イギリスの思惑でチベットに要衝を奪われたシッキム

チュンビ

旧シッキム領


1642年 シッキム建国。チュンビ渓谷一帯はシッキム領に
1888年 チベットがチュンビ渓谷を占領。チュンビはシッキムの飛び地となる

1959年 中国人民解放軍がチュンビを占領し、飛び地消滅
1975年5月16日 シッキムがインドに併合されて消滅

シッキムの地図
チュンビ渓谷(現在の亜東県)の地図  

下の地図の「パキス タン」は、現在のバングラデシュです。その理由はこ ちらを参照
シッ キムとはヒマラヤ山脈の麓、ネパールとブータンの間に存在していた小さな王国。チベットとの交易ルートの重要な場所にあったので、インドとチベット、さら にイギリスと中国との間で覇を競っていたが、結局1975年にインドに併合されて消滅してしまった。

そのシッキムが、チベットに有していた飛び地がチュンビ。もっともチュンビがあったのは、チベット領が舌のように南に張り出したチュンビ渓谷の一角で、も ともとは渓谷全体がシッキム領だった。

シッキムは17世紀にチベット人(ブディア人)が建てた国だ。日本の仏教 に天台宗や日蓮宗などいろいろな宗派があるように、チベット仏教にも多くの宗派があるが、政教一致のチベットでは宗教権力=政治権力だから、宗派間の抗争 は激しかった。既存のチベット仏教各宗派を堕落していると批判して台頭した新派(ゲルク派)の法王だったダライ・ラマが、モンゴルの介入でチベットの政権 を握ったのは1642年のことだが、同じ年に抗争に敗れた古派(ニンマ派)の3人の高僧がヒマラヤの南に逃げて来て、王を推戴したのがシッキム王国の始ま りだ(※)。
※同様に、ドゥクパ・カギュ派の法王が、ヒマラヤ山脈の南に逃れて建てた国がブー タン
シッキムの先住民はチベット系のレプチャ人で、チュンビ渓谷も彼らの居住地だった。チュンビにはレプチャ人の首領がいたが、13世紀にチベットからケ・ブ ムサという僧侶がやって来て、レプチャ人の首領に歓迎され、6年間チュンビに住まわせてもらっていたが、やがてケ・ブムサは首領を殺し、自らがチュンビの 首領に なってしまったとか。初代シッキム王はケ・ブムサの子孫だそうで、いわばチュンビはシッキム発祥の地とも言える。チュンビはシッキム国王の離宮兼僧院があ り、シッキムの夏の首都にもなっていた。

要衝の地であるシッキムは周辺諸国から狙われ続け、18世紀にはブータンとネパールに相次いで攻め込まれた。シッキム国王は1788年に宗教的には対立し ていたはずのチベットへ亡命して、ダライ・ラマに助けを求め、チベット軍がチュンビ渓谷に駐屯。シッキムは1793年から1817年までネパールに併合さ れてしまうが、シッキム国王はチベットの宗主国だった清朝の後ろ盾で国王としての地位を保ち続けた。

イギリス東インド会社とネパールとのグルカ戦争の結果、シッキムはイギリスの斡旋で1817年にネパールから領土を返してもらうが、イギリスはタダでシッ キムを助けたわけでなく、シッキムはイギリスの保護国にされたうえ、南部のダージリンを3万5000ルピーでイギリスに割譲するはめになった(※)

※イギリスがダージリンを欲しがったの は、インドに駐在していたイギリス人高官の避暑地にするため。クーラーが無い時代、イギリス人はインドの暑さに参ってしまい、避暑地の確保は不可欠だっ た。

これに激怒したのが、シッキムを属国とみなしていたチベットだった。1888年にチベット軍が再度チュンビ渓谷に出兵して占領してしまうが、1900年か ら04年にかけて鎖国状態だったチベットに日本人として初めて潜入した河口慧海が、その著書『チベット旅行記』でチベット軍によるチュンビ渓谷占領の事情 を明らかにしている。

――英領インド政府はその保護国なるシッキムとチベットとの国境を定めようという意向 であった。その時分にチベット政府が例のネーチュンなる神下し、気狂いのいう事を聞いてシッキムの国境へこれまでなかったところの城を一つ築い た。
  その城は英兵 のために破られてしまったけれども、今でも英領インドとチベットとの境のニャートンという所からほぼ二十マイル程手前の山の上に、その城址すなわち平地と 少しばかりの石垣が残って居るです。ネーチュンなる神下しが城を建てると自然国境が定まるというた時分に、さすがのチベット政府も少し躊躇したけれども、 その時分に神下しが「もし英国政府が攻めて来る憂いがあれば、おれの身体を持って行って城の所へ据えて置け。そうすれば決して彼らは寄付くことが 出来ない」と法螺を吹き立てたその勢いが余り強いものですから、チベット政府はその言を聴いて、自分の領地でないシッキムの範囲内へ城を築いたそうです。
  その地は今か ら見てもシッキムの版図内ということはよく分って居る。けだしチベット人はもちろんシッキムを占領する権利はないけれども、もとシッキムはチベットに服従 して居った国だから、英領インド政府が半分取ればこちらでも半分取る位の考えを起したかも知れぬ。無法にもシッキムの地域内に城を築いたものですから、英 国政府の方でも黙っては居らない。そのもんちゃくが持ち上って遂に今より十六、七年前にチベットと英国との合戦が起りまして、チベット人も大分傷つき、英 国兵もまた大分死傷があったようです。この時の合戦の実況を聞きますに、チベット人は大いに英兵を怖れて容易に近づかず、なるべく敵の視線を免れるように 身構えて発砲して居ったそうです。もっとも地の利は充分チベット人が占めて居ったのですけれども、元来怖気が付いて居るものですから充分働くことが出来な かった。加うるにその大将あるいは参謀官というような者は、一向戦争の評定をするでもなければなんでもない。とんと平気なもので博奕ばかりやって居たそう です。
  あるいは平気 を装うて居たのか実際呑気であったのか分らんが、一体チベット人は何か大事に臨むとごく度量が据って居るかのように横柄くさく構えて居る風が 誰にもあるようです。ああいうところを見ると全く大陸の人民であって、かれこれせせこましくしないようですけれどもその戦いには負けた。その結果英国 政府は国境を今のニャートンという所まで進めて、折合いを付けたです。もう一つ向うのチュンビー・サンバという所までは確かにシッキム領なんですけれど も、それだけは英政府も譲ったらしく見えるです。
(河口慧海 『チベット旅行 記(四)』 講談社 1978)

チュンビがシッキム(紫色)の飛び地になっている19世紀末の地図。クリックで拡大し ます
ようするに、チベット軍は戦闘ではイギリス軍に負けたにもかかわらず、イギリスはチベットがロシアと接近することを恐れて、シッキム領だったはずのチュン ビ渓谷のチベットによる占領を認めたようだ。一方でイギリスは、1904年に中国と結んだ条約で、チュンビ渓谷の中心地となった国境の町・ヤートン(亜 東)に通商代表部を設置して、英軍駐屯や領事裁判権など租界並みの権利を認めさせ、シッキム領(=イギリスの保護領)だった頃と同様の特権を享受できるよ うにした。チベットに恩を売って取り入りたい腹黒紳士ことイギリスの思惑で、シッキムは領土を失うことになったのだ(※)。

※この他イギリスは、チベットのギャンツェにも通商代表部 の設置や軍隊駐屯を認めさせたほか、ヤートン~ギャンツェ間の電信・郵便の開設や駅逓(街道沿いの宿泊所)の設置なども認めさせた。

シッキム国王の離宮があったチュンビは、そのままシッキムの飛び地として残されたようだが、1890年以降は離宮として使用できなくなり、実際にシッキム の統治がどこまで及んでいたかは怪しくなった。

さて戦後、1947年にインドがイギリスから独立すると、シッキムはイギリスに替わってインドの保護国となり、チベットでイギリスが持っていた特権なども インド政府が引き継いだ。そして1949年に中華人民共和国が成立し、51年に人民解放軍がチベットに進駐すると、中国とインドとの間でチベットでの特権 見直しについての交渉が始まった。

こうして54年に中国とインドとの間で協定が結ばれ、インド軍はヤートンやギャンツェから撤退し、イギリスが設置した電信・郵便・駅逓などは中国政府が買 収、ヤートンとギャンツェの通商代表部は存続を認めるが、敷地以外の土地は中国側へ返還することになった。しかしチュンビの飛び地の扱いについては不明。 59 年のチベット動乱でダライ・ラマがインドへ亡命すると、チュンビも本格的に人民解放軍の支配下に置かれ、当時のインドの新聞によれば、70世帯がシッキム へ逃げ出したという。

で、その後のシッキム王国の末路はというと…こ ちら

もう1つのシッキム領 の飛び地:ドブタ


ドプタで休息する隊商?らしき写真
チュンビ渓谷にはチュンビの他に、ドプタ(Dopta)というシッキム領の飛び地もあった。面積は150平方マイル(388・5平方キロ)で、場所は「ド リックの東、チブルンの西、レーの北、チンキーの南」だというが、どこだかさっぱり不明。シッキム国王の甥の土地で、シッキムの役人が常駐し、徴税や裁判 を行っていたそうな。やはりチュンビと同様に消滅したという。



西蔵亜東県城―下司馬鎮見聞  中国人によるチュンビ渓谷の旅行記(中国語)

●参考資料
enclaves in Tibet  http://groups.yahoo.com/group/BoundaryPoint/message/17968
G. S. Bajpai  China's Shadow Over Sikkim: The Politics of Intimidation (Spantech & Lancer india 1999)
J. R. Subba  History, Culture And Customs Of Sikkim (Gyan Publishing House india 2007)
百度百科 http: //baike.baidu.com/view/1981795.htm
王貴 「対取消印度在江孜亜東特権的幾点回憶」 『軍事歴史 2004年 1期』  (軍事科学院軍事歴史研究部 中国 2004)
 
 

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