どこにあるのかもわからなくなってしまった大航海時代の遺物

フランス領インドの商館区

旧フランス領

 
1664年 フランス東インド会社が設 立
1668年 スラートに商館を設置
1686年 バラソールに商館 を設置
1721年 マチュリパタムとカリカットに商館を設置
1722年 ダッカに商館を設置
1727年 カッシムバザールとパトナに商館を設置
1735年 ジョーグディアに商館を設置
1757~1816年 イギリスが数回にわたって各商館を占拠
1947年8月15日 インドがイギリスから独立

1947年10月6日 フランスが各商館区をインドへ割譲し て消滅


  
黒=フランス領インドの植民地、 赤 =フランスの商館区(1)、緑=フランスの商館区(2)と(3)ほか


マスリパタムの商館区の絵 1676年
マ スリパタムの商館区跡(バンダル・コタ)の衛星写真 (Google map)
マスリパタムの商館区跡の写真
スラートのオランダ商館区の絵 1629年

インドのフランス植民地は、ポンディシェリ、シャンデルナゴル、ヤナム、マヘ、カリカルと、飛び地だらけでわけがわからない状態だった が、1947年のインド独立までさらに治外法権の商館区という、「長崎の出島」のような一角 をあちこちに持っていた。

商館はフランス東インド会社が建てたもの。帆船が主役の時代、ア ジアとヨーロッパを結ぶ船は、貿易風を利用して1年に1往復しかできなかった。商館の役目は、船が出港してから1年間の間に、ヨー ロッパから運んできた商品を売りさばき、翌年の船に積む商品を購入して保管しておくこと。だから商館員は1年間現地に留まらなければならず、砦のような敷 地の中に、商館の事務所や倉庫、宿舎のほか、商館員が自活するための畑や牧場もあった。これは長崎の出島も似たような構造だった。

ポンディシェリやヤナムなどのフランス植民地も、当初は商館の敷地だけだったが、やがて戦乱で地元の王がフランスの援軍を頼るようにな り、その見返 りとして周囲の土地がフランスへ割譲された結果、拡大していったが、一方で地元の王から援軍を期待されなかった商館は、商館の敷地だけのままで残ったと いうこと。

そういえば、日本でもポルトガルやイギリス、オランダが平戸や長崎に商館を建てていたが、時あたかも戦国時代。ポルトガル船の援軍で龍 造寺軍を撃退した大村純忠は1580年に長崎の町と茂木村をイエズス会に領地として寄進してしまい、イエズ ス会領ナガサキが 生まれた(84年には有馬晴信も浦上をイエズス会に寄進して領地を拡大)。イエズス会領はバテレン追放を始めた豊臣秀吉によって88年に没収されたが、も し秀吉がそのまま放置していたら、イエズス会領はやがてポルトガル領になってさらに拡大し、インドにあったフランス、ポルトガルの植民地やマカオのよう な、ポルトガル領西キューシューが誕生していたかも知れない。

フランスの商館区が集中していたのは、インド東部のガンジス川流域で、ベンガル地方(現在の西ベンガル州やバングラデシュ)やその上流 のビハール州など。ガンジス川流域はインド有数の穀倉地帯という豊かな場所で、ここで産出される絹や綿、黄麻、砂糖などをヨーロッパへ輸出するために、沿 岸には17世紀から18世紀にかけてポルトガルやオランダ、イギリス、そしてデンマークまで競って商館を設置した。なかでもガンジス川に積極的に進出した のがフランスだった。

さて1757年、ベンガル太守+フランス東インド会社の連合軍が、プラッシーの戦いでイギリス東インド会社に敗北するなど、18世紀後半 から19世紀初めにかけて、フランスの商館区はポンディシェリーなど の植民地とともに、イギリスによって繰り返し占領されて衰退した。

1815年の第二次パリ条約でフランスは1790年時点の領土を回復することになり、こ れらの商館区はイギリスから返還されたが、フランス東インド会社は1767年に財政難ですでに解散した後。汽船の時代になるとヨーロッパまで1年を通じて 随 時往復できるようになったので、商館の役目はほとんどなくなり、荒れ果てた建物をフランスは再建しようとせず、商館区は名ばかりの存在になった(※)。

※一方で、オランダやデンマークの商館区も18世紀末から19 世紀初めにかけてイギリスに次々と占領され、1815年から17年にかけていくつかの商館を返還してもらったが、オランダは1825年にイギリスへ割譲し て撤退。デンマークも1845年に商館を、1868年にはニコバル諸島をイギリスへ売却してインドから撤退した。

フランスの商館区があったのは、以下の各都市の一角だった。

(1)複数の建物からなる一角があった場所
・マスリパタム(またはバンダルとも。現マチュリパトラム アンドラ・プラデーシュ州)
・カリカット(現コジコデ ケララ州)
・スーラト(クジャラート州、飛び地あり)
・バラソール(オリッサ州)
・カッシムバザール(西ベンガル州 5ヵ所の飛び地あり)
・パトナ(ビハール州)
・ダッカ(バングラデシュ、飛び地あり)
・ジョードジア(現在は水没 バングラデシュ)

(2)建物が1つだけだった場所
・ゴアルパラ(アッサム州)
・チッタゴン(バングラデシュ)
・シルヘト(バングラデシュ)

(3)建物がなくなっていた場所
・Goorpordha(オリッサ州)
・Boincha(西ベンガル州)
・Giieyquj(西ベンガル州
・Serempour ( 西ベンガル州)
・Chapra (またはChhapra。ビハール州)
・Sorguia(ビハール州)
・Begomsara(ビハール州)
・Ponnareck(ビハール州)
・Sorguia(ビハール州)
・Fatoua(ビハール州)

他にも、Frencepett、Boro、Iskitipah島、Kirpaye、Copour、Canicola、 Monepour、Sola、Malda、Goretty・・・などにも「商館区がある」ということになっていたらしい。

これらの商館区のうち、(1)と(2)を全部合わせても面積4平方km足らずで、約2000人の住民(ほとんどがインド人)が住んでい た。しかし、フランスが実質的に統治していたのは、ごく僅かな箇所に限られていたようだ。

1947年にポンディシェリのイギリス領事 が現地調査をしたところ、統治らしきものが実行されていたのは200人が住んでいたマスリパ タムで、町外れの一角(バンダル・コタ)に ヤナムの管轄下で知事から任命されたコンシェルジュ(管理人)が常駐し、商館にはフランス国旗が 翻り、警察署(といっても警官は1人か2人)も あって、事件が起きたら英仏どちらか現場に先に着いた警官が担当すると言う仕組み。カリカット マヘの管轄下でコンシェルジュが常駐し ていた。しかしフランスはマスリパタムやカリカットでは税を徴収しておらず、商館区は密輸の拠点になっていた。

スーラトはボンベイ(現ムンバイ)のフラ ンス領事館の管轄下となっているものの名目だけで、ダッカと ともに過去100年以上フランスが 統治した形跡はなく、30~40世帯が住むバラソールはイギリス側が賃借しており、さらにパトナの商館区はイギリス領事が現地で探したが見つからず ジョー ドジア海に没していたと報告している。

建物がとっくになくなっていた場所では、フランスもイギリスも具体的に商館区が果たして存在していたのかどうかもわからなくなったもの もあり、ヤナム近くにあったコタバリ川のIskitipah島で は、1930年代にフランスが領有権の確認を求めて常設国際司法裁判所へ提訴するという事件も起きた(※)。

※Iskitipah島は無人の砂州で、イ ギリス側が1940年に調査したところ、位置や面積は絶えず変動し、増水すれば水中に没するものだったらしい。

フランスがもはや何の利益もなくまったく統治する気のない商館区にこだわりを見せていたのは、わずかな領土でも失えば、他の領土も失う ことにつながりかねないと懸念したためだが、1947年8月にインドがイギリスから独立することが決まると、フランスは態度を一変して、ネルー首相に自ら 「商館区をすべてインドへ割譲したい」と申し出た。

フランスとしては実質的に名目だけの存在だった商館区を インドへ譲ることで、インドに恩を売り、ポン ディシェリなどの植民地を残そうという思惑だった。商館区に住んでいた住民にとっては、インド 領になればインド政府に税金を払わなければならなくなると反発する声も出て、バラソール住民の1人が「シャンデルナゴルの飛び地ということにして、フラ ンス領のまま残してほしい」と請願を出したりもしたが、フランス政府は相手にせず、「領土を割譲する場合は、その地域で住民投票を行うこと」という法律も 無視 してインド政府と交渉し、47年10月に商館区はインドへ割譲された。

しかし、そんな虫のいい思惑など結局は通じないもので、シャンデルナゴルでは住民投票の結果、97%の住民がインドへの併合に賛成し て、52年にインドへ行政権が移され、ポンディシェリーなど他の植民地でも54年にインド人によるガ ンジー精神の実力行動でフランスは植民地支配を断念せざるを得なくなったのでした。

ところで、インドがイギリスから独立する際、イスラム教徒が多かった地域はパキスタンとして分離独立したのだが、フランスの商館区は ダッカをはじめ東 パキスタン(現在のバングラデシュ)にも数ヵ所存在していた。しかしフランス政府はインド政府とだけ交渉して商館区を割譲したわけで、パキスタン 政府とは割譲についての交渉をまったくしなかった。となるとバングラデシュ 領内にある商館は法的には現在もフランス領のまま…だと 最近発見したフランスの学者がいるそうな。



17世紀のフーグリー(ベンガル地方)のオランダ商館区

●関連リンク

Serampore ・Frederiksnagore カルカッタとシャンデルナゴルの中間に1845年まであったデンマークの飛び地・セランブールについて(youtube)
Trankebar Tranquebar Tarangambadi 南インドにあったデンマーク東インド会社の植民地・トランケバルについて
India | Dutch heritage  インド各地にあったオランダ商館跡地の写真
東インド会社商館のあったインド都市調査 スーラトの旧ポルトガル商館などの見学記
平戸オランダ商館 インドの商館区もこんな感じだった?
 
 

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