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ショパンの装飾音

装飾音を徹底分析することでショパンの演奏を大改革
原則拍の頭に合わせて開始すると良いのはどうして?
2000/7/18 更新 / 2004/6/21 譜例追加 / 2008/8/26「はじめに」修正

ショパンの装飾音・目次

  1. はじめに 2000/7/18, 2008/8/26修正
  2. 歴史的背景…直感とは異なる記譜法 以上1999/4/23 連載第1回
  3. 短いトリル
    1. 短いトリル…"tr","w"の場合 以上1999/4/25 連載第2回
    2. 短いトリル…小さな音符で書かれているもの 1999/4/27 連載第3回
  4. 長いトリル 1999/4/28 連載第4回
    1. 長いトリルの前に前打音が付随しているもの
    2. 開始音の指定のない場合、補助音から開始するのが原則 2000/4/3 改訂
  5. 前打音 1999/5/4 連載第5回
    1. 非常に短い前打音
    2. 普通の前打音
    3. ベースの前打音(その他先取りする例外)
  6. 複前打音…シレド
  7. アルペジオ…ドミソドー
    1. 右手のアルペジオ
    2. 左手のアルペジオ
    3. 両手のアルペジオ 以上1999/5/17 連載第6回
  8. ターン…ドレドシドー
  9. 転回ターン…シドレドー 以上1999/5/24 連載第7回
  10. スライド…ミレドー
  11. まとめ 以上1999/5/24 連載第8回(最終回)
  12. 参考文献 2004/6/21 (追記)
ショパンの装飾音関連ページ

1 はじめに

ショパンの演奏はとかく難しいと言われます。また、名演と思えるものが少ないという意見もよく聞かれます。 そこで、ここでは効果が分かりやすい装飾音の演奏方法の改善に的を絞って説明したいと考えております。 具体的には、「装飾音は原則、拍の頭に合わせて奏すること」を実践することです。これにより、ショパンの演奏を無理のない自然なリズムと音楽性で実現することが可能となります。その副次的効果として、装飾音を含むパッセージが技術的に楽にもなります。 もちろん、例外も存在します。装飾音を先取りする「例外」にも注目していきます。

パデレフスキ版のショパンの楽譜には「装飾音は原則、拍の頭に合わせて奏すること」と注釈があります(下図参照)。また、ウィーン原典版の楽譜にはショパン自身が弟子達の楽譜に書き込んだ装飾音の弾き方の指示が多く紹介されており、やはりここでも「拍の頭に合わせて奏する」ことが強調されています。

しかし、これらにはどうしてそのように弾く必要があるのか理由が書いてありません。この連載では、歴史・ショパンの表現したい音楽・ピアノという楽器・楽譜としての視覚効果などの観点で、装飾音を拍の頭に合わせて奏した方がよい理由を考えていきたいと思います。

パデレフスキ版解説

蛇足ですが、多分この連載を読むとアシュケナージのショパン演奏は聴けなくなると思います。装飾音の扱いが、ほとんど全て誤っているからです。彼のリズム感が悪く聞こえるのはこのせいだと思います。そしてルービンシュタインは非常にうまくごまかしており、コルトーに至っては別次元の調和を生み出していると感じられることでしょう。

2 歴史的背景…直感とは異なる記譜法

さて、ショパンに初めて接した人は装飾音をどのように弾くでしょうか。例えば前打音は見た目通りに弾くと、主要音の前にくっついている小さな音符を拍の前に弾き始め、主要音を拍の頭に合わせて弾くことになるでしょう。しかし、ショパンは本当にそれを意図して書いたのでしょうか?

ショパンの記譜法がそれ以前の作曲家の影響を受けていることに間違いありません。そこで、ショパン以前で装飾音を多用した作曲家としてバッハとモーツアルトを考慮してみましょう。これらの作曲家の作品で装飾音はどう弾かれているでしょうか?ほとんどが拍と同時に弾き始められていることが分かるでしょう。それは多くの楽譜の演奏ノート、装飾音の奏法などの解説で説明されています。もちろん、ピアニスト達の演奏を聴いても皆拍の頭に合わせて弾いていることを確認でき、音楽的にも自然であることが認知できます。 したがって、これらの作曲家の影響を受けたショパンにおいても、装飾音を拍の頭に合わせて弾くことを意識して記譜した可能性が十分にあることが分かります。

それどころか拍の頭に合わせて弾かないと多くの場合ショパンの音楽が壊れてしまいます。次回は音楽そのものの観点で、装飾音の弾き方を吟味していきたいと思います。

以上 1999/4/23 ショパンの装飾音連載第1回

3 短いトリル

tr 短いトリル(ドレド)は楽譜上、tr とか、"w"に毛の生えたような記号("m"にも見える)で書き表されているものと、小さな音符で「ドレド」と書かれているもの、そして、実際の音の長さ(3連符等)で書き下されているものの4種類あります。バッハの場合は"tr"や"w"と書き表されている音符は例外なく高い音からトリルが始められています。しかし、ショパンでは実際に書き下されているトリルを見ると下から開始するのを意図していることが分かります。したがって、バッハの時代の言葉では「転回モルデント」か「プラルトリラー」の方が相応しいかもしれません。

音楽的な効果としては大きく分けて次の2つの傾向を感じるとることが出来ます。

  1. テンポが速い場合→それが付いている音を強調したり、生き生きとさせる効果がある
  2. テンポが遅く弱音の場合→主要音(ドレドの「ド」)の打撃を和らげる効果がある

そんな勝手な定義をしないでくれとか、あるいはどうして一般的にそう感じるのか疑問に思われる人もいるでしょう。それらについては最近出版された大蔵康義著「音と音楽の基礎知識」(国書刊行会)の第3章「音の認知と音楽構造」が参考になると思います。この連載も基本的にはこの著書を出発点としています。

3-1 短いトリル…"tr","w"の場合

原則拍の頭と同時に開始されます。これらのトリルが現れる次の音はほぼ例外なく下降しています。つまり「レミレド」のように。音楽的には打撃を和らげるとともに、次の音へ寄りかかるという性質があります。トリルを先取りしてしまうとその作用が失われてしまいます。また、トリルの3つ目の音(レミド)にアクセントを付けるようなことがあったとしたらナンセンスとしか言いようがないでしょう。この様なトリルの例は無数にあります。

もちろん、主要音を強調する働きもあります。例としてはワルツ第2番Op.34-1第32小節以降があげられます。ここはテンポが速く「強調する」トリルの例です。しかし、これも拍の頭に合わせてトリルは開始され、アクセントも最初の音に付されます。その方が自然に次の音(下降しています)にうまく繋がりますし、技術的にも自然で慌てることもなく正しいリズムが刻めます。また、同曲のコーダのトリル(ミファミ、レファレなど)は全て3連符で書き下されています。もちろん拍の頭から開始することが明示されており、ショパンのトリルの扱い方の参考になるでしょう。こういう例は多くの曲で見られます。

トリル(tr,w)を先取りしても良さそうな例があります。例えば即興曲第1番Op.29の最初のトリル。これはアクセント記号が付いている主要音を強調するトリルです。多分数々の演奏のすり込みも関係するかもしれませんが、トリルを先取りして弾いたとしても音楽が崩れる印象は持ちません。また、ノクターンのOp.72-1第32小節以降ワルツ第4番Op.34-3第50小節以降も先取り可能なトリルが見られます。これらのトリルに共通しているのはトリルのすぐ前に打撃音が無いことです。つまり休符か持続音の後のトリルということになります。同じ様な例として、ワルツ第3番Op.34-2第37小節等のトリルも先取りできると考えられるでしょう。しかし、この作品についてはよりシビアに取り扱う必要があります。恐らく別の意味でショパンは先取りを禁止していると私は考えます。それについては次回…。

以上 1999/4/25 ショパンの装飾音連載第2回 4/27修正

3-2 短いトリル…小さい音符で書き下されている場合

バッハの時代では「転回モルデント」として記譜された記号。もちろん拍の頭から開始された装飾音でした。ショパンの作品においても、音楽的には原則拍の頭に合わせて開始しても問題はないでしょう。しかし、ショパンはそのように意図したのでしょうか?楽譜を細かく分析すると、ショパンは小さい音符で書き下したトリルを"tr", "w"などと区別して記入したように見えてきます。そしてそう仮定したならば原則先取りして弾くことを意図して記譜したと考えることが出来ます。いくつかの証拠を以下に挙げてみます。

先取りを意識した記譜
"tr", "w"と意識的に区別して書かれた記譜
単独で記譜されたもので先取りの可能性が高いもの
番外:「レミレ・ド」の最初の3音(レミレ)が小さい音符で書き下されているトリル

これは明らかに前の拍に合わせて開始されるトリルで先取りして弾かれます。

逆に一般的なトリルと同様に、先取りして欲しくない箇所も多くあります。

これらは隣接のトリルを含む類似音型を見ても3連符で書き下されていたり、"w"記号で書かれていたりします。先取りする大きな利点も見あたりません。拍の頭で開始した方が自然でしょう。ただ、ノクターン第10番の第73小節と第74小節の違いは大変有意義です。Lentoへ向けてテンポが落ちていくのに対応してトリルも緩やかになっています。(4/28追記)

ショパンの装飾音は原則拍の頭と同時に開始されます。しかし、このトリルは先取りした奏法も常に意識する必要があると考えます。原則とは外れますが、それが音楽的な変化やリズムの安定を生むとしたら勇気を持って導入すべきです。

トリル記譜法の書き分け…ショパンのこだわりか、それともただの気まぐれか…どちらの可能性も否定できません。

以上 1999/4/27 ショパンの装飾音連載第3回 4/28修正

4 長いトリル

長いトリルは通常"tr----"で表されます。前打音が付いているものと付いてないものの2つに分けて注意すべき点をあげてみます。

4-1 長いトリルの前に前打音が付随しているもの

この前打音によってトリルの開始音を指定しています。前打音に主要音と同じ高さの音が指定されていても、決して「・ドレドレドレ…」と弾いてはなりません。ショパンは「レドレド…」と弾いて欲しくない、「ドレドレドレ…」と弾くことを意図していたのです。それは当時前打音が拍と同時に開始されるが常識であったからこそ生まれた記譜法なのです。前打音については後の章で改めて詳解します。前打音付のトリルの例はこちら…。

バラード第3番 前打音が複数で構成されている場合があります。そのうち最も代表的なものが下から出だしの付いたトリルです。バッハでは"cw"のようにwに長い巻き髭が付いたような記号が使われていました。ショパンはそれをご丁寧に「シド[レ]・ドレドレ…」と書き下して記譜しました(右図:バラード第3番Op.47)。

これが逆にショパンの時代でさえも誤解を生んだのか、ショパンはしばしば弟子の楽譜にトリルの開始音を拍と合わせるように書き込みを入れました。したがってこの「シドレ」も先取りは許されません。音楽的作用としてはトリルの入りをぼやかすために意図されたものと考えられます。

4-2 開始音の指定のない場合、補助音から開始するのが原則

先取りするかしないかの議論とはそれますが…長いトリルにおいて、開始音の指定のない場合、主要音と補助音のどちらから開始するか悩むところです。

バッハの長いトリルはほとんどが補助音(上の音)から開始されていました。様々な文献がそれを示しています。そして、ショパンも同様に、補助音から開始されていたと考えられる証拠がいくつか記譜に残っています。

しかし、舟歌などでは補助音が開始音としてわざわざ指定されています

さて、実際はどちらが正しいのでしょうか?私は開始音の指定のない長いトリルは、どんな場合も原則補助音から開始するのが妥当と考えます。音楽的には、ショパンのしおらしさがうまれるのではないでしょうか。ただ、主要音から開始されたとしてもそれほど問題はないと思います。
→ 弟子などの証言はショパン以外の装飾音を参照

以上 1999/4/28 ショパンの装飾音連載第4回 2000/4/3修正

5 前打音

前打音とは主要音に一音が装飾音として付加されたものです。その一音は単音あるいは重音、どちらの場合もあり得ます。前打音も大きく非常に短い前打音、普通の前打音、ベースの前打音の3つに分けられます。

5-1 非常に短い前打音

これはワルツ第1番Op.18やワルツ第4番Op.34-3に出てくるような、一つ一つが非常に短い前打音で、拍の合わせて弾いているのかどうか判別付かないくらいにして弾くものです。したがって、拍の前に弾くか拍の頭に合わせて開始するかという議論とは無関係に、素早く奏することが大切です。

5-2 普通の前打音

旋律線に現れる通常の長さの前打音です。音楽的には主要音に入るのをためらう作用があります。これはルバートの効果と酷似しています。したがってこの前打音は原則拍と同時に開始され、主要音は拍からやや遅れて奏されます。前打音の作用と演奏法をわかりやすく示しているのがノクターンの最高傑作第8番Op.27-2です。

ノクターン第8番Op.27-2

その他の例もいくつかご紹介します。

ノクターン第9番Op.32-1
子守歌Op.57
舟歌Op.60

和音を伴った前打音の例です。(追記:2004/6/21)

舟歌

5-3 ベースの前打音

主に左手に現れる、同時に奏せないベース音を鳴らすための前打音です。これは先取りして、主要音を拍(特に右手)と合わせなければバランスが取れません。例としては、前奏曲第5番、第16番の各最終小節、ノクターン第4番Op.15-1の第33小節、第45小節などいろいろあります。

その他先取りする例外的前打音
雨だれの前奏曲Op.24-15
ノクターン第11番Op.37-1
ノクターンホ短調(遺作)

このように前打音が主要音と同じ音である場合は先取りできることが多いようです。

以上 1999/5/4 ショパンの装飾音連載第5回 5/24修正

6 複前打音

複前打音とは主要音に二音が装飾音として付加されたものです。ドが主要音とすれば「シレド」となります。前打音やトリルより装飾音としての作用は大きく、印象的です。主要音へ到達するまでの迷いやより大きなためらいを感じさせます。複前打音については原則拍と同時に開始するのが良いでしょう。正しい効果が得られます。

複前打音

複前打音の例

7 アルペジオ

アルペジオはご存じの通り和音を崩して弾く奏法です。ショパンは和音に波線を追加するか、実際に装飾音として小さい音符で表す2通りで記譜しています。アルペジオを拍と合わせて弾くか先取りして弾くかによって非常に印象が変わります。以下3つの場合に分けて分析してみます。

7-1 右手のアルペジオ

ほぼ例外なくアルペジオの最初の音を拍の頭と揃えて開始します。その理由の一つはアルペジオの最終音を拍の頭に合わせると必然的に急いだ印象になります。ショパンは多くの場合和音を柔らかく奏したいときにアルペジオの指示を与えます。そうでない場合のほとんどは指が届かない幅広い和音を奏するためのものです。したがって、開始音を拍の頭に合わせて落ち着いて弾くことが肝要です。もう一つの大きな理由は響きです。特に幅広い和音を弾くとき先取りした弾き方にすると最初に奏した音などがうまくペダルに乗らないことがあります。それは開始音を拍に合わせるだけで簡単に解決できます。 逆にいうと前打音では拍と同時に開始することによってペダルを下手に使えば音が濁ることにご注意を。 その他これまでの装飾音でも述べてきたことですが、開始音を拍と合わせることで必然的に最終音(多くの場合旋律線でもあります)が遅れることになり、これが自然なルバート感を産みます。さて、各曲をみてみましょう。

右手のアルペジオの例
ノクターンOp.62-1

とにもかくにも右手のアルペジオは拍に合わせて開始するのが百利あって一害無し!?、お勧めできます。

7-2 左手のアルペジオ

ベース音的役目のある場合のアルペジオということになりますが、この場合は先取りするのが良さそうです。もし、左手アルペジオを先取りせず、拍に合わせてしまうと、必然的にそのアルペジオの後に現れるであろう右手が遅れてしまいます。装飾音がない右手を勝手に遅らせてしまうのは罪です。まず、右手は拍に合っていなければならないと考えて良いでしょう。それを考えると左手を先取りするのが必然的になってきます。しかし、ここでも例外があります。左手が忙しくて先取りを完全にしている暇がない場合です。これは、例えば2音目と右手を同時に弾いたりしてごまかすことが出来ます。聴いた感じはほとんど違いは分からないでしょう。

7-3 両手のアルペジオ

両手ともにアルペジオ記号が付いている和音を指します。この両手のアルペジオ記号、連なっている場合と切れている場合の2種類あります。 どちらの場合にも言えそうなのですが、先取りするかしないか、すべてケース・バイ・ケースといって逃げておきます(^^;。響かせ方、旋律の間の取り方、アルペジオの速さ、それらが複雑に絡み合ってきますのでこれという原則が見出せません。

両手のアルペジオの例

この最後の例は実に深いです。何度弾いてもなっかなかうまくいきませんから…(^^;。

以上 1999/5/17 ショパンの装飾音連載第6回

8 ターン

ターン ターンとは主要音を中心として上がって下がってまた戻るという装飾音です…と言っても分かりにくいですね。具体的には主要音をドとすると「ドレドシド」という風に主要音にまとわりつくように行ったり来たりするものを言います。ショパンは実際の長さと音程で書き下している場合、小さな音符で記述する場合、そして、"S"を(裏返して)90度傾けた記号を使う場合があります。どの場合もほとんどはターンの後、高い音程に跳躍しています。音楽的にはためらい混じりに突飛な跳躍を緩和するという効果があります。ターンについては拍に合わせるか先取りするかは問題ではありません。楽譜を見たとおりに弾けば良く、現在でも正しく演奏されています。それよりも重要なのは他の装飾音と組み合わされた場合です。では例を見ていきましょう。

ターンの例

9 転回ターン

転回ターンとは、主要音の下の音から2音上がって主要音に戻るというもの(下図:Op.55-2参照)。具体的には、「シドレ」(=主要音)という形の装飾音です。前後を見ると必ず「ド・シドレ…シ」というように、主要音→転回ターン→主要音→下降という流れが基本となっています。狭い音域を窮屈に動くため、切迫した緊張感を醸し出す効果があります。原則は拍に合わせて開始させます例外もあります

転回ターンの例
以上 1999/5/24 ショパンの装飾音連載第7回

10 スライド

スライド スライドとは「ミレ」や「ラシ」(が主要音)のように、2つの連続する音階が主要音に付随するものを言います。ショパンの初期の作品でよく使われています。スライドの柔らかさを醸し出す効果を使うところなどでは拍と同時に開始されます。しかし、先取りを意図した方がリズムが自然に感じられることもあります。いくつか例を見てみましょう。

スライドの例

11 まとめ

以上、代表的な装飾音に的を絞って演奏方法を考えてみました。簡単にまとめると以下のようになります。

もちろん、これらはショパンの扱った装飾音の一部でしかありません。まだまだ、分析してみたい興味深いサンプルはいくつもありますが、そろそろファイルサイズも大きくなってきましたので、このあたりで一段落させていただきます。より有用な例などが有れば適宜追加・修正していきたいと思っております(今回も「長いトリル」の項に「英雄ポロネーズ」を加えたところです)。

最後に、なぜショパンは装飾音を曖昧に見えるよう小さい音符や記号で記述したのか、理由を考えてみました。一つは、最初にも述べましたが、ショパン以前の作曲家の記譜法に従ったということです。その効用としては、楽譜を必要以上にうるさくしない、主要な音と副次的な音を見た目で区別できるようにしたなどがあります。もう一つは記譜が難しいルバートとの関わりです。拍に合わせて弾かれる装飾音の後に続く主要音は自然にルバートが付きます。もし、装飾音を的確に書き下して記譜していたなら、ルバートが堅苦しくなる可能性があります。そのため、曖昧な記譜法をとったとも考えられます。

装飾音は決してオマケではありません。それは装飾音抜きで弾いてみればすぐに分かります。全く音楽にならないものすらあります。ピアノでピアノらしくない音楽…すなわち、弦楽器や肉声で実現されていた人間的な音楽をいかにうまく表すか。ショパンは装飾音を本質的に利用することによってそれを実現し、ピアノ音楽に新しい可能性を与えてくれました。

ショパン没後150周年の今年はショパンに取り組む方がいつもより多いのではないでしょうか。もう、半年近く経ってしまいましたが、そういう方々に少しでもお役に立てたらと思って筆を執りました。私自身も非常に勉強になりました。長らくの連載にお付き合いいただきありがとうございました。

1999/5/26 ショパンの装飾音連載第8回(最終回)

12 参考文献

ショパンのピアニスム
ショパンのピアニスム 加藤一郎著 音楽之友社
2004年2月出版。この連載当時にはなかったものです。ショパンのピアニズムに関して総合的に紹介されています。多数の自筆譜およびレッスン譜が引用されており、現存の邦書の中では最も信頼のおける充実した内容のショパン本です。第4章「装飾法」に、ここで解説した考え方と類似した内容があります。
2004/6/21 ショパンの装飾音(追記)