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ショパンの装飾音
装飾音を徹底分析することでショパンの演奏を大改革
原則拍の頭に合わせて開始すると良いのはどうして?
2000/7/18 更新 / 2004/6/21 譜例追加 / 2008/8/26「はじめに」修正
ショパンの装飾音・目次
- はじめに 2000/7/18, 2008/8/26修正
- 歴史的背景…直感とは異なる記譜法 以上1999/4/23 連載第1回
- 短いトリル
- 短いトリル…"tr","w"の場合 以上1999/4/25 連載第2回
- 短いトリル…小さな音符で書かれているもの 1999/4/27 連載第3回
- 長いトリル 1999/4/28 連載第4回
- 長いトリルの前に前打音が付随しているもの
- 開始音の指定のない場合、補助音から開始するのが原則 2000/4/3 改訂
- 前打音 1999/5/4 連載第5回
- 非常に短い前打音
- 普通の前打音
- ベースの前打音(その他先取りする例外)
- 複前打音…シレド
- アルペジオ…ドミソドー
- 右手のアルペジオ
- 左手のアルペジオ
- 両手のアルペジオ 以上1999/5/17 連載第6回
- ターン…ドレドシドー
- 転回ターン…シドレドー 以上1999/5/24 連載第7回
- スライド…ミレドー
- まとめ 以上1999/5/24 連載第8回(最終回)
- 参考文献 2004/6/21 (追記)
ショパンの装飾音関連ページ
ショパンの演奏はとかく難しいと言われます。また、名演と思えるものが少ないという意見もよく聞かれます。
そこで、ここでは効果が分かりやすい装飾音の演奏方法の改善に的を絞って説明したいと考えております。
具体的には、「装飾音は原則、拍の頭に合わせて奏すること」を実践することです。これにより、ショパンの演奏を無理のない自然なリズムと音楽性で実現することが可能となります。その副次的効果として、装飾音を含むパッセージが技術的に楽にもなります。
もちろん、例外も存在します。装飾音を先取りする「例外」にも注目していきます。
パデレフスキ版のショパンの楽譜には「装飾音は原則、拍の頭に合わせて奏すること」と注釈があります(下図参照)。また、ウィーン原典版の楽譜にはショパン自身が弟子達の楽譜に書き込んだ装飾音の弾き方の指示が多く紹介されており、やはりここでも「拍の頭に合わせて奏する」ことが強調されています。
しかし、これらにはどうしてそのように弾く必要があるのか理由が書いてありません。この連載では、歴史・ショパンの表現したい音楽・ピアノという楽器・楽譜としての視覚効果などの観点で、装飾音を拍の頭に合わせて奏した方がよい理由を考えていきたいと思います。
蛇足ですが、多分この連載を読むとアシュケナージのショパン演奏は聴けなくなると思います。装飾音の扱いが、ほとんど全て誤っているからです。彼のリズム感が悪く聞こえるのはこのせいだと思います。そしてルービンシュタインは非常にうまくごまかしており、コルトーに至っては別次元の調和を生み出していると感じられることでしょう。
さて、ショパンに初めて接した人は装飾音をどのように弾くでしょうか。例えば前打音は見た目通りに弾くと、主要音の前にくっついている小さな音符を拍の前に弾き始め、主要音を拍の頭に合わせて弾くことになるでしょう。しかし、ショパンは本当にそれを意図して書いたのでしょうか?
ショパンの記譜法がそれ以前の作曲家の影響を受けていることに間違いありません。そこで、ショパン以前で装飾音を多用した作曲家としてバッハとモーツアルトを考慮してみましょう。これらの作曲家の作品で装飾音はどう弾かれているでしょうか?ほとんどが拍と同時に弾き始められていることが分かるでしょう。それは多くの楽譜の演奏ノート、装飾音の奏法などの解説で説明されています。もちろん、ピアニスト達の演奏を聴いても皆拍の頭に合わせて弾いていることを確認でき、音楽的にも自然であることが認知できます。
したがって、これらの作曲家の影響を受けたショパンにおいても、装飾音を拍の頭に合わせて弾くことを意識して記譜した可能性が十分にあることが分かります。
それどころか拍の頭に合わせて弾かないと多くの場合ショパンの音楽が壊れてしまいます。次回は音楽そのものの観点で、装飾音の弾き方を吟味していきたいと思います。
以上 1999/4/23 ショパンの装飾音連載第1回
短いトリル(ドレド)は楽譜上、tr とか、"w"に毛の生えたような記号("m"にも見える)で書き表されているものと、小さな音符で「ドレド」と書かれているもの、そして、実際の音の長さ(3連符等)で書き下されているものの4種類あります。バッハの場合は"tr"や"w"と書き表されている音符は例外なく高い音からトリルが始められています。しかし、ショパンでは実際に書き下されているトリルを見ると下から開始するのを意図していることが分かります。したがって、バッハの時代の言葉では「転回モルデント」か「プラルトリラー」の方が相応しいかもしれません。
音楽的な効果としては大きく分けて次の2つの傾向を感じるとることが出来ます。
- テンポが速い場合→それが付いている音を強調したり、生き生きとさせる効果がある
- テンポが遅く弱音の場合→主要音(ドレドの「ド」)の打撃を和らげる効果がある
そんな勝手な定義をしないでくれとか、あるいはどうして一般的にそう感じるのか疑問に思われる人もいるでしょう。それらについては最近出版された大蔵康義著「音と音楽の基礎知識」(国書刊行会)の第3章「音の認知と音楽構造」が参考になると思います。この連載も基本的にはこの著書を出発点としています。
原則拍の頭と同時に開始されます。これらのトリルが現れる次の音はほぼ例外なく下降しています。つまり「レミレド」のように。音楽的には打撃を和らげるとともに、次の音へ寄りかかるという性質があります。トリルを先取りしてしまうとその作用が失われてしまいます。また、トリルの3つ目の音(レミレド)にアクセントを付けるようなことがあったとしたらナンセンスとしか言いようがないでしょう。この様なトリルの例は無数にあります。
- ノクターン第2番Op.9-2第5小節
このトリルを先取りするようだとリズムは崩れるし、鋭さが生まれてしまいます。
- ワルツ第4番Op.34-3第50小節以降
第2主題が現れる比較的穏やかな部分、2拍目のトリルを拍の頭に合わせて弾くことによって、2拍目にルバートがかかるウィンナワルツ独特のリズム感を得ることすら出来てしまいます。しかし、後で述べる理由から先取りの可能性もあります。
-
小犬のワルツOp.64-1第10小節
先取りするとしたら技術的に大きな困難が伴うでしょう。
- ワルツ第2番Op.34-1第9小節
6度の和音で進行しているところ。ここも拍の頭と合わせて弾きます。すなわち、下声部のミと同時に上声のトリルを開始するのです。このようにすると独特の柔らかさが生まれます。
もちろん、主要音を強調する働きもあります。例としてはワルツ第2番Op.34-1第32小節以降があげられます。ここはテンポが速く「強調する」トリルの例です。しかし、これも拍の頭に合わせてトリルは開始され、アクセントも最初の音に付されます。その方が自然に次の音(下降しています)にうまく繋がりますし、技術的にも自然で慌てることもなく正しいリズムが刻めます。また、同曲のコーダのトリル(ミファミ、レファレなど)は全て3連符で書き下されています。もちろん拍の頭から開始することが明示されており、ショパンのトリルの扱い方の参考になるでしょう。こういう例は多くの曲で見られます。
トリル(tr,w)を先取りしても良さそうな例があります。例えば即興曲第1番Op.29の最初のトリル。これはアクセント記号が付いている主要音を強調するトリルです。多分数々の演奏のすり込みも関係するかもしれませんが、トリルを先取りして弾いたとしても音楽が崩れる印象は持ちません。また、ノクターンのOp.72-1第32小節以降やワルツ第4番Op.34-3第50小節以降も先取り可能なトリルが見られます。これらのトリルに共通しているのはトリルのすぐ前に打撃音が無いことです。つまり休符か持続音の後のトリルということになります。同じ様な例として、ワルツ第3番Op.34-2第37小節等のトリルも先取りできると考えられるでしょう。しかし、この作品についてはよりシビアに取り扱う必要があります。恐らく別の意味でショパンは先取りを禁止していると私は考えます。それについては次回…。
以上 1999/4/25 ショパンの装飾音連載第2回 4/27修正
バッハの時代では「転回モルデント」として記譜された記号。もちろん拍の頭から開始された装飾音でした。ショパンの作品においても、音楽的には原則拍の頭に合わせて開始しても問題はないでしょう。しかし、ショパンはそのように意図したのでしょうか?楽譜を細かく分析すると、ショパンは小さい音符で書き下したトリルを"tr", "w"などと区別して記入したように見えてきます。そしてそう仮定したならば原則先取りして弾くことを意図して記譜したと考えることが出来ます。いくつかの証拠を以下に挙げてみます。
先取りを意識した記譜
- ノクターン第11番Op.37-1第6小節
2拍目のトリルには3音目にアクセント記号が付いています。間違いなくその第3音が拍に合わせて弾かれることを意図しています。つまり装飾音は拍の前に先取りして弾きなさいということです。
- ノクターン第10番Op.32-2
第27小節の書き下されたトリルはそこでスラーが切れています。つまり、これまでのトリルのように次の音に繋がるのではなく、その音で完結しているのです。第28小節の最初のトリルも同じく。これらは、非常に素早く奏されるか、先取りして弾くとスラーの切れがうまく表現されます。対照的に、第29小節からの"w"トリルは滑らかに次に繋がるものでスラーも連続しています。もちろん先取りはされません。そして、解釈が難しいのは第27小節と対応した第39小節最初の"w"トリル。同じく第32小節に対応した第44小節のトリル。スラーは切れいていますが"w"記号です。ここと前の先取りトリルの部分との違いは低音部が分厚くなっていることです。この重圧な雰囲気をサポートするためには右手のトリルは先取りする慌てた感じより、堂々と拍に合わせて開始された方がふさわしいです。
"tr", "w"と意識的に区別して書かれた記譜
-
ワルツ第3番Op.34-2
第37小節~第52小節の"w"と第53小節~第80小節の書き下しトリルは明確に区別されている。同じ区別は後半の再現部でも全く同じように現れます。ショパンはトリルの弾き方に何らかの変化を与えたかったのかもしれません。しかも、これらのトリルは先取りしても音楽的に問題ない位置に書かれています。つまり、"w"は拍に合わせて、小さな音符のトリルは先取りしてという変化を付けた奏法を行うという解釈は決して間違いではないでしょう。
- ワルツ第11番Op.70-1(posth)
この例ではより近接していて、第0小節と第1小節にそれぞれの記譜法でトリルが現れています。そして、小さな音符のトリルはやはり上と同じ理由で先取り可能な位置にあります。
- マズルカOp.17-4
第23小節と第95小節。互いに全く同じ音型の小節ですがトリルの記譜法だけが区別されています。
実は第47小節も似ているのですが、ここは右手2音目が16分音符となって第23小節との変化が見られます。これをふまえると第95小節はトリルで変化を付けようとしていたと考えることが出来ます。したがって、第95小節のトリルは先取りして弾くことを意図していたのかもしれません。
単独で記譜されたもので先取りの可能性が高いもの
- ノクターン第12番Op.37-2
3-1で述べました即興曲第1番との類似、トリルの前に音がないもの。
- 前奏曲Op.28-3第17小節
長い持続音の後にトリルが現れます。非常に早い箇所で先取りしないと技術的に困難でもあります。
番外:「レミレ・ド」の最初の3音(レミレ)が小さい音符で書き下されているトリル
これは明らかに前の拍に合わせて開始されるトリルで先取りして弾かれます。
- ノクターン第11番Op.37-1第15小節
- 前奏曲Op.28-21第6小節
逆に一般的なトリルと同様に、先取りして欲しくない箇所も多くあります。
-
バラード第1番Op.23第113小節
- ノクターン第10番Op.32-2第25小節
これらは隣接のトリルを含む類似音型を見ても3連符で書き下されていたり、"w"記号で書かれていたりします。先取りする大きな利点も見あたりません。拍の頭で開始した方が自然でしょう。ただ、ノクターン第10番の第73小節と第74小節の違いは大変有意義です。Lentoへ向けてテンポが落ちていくのに対応してトリルも緩やかになっています。(4/28追記)
ショパンの装飾音は原則拍の頭と同時に開始されます。しかし、このトリルは先取りした奏法も常に意識する必要があると考えます。原則とは外れますが、それが音楽的な変化やリズムの安定を生むとしたら勇気を持って導入すべきです。
トリル記譜法の書き分け…ショパンのこだわりか、それともただの気まぐれか…どちらの可能性も否定できません。
以上 1999/4/27 ショパンの装飾音連載第3回 4/28修正
長いトリルは通常"tr----"で表されます。前打音が付いているものと付いてないものの2つに分けて注意すべき点をあげてみます。
この前打音によってトリルの開始音を指定しています。前打音に主要音と同じ高さの音が指定されていても、決して「ド・ドレドレドレ…」と弾いてはなりません。ショパンは「レドレド…」と弾いて欲しくない、「ドレドレドレ…」と弾くことを意図していたのです。それは当時前打音が拍と同時に開始されるが常識であったからこそ生まれた記譜法なのです。前打音については後の章で改めて詳解します。前打音付のトリルの例はこちら…。
- ノクターン第17番Op.62-1第67小節~第75小節
トリルにより旋律が形作られています。
- 舟歌Op.60 3度のトリル
いくつかの箇所で上の音から開始することが規定されています。
- ポロネーズ第6番Op.53「英雄」第33, 34小節など
第1主題がオクターブで現れるところ、非常に多くのピアニストがEsを連打してからトリルに入ります。それはほとんどの版が「ミミファ…」と開始させるような指使い「3-23...」を指定しているので仕方ないのかもしれません。しかし、ショパンの意図したのは、ここも例外ではなく、前打音=トリルの開始音だったと推測されます。つまり、「ミファ[ミファ]ミレミラ」ですね。パデレフスキ版をみると正しい弾き方を誘発する「1-32...」という指使いになっています。さすがです。(追記:1999/5/24)
前打音が複数で構成されている場合があります。そのうち最も代表的なものが下から出だしの付いたトリルです。バッハでは"cw"のようにwに長い巻き髭が付いたような記号が使われていました。ショパンはそれをご丁寧に「シド[レ]・ドレドレ…」と書き下して記譜しました(右図:バラード第3番Op.47)。
これが逆にショパンの時代でさえも誤解を生んだのか、ショパンはしばしば弟子の楽譜にトリルの開始音を拍と合わせるように書き込みを入れました。したがってこの「シドレ」も先取りは許されません。音楽的作用としてはトリルの入りをぼやかすために意図されたものと考えられます。
-
ノクターン第16番Op.55-2第1小節
下からのトリルで旋律が開始される印象的な出だし。右手のハ音と左手の変ロ音は同時に奏されます。もちろん、見た目通りに「ドレレミレミ…」と弾いてはなりません。「ドレミレミレ…」が正解です。
- バラード第2番Op.38 Agitato(コーダ)に入る4小節前
左手に現れるffのトリル。右手と不協和ですが構わずぶちかます(同時に開始する)ことによって強烈な印象が生まれます。
先取りするかしないかの議論とはそれますが…長いトリルにおいて、開始音の指定のない場合、主要音と補助音のどちらから開始するか悩むところです。
バッハの長いトリルはほとんどが補助音(上の音)から開始されていました。様々な文献がそれを示しています。そして、ショパンも同様に、補助音から開始されていたと考えられる証拠がいくつか記譜に残っています。
- ノクターン第17番Op.62-1第67小節~第75小節
- ポロネーズ第6番Op.53「英雄」第33, 34小節など
前節であげたばかりの箇所ですが、主要音から開始する必要がある場合は敢えて開始音を指定しています。ということは、これを裏返せば、ショパンにとって長いトリルは補助音から開始するのが普通だったと言えるでしょう。
- ノクターン第16番Op.55-2第1小節
同じくあげたばかりの箇所。「ドレミレミレ…」と奏されるのですが、これも、前打音に「ドレミ」でなく「ドレ」が付いているのは、トリルが補助音から開始されるのが原則だったからと考えられます。
しかし、舟歌などでは補助音が開始音としてわざわざ指定されています。
さて、実際はどちらが正しいのでしょうか?私は開始音の指定のない長いトリルは、どんな場合も原則補助音から開始するのが妥当と考えます。音楽的には、ショパンのしおらしさがうまれるのではないでしょうか。ただ、主要音から開始されたとしてもそれほど問題はないと思います。
→ 弟子などの証言はショパン以外の装飾音を参照
以上 1999/4/28 ショパンの装飾音連載第4回 2000/4/3修正
前打音とは主要音に一音が装飾音として付加されたものです。その一音は単音あるいは重音、どちらの場合もあり得ます。前打音も大きく非常に短い前打音、普通の前打音、ベースの前打音の3つに分けられます。
これはワルツ第1番Op.18やワルツ第4番Op.34-3に出てくるような、一つ一つが非常に短い前打音で、拍の合わせて弾いているのかどうか判別付かないくらいにして弾くものです。したがって、拍の前に弾くか拍の頭に合わせて開始するかという議論とは無関係に、素早く奏することが大切です。
旋律線に現れる通常の長さの前打音です。音楽的には主要音に入るのをためらう作用があります。これはルバートの効果と酷似しています。したがってこの前打音は原則拍と同時に開始され、主要音は拍からやや遅れて奏されます。前打音の作用と演奏法をわかりやすく示しているのがノクターンの最高傑作第8番Op.27-2です。
ノクターン第8番Op.27-2
- 第12小節4拍目
もし、この前打音を拍の前に弾くとしたらどのような効果があるのでしょう。そのとき、「レレファ」と「レ」が32分音符で2つ繋がります。周りを見渡してもそのようなリズムは異色であるし、旋律に鋭さが生まれてしまいます。前打音を拍と同時に開始するなら、主要音「ファ」へ柔らかく入ることが出来ます。これは特にこのノクターンの甘い旋律にマッチします(ウィーン原典版では実際にショパンによってこの前打音は左手の4拍目の音と同時に奏するよう指示したことが書き込まれています)。同じ小節の5拍目の前打音「ファ」も全く同じことが言えます。これは左手のAおよび右手のCと同時に奏されます。
- 第16小節4拍目
第12小節と同様。特に5拍目は前打音ではなくトリルになっています。このトリルも拍と同時に開始しないと、直前の32分音符付近が非常に慌てることになります。ショパンはそんなことを意図して記譜はしていないでしょう。
- 第20小節第6拍目
5度の跳躍をためらって入り、突飛さを和らげる作用があります。もちろん前打音を第6拍目と同時に奏されなければその効果が出ません。
- 第33小節第4拍目
こちらは3度の跳躍ですが、やはり柔らかく移るために前打音が置かれています。そしてこれはショパンが拍と同時に弾くように指示しています。
- 第65小節以降(先取りできる例外)
10度の跳躍を伴う前打音が連続します。こちらは主要音に柔らかくはいるためというより、純粋に装飾しているだけの前打音と考えられます。したがって、先取りしたとしてもそれほど問題はないでしょう。
その他の例もいくつかご紹介します。
ノクターン第9番Op.32-1
- 第28小節と第30小節の比較
第28小節はターンの前に前打音としての音が置かれています(「シ・シドシラシレ」のシが前打音)。それはショパン自身によって拍と同時にそうするようにという指示が書き込まれています(ウィーン原典版)。一方第30小節ではターンの前の音が16分音符として明記されています。つまり、この2つの小節は「前打音は拍と同時に開始される」という前提をもとに弾き分けをすることを意図して記譜されているのです。
子守歌Op.57
- 第15小節~第18小節
全体が柔らかい音色で統一されている作品。前打音が頻発しているこの小節ではやはり拍と同時に開始することによって柔らかさが保たれ、前打音の中にある旋律線が拍と揃います。また第14小節の音型とのつながりも自然になります。
- 第27小節~第30小節
記譜上は装飾音ではありませんが、書き下された前打音と考えることが出来る4小節です。このように拍と同時に前打音を開始した方が曲想に合うことを示している箇所です。したがって続く第31小節の前打音は拍と同時に開始されます。
舟歌Op.60
和音を伴った前打音の例です。(追記:2004/6/21)
主に左手に現れる、同時に奏せないベース音を鳴らすための前打音です。これは先取りして、主要音を拍(特に右手)と合わせなければバランスが取れません。例としては、前奏曲第5番、第16番の各最終小節、ノクターン第4番Op.15-1の第33小節、第45小節などいろいろあります。
その他先取りする例外的前打音
雨だれの前奏曲Op.24-15
- 第4小節
4拍目の前打音は3拍目のDからスラーが続いています(全音)。恐らく先取りを意図して記譜されているのでしょう。
ノクターン第11番Op.37-1
- 第5小節
2拍目、装飾音(アルペジオ)に更に付随した前打音。これは先取り可能です。ところが、ウィーン原典版などではショパンがその前打音すら拍と同時に開始するように指示を与えていたと補助線が記譜されています。これは、ノクターンの第15番第47小節なども同じです。ショパンの意図に忠実に弾くなら先取りせず拍と同時に開始することになります。
- 第14小節
2拍目複前打音(後述)に更に付随した前打音。先取りを明示するために複前打音と分けて記述していると考えられます。その方が音楽的に無理がありません。しかし、ショパンはその前打音も含めて拍と同時に開始することを意図していたのかもしれません。
ノクターンホ短調(遺作)
- 第30小節
1拍目、前打音の一つ目は小節線の前、すなわち先取りして奏されます。一方二つ目は小節内に書かれており、拍に合わせて弾かれます。同じ例はポロネーズ第5番の中間部第186, 188小節にもあります。(追記:1999/5/24)
- 第48小節
主要音と同じ3度の和音の前打音。これも小節線の前に記譜されています。前打音によってためらい感を出すのではなく、前の音とのつながりを示すものとして用意したと考えられます。したがって、ショパンは先取りして弾くように明示したのでしょう。
このように前打音が主要音と同じ音である場合は先取りできることが多いようです。
以上 1999/5/4 ショパンの装飾音連載第5回 5/24修正
複前打音とは主要音に二音が装飾音として付加されたものです。ドが主要音とすれば「シレド」となります。前打音やトリルより装飾音としての作用は大きく、印象的です。主要音へ到達するまでの迷いやより大きなためらいを感じさせます。複前打音については原則拍と同時に開始するのが良いでしょう。正しい効果が得られます。
複前打音の例
- ノクターン第9番Op.32-1第5,17小節
- マズルカ第24番Op.33-3第32小節
6度の和音の複前打音です。
- ポローネーズ第5番Op.44中間部(マズルカのテンポで)
様々な複前打音があります。特に第218小節は3度、第216小節は8度の和音の複前打音が見られます。(追記:1999/5/24)
- 舟歌Op.60第111小節
左手の複前打音。これは拍と同時に始めて右手の音型に埋もれさせるより、先取りして目立たせたようがよいかもしれません。(追記:1999/5/24)
アルペジオはご存じの通り和音を崩して弾く奏法です。ショパンは和音に波線を追加するか、実際に装飾音として小さい音符で表す2通りで記譜しています。アルペジオを拍と合わせて弾くか先取りして弾くかによって非常に印象が変わります。以下3つの場合に分けて分析してみます。
ほぼ例外なくアルペジオの最初の音を拍の頭と揃えて開始します。その理由の一つはアルペジオの最終音を拍の頭に合わせると必然的に急いだ印象になります。ショパンは多くの場合和音を柔らかく奏したいときにアルペジオの指示を与えます。そうでない場合のほとんどは指が届かない幅広い和音を奏するためのものです。したがって、開始音を拍の頭に合わせて落ち着いて弾くことが肝要です。もう一つの大きな理由は響きです。特に幅広い和音を弾くとき先取りした弾き方にすると最初に奏した音などがうまくペダルに乗らないことがあります。それは開始音を拍に合わせるだけで簡単に解決できます。
逆にいうと前打音では拍と同時に開始することによってペダルを下手に使えば音が濁ることにご注意を。
その他これまでの装飾音でも述べてきたことですが、開始音を拍と合わせることで必然的に最終音(多くの場合旋律線でもあります)が遅れることになり、これが自然なルバート感を産みます。さて、各曲をみてみましょう。
右手のアルペジオの例
- ノクターン第2番Op.9-2第13小節
第1主題に戻るところでは開始音にアルペジオ音型の装飾音が付きます。多くの版で指示が有るとおりアルペジオ開始音Gは左手のEsと同時に弾かれます。そうすることによって主題への戻りが柔らかくなり、続くより装飾的な(ピアノの音とは思えない)音型への橋渡しの役目も果たしています。このアルペジオを先取りしてしまうとG音が鋭くなってしまい、辺り一帯の雰囲気をぶちこわしてしまいます。
- ピアノ・ソナタ第2番Op.35第3小節
非常に印象的な出だし。まず最初のたった2小節で絶望の淵に落とされます。そしてその後のこれまたたったの2小節で地の底からはい上がろうという強い意志を表明しています。しかしそれは第3,4楽章で無駄な努力となってしまう…それはさておき、この第3小節目の重たいアルペジオは最初のDes音を左手の重低音Fと同時に弾かなければならない。これによって地の底から手を挙げて這い出す意志を表現することが出来ます。また、響き(ペダリング)の面でも自然に処理できるのではないでしょうか。その響きについてはつづく第40小節や第45小節のような指が届きにくい10度以上の音程の和音でより大きな効果が現れます。これらのアルペジオを先取りして弾いてしまうと、ペダルをうまく処理しないと響きが楽譜通りに残らない可能性があります。sostenutoの柔らかい響きを出すという点でも拍に合わせて開始するというのが効果的です。焦らず落ち着いて弾けますからね。
- ノクターン第11番Op.37-1第5,6小節等
ショパン自身による「拍に合わせて」という指示がたくさん書き込まれています。
- バラード第3番Op.47第118小節等
巨大なアルペジオが連発するこの作品、いくら巨大でも装飾音は装飾音。やはりショパンにより左手に合わせて開始するようにとの指示が書き込まれています。これらの装飾音はその前後の音の橋渡しとしての作用があります。
- ノクターン第17番Op.62-1第7-9小節
柔らかさを示すアルペジオが至るところにあります。下図のように演奏すると、効果的です。(追記:2004/6/21)
とにもかくにも右手のアルペジオは拍に合わせて開始するのが百利あって一害無し!?、お勧めできます。
ベース音的役目のある場合のアルペジオということになりますが、この場合は先取りするのが良さそうです。もし、左手アルペジオを先取りせず、拍に合わせてしまうと、必然的にそのアルペジオの後に現れるであろう右手が遅れてしまいます。装飾音がない右手を勝手に遅らせてしまうのは罪です。まず、右手は拍に合っていなければならないと考えて良いでしょう。それを考えると左手を先取りするのが必然的になってきます。しかし、ここでも例外があります。左手が忙しくて先取りを完全にしている暇がない場合です。これは、例えば2音目と右手を同時に弾いたりしてごまかすことが出来ます。聴いた感じはほとんど違いは分からないでしょう。
両手ともにアルペジオ記号が付いている和音を指します。この両手のアルペジオ記号、連なっている場合と切れている場合の2種類あります。
どちらの場合にも言えそうなのですが、先取りするかしないか、すべてケース・バイ・ケースといって逃げておきます(^^;。響かせ方、旋律の間の取り方、アルペジオの速さ、それらが複雑に絡み合ってきますのでこれという原則が見出せません。
両手のアルペジオの例
- 練習曲Op.10-11
両手のアルペジオの練習曲。左手と右手の開始音を拍に合わせ、弾き終わるのも合わせるのが練習曲のテンポを守るためには最もしっくりくるでしょう。
- 幻想即興曲最後
最後の2つの和音は左手から右手へと連続的に駆け上がっていくのが良いでしょう。
- ノクターン第13番Op.48-1第25小節以降
最もややこしいアルペジオが連続するところ。両手連続のアルペジオでは左手の開始音を拍に合わせるのが良いでしょう。アルペジオが切れている場合もやはり左手を拍と同時に開始して、しかし、右手のアルペジオの開始は左手のアルペジオが終わると同時かそれ以前に弾き始めるのがベターかもしれません(私の好みかもしれませんが)。
もちろん、左手だけのアルペジオの部分では先取りして右手の和音を拍に合わせるのが自然なリズムを生み出します。
この最後の例は実に深いです。何度弾いてもなっかなかうまくいきませんから…(^^;。
以上 1999/5/17 ショパンの装飾音連載第6回
ターンとは主要音を中心として上がって下がってまた戻るという装飾音です…と言っても分かりにくいですね。具体的には主要音をドとすると「ドレドシド」という風に主要音にまとわりつくように行ったり来たりするものを言います。ショパンは実際の長さと音程で書き下している場合、小さな音符で記述する場合、そして、"S"を(裏返して)90度傾けた記号を使う場合があります。どの場合もほとんどはターンの後、高い音程に跳躍しています。音楽的にはためらい混じりに突飛な跳躍を緩和するという効果があります。ターンについては拍に合わせるか先取りするかは問題ではありません。楽譜を見たとおりに弾けば良く、現在でも正しく演奏されています。それよりも重要なのは他の装飾音と組み合わされた場合です。では例を見ていきましょう。
ターンの例
- ノクターン第2番Op.9-2第2小節
単独で使用されるターン。拍と同時に開始されます。ターンの後は8度の跳躍があります。
- ノクターン第10番Op.32-2第9小節
実際の音符で書き下されたターン。ターンの直後に前打音があります。この直後の前打音は常にターンの最終音と同じ音が使われます。しかし、これは先取りしてはなりません。6度の跳躍をためらいつつ粘っこく移動する部分です。したがって、この前打音は拍と同時に開始し、後に続く主要音を遅らせて弾きます。同じ例はノクターン第11番第10小節などにも見られます。
- ノクターン第14番Op.48-2第41, 103小節
直後の前打音もまとめてターンと一緒にくくられています。こちらは8度の跳躍をしやすくするために黒鍵に親指を用意するためにあてがわれた音と解釈することも出来ます。したがって、先取りしても良いでしょう。
転回ターンとは、主要音の下の音から2音上がって主要音に戻るというもの(下図:Op.55-2参照)。具体的には、「シドレド」(ド=主要音)という形の装飾音です。前後を見ると必ず「ド・シドレド…シ」というように、主要音→転回ターン→主要音→下降という流れが基本となっています。狭い音域を窮屈に動くため、切迫した緊張感を醸し出す効果があります。原則は拍に合わせて開始させますが例外もあります。
転回ターンの例
- ノクターン第11番Op.37-1第1小節、ノクターン第18番Op.67-2第13小節
どちらにも拍と合わせて開始せよと作曲者による指示があります(ウィーン原典版)。
- ノクターン第16番Op.55-2第30, 32, 33小節
指示はありませんが同じように拍と合わせて開始されます。非常に美しい効果がありますね。
- ワルツ第12番Op.70-2(遺作)第4, 20小節等
簡素なメロディーの中で一際印象的な装飾音となっています。特にクライマックスの第20小節で用いられている転回ターンは、感傷的なこの作品の正確を特徴付ける重要な役割を果たしています。どちらの小節も先取りした場合とそうでない場合にひどく印象が変わってしまうことを感ずることが出来るでしょう。もちろん、正解は拍に合わせて開始するであります。(追記:1999/5/26)
- 幻想ポロネーズOp.61第102小節
5連符に続く転回ターン。主要音Esのスタッカートを生かそうと転回ターンを先取りしてしまうとあまりに忙しくなります。これも拍に合わせて開始し主要音を遅らせて弾いた方が安定しています。この部分、下声部が3連符であるのに対し上声部は通常の8分音符なので、スタッカートを明瞭に奏でるための時間も用意されております。
- 前奏曲第24番Op.28-24第7, 25小節等
主要音にアクセントが付いています。これを力強く出すためには転回ターンを先取りして弾いた方が効果があるかもしれません。
以上 1999/5/24 ショパンの装飾音連載第7回
スライドとは「ミレド」や「ラシド」(ドが主要音)のように、2つの連続する音階が主要音に付随するものを言います。ショパンの初期の作品でよく使われています。スライドの柔らかさを醸し出す効果を使うところなどでは拍と同時に開始されます。しかし、先取りを意図した方がリズムが自然に感じられることもあります。いくつか例を見てみましょう。
スライドの例
- 練習曲Op.10-3「別れの曲」第20, 21小節
前半の終結部。出版譜自体がとんでもない改竄を施されて印刷しているため、かつては様々な弾き方が乱立していました。しかし、最近は正しく統一されてきたようです。すなわち、スライド"gis-fis"は第21小節の最初に記譜され、続く和音"gis-e"に付随します。そして演奏は、スライドの一音目gisが和音の低いgisと同時に弾かれ、その後"fis→e"と流れます。このように、スライドを拍と同時に開始することによって、美しい歌が静かに柔らかくその役目をひとまず終える雰囲気が出ます。先取りするとスライドの柔らかな効果が半減してしまいます。
- アンダンテスピアナートと華麗なるポロネーズノOp.22第12, 20小節など
前述の例と同じ効果があります。この甘い雰囲気を醸し出すためのスライドは拍と同時に開始することで最大の効果を発揮します。
- ポロネーズOp.71-1, 2, 3(遺作), Op.26-1
これらショパンの若い頃の作品にスライドが様々な形で現れます。ほとんどが拍と同時に開始されますが、Op.71-2第17小節とその類似箇所は先取りしたほうが自然に聞こえます。
- ポロネーズ第1番Op.26-1
第53小節のスライドは、先取りすべきでしょう。拍に合わせて弾き始めると、主要音fにルバートがかかります。これはリズムが崩れる印象だけが目立ってしまい逆効果です。
- マズルカ第3番Op.6-3第6小節と第13番Op.17-4第62, 64小節
第3番に現れる全てのスライドは拍と同時に開始されます。しかし、使われ方が非常に似ている第13番第62, 64小節はどうでしょうか。右手にも同時に伴奏が付いています。第62小節は8分音符、続く第64小節は更に細かく8分音符の3連符となります。スライドを拍と同時に弾き始めるとたいへんに忙しくなってしまいます。安定したリズムを得るためには先取りするのが一つの解決策といえるかもしれません。
以上、代表的な装飾音に的を絞って演奏方法を考えてみました。簡単にまとめると以下のようになります。
- 例外なく拍と同時に開始するもの
長いトリル、短いトリル(記号で書かれたもの)、アルペジオ(右手)
- 原則拍と同時に開始するもの(先取りする例外有り)
短いトリル(小さな音符で書かれたもの)、前打音(主に右手)、複前打音、ターン、転回ターン、スライド
- 先取りして弾くもの
前打音(ベース、主に左手)、アルペジオ(左手)
- 不定
両手のアルペジオ
- 奏法に注意すべき装飾音
前打音付き長いトリル
もちろん、これらはショパンの扱った装飾音の一部でしかありません。まだまだ、分析してみたい興味深いサンプルはいくつもありますが、そろそろファイルサイズも大きくなってきましたので、このあたりで一段落させていただきます。より有用な例などが有れば適宜追加・修正していきたいと思っております(今回も「長いトリル」の項に「英雄ポロネーズ」を加えたところです)。
最後に、なぜショパンは装飾音を曖昧に見えるよう小さい音符や記号で記述したのか、理由を考えてみました。一つは、最初にも述べましたが、ショパン以前の作曲家の記譜法に従ったということです。その効用としては、楽譜を必要以上にうるさくしない、主要な音と副次的な音を見た目で区別できるようにしたなどがあります。もう一つは記譜が難しいルバートとの関わりです。拍に合わせて弾かれる装飾音の後に続く主要音は自然にルバートが付きます。もし、装飾音を的確に書き下して記譜していたなら、ルバートが堅苦しくなる可能性があります。そのため、曖昧な記譜法をとったとも考えられます。
装飾音は決してオマケではありません。それは装飾音抜きで弾いてみればすぐに分かります。全く音楽にならないものすらあります。ピアノでピアノらしくない音楽…すなわち、弦楽器や肉声で実現されていた人間的な音楽をいかにうまく表すか。ショパンは装飾音を本質的に利用することによってそれを実現し、ピアノ音楽に新しい可能性を与えてくれました。
ショパン没後150周年の今年はショパンに取り組む方がいつもより多いのではないでしょうか。もう、半年近く経ってしまいましたが、そういう方々に少しでもお役に立てたらと思って筆を執りました。私自身も非常に勉強になりました。長らくの連載にお付き合いいただきありがとうございました。
1999/5/26 ショパンの装飾音連載第8回(最終回)
- ショパンのピアニスム 加藤一郎著 音楽之友社
- 2004年2月出版。この連載当時にはなかったものです。ショパンのピアニズムに関して総合的に紹介されています。多数の自筆譜およびレッスン譜が引用されており、現存の邦書の中では最も信頼のおける充実した内容のショパン本です。第4章「装飾法」に、ここで解説した考え方と類似した内容があります。
2004/6/21 ショパンの装飾音(追記)