。
ただ、東京五輪・パラリンピックの開催が決まってから「五輪のため」という枕ことばで、さまざまなことを強引に押し通そうとすることが垣間見えることには不信感を抱く。
本来は自発的な参加であるはずのボランティアも、大学の授業期間などを大会期間に合わせ、関連企業には社員の派遣を要請しようとしているという。そうなれば半ば強制的となってしまう。五輪やボランティアへの理念が欠如しているように思われても仕方ない。
二年前の体育の日、私たちは「体育の日をスポーツの日に改称せよ」と提言した。
今年六月には改正祝日法が成立し、二〇年は東京五輪が開幕する七月二十四日に移行して「スポーツの日」と改称される。その後は現在と同じく十月の第二月曜日となる。
改称を提言した理由は、体育とは教育の一環であり、スポーツが本来持つ「楽しむ」や「見る」とは違う地平にあるからだ。一一年に施行されたスポーツ基本法がスポーツを「世界共通の人類の文化である」と定義し、その普及が国の施策となっていることに照らし合わせれば、「体育の日」という名称は同法の理念とは食い違っている。
◆理想の社会に近づける
スポーツ文化の熟成、スポーツを起点としたコミュニティーの形成、地方の再生…。五輪はこれらを実現し、理想の社会に近づける可能性に満ちている。しっかりしたビジョンとゴールを示してほしい。国民が納得できるように。
この記事を印刷する